サー・トーマス・ビーチャム(1879-1961)は20世紀のイギリス楽壇の名物男として知られた人物でした。製薬会社ビーチャム(現在はグラクソ・スミスクライン)の御曹司で、多大な財産を自分のオーケストラ創設のために惜しげもなく使い、アカデミックな教育を受けていないにもかかわらず、指揮も自ら行いました。
当時のイギリスの大人物の1人だったといえるでしょう。EMIの大プロデューサー、ウォルター・レッグは彼の助手を務めていたそうです。
楽曲のコンサートのみならず、アメリカ滞在時にメトロポリタン歌劇場の常連だったように、オペラも得意とし、「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス」を3大退屈男と称し、ディーリアス、ベルリオーズ、プッチーニなどのメロディアスな楽曲を愛し、得意としていました。
ビーチャム卿の指揮する「カルメン」(1958-1959)。ASD 331-ASD333。英国製。ED1。
先日E・クライバーの指揮を「肩の力が抜けた指揮」と書きましたけど、ビーチャム卿の指揮はそれ以上で、全く理屈っぽいところがありません。喉のつかえがとれるようなあっさりした指揮ぶりで、音は柔軟で、潤いがあります。
迫力も必要なら十分に発揮できますし、音には人間的な感情が程よく乗っています。魅力にあふれた楽しい指揮ぶりです。
カルメンのアナログ・レコードだとやはりカラスかカラヤンの旧盤ぐらいに人気が集まるようですが、ビーチャム盤も良質です。
カルメンをビクトリア・ロス・アンヘレスが歌っています。ファム・ファタールなカルメンの資質を表現するのなら、やはり自身にその特性があるマリア・カラス(カラスのカルメンについては1度書きました)なのかもしれませんが、アンヘレスも悪くないです。
ちょっと声に癖はあるかもしれませんが、彼女は何を歌ってもそのキャラクターを素のまま表現できる能力があり、カルメンも聴いていると、「カルメン」そのものに聴こえてきます。個性が強くない人なんですね。でもそのおかげで、役柄にすっと入って行けるようです。
ファースト・チョイスにはならない、ということかもしれませんが、良い演奏だと思います。日本ではやたら、「この演奏が最高」、という「1番」マニアばかりです。それでかもしれませんが、ビーチャムもあんまり人気がないようです。有名な評論家がしつこくいいふらすとかしない限り、人気が出ないようです。
カルメンにしても、カラヤン盤のこととかマリア・カラスのことばかりさんざん聞かされて、自分はもうお腹一杯です。確かに、名演だとは思いますけどね。
1番良い演奏を聴くということ、それは結局「楽曲」の理解に必要なことだと思います。でもその先までいかないと、中々音楽を楽しむところまでいかないかもしれません・・・。
・・・などと生意気なことを考えさせられる演奏で、「音楽の楽しみ」というものをビーチャムは体現しているように思われます。
本当に好きな人じゃないと、自分の財産を投入してまでやらないと思います。高度なアマチュアなのかもしれませんが、それだけではすまないものがあります。演奏する楽しみを決して忘れてないところは素晴らしいです。
音の雰囲気も最高です。インターナショナルなカラヤンの指揮ぶりとは違い、ローカルな雰囲気も音から伝わってきて、その辺も魅力ですね。
ビーチャム卿の指揮する「ラ・ボエーム」(1956)。英国製。ALP1409-ALP1410。
ステレオ録音に乗り遅れていたEMI、この盤は1956年の録音ですが、モノラルです。しかし音は非常に良くて、同年録音、ケンペのマイスタージンガー同様、聴きやすいです。マイスタージンガーぐらいの規模だとモノラルで足りない部分がありますが、ボエームであればこれでも充分でしょう。
ビーチャムの資質と楽曲の性格が見事にマッチした名演で、イタリアの指揮者とはまた違う味わいに仕上がっています。音は柔らかく、演奏は抒情性に富みます。歌手も素晴らしく、ミミに再び、ビクトリア・ロス・アンヘレス、ロドルフォにユッシ・ビョルリンク。
アンヘレスについてはカルメンにところに書いた通りです。
この演奏の聴き物はビーチャムの指揮と、同時にビョルリンクの歌唱にあると思っています。
個人的にはロドルフォは、デッカのセラフィン盤におけるカルロ・ベルゴンツィが最高だと思っています。一見楽観的ですが、悩み深いロドルフォの性格を、彼は甘美に歌い上げています。それに比べるとカラヤン盤のパバロッティは楽観的で、時に乱暴な歌い方でさえあります。ロドルフォは少し思慮深い部分がでていると、よりそれらしいと思えます。
ビョルリンクはどちらかといえばパバロッティのような、スケールの大きい、楽観的な歌い方かと思います。確かにパバロッティの歌声は美しく、硬質で、金色に輝いています。それに比べると、ビョルリングの声はずっと柔らかく、歌声自身も美しいと思いますが、それ以上に歌い手の優しい性格に滲み出ており、素晴らしいです。現代にはいないタイプの人ですね。
ロドルフォの人肌に触れるような繊細な優しさを、実感させる歌声です。こういうのもありだと思います。
↑)ユッシ・ビョルリンク
この声がビーチャムの指揮とよく合うんですね。第1幕はベルゴンツィ、テバルディ、第3幕はネトレプコ、ヴィラゾンあたりが好きでしたが、これを聴いているとそんなことはどうでも良いと思えてきます。
舞台はフランスですが、たっぷりした甘い味付けは完全にイタリアの歌です。激しく心揺さぶられる瞬間があります。





