杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -17ページ目

最近ブログをさぼりまくっている杉原です(笑)。

 

5月1日にかがり火WEBがオープンしましたが、その一番のメリットは、「いやー、これの運営に忙しくて……」という言い訳ができるようになったことでしょうか。怠惰さの隠れ蓑というわけです。ありがたいですね。

 

さて、そんな素敵な隠れ蓑「かがり火WEB」のオープン記念イベントが開催されます。

 

かがり火WEB編集部のメンバーであり、クラフトビールの店「ヤギサワバル」店主でもある大谷剛志さん(『かがり火』172号に登場)が企画してくれました。ゲストは、かがり火WEBの記事にも登場してくださった、ライターの矢田海里さんです。

 

■【第2回】そんな生き方あったんや!「被災地での学びは尽きない」ライター・矢田海里
https://kbagaribiweb.com/sonnaikikata/605/

 

会場となるヤギサワバルは、西東京市にある小さなお店ですが、自然栽培が生んだ「究極のビール」が飲める、都内で唯一のビアバルです。

 

■「究極のビール」は肥料すら使わない自然栽培が生んだ(「DIAMOND online」)
https://diamond.jp/articles/-/101086

 

美味しいクラフトビールを飲みながら、矢田さんとの時間を一緒に楽しみませんか?(もちろんソフトドリンクもありますのでご安心を)。

 

参加方法などは、下記リンク先の記事にある、大谷さんからの案内をご覧ください。みなさまとお会いできるのを楽しみにお待ちしております。

 

■かがり火WEBオープン記念「矢田海里@バルとお話の日」5/26(日)
https://kagaribiweb.com/oshirase/1997/

 

令和元年5月1日、「かがり火WEB」がスタートしました。

 

「かがり火WEB」は、まちやむらを元気にするヒントが満載の「地域づくり情報サイト」。

 

1987年創刊の地域づくり情報誌『かがり火』のバックナンバー記事を順次公開しています。

 

魅力的な地域づくりの事例はもちろん、思わず会いに行きたくなる「“変”差値人間」もたくさん登場しますので、ぜひ覗いてみてください。

 

もし気に入っていただけて、バックナンバーではなく「最新の情報が知りたい!」と思ったら、雑誌『かがり火』の定期購読をご検討いただけると幸いです。

 

>地域づくり情報誌『かがり火』ホームページ

 

定期購読をお申し込みいただくと、隔月で『かがり火』が自宅に届き、さらに、『かがり火』に情報を提供してくれている地域のキーマンが多数掲載された「支局長名鑑」も年に1回届きます。

 

「かがり火WEB」は、地域づくり情報誌『かがり火』の魅力を多くの人に知っていただくために、仲間と共に手弁当で作り上げました。

 

地域づくりの面白さを伝えるメディアとして、多くの人に見てもらえたらうれしいです。

 

■かがり火WEB
http://kagaribiweb.com/

電車の中で、誰かがくしゃみをする。

 

日常の中でよくある風景であり、それを特に気にとめる人はいない。

 

そんな時、僕はたまに「概念ないねんゲーム」というのをやって遊んでいる。

 

誰かがくしゃみをしても気にならないのは、みんなが「くしゃみ」という概念を共有しているからだ。「ああ、くしゃみをしてるんだな」と。

 

しかしである。

 

もし、僕らの頭の中から「くしゃみ」という概念を消し去ったらどうなるだろう。

 

隣にいる人が、唐突に大声を発するのである。

 

「ヘグシ!!」

「クショーン!!」

「アーックシコンチクショー!!」

 

「ビクッ!」となるのではないだろうか。「えーっ!?」と思うはずである。

 

「くしゃみ」とわかっていれば何てことはないが、「くしゃみ」という概念を知らなければ、それはただの「奇声」である。

 

それなのに、周りにいる人たちは何事もなかったかのように平然としている。

 

「おい、みんなどうしちまったんだよ!?」

 

まるで「世にも奇妙な物語」の中に放り込まれたような、「非日常」の世界がそこに展開する。

 

……という遊びを一人でひっそりやっていて、これを「概念ないねんゲーム」と名づけたわけである。

 

なぜ「概念ないねん」という大阪弁なのか。

 

言うまでもなく、そうしないとダジャレにならないからだ。

 

この「概念ないねんゲーム」は、くしゃみだけでなく、何にでも応用できる。

 

たとえば「睡眠」という概念をなくしてみよう。

 

「睡眠?そんな概念、ないねん」

 

するとどうだろう。ちょっと仕事が遅くなって深夜に家に帰ってきたら、家族がみんな意識を失って倒れているのだ。

 

「おい、みんなどうしたんだよ!!」

 

しかも全員そろって、フカフカの布に包まれながら。そこにむしろ猟奇的な事件のにおいを感じてしまうだろう。

 

あるいは、「貨幣」という概念をなくしてみる。

 

「お金?そんな概念、ないねん」

 

人々は当たり前のように、スーパーで野菜などの商品を手に取る。どうするのかな?と思ったら、よくわからない紙切れを店の人に渡して、当然のように野菜を持ち帰ろうとしているのである。

 

「なに強引なことやってんだよ!!」

 

「変な紙切れ」を渡された方は、たまったものではないはずだ。

 

日雇いのアルバイトとかをしたら、「はい、今日はおつかれさま」と封筒を渡される。

 

喜んで封を開けてみると、入っているのは例の「変な紙切れ」だ。

 

「だからこの紙なんなんだよ!!」

 

人間は概念の世界で生きている。

 

僕らの日常を作り出しているのは、この「概念」にほかならない。

 

だから「概念」を消し去れば、そこには一瞬にして「非日常」の世界が展開するのだ。

 

しかし考えてみれば、僕たちが子どもの頃は、まさにそのような「概念のない世界」を生きていたのではないだろうか。

 

だからそこにはいちいち驚きがある。世界は不思議に満ちている。

 

しかし生きている中でさまざまな「概念」を獲得すると、世界をありのままに見ることができなくなってしまう。既存の「概念」を通してしか、ものごとを捉えることができなくなる。

 

芸術家の仕事の面白いところは、そのような既存の「概念」を解体してしまうことだろう。

 

「りんご」の絵を描くことは、「りんご」という概念を解体することである。「りんご?そんな概念、ないねん」と。

 

目の前にある「何か」を、自らが捉えた「何か」として、ありのままに描き出す。そこには、ふだん「りんご」という概念によって覆い隠された世界が広がっているかもしれないし、それ自体の「本質」のようなものが表現されていたりするかもしれない。

 

それは「子どもの目で世界を捉え直す」作業でもある。「子どもはみんな芸術家」と言われるゆえんだろう。

 

だからみなさんも一度、「お金」という概念を消し去ってみて欲しい。

 

「お金?そんな概念、ないねん」と。

 

そして、財布の中や銀行にある、ありったけの「変な紙切れ」や「謎のコイン」を、今すぐ杉原宛てに送ってみるといい。

 

きっと新しい世界が開けるはずだ。

土曜日の朝、なんとなくテレビをつけていたら、「題名のない音楽会」という番組がやっていた。

 

その中で、いま注目の音楽家が何人か紹介されていた。

 

演奏風景とともに、その人のプロフィールがテロップとナレーションで語られる。

 

確かチェロ奏者の方の紹介だったと思うのだが、プロフィールの最後に、ものすごい「パワーワード」を発見した。それがこれだ。

 

「小澤征爾から絶大な信頼を得ている」

 

音楽家にとって、これ以上のステータスがあるだろうか。恐ろしいほどの説得力である。

 

いや、ここまでくると、もはやその価値は「音楽家」という枠組みさえ超えてしまうだろう。

 

プロフィールの最後にとりあえず「小澤征爾から絶大な信頼を得ている」と書いておけば、どんな職業だろうと、どんな人だろうと、「ああ、すごいんだな!」という印象を与えることができるのだ。

 

例えば、作家の山田太郎さんの場合。

 

山田 太郎

作家。1992年生まれ。○○大学卒。著書に『○○○○』、『○○○○』など。小澤征爾から絶大な信頼を得ている

 

もうその実力に疑いを持つ人など誰もいないだろう。

 

その効果は、いわゆるクリエーターでなくても十分発揮される。たとえば街の豆腐屋さんならこうだ。

 

山田豆腐店

1945年創業。オーガニック大豆などが注目される中、特にこだわりのない豆腐を作り続ける街の豆腐屋。小澤征爾から絶大な信頼を得ている

 

なぜかこっちが必死になって、豆腐屋の魅力を探してしまう。

 

このように、とりあえず小澤征爾から絶大な信頼を得ていれば、もはやいかなるこだわりさえ必要ないのだ。

 

さらに、その影響力はスポーツにまで及ぶ。

 

山田 蹴太

プロサッカー選手。左サイドバック。代表歴はなく、能力的に突出した点は特にない。監督からの信頼は薄いが、小澤征爾から絶大な信頼を得ている

 

もはや「監督からの信頼」をもしのぐ、小澤征爾の説得力。監督も、「小澤征爾が信頼してるなら……」と、つい試合に使ってしまうのではないだろうか。

 

たいして優れた点がないように見えても、「小澤征爾から絶大な信頼を得ている」のなら、「きっとものすごい何かを持っているに違いない!」と思わされてしまうのだ。

 

この小澤征爾の凄まじいまでのステータスは、いまだ何の職業にもついていない幼稚園児にさえ有効だ。

 

山田ひろしくん

3歳。十条幼稚園に通っている。とっても甘えん坊で、お母さんが近くにいないとすぐに泣き出してしまう。砂遊びが大好き。小澤征爾から絶大な信頼を得ている

 

「きっとすごい子なんだろうな!」と思わされてしまうではないか。

 

このように、プロフィールの最後に「小澤征爾から絶大な信頼を得ている」と書いておけば全てはオーケーだ。

 

しかし問題は、「どのようにして小澤征爾から絶大な信頼を得るか」だ。

 

その点については、おのおの自分で考えてもらいたい。

 

小澤征爾指揮「小澤征爾の80曲。」ユニバーサルミュージック、2015年。

 

自分が見た夢の話を友人にしている、という夢を見ました。

 

正確に言うと、

 

「夢の中で夢を見て、その夢の中の夢から覚めて、その夢の中で見た夢の話を、夢の中で友人にした」

 

ということになります。

 

……正確に言おうとしたら、余計わけがわからなくなってしまいました(笑)。

 

要するに僕が言いたかったのは、「今これを書いているのも、実は夢なのではないか」ということです。

 

もしそうだとしたら、この一連の出来事を正確に表現すると次のようになるでしょう。

 

「夢の中で夢を見て、その夢の中の夢から覚めて、その夢の中で見た夢の話を、夢の中で友人にした、という夢をブログに書いている夢を見ている」。

 

これを読んでバカにしているあなたは、今、本当に起きていますか?

 

実は夢の中でこれを読んでいるのではないでしょうか。

 

もしそうだとしたら、それを正確に表現するなら次のように……いや、やめておきましょう。

 

夢の中でわざわざ疲れることをする必要はありません。

 

でもよく考えると、「夢の中で疲れる」ということが本当にあるのでしょうか。

 

疲れているのが夢の中のことである以上、「疲れた気になっている」だけなのではないでしょうか。

 

しかし、「疲れた気になっていることがすでに疲れたことなのだ」と言われれば、確かにそうかもしれません。

 

なんだかよくわからなくなってきましたが、ひとつだけ確かなことは、今これを書いている僕がそろそろ疲れてきたということです(笑)。

 

でもこれもきっと夢でしょうから、目が覚めたら全く疲れてなどいないでしょう。

 

そうしたら、このことをまたブログに書こうと思います。

 

文字量はおそらく3倍ぐらい必要になりそうですが(笑)。

 

自宅の郵便受けに、日本時間学会の学会誌『時間学研究』(第9号)が届いていました。

 

さっそくパラパラとページをめくっていると、目に飛び込んできたのは「杉原氏」という文字。

 

「ん?」と思って見てみると、それは今回新たに創設された「学会賞」の総評ページでした。

 

学会賞は別の人が受賞したはずなので、「何だろう?」と思って読んでみると、受賞した論文以外に、4本の論文が取り上げられ講評されていました。なんとそのうち2本が僕の論文だったのです。

 

寸評ではありましたが、何よりうれしかったのはその内容でした。

 

杉原学「「ヴァナキュラーな暦」としての自然暦」(第7号)は、着目したテーマに好感が持てる読んでいて楽しい論文であった。同著者による「人間の個人化と未来への不安」(第3号)もそうであるが、発表の場として、他の学会誌ではなく、学際性の高い日本時間学会の学会誌でなければならない理由が十分にあると捉えられる。杉原氏の活動について、今後の広範化・深化を見守りたい。

 

(学会賞選考委員会「日本時間学会第1回学会賞総評」『時間学研究』46頁)

 

……ぜひ見守っていただけると幸いです(笑)。

 

さて、何がうれしかったかと言えば、とにかく「読んでいて楽しい論文であった」と思ってもらえたこと。

 

「正しい論文であった」と言われるよりも、「楽しい論文であった」と言われる方が、僕にとっては100倍うれしいことなのです。

 

しかし当然ながら、ただ「楽しいだけ」では載せてくれないのが学会誌の厳しいところで(笑)、僕も一度、査読で落とされたことがあります。しかしその査読コメントが実に的確で勉強になり、それだけでも論文を投稿した価値があったと思ったものでした。

 

学問の世界では、研究領域の専門分化が進み、それによる「タコツボ化」の弊害がかなり表面化してきています。「原発の安全神話」などはその最たるものではないでしょうか。

 

そんな中、「時間」という概念を通して、理系・文系を問わず、学際性の高い研究を奨励する日本時間学会は、とても面白い学会だと僕は思っています。

 

ちなみに、今回取り上げてもらった僕の論文は、下記の「J-STAGE」からPDFでダウンロードできます。

 

■「ヴァナキュラーな暦」としての自然暦

https://www.jstage.jst.go.jp/article/timestudies/7/0/7_47/_article/-char/ja

■人間の個人化と未来への不安

https://www.jstage.jst.go.jp/article/timestudies/3/0/3_61/_article/-char/ja

 

また、Kindleで読みたいという方は、下記から電子書籍版を購入することもできます。

 

 

 

拙著ではございますが、面白がっていただけたらうれしいです。

東日本大震災の直後から被災地に入り、今なお現地の人々の声を拾い続けている矢田海里さん。

 

地域づくり情報誌『かがり火』の対談で、彼の被災地での経験や思いを聞く機会に恵まれました。

 

震災の記憶が薄れゆく中で、とても大切なことを話されていた気がしますので、多くの方に読んでいただきたくシェアします。

 

最新の『かがり火』(2019年2月25日発行)に掲載されたものを、現在制作中の「かがり火WEB」にアップしました。

 

絵的には僕の笑顔が邪魔ですが(笑)、よかったら読んでいただければ幸いです。

 

■「被災地での学びは尽きない」ライター・矢田海里

https://kagaribiweb.com/sonnaikikata/605/

このブログをきっかけに知り合った方が、とってもいい本を紹介してくれました。

 

星野道夫さんの『森へ』、そして『クマよ』。

 

星野道夫『森へ』福音館書店、1996年。

 

星野道夫『クマよ』福音館書店、1999年。

 

星野さんの文章と写真で構成されていて、どちらも40ページほどなので、すぐに読めてしまいます。

 

そう、「すぐに読めてしまう」はずなのです。なのに、なかなかページが次に進みません。

 

それは「進めない」のではなく、「もう少しそこで佇んでいたい」ような感じ。

 

ハッと息をのむ自然の美しさと、それを目の当たりにした星野さんの感動が、写真と文章を通して伝わってくるのです。

 

ちょっとおかしな表現かもしれませんが、この本は目だけでなく、五感をフルに使わなければ読めない本です。

 

星野さんがそこで感じたであろう、森の香り。鳥の鳴き声。鮭の感触。クマの気配。

 

それらを追体験するかのように、読者はゆっくり、ゆっくりと、ページをめくることになります。

 

人間の気配のない、澄んだ森の中にいると、自分の心も、次第に澄んでくるような気がします。そして星野さんの心の中には、いつもこの澄んだ自然があって、彼と出会った人は、彼を通して、その澄んだ自然に癒されたのかもしれません。

 

奥さんの直子さんは、星野道夫さんのことをこんな風に書いています。

 

いまも忘れられないのは、最初に出会ったときの彼の目です。 その目は少年のように澄んでいました。 

「はじめて会ったときから、長年付き合っていたかのような親近感をおぼえた」と、夫と出会ったたくさんの方がおっしゃいます。私もそう感じていた1人です。 

(星野直子「夫、星野道夫がくれた忘れられない言葉 『本当に好きなことだったら絶対に大丈夫だよ』」)

 

 

「ああ、僕も生きてる間にお会いしたかったなあ……」と思わずにはいられません。

 

ある日、星野さんは町の中で、「クマの存在を感じた」と言います。

 

電車にゆられているとき

横断歩道を わたろうとする しゅんかん

おまえは

見知らぬ 山の中で

ぐいぐいと 草をかきわけながら

大きな倒木を

のりこえているかもしれないことに

気がついたんだ

 

そしてこう続けます。

 

気がついたんだ

おれたちに 同じ時間が 流れていることに

 

彼は、町にいながら、クマと共に生きる時間を感じたのです。

 

しかし、日常生活に忙しく追われる私たちは、そのような動物や自然と共にある時間を、なかなか感じることができません。

 

都会で生活していると、むしろそんなことには思いを寄せず、目の前のことをテキパキとこなすことが求められます。何においてもためらうことなく、即断即決で選択し行動する。それこそが「優れた人間」であるかのように。

 

しかし哲学者のベルクソンの考え方から見れば、それは人間の「退化」なのかもしれません。

 

ベルクソンの時間論を研究する平井靖史氏によれば、ベルクソンはこう考えたと言います(ここからは僕なりの解釈ですので、詳しく知りたい方はぜひ平井氏の論考を読んでみてください)。

 

人間の進化は、ものごとに対して条件反射的に反応せず、「決定までの時間をできるだけ多くとること」、つまり「遅く」なることによってなされた。

 

それとは反対に、その反応の速さを突き詰めた方向に進化したのが「昆虫」である、と。

 

しかし人間は昆虫とは反対に、反応までの時間的猶予を持つこと(ためらうこと)によって、さまざまな経験や情報を参照し、「これまでと違う決定をすることができる」。そこに人間の特徴的な進化の方向性がある、というわけです。

 

そうして、決定(反応)までの「時間」をとることによって生まれてきたのが「心」なのだ、と。

 

<心が登場して、それが時間を認識するようになった>のではなく、<システムが時間幅を稼いだことによって、その効果として心というものが成立した>のである。

(平井靖史「時間の何が物語りえないのか」『時間学の構築Ⅱ 物語と時間』恒星社厚生閣、2017年)

 

その意味で、「ためらいを捨てさり、条件反射的にものごとをテキパキとこなす」ことは、人間が獲得してきた進化に逆行することなのかもしれないのです。

 

しかし、そもそも「進化」なんてものが本当にあるのでしょうか。

 

確かに人類は、脳の進化によって科学技術を発展させ、現代のような「優れた文明」を生み出したと言われます。

 

しかし現実を見据えれば、50万年とも言われる人類の歴史の中で、「科学的な思想」を社会の中心に据えたとたん、わずか数百年で「存亡の危機」を迎えているわけです。

 

それも人類だけが滅亡するのならまだしも、ほかの生物まで巻き込みながらですから実に厄介です。

 

自然農法の先駆者として知られる福岡正信さんは、そのような社会と人間の近代化を痛烈に批判し、「何もしない運動」を提唱しました。

 

人類の未来は今、
何かを為すことによって解決するのではない。
何もすることは、なかったのである。
否! してはならなかった。
強いて言えば〝何もしない運動〟を
する以外にすることはなかった。
今まで人類は多くのことを為してきたが、
何を為し得ていたのでもなかった。
一切は無用であった。

期待した巨大都市の発達や、
人間の文化的、経済的活動の急激な膨張が
人間にもたらしたものは、
人間疎外の空しい喜びであり、
自然の乱開発による
生活環境の破壊でしかなかった。

 

福岡さんによれば、自然界ではすべてはつながっていて、不要なものは何一つない。つまり人間もそのつながりの一部であり、特別に優れた存在ではないのです。

 

自然の生命は、動物(人や家畜)と植物と微生物(土)の間を次々と循環しているにすぎない。

(福岡正信『緑の哲学 農業革命論』春秋社、2013年)

 

にもかかわらず、なぜ僕たちは平然と「人間を進化の頂点に据える」ことができるのでしょうか。

 

実はそこにこそ、「科学的な考え方」の特徴があるのだと思います。

 

「科学」とは、「分けて考えましょう」ということです。

 

病院に行くと「外科」「内科」「小児科」「産婦人科」があり、学校には「文学科」「数学科」「社会学科」などのさまざまな「学科」があります。

 

つまり「科」とは、全体を分けたものであり、「科学」の本質は、全体を「分けて考える」ことにあります。

 

逆に言えば、「他のことは考えない」ということです。

 

「便利さ」「快適さ」を追求することのマイナス面が、世界中の自然や生命を脅かすことになるとしても、「そのことについては考えない」。それを可能にしたのが「科学的思想」だったのではないでしょうか。

 

とはいえ、ここにきていよいよ、人間自身がそのマイナス面に脅かされるようになり、問題を無視できなくなってきたのですが。

 

たとえば経済学においても、資本主義のメカニズムは「無限の経済発展」を前提に考えられています。その前提がなければ、必ずどこかで破綻することが分かっているからです。

 

しかし普通に考えればわかるように、地球の自然が有限である以上、「無限の経済発展」などはあり得ません。そんなことは経済学者たちも当然知っています。そこで彼らはこう考えました。

 

「自然は無限に存在すると仮定する」

 

要するに、「それについては考えない」ことにしたわけです。あるいは、「未来の科学の進歩」に丸投げした。その意味で、近代経済学とは科学的思想のもとに作られたものだと言えます。

 

アダム・スミスからマルクスに至る経済学は、自然を、あたかも無尽蔵に存在し、無限に利用できるかのごとく描いた。すなわち自然は抽象的無限性の彼方にあったのである。

(内山節「具体的自然・具体的労働に踏み込む『未来の経済学』」ハンス・イムラー著、栗山純訳『経済学は自然をどうとらえてきたか』農山漁村文化協会、1994年)

 

しかし福岡さんが言ったように、世界はあらゆるものが結び合いながら存在しています。そのような全体性の観点から言えば、科学的な答えとは絶対的なものではなく、科学的な答え「でしかない」のです。その答えを採用するときには、必ず何かしらの「ためらい」がなければならないのではないでしょうか。

 

とはいえ、科学に有効性があることは確かだし、僕もいわゆる「最新の科学」のようなトピックが大好きです。しかしそれは「世界の一面」を切り取ったものにすぎません。そのような「一面的な視点」を「正しさ」と勘違いした結果、人間は人類を「進化の頂点」に置くことができるようになったのかもしれません。

 

そんなことを考えながら星野さんの写真を見ていると、クマは賢者の顔をしているような気がしてきます。あの目に見つめられると、自分のよこしまな心が見透かされてしまうような。

 

星野さんもまた、人間とその他の動物との間に、一切のヒエラルキーを認めなかった人だと僕は思います。

 

だからこそ、星野さんはクマとの間に「同じ時間」を感じることができたのだ、と。

「名前負け」という言葉があります。

 

子どもにあんまり立派な名前をつけると、その名前の立派さに負けて、本人が見劣りしてしまう、というような意味です。

 

たとえば、あなたが偶然知り合った人の名前が「漱石」だったとしましょう。きっとそれだけで「この人はきっと文才があるに違いない」と思ってしまうのではないでしょうか。

 

それで実際に文才があればいいですが、もしなかったら、「なんだよ……」と勝手に裏切られた気分になるかもしれません。「漱石さん」は何も悪くないのに(笑)。

 

もちろん、子どもに「漱石」という名前をつける親は、きっと文学好きでしょうから、その子どもも文学好きに育つ可能性は高いかもしれません。しかし子どもは、親の思い通りに育たないのが世の常なのでございます(笑)。

 

そういう「名前負け」に対して、「名前勝ち」ということもあります。

 

たとえば「フィヨルド」。

 

ウィキペディアによれば、「氷河による浸食作用によって形成された複雑な地形の湾・入り江のこと」であり、「ノルウェー語による通俗語を元とした地理学用語である」とのこと。

 

みなさんも学校の教科書で習った覚えがあるのではないでしょうか。

 

はっきり言って、僕らの日常生活には全く関係のない言葉です。それでも、なんとなく覚えてしまっている「フィヨルド」。

 

授業で「フィヨルド」という言葉を習って間もない頃、友達とことあるごとに「フィヨルド!」「ハァ〜、フィヨルド!」などと連呼していたのを覚えています。

 

それはなぜか?

 

そう、単に「言いたいだけ」なのです。

 

これがもし「フィヨルド」ではなく、「氷河侵食湾」とかだったらどうでしょう。

 

きっと見向きもされないに違いありませんし、絶対に覚えないでしょう。

 

「フィヨルド」は完全な名前勝ちです。

 

芸能人の名前で、このような「名前勝ち」を実感した例をひとつあげるならば、やはり彼でしょう。

 

「ナオト・インティライミ」。

 

正直なところ、僕は彼に全く関心がないのですが、不思議と口にすることは多いのです。

 

サッカー関連の番組などに彼が出ているのを見ると、その翌日、「きのうナオト・インティライミがテレビに出てたけどさ……」などと友人に話していたりします。

 

そこには特に伝えたいことなどないのです。ただ単に、「ナオト・インティライミ」が言いたいだけなのです。

 

これは完全に「名前勝ち」です。

 

これにならって、僕も「白秋・インティライミ」という名前にしようかな、と思ったこともあります。そうすれば、みんななんとなく、名前を口にしてくれるのではないか……と。すぐ正気に戻ってやめましたが。

 

「フィヨルド」と「インティライミ」。

 

共通するのはその「語感の良さ」と、ある種の「意味のわからなさ」でしょうか。

 

「フィヨルド」は写真などで見たり、説明を聞いたりすることはありますが、実際に目にすることはまずありません。だから僕らにとっては常に「よくわからないもの」として存在しています。

 

ノルウェー旅行の目玉として、「雄大なフィヨルドをその目で確かめましょう!」などの煽り文句があったりしますが、そもそもなぜ確かめなければならないのでしょうか?みんな本当に「フィヨルド」に興味があるのでしょうか?

 

ただ単に、「フィヨルド!」と何度も口に出しているうちに、なんとなく「一度は見ておかなければならない」ような気になっているだけなのではないでしょうか。

 

おそるべし名前の魔力です。

 

「インティライミ」にいたっては、「フィヨルド」以上に意味がわかりません。

 

でも、「わからないから言いたい」のです。たぶん。

 

もしあなたの友人が「ひろし・インティライミ」に改名したとしましょう。

 

あなたが彼にそれほど関心がなかったとしても、ことあるごとに「ひろし・インティライミ、どうしてるかな」などと話題に出したくなるのではないでしょうか。

 

ところで、世界遺産に登録して欲しいけど、なかなか登録してもらえない遺産というのがあります。それなどは、名前の後ろに「インティライミ」をつければよいのではないでしょうか。

 

そうすれば選考委員も、ただその名前を言いたいがために、思わずその遺産を推薦してしまうに違いありません。

 

世界遺産への登録に大変苦労したと言われる富士山も、「富士山・インティライミ」という名前に改名しておけば、10年は早く世界遺産に登録されていたはずです。

 

このブログも、単に「フィヨルド」と「インティライミ」を言いたいがために、2000字近くの文章を、それなりの時間をかけて書くことになってしまいました。

 

恐るべし、名前の魔力。

我が時代、ついに来たれりーー。

立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明氏が、「学校教育には『変態コース』が必要だ」と主張している。

■出口治明「日本に必要な"変態"の作り方」(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

こういう時代が来ることを予見していた僕は、今後高まるであろう「変態需要」に備えて、「簡単に変態になれる方法」をあらかじめ発見し、書き記しておいた。それを含んだエッセイ集がこの本である。

 

■杉原白秋『文筆家の分泌物 簡単に変態になれる方法』

もちろんこれを買っていただければ最高だが、ここは時代の要請に応えて、「簡単に変態になれる方法」の箇所を公開しようと思う。日本の未来のために、少しでも役立てばうれしい。

時代は「変態」を求めている。

「でも、私には才能がないから……」

 

と悩んでいるあなたも、大丈夫。

これを読めば間違いなく「変態」になれるはずだ。

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■簡単に変態になれる方法(その1) 

 

非常に簡単に変態になれる方法を発見した。というか、たまたま見つけた。

 

朝風呂に入ったあと服を着るとき、いつもならパンツを一番最初に履くところを、なんとなく、靴下を先に履いてしまった。

そのときの感覚が、「ああ!」というか、「これか!」という感じだったのだ。

 

「パンツ一丁」という言葉はあるが、「靴下オンリー」となると変態だ。やはり「隠れるべきところが隠れていない」ということに問題があるのだろうか。

 

しかし、服を着る順番によって、一時的にせよ変態が完成するということは、「あらゆる人間に変態の可能性がある」ことを意味する。


愉快ではないか。

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■簡単に変態になれる方法(その2)

 

前回、「簡単に変態になれる方法」について書いた。

要するに「パンツ一丁」は普通の人だが、「靴下オンリー」になれば変態、という話である。そしてその要因は、「隠れるべきところが隠れていない」ことにある、と結論づけた。

 

あれから五年。ついにもう一つの「簡単に変態になれる方法」を編み出してしまった。それは本当に偶然の産物であった。ノーベル賞級の発見も、その多くは狙ったものではなく、「偶然の産物」であると聞いたことがある。やはり共通するものがあるのだろう。

その瞬間は、やはり風呂上がりに服を着ようとしたときにやってきた。

パンツを履こうと寝室に入ると、ベッドの上に思いがけず「ネックウォーマー」が置いてあった。すると僕の手は、まるで何かに導かれるように、そのネックウォーマーを手に取った。気づいたときには、僕はもうネックウォーマーを装着していた。

 

「あっ……」


全裸にネックウォーマー。そう、「パンツ一丁」ならぬ「ネックウォーマー一丁」である。もうまぎれもない「変態」の完成だ。


なぜそれが完成し得たか。言うまでもなく、「隠れるべきところが隠れていない」からだ。


しばらく恍惚としたまま立ち尽くした僕は、自らがいよいよ「新しい領域」に踏み込んだことを、知った。
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