ワンダ・ランドフスカ |  ヒマジンノ国

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ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)による「バッハの平均律組曲、第2巻」(1950年ごろ)。国内盤、RA10004-RA10006。

 

 

ランドフスカのレコードをオークションで入手したのですが、届いてみると国内盤で、がっかり。オークションの小さい画像ではしっかりと見極めができませんでした(日本のレコードはどうしても初版にならないので、音が落ちます)。

 

しかし、レコードをかけてみて驚いたのはその音の良さです。本当にびっくりしました。鮮明です。

 

それまでランドフスカの演奏は、CDで、1928から1940年にかけて、ヨーロッパで録音されてきたものを聴いていました。

 

 

(↑、ランドフスカのヨーロッパ録音集。8CD。悪くないですが、レコードで聴くほど、彼女の演奏を身近には感じられませんでした。)

 

CDでも決して音は悪くないし、今回手に入れた平均律が1950年ごろの録音なので、同日には語れませんが、音が全く違います。

 

レコードでは、ランドフスカの演奏するモダン・チェンバロ(プレイエル社に作らせたという、響きが大きめの、ランドフスカ専用のチェンバロ)の音色がとても肉厚に響きます。

 

まず音色の中心に「濃い音の芯」があり、弱音部の響きもCDに比べて伸びがあります。初めてランドフスカのチェンバロの音色を聴いた気がして、感激しました(詳しい方によると、それでも国内盤は音が落ちるということ。ただ彼女の録音は、全体に鮮明なのものが多いということらしいです)。

 

こんな音だったのか、という思いですね。

 

19世紀、バッハの鍵盤楽器はピアノで弾かれていました。しかし20世紀に入り、その常識を覆してしまったのが、このワンダ・ランドフスカで、その後はグレン・グールドが現れるまで、逆にピアノでバッハを演奏することが「重い」と捉えられるようになりました。

 

彼女のチェンバロによるバッハ演奏は、今日のオリジナル楽器演奏ブームを先取りしていたわけです。

 

個人的には、彼女のチェンバロの音色は日本の「琴」のようにも聴こえます。雅で、音の大きいオルゴールのようです。

 

バッハをいわゆる「バッハ風」に、「禁欲的に」弾き切るのでなく、人間的感情を織り交ぜながら快活に弾いていきます。激しい感情の動きも表現しています。しかし、そこには彼女特有の華やかさが垣間見られ、宮廷音楽のような美しさがあります。

 

 

ランドフスカの演奏する、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(1945)。米国盤、LM1080。

 

 

19世紀には見向きもされていなかったバッハのゴルトベルク変奏曲をバッハ録音の定番に変えたのが、このランドフスカです。彼女がいなければグールドの有名なアルバムもありませんでした。

 

 

(↑、グレン・グールドを一躍有名にしたアルバム。個人的には後年のステレオよりも、このモノラルを推します。CD。)

 

ランドフスカとグールドのゴルトベルクを対極の位置にある演奏、という風にいう方もいますが自分はそれほどの差は感じません確かに1981年録音(ステレオ)の方は完全にグールド自身のファンタジーとして、バッハが解釈され尽くしていて「禁欲性」よりも「自然な心の流れ」と「癒し」を求めた音楽になっていると思います。

 

しかし1955年のモノラルの方は快活で、リズムがあり、時にはポップでさえありますまさにバッハが現代に蘇ったかのようです。

 

バッハにおいて、そのような革新的な演奏が可能だったのは、ランドフスカ同様に、バッハの音楽が「形式的」あるいは、「禁欲的」とも呼ばれるようなバランスのみ重視の芸術でなくて、それが「人間の感情、心」から生まれた作品であることを、演奏で示したからだと思います。

 

このバッハにおける「人間感情の重視」は、先にも書きましたが、ランドフスカの演奏にいえることで、バッハの音楽作品という、「形」、の中に人間の感情が込められることにより、作品全体に「生命」が宿るかのようです

 

音楽が生き生きと語りだす様子は、ランドフスカ、グールドともにある特徴で、それがなければ一見退屈そのものに思える「ゴルトベルク変奏曲」の、ランドフスカによる発見もなかったことでしょう。

 

確かに今聴くとランドフスカの演奏は雅で、「バロック」の雰囲気を決して崩し切っていないですが、グールドはもっと自由で、近代的な感性をさらすのもためらわない、という違いはあるとは思いますけども

 

しかしそれはどのような時代においても、人さえ得れば、バッハが再現され得るいう、その作品の普遍性の証拠なのではないでしょうか。