麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑪ 駅のはなし(その2)

 

 

春になりました。

いつもは人気のない駅も、進学や就職で旅立つ若者や行楽客で少しばかりにぎやかです。

わたしもこの駅から出発して、大分市の学校へ、それからもっとひろい世界へ出ていきました。

仕事に就くために帰ってきたのもこの駅です。それからずっと生まれた町に住んでいます。

ときどき旅に出て帰ってくるのもこの駅でした。

今よりちょっと元気でパスポートを活用していたころは、帰りの航空機との接続がよかったので、

全席指定の観光列車をよく利用しました。

わたしは自宅へ、日常へ帰っていくのですが、周りのほとんどが観光地へ向かう行楽客です。

非日常のモードに入っているお客さんたちは、何にでも感動して歓声を上げます。

「あっ、滝よ、滝!すごーい!きれーい!」

(全国各地によくある、きれいな滝です。)

「あっ、見て見て、牛!牛さーん!」

(柵の中のぬかるみにホルスタインが一頭、糞をくっつけて立っています。)

わたしは時差でぼんやりして足もむくんでいるので、座席の前にスーツケースを置いてよっこらしょと足を載せます。

きらきらのアトモスフィアの中に、きわめて風情のない姿を割り込ませて申し訳ないのですが、やむにやまれず爆睡します。

でも、寝過ごしたりすることはなく、2駅ほど手前で目覚めるのは不思議です。

列車が見慣れた風景の中に入っていくと、つい「Green, Green Glass Of Home」などのメロディをハミングしてしまいます。

走行音に紛れて周りには聞こえないでしょう、たぶん。

やがて古いプラットフォームに降り立ち、薄暗い駅舎を通り抜けて、北緯33度の明るい風の中へ、

静かな町の静かな日常に帰っていくのです。

 

さて、うちの91歳になる母は、なんと航空機の油圧システムの基本について説明することができ、

油圧管の素材や製造法を知っています。

「ここに操縦桿があって、ここをこうすると力が油圧管を伝わって・・・。」と91歳のおばあさんが図面を描きながら説明します。

わたしは「ほえ~。」と言って聞きます。

1945年のはじめ、16歳の少女だった母は、うちから80㎞ほど離れた久留米市の「日本タイヤ」の工場で、戦闘機の油圧管を作る作業をしていました。高等女学校の「学徒動員」です。

母の受け持ちは大きなゴムのシートから油圧管の先端の蓋になる部分を一つひとつはさみで丸く切りぬくことでした。

(本人に言わせると、「こげなおろいい(粗末な)もんで勝つわけねえ。」と思っていたそうですが。)

卒業も近い3月27日のことでした。ボーイング29の大編隊が久留米の上空に現れました。

女生徒たちの寮は筑後川のほとりにあって、非常時には河原に集合することになっていました。

(そんな開けたところに女の子を集めてどうするんだと思いますが。)

河原の土手には防空壕が掘られていましたが、中には水がいっぱい溜まっていて入ることができません。しかたなく土手の斜面に貼りつきました。

作戦の標的が久留米ではなかったからでしょう、編隊は少女たちの頭上をごうごうと通過していきました。

その夕方、少女たちは汽車に乗って久留米を離れ、夜遅くふるさとの駅に帰ってきました。

その途中、暮れてゆく空を赤々と染めて、北の方のどこかが大きく燃えているのが車窓から見えたそうです。

後から分かったのですが、それが「大刀洗大空襲」の第一波だったのでした。

 

母は4月から大分市の上級学校に進学が決まっていたのですが、そのころ大分の街は何度も空襲を受けていて授業どころではない、しばらく自宅待機せよという知らせが来ました。

そのうち空襲はもっとひどくなって大分の市街はまる焼け、駅に降り立つと青い青い別府湾がすぐ目の前にあったといいます。

生徒を収容する校舎も寮もなく、やっと入学式ができるようになったのは8月1日のことでした。

母は行李を背負ってひとり汽車に乗って出発しました

進学しなかった同級生たちはみんなまだみんな女学校に残っていました。「専攻科」という名目で留め置かれたのです。

卒業させてしまったら組織的に動員できなくなるからじゃなかったか、と母は言いいます。

女学校の傍らにも「日本タイヤ」の分工場がやってきていて、少女たちはそこでも油圧管を作っていたからです。

 

ここからは女学校に残った友人のたみ子さんの話です。

たみ子さんも大陸にある上級学校の入試に合格していたのですが、ご両親が「こん非常時に、

そげな(とい)いところに行かんじょくれ。」と泣きながら止めたので進学を断念したそうです。

半年後に大陸で起こったことを思えば、行かなくて本当によかったと思います。

うちの町の駅は肥後小国方面へつながる路線の分岐点として機関区が設けられ、けっこう栄えていました。

今も、転車台のある扇形の機関庫が残って、地元の有志の努力で整備され、ささやかな観光資源になっています。

戦争も終わりに近い8月4日、全国の大きな街を焼き尽くした空襲が大分の山の中にもやってきて、

この駅と機関庫が艦載機の機銃掃射を受けました。

機関庫のコンクリートの外壁には弾けたような銃弾の跡がくっきりと残っています。

(窓ガラスもあちこち割れていますが、機関区は1971年まで現役でしたので、こちらはその後の経年劣化や心ない投石のせいです。)

3人の駅員さんが亡くなりました。

女学校と工場があったのは駅のすぐそばでしたが、そこが軍需工場であるという情報は伝わっていなかったのでしょう、学校と工場は無事でした。

ちょうどその時、たみ子さんのお父さんは、夏の田んぼの中で草取りの最中でした。

田んぼからは直線距離で3㎞あまりでしょうか、でも長い丘陵にさえぎられて、駅のあるあたりは見えません。

お父さんには、鳴り響く空襲警報の中、艦載機が女学校や分工場の方へ降下したように見えました。

丘を迂回すると道のりは4㎞あまりです。お父さんは田んぼの泥をつけたまま走り出しました。

「たみ子!たみ子!生きちょるか!」

走りながら泣きました。叫びました。

「たみこお!たみこお!」

たみ子さんが無事に立っているのを目にしたお父さんは、泣きながらその場に座り込んでしまったそうです。

 

母がその話を聞いたのは、60年以上も経った同窓会の夜のことでした。

温泉旅館の広間に布団を並べて明かりを消した後に、たみ子さんが昔語りを始めたのです。

「もう、お父さんちゅうてから、てがてかったあ。」

(てがてえ=堪えがたい、つまり恥ずかしい)

話をじーっと聞いていた母は言いました。

「たみちゃん、それはいい話よ。いいお父さんじゃったね。」

たみ子さんはしばらく黙ってから、小さな声で「そうかね。」と言ったそうです。

 

母が自宅待機をしていた5月、日本の戦闘機「屠龍」が艦載機に体当たりをして、2機とも県北の山中に墜落することがありました。

パラシュートで脱出した3人のアメリカ兵が、福岡の収容所に護送される途中、うちの町の警察署にしばらく留め置かれました。

「敵」を目の当たりにすることでを戦意を高揚させるためでしょうか、見物に行くことが住民に奨励されたそうです。

母は近所の人たちにまじって、高い塀越しに警察署の裏庭を見下ろしました。

それは東洋の島国の山中に育った少女が初めて目にする、西洋人の若者たちでした。

あどけない丸顔、ももいろの皮膚、まつ毛の長いつぶらな目。

まだほんとうに若い、少年と言えるくらいの年頃だったのでしょう。

母は「あれ、キューピーさんがいる。」と思ったそうです。

何日かして、彼らは駅から汽車に乗せられ福岡へ移送されていきました。

中津市の山で毎年日米合同の慰霊祭が行われているのは知っていましたが、わたしも母も何となく、それは墜落の時亡くなった人を悼むもので、捕虜になった3人は無事にアメリカに帰ったのだろうと思っていました。

だって、そのあとすぐに戦争は終わったのですから。

若者たちがそのあと、朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずにいてくれるといいな、故郷の街でしずかに暮らして、おじいさんになっているといいな、慰霊祭にも来ているんじゃないかな、などと勝手に思っていました。

調べてみるとすぐにわかりました。

若者たちはご家族のところに帰ることはできませんでした。移送先の福岡で首を斬られてしまったのです。

捕虜にそんなことをしてはいけないのです。

福岡大空襲の仕返しをしたのではないかとも言われます。

「おかあさん、キューピーさんたち、死んじょったよ。福岡で斬られたち。」

母はむこうを向いたまま、短く「そうね。」と言いました。

 

若者たちの名はそれぞれ、エドガーさん、ラルフさん、オットーさんというのでした。

 

 

春の駅前通りはがらんとして明るく、春塵が舞っています。

この静かで小さな駅が、これからずっと静かな思い出だけを積んでいくことを願います。

 

 

 

裏富士のかげりふかくして旗たつる家あり兵のいでたるならむ

                       前田夕暮『富士を歌ふ』

 

 

河原にすくむ少女を艦載機の看過しけるによりて()れたり

                           麻生由美

 

 

 

      

                             絵:麻生由美

 

 

 

天さかる鄙・大分豊後からのたより、いかがでしたでしょうか。

あかぬけない話を11回もの長きにわたってお読みくださった皆さま、そして執筆の機会をくださった「まひる野」の皆さまに厚くお礼を申し上げます。<(_ _)>

歌人・川野里子さんが「納戸のような」と詠んだ、まずしくてゆるくてしょぼい、そして幸せだったふるさと大分に寄せる思いを少しでもお伝え出来たらさいわいです。

 

2019年3月29日

麻生由美

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

 

桜

 

 

次週予告

4/5 (金) 12:00更新  山川藍のまえあし!絵日記帖 (最終回)

 

昨年の5月から始まった毎週更新も次回で最終回となります。

ラストは山川さんの絵日記帖です。ぜひ、最後までお付き合いください!

 

 

 

 

中里茉莉子は作品Ⅰに所属している青森県在住の歌人。

1993年に第4回ラ・メール短歌賞を受賞している。

 

地元の中学校に勤めていた中里の歌には子どもがよく登場する。

 

はちまきの跡を残して日に焼くる子らの顔みなひまわりの花 

焼きたてのパンのようなる少女きてたちまち明るき朝の教室

遊び足りない子どものような貌をして初収穫のりんご並べり 

 

 

1首目、運動会かその練習の後だと想像する。はちまきを外して、笑顔いっぱいのなのだろう。

額にはちまきの跡を残して日焼けした子どもたちへの眼差しが優しい。

2首目、焼きたてのふわふわしたイメージとパンの弾ける音が、少女にぴったりで可愛い歌だ。

わたしの想像だとほっぺたがクリームパンで二の腕はコッペパン。

3首目、まだまだ遊び足りない子ども、大人の隙を見て遊びだそうとする子どもを早採れのりんごの並んでいる様に重ねている。

中里の、子どもたちの表情や気持ちの観察が活きている歌だと思う。

 

子どもたちの歌の中で、院内学級を詠んだものもあるのでいくつか紹介する。

 

病室にひっそりといる少年の点滴ひかる早春の朝

自らの足に自由に生きることたった一つの夢なる少年

カードゲームするとき余裕のまなこしてわれを負かしむ少年の顔

退院の予定再び長びける少年と眺める麦畑の青

 

1首目、春だというのに少しも浮かれた様子の無い病室で点滴で繋がれている少年。

その点滴こそが少年を未来へ繋いでいると中里は感じたのではないだろうか。

4首目、退院が再び延期になり、少年はどれほど落胆しだろう。まだ青い麦畑が、少年を残して進んでゆく周囲の時間のように感じられて苦しくなってくる。

 

なにかしらの治療のために学校に通えない生徒との距離感は学校よりも少し濃い。

そんな中で悲しいとか可哀そうだとか、そういう言葉でなく、少年の側に寄り添う中里の歌が私は好きだ。

 

中里は自然もよく歌にしている。

 

六つ七つ朝の畑にたたきみる西瓜の音は鼓のごとし 

コンクリの皮膚に覆われ生きる都市夜明けの空に春の呼吸す

縄文の人ら起こしし火の色に朝焼けてくる刈田の空は

どこまでも青く澄む空人間を忘れてしまいそうな雪原

 

 

1首目、朝の露に濡れた畑で西瓜を叩いている。

実の入り方で音が変わるから、高かったり低かったりするその音に収穫の近さを実感している。

朝の静かな畑に鼓のような音が響いている様子を想像するとなんだか愉快な一日が始まりそうである。

2首目、東京かどこかに出掛けた時の歌だろうか。

コンクリートに覆われた街に季節を感じられずにいたのだろう。それが夜明けの、都市が都市でなくてもいい時間と言えばいいか、

そんな少し緩んだ時間に春を感じ、安心を覚えたのだと思う。

3首目、青森には三内丸山遺跡をはじめ、縄文時代の遺跡が数多くある。

稲刈りの終わった、一面の苅田を燃やすような朝日。それはかつて縄文時代の人々が見た景色であり、自分のルーツを感じる景色でもある。時代を超えた繋がりを感じる、スケールの大きい歌だと思う。

4首目、冷たい風に吹かれていると身体も人格もどこかへ飛んでいくのではないかと思う時がある。

見渡す限り、空の青と白い雪原。その中で、自分が人間ではなく広大な自然の一部になっていくような不思議な感覚を覚える歌だ。

 

 

最後にもう一つ。

中里は満州で生まれ、幼い日に父を亡くしている。

父親への思いと、中里にとっての母親の存在の大きさが歌の随所に詠み込まれている。

 

思い出の一つだになきわが父の七十年めの二月の命日

詰襟の古き軍服脱ぎたくはないか写し絵の父を見上ぐる

父を知らぬわれの一生を見守れる木蓮庭に大樹となりて 

百歳に近づく母に灯りいる火種のごとき遠き満州

新しき畳に替えし母の部屋青き藺草の水辺をあゆむ 

 

3首目、父親の存在を求める度に、庭の木蓮の木を見上げて来たのだろう。木蓮の樹は幼い中里と共に成長し、今では大樹になった。

一生と言い切ってしまう無防備さに、亡き父と重ねてきた木蓮の樹がこころの拠り所なのだと感じる。

5首目、これは中里の母親が亡くなった後に詠まれた歌である。

母の使っていた部屋。新しい畳は青く、部屋全体が水辺のようで、その水辺を歩いてゆけば母親がいるような、向こう側に届きそうな、そんな気持ちだったのではないだろうか。

 

 

中里の歌は真っすぐだ。

子どもたちを、自分を取り巻く環境を、決して明るくはない感情も真っすぐ受け取って歌にする。

それを、きれいごとにはしないパワーと技術を持っていると思う。

少女のような視点や比喩の面白さ、詩的な言葉選びと調べなのにどこか風土の匂いがする。

そんな中里の短歌にこれからも注目していきたい。

 

 

ひりひりと蒟蒻炒りて激辛のきんぴらわれの冬の気構え

煮くずるる馬鈴薯皿に盛りつけて完璧ではなき安らぎもあり

誰が胸をこぼれし鈴か草むらに一夜を清く鳴きとおす虫

 

 

※今回紹介した短歌は、過去三年間のまひる野と第三歌集『二月の鷗』(東奥日報社)から引用しました。

 

 

小原和 (おばらいずみ)

近作は「ヘペレの会」発行の冊子『ヘペレの会活動報告書Vol.1』「白木蓮」15首。

 

 

 

 

クローバー

 

 

 

※3/22 (金) に更新予定だった「まえあし!絵日記帖(最終回)」は都合により4/5(金)に掲載を延期します。

 

このあとの更新予定

3/22  (金) お休み

3/29 (金) 12:00 麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより(最終回)

4/5  (金) 12:00 山川藍のまえあし!絵日記帖(最終回)

 

 

大分豊後ぶんぶんだより⑩ 駅のはなし(その1)

 

 

子どものころは、大分の田舎のどこのうちでもそうだったように、うちにも自家用車などはなかったので、少し離れたところへ行くとき、家族は自転車か乗り合いバスを使っていました。

未舗装の道が多かったので、路面はゆるいW型に波打ち、バスは、雨の日には泥水を跳ね上げ、

乾いた日には土ぼこりをもうもうと巻き上げながら走っていました。

幹線道路に面した建物の外壁はいつも泥や土におおわれていましたね。

バスの待合所の外壁は泥しぶきが何層もかさぶたのようにくっついて、そこには学生服やふとん綿や殺虫剤などの琺瑯看板が打ちつけてあったのですが、文字なんかほとんど読めませんでした。

殺虫剤の看板にはおかしな薄物をまとった女優さんが片膝を抱えて微笑んでいて、変だなと思っていたら、アイキャッチだったのですね。後からわかりました。

ちなみに、朝ドラや大河ドラマなどは時代や風俗の考証がよくできていると思うのですが、道に轍が刻まれていないことと、土ぼこりがないことは不満です。

あ、役者のみなさんの髪の毛がみんなさらさらで、べとっと脂じみていないのも、違うなあ。

 

もう少し遠くへ、母に連れられて海沿いの大きな街に出かけるときには、うちから3㎞ほど離れた駅まで行って汽車に乗りました。

最盛期には1日5000人(!)もの利用者があったと資料に書かれています。

ロータリーには、出発を待つ路線バスや客待ちのタクシーが並び、駅前通りの商店街には食堂、

喫茶店、酒屋、書店、薬局、呉服屋、洋装店、レコード店、写真館・・・、町の人びとの需要を満たすさまざまなお店が並んでいました。そう、映画館まであったのです。

 

今でもよく思い出すのは冬の旅のことです。

降りしきるみぞれを避けて小走りに駅舎の中に入ると、ガラス越しに大勢の職員が働いているのが見え、待合室には汽車を待つ人びとのいきれと煙草の煙がたちこめています。

大きな鋳鉄のストーブに石炭がかっかと燃えて、お客さんたちはそれを囲んで手をかざしたり、雫の垂れる手袋を乾かしたりしていました。

小さいわたしは大人たちの防寒着の裾のへんから、よそのおじさんの酒焼けの赤ら顔や、赤ちゃんを背負った女の人の鬢のほつれを見上げて、なんだかものがなしい気分になったものです。

大人って大変だなと、こども心に思ったのかもしれません。

山奥の集落からやってきたおじさんたちは、毛皮の耳あてのついた帽子を被り、堅く乾いた足先がついたたままの、いかにも自分で作りましたという感じの、テンやキツネの襟巻をしていましたっけ。

 

さて、そこから汽車に乗って出発するわけですが、海辺の街までの行程は小さなわたしにとって難行苦行の2時間でした。

汽車、つまり蒸気機関車に牽引される列車の旅は、それはそれは難儀なものです。

観光ガイドのサイトなどを見ると「もくもくと煙をはきながら力強く走るその勇ましい姿」などとSLの魅力が紹介されていますが、その煙こそが曲者なのです。

今、日本のところどころをちょっとずつ走っている、観光SLの気密性の高い、きれいで快適な客車を想像してはいけません。

もくもくの煙のにおいは客車のいたるところにしみついて、壁や天井もうっすらと暗く煤けていました。

鼻の中には必ず煤が入り込み、うっかり窓枠に腕をのせようものなら、一張羅のお出かけ着の袖が黒く汚れてしまうのです。

小さいわたしは鼻や喉や耳も弱かったのでしょう、必ず酔いました。

スチームの暖房はたいそう乾燥するので、喉が痛くなり、人がいっぱいだから酸素濃度も低かったのでしょう、そこへ人のにおいと熱気が充満して息苦しいことと言ったらありません。

わずかに開けた窓の隙間に鼻をくっつけて、冷たい外気を吸い込みながらしのぎましたが、トンネルが近づくたびに立ちあがって、すばやく閉めねばなりませんでした。

窓が開いているとどうなるかの詳細は、芥川龍之介の短編小説『蜜柑』をご参照ください。

トンネル内で窓が開いているとあのように大変なことになるのです。

 

山はみぞれの日でも平野には陽がさんさんと降りそそぎ、梅の花や菜の花が咲いていたりします。

その明るい街の駅に、眼も()れ心も消え果てて降り立つのが、小さいわたしのSLの旅でした。

デパートのファミリー食堂で、にぎやかなお子様ランチや、銀色の器にくるんと盛られたアイスクリームを食べさせてもらえるのでなかったら、きっと街へなんか行きたいとは言わなかったでしょうね。

 

時は流れ、わたしが中学生になるころにはディーゼル機関車というものが山の駅を発着するようになりました。

袖も鼻腔も汚れず、窓を慌てて閉めなくていい列車の旅はなんと快適なことでしょう!

中学生は関西へ修学旅行に行くことになっていましたが、わたしたちは当然これに乗って行けるものと思っていました。

山霧のたちこめる秋の日、団体客用入り口からホームに出たわたしたちが目にしたのは、昔ながらの8026型という蒸気機関車でした。

「えーっ!何で、しゅっしゅっぽっぽなん?!」とかなしみの声が一斉に上がったのを覚えています。

それから大阪駅まで、寝台のない客車で一泊、じゃんけんで負けたら床に新聞紙を敷いて寝るという難行苦行の旅が始まったのでした。

 

「修学旅行は汽車で行った。床に寝た。つらかった。」と、しばしばこぼしてきましたが、さっき資料で調べてみると、どうもその汽車がうちの駅を発着した最後の汽車だったらしいのです。

「つらいだろうが、これが最後のSLだ。」と知っていたら、いくらかしみじみと乗車したかもしれませんね。

 

その翌年に父が自動車を買いました。

「これより大分県に入ります。車が揺れますのでお気をつけください。」

観光バスのガイドマニュアルにそう書かれていたという悪路が急速に整備され、わたしたち一家は父の車で阿蘇山にも別府温泉にも気軽に遊びに行けるようになりました。所用で県庁のある大分市に行くにも車が便利です。

どんなことでもあとになってからよくわかるのですが、それがわが町やわが家のレベルでのモータリゼーションというものだったのですね。

 

わたしが高校や大学に通うために家を離れている間に、駅も、駅前の商店街もしずかにしずかに寂しくなっていきました。

就職して数年の間、走る、バスに乗る、列車に乗る、走る、という通勤を続けていましたが、周りが迷惑だからいいかげんにしろと叱られ、人の1,5倍くらいのお金と時間をかけて運転免許を取得し、小さな車を買いました。

一度車に乗り始めるとバス停も駅もわたしの暮らしから見えなくなりました。

何年も経って気がつくと、駅舎に人はまばらになり、路線バスやタクシーで混みあっていたロータリーもがらんと広くなっていました。

 

さらに時は流れて、駅は業務委託駅になりました。夜は誰もいません。

夜遅く列車で帰ってくると、駅舎はしんと暗く、キオスクの跡には飲み物の自販機だけが2台、静かに灯っています。

駅前通りも、ずっと遠くまで誰もいません。

変わりゆくのはこの世のことわり。(※)

イノベーションが必要だあと言われれば、そうでしょう。

でも、全ての人がそれを強いられるのはむごくないでしょうか。

駅前通りには昔、すてきなワインをそろえている小さな酒舗がありました。同級生のヤスコさんの生家です。

ヤスコさんが「どうして、普通に暮らしたら、生きられんのかね。」とつぶやいたことがあります。

わたしも、そう思います。

 

 

旅先にふるさとむしろ近くあり晴れたる駅の鉄銹のいろ

                          島田幸典『駅程』

 

 

※英国統治下のビルマで書かれた小説に

『変わりゆくのはこの世のことわり』(ティッパン・マウン・ワ/てらいんく出版 2001年)

というのがあります。

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

 

新幹線後ろ新幹線真ん中新幹線前

 

 

来月の更新予定

 

3/ 8 (金)  お休み

   15 (金)  まひる野歌人ノート⑧ (最終回) 担当:小原和

   22 (金)  山川藍のまえあし!絵日記帖⑨ (最終回)

   29 (金)  麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑪ (最終回)

 

来月もお楽しみに!

 

 

ピヨ太:架空のトリ。まひる野入会一年目。作品ひな欄所属(架空の欄です)

 

チュン美:スズメ。ピヨ太の先輩。スズメール欄所属(架空の欄です)

 

ヨウムさん:ヨウム。ピヨ太の先輩。趣味:タップダンス

 

Y川しゃちほ子:実在の人物。まひる野入会19年目。今年から作品Ⅰ欄所属。

 

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「ピヨ太くんは入会してもうすぐ丸一年だね。毎月ちゃんと詠草を出していて偉いぞ」

 

「エヘヘ。でも実は、毎月10首、結社誌に出していると締め切り(?)までに作るのが大変で、ス、スランプ……(?)なのかな?とか思ったり……(もじもじ)」

 

 

 

「30首や50首の大きい連作を作るとか、もっとたくさん歌を作っている他の人はどうしているのかなとか、自分にできるのかなとか色々考えるようになりました!」

 

 

 

 

 

 

「例えばピヨ太くんは今まではどんな風に短歌を作ってきたのかな?」

 

 

「作るというよりできるのを待つ感じでした」

 

 

「そうだね、ピヨ太くんの今年の目標は大きめの連作を作ることだったよね。

今の作り方では結社誌に出す分で精一杯になっているけれど、もっとコンスタントに歌を作っていきたいということだね。

先輩たちの中には連載や多数の依頼を抱えて月に何十首も作っている人もいるよ。

考えただけでもとても大変なことだよね。」

 

(ゴクリ……)

 

「島田先生の著書にはこんなことが書いてあるわよ」

 

「歌を組み立てる基本的な技術は「歌の素材を取捨選択し、しぼりこむ単純化」と「感情や気分を伝える韻律の工夫」の二つに尽きます。(略)まず自分の思いを納得のいく表現で歌うためには、例の二つの基本的技術だけは身につけなければなりません。それには、多作してください。(略)多作をすることしか、この定型詩に馴れる方法はないのです。」『短歌入門』(島田修三/1998年/池田書店「7 ヘタでいいから多作する(p.34~37)」より)

 

同じ章にはこんなことも…

馬場あき子は現代短歌を代表する歌人ですが、歌をはじめたばかりの学生時代、窪田章一郎という師匠のもとに、ほとんど毎日のように数十首の自作をもって通ったそうです。馬場あき子は私の所属している短歌結社『まひる野』のはるか大先輩にあたりますから、そのエピソードはなかば伝説化して私たち後輩に伝えられています。」

「昭和二十年代に前衛短歌の旗手として歌壇に登場した塚本邦雄すでに七十歳をこえた大家ですが現在でも五十首ずつの作歌を毎日の日課としているとのことです。これはちょっと超人的なケースで、誰もが真似のできるものではないでしょうが、くじけそうになる自分を叱咤する励みにはなるかもしれません。」(山川注:『短歌入門』は1998年刊行、塚本は2005年没)

 

ぼ、ぼえぇ……

 

「入会当時、たとえ歌ができなくても、とにかくメモを取るようにと言われましたね」

 

メ、メモか~

とりあえず手帳の週間カレンダーに短い日記を書いてみようかな。

その日あったことや、気持ちや……。

 

 

ヒヨコヨ太メモヒヨコ

 

猫犬日 晴れ晴れ

お正月。大晦日から起きていたが眠くない。年賀状が思っていたよりもたくさん届く。まひる野の人からも来ていて焦る。同級生の雛吉からも来ていた。内容は普通だったが自分を「俺」と書いてあることにけっこうなショック。初詣。おみくじ「吉」。

 

猫チューリップ日 くもりくもり

まひる野ブログ今年最初の集まり。Y川さんがインフルエンザで39度の熱があったが「鳥にはうつらないから」と言いながら来た。ヨウムさんが「鳥インフルは恐ろしい」と言って黙った。書き初めをした。←「挑戦」。今年の目標は、大きめの連作を作ること。

 

猫パンダ日 ゆき雪

まひる野の人たちとヨウムさんのタップダンス発表会に行く。音がするのは靴に加工がしてあるからと知って驚く。ダンスの先生がヒトだけど頭がレインボー色だった。後ろの席の人が「しもだかげき……」(漢字不明)と言っていた。あとで調べると作家の名前だった。

 

猫コアラ日 晴れ晴れ

①網で焼く②フライパンで焼く③お雑煮にいれる、を繰り返していたらお餅がなくなる。晴れていたので買い物に行き偶然チュン美さんに会う。お餅は小さく切って油で揚げるのもおすすめらしい。③は好きではないらしい。「のり」を思い出すそうだ。海苔?ノリ?

 

 

「短い文でもけっこう色んなことを思いだすなあ……」

 

 

 

 

 

 

「Y川さんは歌を作らない時期はありましたか」

 

入会の時に、自己嫌悪に陥るような歌しか作れなくても欠詠はしないように、とお話がありました。 

でも結局、就職してから2年くらいほぼ歌を出せない(作れない)時期があって、投稿を再開してからもリズムを取り戻すのにまた2年ほどかかりました。

 

メモについてですが

学生の時にE-mailアドレスを取得して、夏休みは短歌創作コースの友人に毎日今日あったこととそれを短歌にしたものを送っていました。夏休み明けに40首提出しなければいけなかったので、自分にノルマを課して。

 

 

 

 

無理やり定型にしたのもあってよい歌というわけではないですが、あとから読み返すとその時何があったかどういう気持ちで作ったかがわかるので自分としては推敲しやすかったです。その後まひる野に入会してからは自分でも全く意味のわからない歌を作ったり謎の文語を使ってみたり迷走もありましたが、今思えばあれが原点なのかも……。

 

上記と矛盾するかもしれませんが私は歌を始めて数年間は、短歌にしようとした気持ちを先に文章で記すともう短歌にできなくなってしまいました。無理やりでも定型に落としこんでおけば後で直すことができました。

今はメモの状態からでもできます。というかメモしなかったことは思い出せないです。

 

吟行など、出来事があってから歌を作るまでの時間が短いときは写真を見ながら作ったり、面白い単語だけメモしたりします。(Y川の経験です)

 

長い連作を作る時は一日二首や三首作って、ある程度まとまった数になったら段々テーマが見えてくる(ような気がする)のでそれを念頭に置きながらまた歌を作ってはめ込んでいったり……。

 

作り方は人によっても場合によっても違うので、一概にこれとは言えないのね。

 

「答えの出ないことだからね。もし誰かと比べるのならよその人よりも過去の自分と比較するのがいいね」

 

 

私は、最初は「短歌っぽく」しようと、いったん作ったものに手を加えて提出していました。(今思うと何をもってして短歌っぽいととらえていたのか定義が謎)

 

 

でも歌会では手を加えた歌の評判が悪くて。

また、結社誌でも「加工」ができなかった歌の方が良いみたいだったので、もしかしたら自分の「短歌っぽい」という判断は信用できないかもしれないと思い始めて、変に手を加えるのはやめました。

 

 

 

何が言いたいかというと、自分の歌でもどれがいい歌なのかとかは最初の頃はあまりわからないと思うので結社誌など人に見てもらえる機会があるのなら出した方がいいです。全然よくないのしかできなかったと思っても誰がどう思うかわからないし出さなければ形に残らないので。

もちろん全員の方にあてはまるとは限りませんが……ピヨ太くんは出してください!

 

ゴクリ……

 

ピヨ太くんも短い日記に一首つけてみたらどうかな?毎日作ればまひる野賞の締切にも間に合うよ。(まひる野賞は50首)

 

ドキン

 

一日50首つくれば一ヶ月で1500首だね。365日つくると……1万8千250首だ!!

アハハハハ

 

ウフフフフ

 

ハッハッハ

 

ウワァァァァァァ~~~!!!

 

 

 

 

まあそれは半分冗談だけど

 

(半分……)「はい」

 

覚えておいてほしいのは、筋肉は使わなければ衰えるということ。そして私たちはあなたの歌が掲載されるのを楽しみにしているということ。だから、歌を作りたいという気持ちがあるのなら、できる限り出してほしい。

 

それに、「黄色いくじゃく」の歌、よかったわよ★

 

※はばたきの羽の音せり大空を飛ぶときおれは黄色いくじゃく  ピヨ太がつくった歌。

https://ameblo.jp/mahirunokai2010/entry-12389926439.html

 

 

山川藍

名古屋市出身 2001年まひる野入会

歌集『いらっしゃい』(2018年/KADOKAWA)

 

 

 

鉛筆

 

 

 

次週予告

2/22 (金) 12:00更新  麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑩

 

お楽しみに!

 

 

 

まひる野歌人ノート⑦ 今井百合子


 

今井百合子は札幌のケアハウスで暮らす歌人。

現在は闘病しながら毎月まひる野に歌を寄せる日々を送っている。

 

晩秋の東の空は明るめりリハビリしてゐる廊下の窓に

リハビリに今日も励みて寛ぎぬ窓には葉月の雨降る午後を

リハビリに励みつつ日を重ねきぬ悔い残さじと思ふ心

 

聞き流すことも大事か五十人共に暮らせば様々ありて

それぞれに痛いところを言い合ひてケアハウスでの日常会話

病もつ我の若さを羨しといふ健やかなれる年上の人

音を消し救急車が今来てゐると夕餉の帰りに入居者より聞く

 

まず目につくのは「リハビリ」という言葉の多さだ。今井の日常である。

 

1首目、廊下で歩行訓練をしているのだろう。

日に日に日照時間の短くなる季節、ひたむきにリハビリに取り組んでいると、ふいに東向きの明るい窓辺に心が引き寄せられる。ほんのりと前を向く気持ちを感じられる歌だ。

2首目、夏の雨。日課のリハビリを終えた午後を雨が降っている。

雨と聞くと少し憂鬱なイメージがあるが、この歌の雨はやわらかい。短い札幌の夏を彩る緑をやさしく濡らし、緊張していた気持ちが開放される様子が感じられる。

 

今井は日々リハビリに励み、その様子を多くの歌にしている。それらを読んでいると、だんだんと真面目な人柄が浮かび上がってくる。

 

3首目、悔いを残したくないという。リハビリの目的は身体機能の回復である。

しかし今井にとってはそれだけではなく、結果とは別に日々のリハビリに悔いを残したくないという気持ちがあるようだ。「心」という体言止めに、その気持ちの強さが伺える。

また、先述2首目の「寛ぎ」も、真剣にリハビリに取り組んだ緊張があってこそだろう。

気持ちで負けたくないのである。

 

4、5、6首目は、ケアハウス内での人間関係を詠んだ歌。

4首目、ケアハウスには50人の入居者が暮らしているらしい。50人とは結構多い。

高校のクラスなどで35人前後だから、ちょっとうんざりしてしまう人数かもしれない…きっと「様々ありて」だろう。

「聞き流すことも大事か」というのは、もしかしたら何か人間関係で失敗してひとり内省している瞬間なのかもしれない。そうそう、聞き流した方が良い時もあるよね、と、心の中で今井に相槌をうつ。

5首目、聞き流すことにしているのは、どうやら他の入居者たちも同じようだ。

共通の話題をそれぞれ言い合うだけ、会話をしているようでしていない…。

そのことに自分だけが気づいているようなところが面白い。共通の話題が「痛いところ」なのがケアハウス独特だ。

6首目、心に棘の刺さるような瞬間である。相手に悪意はないのかもしれないが、

きっと今井はムッとしたし、傷ついただろう。それでも相手は「健やかなれる年上の人」と表現され、過剰な悪意は感じられない。憎しみに飲み込まれずに自分の心を取り上げる、その賢しさを好ましく思う。

 

 

今井は普段外出することなく、一日をケアハウスの中で過ごしているようだ。

たまの外出も受診の時と限られているらしい。建物に閉じこもる閉塞感、膠着する時間の流れから囚われぬよう、今井の意識は外へ向き、そこに現れる季節の移り変わりを短歌にしていく。

 

ひと冬を受診の他は外出(そとで)せず真つ先に咲くムスカリの花

車椅子漕ぎて軒端に暫し出でエゾハルゼミの声近く聞く

様々な思ひが今日もよぎりゆき窓に見てゐるひすがらの雪

台風の近づく秋の午後の庭マリーゴールドの色冴えて咲く

秋めける真夜中を雷(らい)遠く鳴る台風逸れて過ぎゆく気配

 

1首目、ようやく迎えた春を喜ぶ歌。

「真つ先に咲く」に、嬉しい気持ちが花めがけて駆けて行くような喜びを感じる。

春に咲くムスカリとようやく暖かな外に出られた自身を重ねているのだろう。ムスカリと今井が待ちわびた季節だ。

2首目、外へ出るとエゾハルゼミの声がよく聞こえる。部屋にいたときよりも大きく聞こえるのは、

外に出たことでセミとの距離が近くなったから。いつもの部屋で遠く聞くセミの音と大きさが違うということが、今井にとっては大事なことなのだ。

1首目2首目ともに「受診」や「車椅子漕ぎて」と自身の境遇が分かる説明が入れられていることで、

今井にとって季節の息吹がどのぐらい意味のあることなのかが分かる。

4首目、これは少し不穏な歌。台風が近づく午後、庭のマリーゴールドの色が妙に冴えて感じられる。

台風が来たらマリーゴールドは折れてしまうかもしれない。そのときを待って、不安と期待がないまぜになった爛々とした気持ち。怖くて好きな歌だ。

 

 

これまでに紹介した歌にもいくつかあるが、「窓」という言葉が頻出する。

外出することがあまりない今井にとって、外の世界とつながる窓は特別なものなのだろう。

 

取り止めもなくもの思ふ昼下がり窓に湧き立つごとき夏雲

窓の辺の片割の月仰ぎつつ介護を受けて暮るる秋の日

ひとりでは外出(そとで)のできぬ身となりて今日の窓辺にこの五月晴

窓多きわが住まひなり窓毎の匂ふばかりに滴る緑

 

どの歌も、窓の外に意識を向けている歌である。が、そこには窓の内側にいることを余儀なくされた今井の姿が浮かび上がる。

長い時間を室内で過ごし、取り止めのないことをひとり考える停滞した夏の午後、片割の月の浮かぶ秋の夜…。

2首目、「介護を受けて」という直接的な言い方に、読者は容赦のない現実感を味わう。

3首目、窓辺にわざわざ「今日の」とあることで、もうひとりでは外に出ることが出来ない今日の自身が浮かび上がる。もしこれが昔の自分だったら?今日の五月晴れはどんなものだっただろう?


 

今回まひる野に掲載された過去2年分の歌をさらったが、今井の歌を読みながら、「情緒」とはなんだろうと何度も考えた。

ありふれたわたしのありふれた生活から生まれる、ありふれた情緒。

それが、同時にかけがえのない唯一のものだという矛盾。


 

先述の「窓」と同様に、「日が差す」という表現もよく使われる。それが短歌的に良いのか悪いのかは論じない。だって今井の生活には本当にいつも日が差していて、そこに心が動くのだから。

 

白樺の木肌ひときは輝けり木立に今し朝の日差して

公園に咲ききはまれる連翹に日輪今し頭上より照る

頂きし置物のパンダ健気なり光の射せば身を振り止まず

 

 

「わたし」とはどこにあるのだろう。何をもって「わたし」なのだろう。

麻痺と病のある肉体と、その中に確かにある精神、その両方なのだろうか?

これまでの人生、今の暮らし、これから確実に自分の身に起こること…地続きの日々の中で薄まっていく感受性を繋ぎとめるように、心の動いた瞬間を掬いだす。それがきっと「わたし」だ。

 

花見れば花を詠みたし月見れば月を詠みたし恙ある身に

思ふことありて沁々聞くショパン秋の朝日は淡く差しつつ

満開の白木蓮は風に揺れケアハウスは夕暮れてゆく

 

 

 

佐巻理奈子(さまきりなこ) マチエール所属

近作は『歌壇2月号』 「水底の背」30首 (第三十回歌壇賞候補作)

 

 

 

パンダ

 

 

次週予告

2/15 (金) 12:00更新 山川藍のまえあし!絵日記帖⑨

 

お楽しみに!

 

 

 

 

 

田口綾子さんが第19回現代短歌新人賞を受賞

 

昨年に歌集『かざぐるま』を上梓した田口綾子さんが、第19回現代短歌新人賞を受賞しました。

田口さん、おめでとうございます!

表彰式等の詳細につきましては、こちらをご覧ください。

 

また、『かざぐるま』の歌集批評会が開催されることになりました。

 

『かざぐるま』歌集批評会

6月30日(日) 東京都内で開催予定

詳細につきましてはまた後日お知らせします。

 

 

 

 

 

歌壇賞候補作に佐巻理奈子さん「水底の背」

 

第三十回歌壇賞の候補作品に、マチエール欄所属・佐巻理奈子さんの「水底の背」が選ばれました。現在発売中の「歌壇」2月号に作品三十首が掲載されています。

また、マチエールの塚田千束さんが予選を通過しています。

 

「歌壇」2月号には、橋本喜典さんの巻頭作品や、島田修三さんのインタビューなども載っています。

ぜひお読みください!

 

 

 

 

 

 

節分

 

 

 

まひる野ブログ2月の更新予定

 

2/8 (金) まひる野歌人ノート(担当:佐巻理奈子)

  15 (金) 山川藍のまえあし!絵日記帖⑧

  22 (金) 麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑩

 

今月もよろしくお願いします♪

 

 

 

麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑨ こわいよう(その2)

 

 

前回、大分ことばはこわいと書いてしまったので、これを見た大分県ゆかりの人に「なんな!」と叱られないかとちいさくなっていましたが、まだお叱りの声は届いていません。(´▽`)

先日、「ブログ読みました。」という大分市の人に会ったので、すみません!と手を合わせたら、

「いいえ、その通りですから。」と、たいへん優しいお答えをいただきました。

さて、叱られないのをよいことに、もうすこし方言についてお話します。

大分県というのは、地図を見ていただければわかりますが、南東の、四国と向き合っているあたりの面積がどーんと広く、海岸線は四国側と同じくぎざぎざになっています。

古来、漁業に従事する人が多かったので、海部郡(あまべぐん)と呼ばれていました。

(大合併でほとんどが佐伯市に編入され、郡は消滅してしまいましたが。)

このあたりのことばは大分市のあたりに比べてさらに荒々しいと言われています。

 

あるとき、この県南の佐伯市から転校生が西部の中学校に転校してきました。

白皙(はくせき)」という形容がぴったりの大人びた風貌を持ち、休み時間には、もうそんなもの誰も読まなくなった古い装丁の世界文学全集を静かに開いているようなブンガク少年でした。

彼は数学の連絡係になりました。

帰りのショートホームルームでのことです。

司会の子が「では、数学係から連絡をお願いします。」というと、彼はおもむろに立ち上がり、

少しざわついている教室をぐるっと見渡して、こう言い放ちました。

「いいか、おまえら!よう聞いちょけ!」

みんなはびっくりして顔を上げました。

「明日ん数学はのう、いつもどおりじゃ!わかったか!」

衝撃のあまり、教室はしばらくしーんとしていましたね。

 

わたしの職場の同僚に、やはり海辺のぎざぎざしたところからやってきた人がいました。

その口癖は「(おり)ゃあ、漁師ん生まれじゃ。気が(あれ)えんじゃ!」でしたが、きわめて心優しい人で、

「荒えんじゃ!」と力のない声で主張するたびに、周囲からくすくす笑いが起こっていたものです。

 

学者で芥川賞作家の小野正嗣さんが育ったのも宮崎県境に近い、このぎざぎざした辺りの浦(入り江)です。

小野さんが受賞した時、TVの大分局が小野さんの里帰りに同行して取材することがありました。

驚きました。小野さんがお母さんに向かって、うれしそうに「おまえ」と呼びかけているではありませんか。

いくらことばが荒いと言っても、テレビカメラの前で親をおまえだなんて・・・?

落ち着いて考えると、この辺には魚のことをまだ「いを」という人もいるので、もしかすると目上の人に使う本来の意味での「御前」なのかもしれません。

敬語だったら、小野さん、ごめんなさい。<(_ _)>

 

南郡(なんぐん)(南海部郡の略)は、ことばは荒えけど、純朴な()(おい)いばい。」というのがわたしたち西部人の一般的な評価です。

(ちなみに「~ばい」という終助詞は西部地方へ筑肥方言が滲んできたもので、大分のほかの地域では使われません。一昔前のサスペンスドラマには、別府が舞台なのに役者のせりふに「~ばい」だけでなく「~たい」や「ばってん」などを平気で使っているものが多くてひどかったです。)

この評価ですが、よく考えると、私たち西部人はあまり純朴じゃないと自覚しているみたいですね。

 

さて、もうずいぶん前ですが、マレーシアへの団体旅行に参加したことがあります。

一行には「南海部」の人もいました。

定番の観光スポットを巡る中で、わたしたちは蛇使いのショーに案内されました。

コンクリートの床に差し渡し4~5メートル、深さは3メートルほどの穴があり。周りは高さ1メートルほどの井筒のようなもので囲まれていました。

巨大な炊飯釜を床に埋め込んだような感じです。

中には、わっ、たいへん、コブラをはじめさまざな種類の、素人目にも毒蛇だと分かるものたちがうねっているではありませんか。

蛇使いが現れました。インド系に見える小柄な中年男性で、やせた身体に開襟シャツとハーフパンツをまとって、裸足です。

梯子が降ろされ、蛇使いは捕獲棒のようなものを手に蛇だらけの穴の中に入っていきました。

ショーは、こわくてよくおぼえていないのですが、蛇に芸をさせるというよりも、からかったりつついたりして、反撃してくるのを巧みにかわしたりなだめたりするようなものだったと思います。

どう考えても、この人が無事に梯子を上ってくることはありえないだろうという状況を作って、その中から生還させるというのが、このショーのウリだったのでしょうね。

そのときわたしの頭の中に浮かんできたのは、子どもの頃に読んだインドの詩「へびつかい」の、

こんな一節でした。

 

  みせもの はなれて 見るんだよ、

  おかねも すこしは あげなさい。

  じいさん 家族がおおいんだ、

  だから へびなど つかまえる。

             『世界童話文学全集18 世界童謡集』(講談社 1961年)

 

命がいくつあっても足りませんから、毒の牙を抜いておくとか、忌避剤を身体に塗っておくとか、

何らかの仕掛けがあったとは思うのですが。

 

梯子が降ろされて蛇使いが戻ってきました。観客はほっとして拍手しました。

そのときのことです。

南海部郡からやってきた男性が小柄な蛇使いに歩み寄り、その肩に手を置いたのです。そして、しみじみと言いました。

「あんた、たいへんな仕事をしよるなあ。」

蛇使いはとまどったようにほほえんでいます。男性は重ねてしみじみと言いました。

「気をつけなさいよ。」

何となく分かったのでしょう。蛇使いは白い歯を見せて笑いました。

 

同じ思いは、そこで観ていた人々みんなの胸にあったと思います。

でも、誰も行動に移せなかった・・・。

南海部の純なる魂よ!

 

大分県南部の海岸には言葉は荒いが心の美しい人が集中して住んでいる、・・・なんてことはないですね。

ただ、そこには、純なる想いを吐露しやすい風土があるように思います。

 

 

   地球儀に春のつめたき指のせてインド半島の尖りうつくし

                              江戸雪『駒鳥』

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

 

ヘビ

 

 

次週予告

2/1(金) 12:00更新 まひる野インフォメーション

 

お楽しみに!

 

 

 

 

 

こんにちは、マチエール欄所属の広澤治子です。

今回は同じマチエール欄の浅井美也子さんです。

 

愛知県出身の作者は、2014年にまひる野に入会し、2017年に第62回まひる野賞を受賞しました。

その受賞作である「しまいゆく夏」の中から12首を紹介していきます。

 

 

足たかく掲げ寝がえりする吾児のえがく半円きょうから夏だ

寄せ返すことばの波のみなぎわにママと呼ばれる日を待っている

 

冒頭の二首にはこれから成長していく子供への希望や期待が光のように明るく詠まれている。
まだ「ママ」と言えない子供との対話も大切なひと時なのであろうことが感じられ、ふいに幸せに包まれる安心感を抱いてしまった。

 

昼餉には温きにゅうめん子育ては沼のようだな細葱きざむ

楽しいといわねばならぬ幼な児と公園に砂の山つくりゆき

 

ここから突然夢から覚まされたかのようで、あれっとなる。現実はきらきらも安心もない。
子供が赤子から幼児へと成長するということは一人の発展途上の人間と向き合わなければならないというもので、うれしいことだけでは決してないのである。
先の見えない不安は沼のようであり、不安を膨張させないためにも楽しいと言わなくてはやってられない心の足掻きのように思える描写が、また不安になる。それだけ子育ては大変なことだということが、子供を産んだことのない筆者にさえ伝わってくる。

 

柔らかきところ磨り減るわが体にああこんなにも低き声でる

読まぬまま積み上げてゆく新聞のふとも崩れて終わる一日は

 

身体感覚として心が磨り減っていく様を描いているのには共感が持てた。こんな状態になりながらも冷静に今までの自分にはなかった声を発見しているところには、心の鋭さを感じる。

 

唇をきつくむすんで一日を過ごせば下がる怒りの沸点

沈黙はきみの結界やぶる術をもたねば強く米を研ぐのみ

 

自身の怒りを抑えて我慢しなければ家族の何かが崩れてしまうような、微妙な心情が見受けられる。

耐え忍ぶは古いと思うだろうが、まだまだ家族とはそこまで単純でもないし、簡単でもない。

 

私が、あなたの母であることに大きく赤く×(ばってん)をうつ

染みだして滴りおちて知らぬ間に溜まりゆく澱 母にならねば

大丈夫と問いあいながら過ごしいるまだ安定期に入らぬ家族

 

自己評価をするとダメな母であるとしてしまう気持ちを強く描いている一首なのだが、それでも母にならなければいけない葛藤が苦しい。母になるとはどういうことなのだろうか。

一連は子供を育てる過程のひと場面にすぎないのだが、子育てだけではない日常の葛藤もせつにリアルに描いている。

「子育て」に関しては、今まで数多く詠われてきた題材でありながらも浅井の表現力は胸を打つものがあり、30首すべて通して読んでほしいくらい薦めたい作品です。

今回は受賞作のみ抜粋で紹介しましたが、毎月のまひる野に載っている作品も機会があったら、(まひる野ブログではないかもしれませんが)紹介したいと思います。

 

最後に「しまいゆく夏」から私が好きな一首を

 

デコイチも新幹線も走らせて児のつくりゆく線路の無限

 

 

 

広澤治子(ひろさわはるこ) マチエール所属

近作は「ヘペレの会」発行の冊子『ヘペレの会活動報告書Vol.1』「ゆらぎ」15首。

 

 

 

餅

 

 

次週予告

1/18 (金) 12:00更新 山川藍のまえあし!絵日記帖⑧

 

今年もまひる野ブログをよろしくお願いします!

 

 

 

歌集「いらっしゃい」CM動画はこちら

 

 

 

 

 

一人、愛知県出身の方がいます。

ヘペレの会活動報告書/ヘペレごはん帖 のご注文はこちら

まひる野全国大会2018 潜入レポート!

|https://ameblo.jp/mahirunokai2010/entry-12407880136.html

 

 

 

『ティーバッグの雨』を語る会 についてはこちら|https://ameblo.jp/mahirunokai2010/entry-12420709007.html


 

試験は落ちました・・・

 

 

まひる野ブログの年内の更新はこれが最後です。

来年もよろしくお願いいたします🙇

 

山川藍

名古屋市出身 2001年まひる野入会

歌集『いらっしゃい』(2018年/KADOKAWA)

 

足あと「いらっしゃい新聞」1~3号はPDFで公開中足あと

足あとリンクはこちら足あと

いらっしゃい新聞1~3号

 

次回予告

1/11(金)12:00更新

まひる野歌人ノート

担当はへペレの会 広澤治子さんです。
 

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