「自分らしい生き方シンポジウムin関東」が先日、無事に終了しました。
定員は150名で、僕は正直「そんなに集まるのかな?」と思っていたのですが(スミマセン)、ふたを開けてみれば、入場者数は200名以上。
そこに登壇者、ファシリテーター、スタッフ等を加えると250名ほどの参加者となり、むしろ会場のキャパオーバーを心配する状況だったそうです。僕も当日、人の多さにびっくりしてしまいました。
それでも大きな混乱なく会を終えられたのは、準備から当日の運営まで細やかに気配りしてくださったスタッフのみなさまのおかげ。本当に頭が下がります。
会場はいくつかに分かれていたのですが、どの会場もとても盛り上がっていたようです。全部を紹介することはできないのですが、たとえば分科会A「自分スタイルに逢えるセッション」。
ライフ・スタイリストの河面乃浬子(かわものりこ)さんが、参加者一人ひとりをスタイリング。ファッションを通して自分らしさを発見するお手伝いをしていました。
その中にはひきこもりの子を持つ親御さんもいらっしゃったのですが、河面さんいわく、親御さんが自分らしく生きることで、子ども自身も変わっていくことがあるとのこと。
会場には、オシャレに変身した若者からご年配の方々が、ちょっとはにかみながらも颯爽と歩いている姿があって、なんだか見ているこっちまで心がウキウキしてしまいました。
自己表現スペースでは、僕の友人の井口康弘氏の写真も展示されていました。しかし彼はピースボートにゲストとして乗船中だったため、僕が代打で写真の説明をすることに。
たぶん間違いだらけの説明だったと思いますが、まあ、いいでしょう(笑)。写真はとても好評で、「他の写真はどこで見られるんですか?」「これ、すごくいいです!」など、うれしい感想をたくさんいただきました。
メイン会場では、11人の登壇者が2部に分かれて、それぞれ自分の生き方や、人生が変わったきっかけなどについて話しました。どの方の話も本当に面白くて、僕自身とても学びの多い時間になりました。まさに「我以外、皆我が師」というのを実感した1日でした。
面白かった話を報告するときりがないのですが、たとえば何かを決断する時に、「それを選んで後悔してもいいと思う方を選ぶ」という言葉がありました。「後悔しない方を選ぶ」のではなく、「後悔してもいい方を選ぶ」。ちょっとした違いのようにも思いますが、案外そこに大きなヒントがあるような気がしました。
そして、ちょっと苦手な相手とつきあわないといけない時などは、あえて「あの人と会うのが楽しみだ!」と口に出して唱えると、不思議と自分も相手も変わって、本当に楽しくなっていくという経験談も面白かったです。
実は僕もこの会の後半で登壇したのですが、さすがにちょっと緊張していたので、ここぞとばかりに「みんなの前でしゃべるのがすごく楽しみだ!」と唱えてみたのです。そうすると本当にずいぶん気が楽になって、楽しく話すことができました。素敵な技(?)を教えていただいて本当にありがとうございます!これからも活用します(笑)。
他にも面白い言葉がたくさんあったのですが、ここでは紹介しきれませんし、解釈が間違ってる可能性もあるので(笑)、せめて自分が話した内容を少しだけ書いておこうと思います。
僕が話す前に「幸せ」についての話題があったので、僕が去年経験した、幸福観の変化について話させていただきました。
僕の大好きな場所に島根県の奥出雲町という場所があります。何が好きかって、とにかく食べ物が美味い!「仁多米」はすでに有名ですが、とにかくそこで育つものは何でも美味しいのです。
それが何故なのか地元の方に聞いたことがあるのですが、まず最初に言っていたのが「水がきれいなこと」。そして第二に、「寒暖差の大きさ」。
奥出雲町は標高400メートルほどの場所にあって、冬場は豪雪地帯。それでも夏はしっかり暑い。この寒暖差が、あらゆる作物を成熟させ、僕たちに恵みを与えてくれているというわけです。
「寒暖差が作物を成熟させる」。
このことを人間に置き換えて考えてみたとしたら、ここでの「寒暖差」とは一体何でしょうか。僕はそれが「幸・不幸」なのではないかと思ったのです。つまりその人が経験する「幸福」と「不幸」の振り幅の大きさが、その人の人間的な成熟を促すのではないか、と。
考えてみれば仏陀も、釈迦族の王子としての恵まれた生活と、その後のたゆまぬ苦行との振り幅によって、悟りを得たのかもしれません。もちろん、僕らがその領域まで行く必要はないのですが(笑)。
そして面白いのは、この考えでいけば、「幸福は必ずしも目的ではない」ということです。それは人間的成熟のための手段のひとつにすぎません。そして「不幸」もまた、単にネガティブなものではなく、やはり人間的成熟を促してくれる重要な要素だというわけです。
自分で言うのもなんですが、この考え方が正しいかどうかなんてことは、どうでもいいのです(笑)。そういう視点で「幸福」や「不幸」を捉えることによって、生きる力がもりもりと湧いてくれば、それでもう十分なわけです。
「幸福にならなければならない」という圧力に苦しんでいる人は、僕も含めてけっこういるような気がします。ここで紹介させていただいたモノの見方は安易な思いつきにすぎないのですが(笑)、僕にとってはなかなかいい方法だったので、みなさんとシェアさせていただきました。
ちなみに去年、こういう「弱い自分がなんとか生きていく考え方」のいくつかを、電子書籍にまとめてみました。幸福観と寒暖差の話もこの中で書きましたので、よかったら読んでやってくださいませ(笑)。
杉原白秋『疾走しない思想「人間は、弱い生き物なのだ」と仮定する。』2018年。
さて、このシンポジウムは「K H J全国ひきこもり家族会連合会」が主催していることからもわかるように、背景にはひきこもりというテーマがあります。しかし今回、少なくともメイン会場では、「ひきこもり」という言葉が本当に数えるほどしか出てこなかった気がします。
これは僕の個人的な気持ちですが、いまの学校や社会に適応できずに、あるいは適応することを拒否して、登校拒否したり、ひきこもったりすることは、実にまっとうな精神の表れ方だという気がします。もちろん、その中でうまく折り合いをつけたり、楽しむことができたり、楽しくないけどなんとかついていったり、何も感じることなくやっていける人もたくさんいます。
しかし、その中でやっていけるにしても、いけないにしても、感受性が豊かであればあるほど、苦しむのではないでしょうか。
でもその苦しみは、先ほどの考え方でいけば、人間的な成熟を大きく促してもくれるはずです。いや、別に僕は人間的な成熟をみんなが目指す必要もないと思っていますし、できればひとつも苦しむことなく生きていきたいと思っています。
そう思っていても、「幸・不幸」という経験は否応なく訪れます。これはすごいことです。こちらが望んでいなくても、何度でも与えられる。こういうのを「ギフト」というのではないでしょうか。
もちろん辛いギフトなんて受け取りたくないですが(笑)、見た目に反して、箱を開けてみたら中身は実はうれしいギフトだった、ということもあります。しかもものすごい時間差でそれがわかったりして。
思いがけない不幸がときどき起こるように、思いがけない幸福もときどきやってきます。それを享受しているうちに、僕らはいつのまにか「いい味」をかもし出せるようになるのかもしれません。それは「成長」とはちょっと違うような気がします。「深み」というか、「うまみ」というか……(笑)。
シンポジウムに参加して思ったのは、本当にみんなそれぞれが、それぞれの「いい味わい」を持っているということ。その「味わい」を互いに引き立たせるような関係性を模索しながら、共に生きていくこと。そんな感じでいければいいなあと思った、とっても楽しくてあたたかいシンポジウムでした。