杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -16ページ目

気になる言葉に付箋を貼りながら読んでいたら、いつのまにか付箋だらけになってしまった(笑)。

「読みやすさのために内容を犠牲にしない」という編者の姿勢がにじみ出ている気がして、とっつきやすいのに深みのある本に仕上がってるなあと思った。

個人的には、特に後半になるにつれて気づきのある言葉が増えていった気がする。

 

137ページの「悲劇は人間にだけある」という言葉も、なんとなく分かっているつもりでいても、改めてハッとさせられるものがある。「動物の悲劇」も、結局は「人間が作り出した悲劇」である。そういう視点で今の自分のあり方を見つめ直せば、新しい方向性も見えてきそうだ。

自身の研究柄、大拙の時間論も興味深かった。時間の不可逆性を説明する時によく、熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)が用いられるが、大拙が生命を例えて言った「ただ一度かぎりで描かねばならぬ墨絵」という言葉も、まさに時間の不可逆性を表現していて面白い。

「無限の中心を持つ円」という概念も、なんだか頭がクラクラするようで好きだ。僕はこれを見て、中世の神学者クザーヌスの「反対対立の一致」を思い出した。

 

これはキリスト教の神の存在を説明する概念なのだが、要するに無限の大きさの円環においては、直線と曲線の区別がなくなる。このように無限的存在である神から見れば、それぞれの差異を超えて全ては平等だ、というような話である。

 

「円」の捉え方の違いから、禅とキリスト教の違いを考えるのも面白そうだ。

でも僕が特に感銘を受けたのは、合間に挿入されている編者の言葉の中にあった次の文章。

「言葉や思考が『ふつうに生きること』を否定するとき、私たちは生命を捨てるのではなく、そんな言葉を捨てたほうがいい、と大拙は言います」(93ページ)

これは生きづらさを抱える多くの人を励ましてくれる言葉ではないだろうか。

 

言葉(思考)に縛られて、本来持っているはずの生命性を失ってしまうのは近代の病だが、大拙の言葉はまさにその処方箋のようである。それを引き出したのは編者の感性と問題意識で、今の時代にマッチした見事なコラボレーションだと思った。

多くの人に薦めたくなる面白い本である。

 

 

 

大熊玄編『はじめての⼤拙 ―鈴⽊⼤拙 ⾃然のままに⽣きていく⼀〇⼋の言葉』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2019年

2019年7月某日。

 

以前、地域づくり情報誌『かがり火』の連載に登場してくれた陶芸作家の土師夕貴子さんが、師匠である市野雅彦さんの個展に合わせて丹波篠山から上京するとのことで、一緒にその個展を見に行ってきた。

 

会場は日本橋三越本店。タイトルは市野雅彦陶展「– 空ッ po –」

 

市野さんの作品には、人間の意匠を超えた「自然の働き」のようなものが含まれている。だから陶器自体が生命力を持っているように感じられるし、初めて見た作品でも、不思議と親しみを覚える。そこには、市野さんの人柄も反映されているのかもしれない。

 

しばらく作品を眺めていると、市野さんが会場にやってきた。前回お会いしたのも、確か東京での個展。ちなみに初めてお会いしたのは、土師さんを訪ねてお邪魔した窯元・大雅工房でだった。

 

久々のご挨拶をしてから、「どの作品も、自然と人間の協同作業という感じがして、とてもいいですね」と率直な感想を述べると、市野さんは小さくうなずき、こう答えた。

 

「自然にはかなわんなぁ、と思いながらいつも作ってます」

 

その言葉を聞いて、「ああ、やっぱりこの人はすごいなあ」と改めて感じ入ったのだった。

 

市野さんの作品には、この自然への畏怖と敬意が練り込まれている。その想いがあるからこそ、自然の力を、作品の力に生かすことができるのだろう。

 

うる覚えなので確かではないけれど、この個展でも、市野さんはある作品を指して、土師さんにこんなことを言っていた気がする。

 

「これ見てみい。土がこんなにふくらむんやで。おもろいなあ」

 

そんなふうに、自分の創造性を誇るのではなく、そこに顕われた自然の働きを面白がる。そう言えば初めてお会いした時にも、「自分の作品を論理的に説明することはできない」ということをおっしゃっていた。

 

もし僕が同じセリフを言ったとしたら、「それ、失敗しとるだけやないか」と言われること請け合いだが(笑)。

 

作家の個展は撮影禁止であることも多いが、市野さんの個展は撮影自由である。そういうおおらかさも僕は好きだ。

 

市野さんの創作の哲学からは学ぶことが尽きないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7月某日、かがり火WEB編集部に1通のメッセージが届いた。

「私の友人に宮崎県延岡市を盛り上げようと奮闘している名古屋大学の学生がいます。その友人はとても地元愛が強く、2019年8月18日にドイツフェスタを開催する予定です。しかしまだ認知度が高くないため、かがり火WEBさんで取り上げていただければと思い、メッセージにてご連絡させていただきました」

メッセージの主は、長崎大学に通う東叶子さん。ぜひ力になりたいと思ったけれど、いまの「かがり火WEB」には取材に出向くほどの余力がない。雑誌『かがり火』の編集会議にかける手もあるけれど、それではドイツフェスタの開催に間に合わない。

そこで思いついたのが、メッセージをくださった東さんに取材をお願いし、寄稿していただくというアイデアである。東さんは快く応じてくださり、8月18日のドイツフェスタに、こうしてなんとか間に合った。

東さんの思いの込もった寄稿文をぜひ読んでいただきたい。そして「ドイツフェスタin延岡」にも足を運んでいただけたら幸いである。

【寄稿】延岡の居場所作り「ドイツフェスタ」に励む延岡盛り上げ隊隊長・岩本武士さん
https://kagaribiweb.com/area/miyazaki/2284/

 

「ドイツフェスタin延岡」を主催する「延岡盛り上げ隊」隊長の岩本武士さん。

『冬虫夏草』は、前回のブログで感想を書いた『家守綺譚』の続編である。

 

この続編を手に取った読者は、のんびりした主人公はもちろんのこと、犬のゴローの活躍を心待ちにしていたのではなかろうか。ところが、『冬虫夏草』ではゴローが早々にいなくなってしまう。

 

昔の広告コピーに「無くしてわかるありがたさ 親と健康とセロテープ」というのがあったが、不在によってその偉大さが偲ばれるのはゴローも同じである。もはや「ゴロー」ではなく「ゴローさん」と呼びたいほどだ(実際物語の中でも、敬意を込めて「ゴローさん」と呼ぶ少年が登場するのだが)。

 

「あのゴローがいなくて物語は面白くなるのだろうか」と心配したが、読み終えた時にはそれが杞憂であったことを知ることになる。

 

『家守綺譚』でもそうだったが、物語の中にごくたまに出てくる「人生の真理」のような言葉が、僕にとってはとても興味深い。

 

年をとれば、人間でも彷徨うものが出て来るだろう。齢を重ねた生きものは、何度も変態して別の形状を生きねばならんのだ。

 

というある男の言葉を聞いて、主人公は思う。

 

……そうやって「先の形状」に未練を持たず、「今の形状」を誠心誠意生きることが、生きものの本道なのやもしれぬ。

 

また、主人公の「亡き親友」は次のような言葉をつぶやく。

 

しかるべき順行というものがあっても、それがそうなるようにもっていくのは骨が折れる仕事なのだ。衰えていくものは無理なく衰えていかせねばならぬ。

 

まるで今後の日本社会について語っているようにも聞こえる言葉である。

 

そして物語の最後の方で主人公が言う、

 

手に負えぬ煩いは放っておけ。

 

という言葉も印象的である。

 

人生は矛盾に満ちている。けれどもそれは、人間が自分たちの理解の範囲内だけで物事を考えているからかもしれない。だからといってその矛盾を解消すべく、世界の全てを理解しようとしても、それは無理な相談である。

 

それを「人間の能力の限界」として捉えることもできるだろう。けれども、その理解の範囲を超えた世界を、人間は豊かに彩ることができる。その彩りは、僕たちが生きる日々の生活をも包み込む力を持っている。そんな巨大な力を持つ「想像力」に限界がないとしたら、これは驚くべきことではないだろうか。

 

そんな人間の驚くべき想像力をかき立てる力が、この物語には秘められているような気がする。

 

 

冬虫夏草 (新潮文庫)

夢とうつつの境界線に迷い込んだような、不思議な気持ちにさせられる物語。でもほんの少し前までの日本人は、このような「あわい」の世界の中で生きていたのかもしれない。そしてそれがとても豊かな世界であるということを、この物語は教えてくれる。

 

この本を読み終えて思ったのは、「労働とは何か」という漠然とした問いである。

 

「労働」とか「働く」という言葉を聞くと、誰もが当たり前のように「人間の労働」を思い浮かべるだろう。ところが、この物語で最もよく働いているのは犬のゴローである。それは物語の中に登場する人間たちも認めるところである。

 

それだけ聞くと、「犬なのに働いて大変だねえ」と思われるかもしれないが、ゴローはそれでいていつも機嫌がよい。ゴローの中に「労働」という概念などあろうはずもなく、単にやるべきこと、やりたいことをやっているだけのことである。

 

転じて、人間である主人公の「労働」は、ゴローに比べれば葛藤に満ちているように見える。

 

文筆家を自負してはいるけれど、どうもそれだけで食えているわけではなさそうである。幸い、ある家の管理人(のような役目)を請け負うことによって、住居と、ちょっとした収入を得ることができている。それらの総合によって、彼の生活は成立している。

 

とすると、彼の「本業」はどちらなのだろうか。

 

気持ちとしては間違いなく「文筆家」だろう。しかし本来必要なはずの家賃と、その管理人としてのお礼金を合わせれば、こちらの方が得ている金額は大きいかもしれない。

 

文筆家としての矜持が彼を支えていることは確かだけれど、その仕事の過程には常に「産みの苦しみ」もついてまわる。一方で彼が守るべき家は、彼の生活をあたたかく包み込み、季節ごとの豊かさを添えてくれる。彼が家守として守る家に、彼もまた守られている。

 

さらに面白いのは、この物語の中では「死者」も何かしらの役割を担い、働いているように見えることである。死者だけではない。「自然」もまた働いている。

 

「自然が働く」という言葉はちょっと変に聞こえるかもしれない。そこで「働く」を「働き」と言い換えてみたらどうだろう。「自然が働く=自然の働き」と考えれば、何の不都合もない。人間がそこに「意志」の存在を見るか否かの違いだけである。

 

翻って考えてみれば、人間が「働く」ことの本質も、「働くこと」そのものというより、それが生む「働き」の方にあるのかもしれない。

 

「働き」に労働の本質があるのだとすれば、赤ちゃんだって労働している。赤ちゃんの存在によって女性は母になり、男性は父になる。周りの人々は子育ての苦労と喜びを享受する。そのような「働き」を、赤ちゃんの存在は生み出している。

 

そう考えれば、会社に勤めていようがいまいが、収入を得ていようがいまいが、全ての人が、全ての生き物が、全ての物質が「労働」しているということになる。この世の中に、何らかの「働き」を及ぼしているのだから。

 

「あの人が居てくれるだけで、みんな不思議と気持ちが和むんだよねえ」というような「働き」を、誰もが感じたことがあるだろう。それを普通「労働」とは言わないけれど、僕らの生活に安心感を与えてくれる、かけがえのない「働き」だと言うこともできる。

 

だが近代以降、企業社会が形成されて賃労働が主流になり、「お金をもらうこと=労働」という価値観が支配的になっていくと、そのような「働き」は、「労働」としての価値を失ってゆく。もちろんそれがなくなったわけではないけれど、それを「大切なこと」「価値のあること」だと思う気持ちが失われていったのだろう。「労働=お金を稼ぐこと」という価値観への一元化は、「労働」という概念をひどく貧しいものにしてしまったと思う。

 

数兆円を稼ぐ大企業の創業者がいたら、誰もが「すごい」と褒めるだろう。だが、その人が会社を大きくするためにしてきたことの「働き」が、たとえば地域で愛される商店街の破壊や、非正規雇用の増加を促すものであったなら、それは尊敬すべき労働とは言えないだろう。

 

自分の労働が、地域の中で、社会の中で、どのような「働き」を生み出しているのか。いい「働き」もあれば、ちょっと困った「働き」もあるだろう。それを考えることは、自分の労働のあり方を捉え直すことだけではなく、自分の生き方を見つめ直すことにもつながっている。

 

ところで、この物語の中には「何時から……」というような「時計の時間」が出てこない。全部調べたわけではないけれど、多分。物語の時代背景としても、地方の一般家庭にはまだ時計が普及していなかった頃かもしれない。いずれにせよ、この「時計の時間の不在」も、読者を幽玄の世界へ誘うひとつの力になっているのだろう。

 

現代的な労働は、時計の時間と切り離せない。この物語では「時計の時間の不在」によって、現代的な労働観に縛られない、自由な労働を描くことができたのかもしれない。

 

この物語の中には、稼ぎの有無にとらわれない、豊かな労働の世界が広がっている。人間はもちろん、動物も、死者も、自然も、働いている。「働くことは苦役である」とする西洋の伝統的な労働観とは異なる、もっと自由な労働の世界が展開している。そしてこの物語が多くの人に受け入れられていることは、そのような自由な労働をもう一度取り戻したいという、人々の思いの表れなのかもしれない。

 

一応書いておくと、この本はわざわざそんなことなど考えず、愉快に読み切れる物語である。だが一方で、これをひとつの「労働論」として読んでも面白いと思う。

 

 

家守綺譚 (新潮文庫)

雑誌『かがり火』で連載させてもらっている対談「そんな生き方あったんや!」

 

取材時の写真の撮影は、都合のつく限り写真家の井口康弘氏にお願いしている。

 

対談は喫茶店でやることが多いのだが、そこでの撮影の際に彼がよく使うのが、「レフ板」と呼ばれる光を反射させるシートのようなものである。

 

やはり光の当たり方によって、被写体の印象はずいぶん変わってくるのだろう。

 

ちなみに「ライティング」と聞いて僕がいつも思い出すのは、「真っ白な美肌」で有名だった鈴木その子さんである(笑)。

 

井口氏がレフ板を使うのも、被写体自体を明るく照らして見栄えを良くするためだろうと思っていた僕は、ある撮影の際に聞いてみたことがある。

 

「このレフ板があるのとないのとでは全然違うの?」

 

「そうですね。やっぱり目に光が入りますから」

 

目に光が入る——。

 

その言葉が、僕にはとても新鮮に聞こえた。

 

「ただ単に肌を綺麗に見せるためじゃないんや」

 

「うん、やっぱり目が大事なんですよね」

 

井口氏曰く、目に光が入ると、表情に力が出てくるらしい。

 

言われてみれば、人間がイキイキしている状態というのは、「目が輝いている」とか、「目をキラキラさせながら……」とか、「目に光が入っている状態」として表現されることが多い。

 

とはいえ、それはその人が物理的に「眼球から光を発している」わけではないだろう。もしそうだったら、イキイキしている人は、真っ暗闇でも照明器具が不要、ということになる(笑)。

 

では、眼球から光を発するわけではなく「目が輝いている」というのは、一体どういうことなのだろう。

 

それは、その人が「光を見ている」状態を表現しているのではないだろうか。

 

「光を見ている」ということは、その人の目に光が映っている、ということである。

 

つまり、その人の目に宿る「光」というのは、その人が内側から発しているものではなく、その人が捉えた外部のもの、ということになる。

 

明るい日差しを見る人の目には、その日差しの光が宿るし、暗闇の中で提灯を眺める人の目には、その提灯の光が宿る。逆に言えば、その日差しや灯りから目をそらして暗闇だけを見つめていれば、その人の目に光が宿ることもない。

 

これは物理的な話だけれど、心理的な話に置き換えても成立するのではないだろうか。

 

つまり、希望という「光」に目を向ける人の目は輝くけれども、逆に「希望」から目を逸らし続けている間は、その人の目が輝くことはない。

 

……こういうことを書くと、「だからいつでも希望に目を向けて、目を輝かせていよう!」という話と思われるかもしれないけれど、そんな風に「いつでもイキイキしている人」と、僕はそんなに仲良くなれる気がしない(笑)。

 

1年のうちに春夏秋冬という季節があるように、人生にもイキイキする季節があったり、ゲンナリする季節があったりしていいのだ。

 

希望に目を輝かせる時期があっていいし、絶望の深淵を覗き込むような経験があってもいい。

 

そういう季節の移り変わりが、人間に深みと味わいを与えてくれる。

 

ただ、絶望の深淵を覗き込んだ時に、自分の人生全体を絶望に浸してしまったような気持ちになると苦しい。そんな時、人は「季節は巡る」ということをつい忘れてしまう。

 

「光=希望」に目を向ける時に人がイキイキするのだとしたら、イキイキするのも、ゲンナリするのも、「どこに目を向けるのか」次第、ということになる。単に「それだけのこと」だと言ってもいい。

 

イキイキしてるとか、ゲンナリしてるとか、そういうその時の「状態」を、その人の人間性全体に還元してはいけない。ここまで書いてきたように、「いまどの方向を向いているか」ということにすぎないのかもしれないのだから。それは、目を輝かせている人が、決して眼球から光を発しているわけではないのと同じことである。

 

絶望を覗き込んだまま光を見失いそうになった時のために、僕たちは自分なりの「レフ板」を用意しておくといいのかもしれない。

 

それは気の置けない仲間の存在かもしれないし、食べるだけで幸せな気持ちになれるスイーツかもしれない。ちょっと先にある旅行の予定かもしれないし、無条件に肯定してくれる家族の存在かもしれない。その人が信じる宗教がレフ板の役割を果たすこともあるだろう。

 

スローガン風に言えば、「人生にレフ板を」。

 

それさえあれば、ちょっとは安心して絶望と向き合えるのである。

ある電気屋さんで、とんでもないガステーブル(ガスコンロ)を発見した。

 

もったいぶるのは好きではない。とにかくこれを見てほしい。

 

 

え、どこがとんでもないのかって?

 

問題は商品名や価格ではない。

 

札の左下をよく見てほしい。

 

 

「2016畳用」!!!!

 

1部屋8畳として、252部屋ぶんの機能である。

 

1畳が約1.54mなので、およそ3,104m2 の広さに対応しているというわけだ。

 

「こんなもん誰が使うねん!!」

 

とあなたは思っただろう。

 

だがよく見て欲しい。

 

この商品は「USED」。

 

つまり、前に誰かが使っていたのだ!!

 

きっとインドのマハラジャか、ビル・ゲイツあたりが使っていたのだろう。ジェフ・ベゾスかもしれない。

 

しかし残念ながら、「過ぎたるは及ばざるが如し」

 

あまりに高機能すぎて使う人がおらず、こんな町の電気屋さんにまで流れてきたのだろう。しかもたったの13,800円!

 

「じゃあ、俺が……」という誘惑に一瞬かられそうになったが、僕には過ぎた一品であることは言うまでもない。

 

あなたが2016畳の部屋に住むことになった際には、ぜひご連絡いただきたい。

『TSUNDOKU ZINE』という雑誌をご存知でしょうか。

 

表紙に「積ん読本に愛をこめて」と書かれている通り、読まずに放置したままの「積ん読本」を紹介する雑誌です。

 

「読んだ本を紹介する」というのはよくありますが、「読んでいない本を紹介する」というのは、ちょっと尋常ではありません。

 

そんな「尋常じゃない雑誌」を発行しているのは、店舗を持たないインディーズ本屋「kamebooks」を営む吉田重治さん。

 

その吉田さんにお声がけいただき、杉原も「積ん読本」の紹介文を寄稿させていただきました。

 

僕が紹介したのは、『生き生きした現在』(クラウス・ヘルト著、新田義弘訳、北斗出版)と、『時間と自由』(ベルクソン著、中村文郎訳、岩波書店)の2冊。どちらも時間論の本です。

 

これらを「読みました!」ということなら堂々と紹介できるのですが、なにしろ「読んでいない」のですから(笑)、さて、どうしたものやら。

 

結局、それが積ん読のままになっている理由(言い訳)を述べるという、ずいぶん情けない展開になりましたが、それはそれで大変面白い経験でした。

 

寄稿されているみなさんの文章からは、本への愛が伝わってきて、とっても愉快な気持ちになります。どこかで見つけたら、ぜひ手に取ってみてください。

 

「積ん読」の罪悪感が、ちょっとだけ軽くなるかもしれません(笑)。

 

 

 

『TSUNDOKU ZINE vol.1』

【発行】2018年11月

【発行人】吉田重治

【発行】kamebooks

【twitter】@kamebooks1

【facebook】https://www.facebook.com/kamebooks/

 

去る6月22日の土曜日に、シューレ大学20周年記念イベント「自分から始まる生き方を創る」に行ってきました。

 

シューレ大学とは、自分から始まる表現や学びを模索するオルタナティブ大学。不登校やひきこもり経験者が多く在籍し、学生自身が授業計画など運営にも携わります。

 

僕がシューレ大学を初めて知ったのは、以前のブログでも紹介した「自分らしい生き方シンポジウム」というイベントでのこと。

 

多くの若者が運営の一翼を担っていたのですが、まあ彼らの生き生きしていること!初めはそうと知らなかったのですが、聞けば彼らはシューレ大学の学生・元学生たち。僕はがぜんシューレ大学に興味を持ったのでした。

 

シューレ大学20周年記念イベントも、予想通り実に面白かったです。

 

第1部は、作家の平野啓一郎さんによる講演「複数の自分を生きる」。

 

平野さんは僕が注目している作家のひとりで、彼の提唱する「分人主義」はとても魅力的です。

 

「分人主義」とは、いわば「個人」の新しい捉え方。たったひとつの「本当の自分」が存在するのではなく、他者との関係ごとにそれぞれ違った自分が存在し、その複数の自分(=分人)の総体が「個人」である、という考え方です。

 

「この人と一緒にいる時の自分が好き、という「好きな分人」が一人でもいれば生きていける」

 

「いろんな場所ごとにいろんな自分になるのは当然。より生き心地のよい関係をつくる」

 

「アイデンティティをひとつに絞り込まない。複数の自分を生きる」

 

彼の言葉には、これからの時代を生きるヒントがたくさん詰まっているように思います。

 

ちなみに分人主義的な考え方は、僕のやっている時間論とも関わっています。時間と言うと、僕らはつい時計の時間のような「たったひとつの絶対的な時間」があると思いがちですが、実はそうではなく、他者との関係ごとに、常に創造されていく多様な時間があるのではないでしょうか。

 

平野さんの講演の様子は、シューレ大学のホームページでもレポートされているので(コチラ)、ぜひ覗いてみてください。

 

第2部では、シューレ大学20年の活動を紹介するプレゼンテーションが行われました。いまや世界から注目を集めるシューレ大学ですが、そうなるまでには、何もないところから一歩を踏み出し、よりよい学びの場を模索する過程があったことを知りました。考えてみれば当たり前のことですが、そういう「歴史」を僕たちはついつい忘れてしまいます。

 

僕は次の予定があったのでここで退場したのですが、参加できてとてもよかったです。帰りには、僕のお気に入りのせっけん「マルセイユ石けんあわあわ」をお土産に購入。しかも今回はハーブの香り付き「あわあわハーブmix」にしました。さっそく使っていますが、これは本当にいいですよ。ハーブの香りに癒されながら、お肌もすべすべになって、女子力アップ間違いなしです(笑)。

 

 

ちなみに、6月25日に発行された地域づくり情報誌『かがり火』では、シューレ大学の修了生である山本菜々子さんと対談させていただきました。とっても面白い内容になっていますので、よければご一読ください。書店には置いておらず、定期購読のみとなりますが、地域づくりに役立つ情報満載の雑誌ですので、ぜひご検討いただければ幸いです。

 

シューレ大学は、不登校とかひきこもりとか関係なく、自分が諒解できる生き方を創造するための、最高の学びの場であり、実践の場であると僕は思います。

5月26日の夜、かがり火WEBオープン記念「矢田海里@バルとお話の日」が開催されました。
 

飛び入り参加の方も何人かいらっしゃって、少し余裕があるかな?と思っていた会場はすっかり満員御礼となりました。

 

まず参加者みんなで簡単に自己紹介し、その多様なバックグラウンドにお互い興味をひかれつつ、矢田さんのお話がスタート。会場がバルということもあり、客席と矢田さんとの掛け合いの中で話が展開しました。

 

参加者の中には、東日本大震災の被災地と関わりの深い方もおられたので、まず矢田さんがライフワークとして通っている、宮城県の閖上地区のお話を聞かせていただきました。その流れから、矢田さんの活動の原点とも言える「アメリカ横断の旅(アクロス・アメリカ)」のお話へ。

 

「なぜ戦争はなくならないのか?」と書かれたチラシを配りながら、イラク戦争下のアメリカを自転車で横断するという大胆な旅。「戦争は絶対にいけない」という人もいれば、「戦争やむなし」という人もいる。しかしそんな中で矢田さんは、次第にそれぞれの答えの背景にある、一人ひとりのライフストーリーの方に惹かれていきます。

 

「戦争の是非」という抽象的な議論からは見えてこなかったその人の「顔」、すなわち「一人ひとりの切実な生活」が見えてきたといいます。そしてそこにこそ、矢田さんが求める「人間とは何か」という本質的な関心もありました。

 

 

考えてみれば、現代の戦争はお互いの「顔」が見えない形で行われます。矢田さんのお話を聞いて、「もしかすると、お互いの顔が見えない社会の在り方こそが、現代の戦争を支えているのかもしれない」と思わずにはいられませんでした。だとすれば、「顔の見える関係」としての「地域」は、実は「戦争」をテーマに考えた時にも非常に重要なものなのかもしれません。

 

矢田さんは今も、被災地である閖上地区という場所で、一人ひとりとの「顔の見える関係」を大切にしながら取材を続けています。そこには、アメリカ横断というスケールの大きな旅によって深まった、彼の思想が反映されているような気がします。

 

気づけば予定時間を1時間以上もオーバーしていた矢田さんのお話。そのまま飲み会に入ってからも議論は尽きず、結局23時過ぎまで歓談は続きました。矢田さんも含め、みんな「面白かったー!」と言って帰ってくれたのが何よりでした。

 

矢田さんのアメリカ横断の旅「アクロス・アメリカ」は、矢田さんのホームページに全文掲載されていますので、ぜひ読んでみてください。めっちゃ面白いですよ!個人的にはぜひ書籍化していただきたいです。
 

以上、つたないご報告でした。面白いお話をしてくださった矢田さん、参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました!