『冬虫夏草』は、前回のブログで感想を書いた『家守綺譚』の続編である。
この続編を手に取った読者は、のんびりした主人公はもちろんのこと、犬のゴローの活躍を心待ちにしていたのではなかろうか。ところが、『冬虫夏草』ではゴローが早々にいなくなってしまう。
昔の広告コピーに「無くしてわかるありがたさ 親と健康とセロテープ」というのがあったが、不在によってその偉大さが偲ばれるのはゴローも同じである。もはや「ゴロー」ではなく「ゴローさん」と呼びたいほどだ(実際物語の中でも、敬意を込めて「ゴローさん」と呼ぶ少年が登場するのだが)。
「あのゴローがいなくて物語は面白くなるのだろうか」と心配したが、読み終えた時にはそれが杞憂であったことを知ることになる。
『家守綺譚』でもそうだったが、物語の中にごくたまに出てくる「人生の真理」のような言葉が、僕にとってはとても興味深い。
年をとれば、人間でも彷徨うものが出て来るだろう。齢を重ねた生きものは、何度も変態して別の形状を生きねばならんのだ。
というある男の言葉を聞いて、主人公は思う。
……そうやって「先の形状」に未練を持たず、「今の形状」を誠心誠意生きることが、生きものの本道なのやもしれぬ。
また、主人公の「亡き親友」は次のような言葉をつぶやく。
しかるべき順行というものがあっても、それがそうなるようにもっていくのは骨が折れる仕事なのだ。衰えていくものは無理なく衰えていかせねばならぬ。
まるで今後の日本社会について語っているようにも聞こえる言葉である。
そして物語の最後の方で主人公が言う、
手に負えぬ煩いは放っておけ。
という言葉も印象的である。
人生は矛盾に満ちている。けれどもそれは、人間が自分たちの理解の範囲内だけで物事を考えているからかもしれない。だからといってその矛盾を解消すべく、世界の全てを理解しようとしても、それは無理な相談である。
それを「人間の能力の限界」として捉えることもできるだろう。けれども、その理解の範囲を超えた世界を、人間は豊かに彩ることができる。その彩りは、僕たちが生きる日々の生活をも包み込む力を持っている。そんな巨大な力を持つ「想像力」に限界がないとしたら、これは驚くべきことではないだろうか。
そんな人間の驚くべき想像力をかき立てる力が、この物語には秘められているような気がする。