麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑧ こわいよう (その1)

 

 

 夜明げには / まだ間あるのに / 下の橋 /ちゃんがちゃがうまこ見さ出はた人 

 

ほんのぴゃこ / 夜明げががった雲のいろ /ちゃんがちゃがうまこ / 橋渡て来る

 

(以下略)

 

 

宮沢賢治がおくにことばで書いた「ちゃんがちゃがうまこ」の詩はなんと美しいのでしょう。

そこで、大分のことばで書かれた美しい詩はないのかと思い起こしてみますが、寡聞にして知りません。

・・・寡聞にして?

いや、そもそも大分のことばで詩なんか書けないのではないかという悲しい疑念が頭をもたげます。

今回は、「ほとぶ」などの語彙だけでなく、係り結びや動詞の二段活用など、古語の面影を色濃くとどめているにもかかわらず、きわめてみやびならざる豊後ことばのお話です。

 

わたしは大分県西部の山岳地帯の出身ですが、東部の海に面した大分市の高校に通っていました。

東部と西部では、語彙に大きな違いはないのですが、その、何と言いますか、語勢や終助詞がかなり違っています。

ある日の放課後のことです。

同じ部活の少女たちが私のいる教室をのぞきこんて声をかけました。

太字のところは強く、叩きつけるように発声します。

「あそうさん、あんた、今日、部活出るんかい!

「え・・・、うん、出る・・・けど。」

出ちゃいけないのかな・・・。

「あたしたちなあ!今日、映画見に行くんで!あんた、行かんのかい!

「ああぁぁぁ、行きます。行きます!(;’∀’)」

・・・こわいよう。

これは彼女らがわたしを威嚇してむりやり映画館に連れていこうとしているのではありません。

共通語に直せば、このようになります。

「あそうさん、あなた、今日部活に出るの?」

「私たち、今日、映画を見に行くのよ。あなたは行かないの?」

穏やかに親切に誘ってくれているのです。でも、こわいんです。

ちなみに「映画」はライアン&テイタム・オニール父子主演の「ペーパー・ムーン」でした。

 

時は流れ、大分市には立派な能楽堂が建ちました。そこでは能狂言だけでなくいろんな伝統芸能が演じられ、茶会が開かれたりもします。

その休憩時間には友禅や紬の着物をいとも優雅に着こなした女性たちの方からこんな会話が聞こえてきます。

あんなあ!今度、大分に萬斎さんが来るんで!

ほうかい!狂言の衣装も洒落ちょるけど、やっぱ、能衣装がいちばん美しいわなあ!

ううう・・・。

 

大分(東部)ことばには、話し手の感情や意図とはほぼ無関係に、聞き手を圧倒する衝撃波のような力があります。

どっちも東部人同士の場合にはおおむね大丈夫なのですが、はたから聞いているとけんかをしているように聞こえることがあります。

わたしのような西部の内陸出身者が聞き手の場合、東部ことばの衝撃がボディーブローのように効いてきてへろへろと委縮してしまうか、逆に「なにおう!無礼者!」と椅子を蹴って立ち上がりたくなるか、どちらかになります。

父母も祖父母も西部の山中から大分市の学校に入って、東部ことばのインパクトにぐったりした体験を語っていましたので、わたしだけの思い込みではないと思います。

一方、東部の人に言わせると西部のことばはぬるくて間抜けな感じがするらしいんですが。

 

この十年を振り返ると、いくつもの病院に入院して何人ものお医者さんや看護師さんのお世話になりました。

なんとかこの世に戻って来られたのはこの人たちのおかげだなあとしみじみ思います。

思い出してくすっと笑ってしまうのは、頼もしい古参の看護師さんの中に大分東部方言のしっかりした継承者がいらっしゃったことです。

「あの~、すみません。点滴、痛いんですけど。」

なあにぃ?!痛てえぇ~?!」

と、看護師さんは留置針のあたりを確認します。

「ああ、これなあ!こん、刺したとこがぷうーっち膨れちょらんき、大丈夫じゃわあ!

・・・「わあ!」と言われても・・・。

 

大分市の隣、別府市に「名医」と評判のお医者さんがいました。

どれくらい名医かというと、さるやんごとない方面の方がお忍びで治療においでになったことがあるとかなかったとか・・・。

真偽はともかく、その病院は「あそこで診てもらえば治るかも。」という切なる願いの患者さんが県外からもたくさんやってくるところです。

うちの妹がそこに入院していたときのことです。

隣のベッドの、鹿児島からやってきた患者さんが、さめざめと泣いています。

「どうなさいました?」

「わたし、・・・わたし、あの・・・看護師さんのことばが、こわくて、こわくて・・・。」

大分県西部出身の妹はどういう事態なのかすぐに察知しました。

「ああ、そうですねえ。(-_-;) わかります。でも、あれが普通のことばなんで、別に悪気はないんですよ」

「そんなこと、分かっています!悪気なんかあったらたまりませんよ!でも、こんな、体の弱っているときに、あんな、・・・あんな強烈なことばを浴びせられたら、もう、もう・・・。」

と、その人は布団のうえに泣き伏してしまったそうです。

戦国時代も西南戦争でも大分はやられっぱなしだったので、わたしには、鹿児島の人はむちゃくちゃ強いんだろうという偏見があります。

「ちぇすとぉ!」とか、猿叫一声の示現流とか・・・こわいじゃないですか。

そんな強い人がいっぱいいるところから来た人を、豊後ことばなんぞが泣かせちゃうの?

大分東部方言が医療現場に最適な言語ではないことは確かなようです。

 

とがめたり、けなしたり、叱りつけたりするとき、大分ことばは生き生きと躍動します。

危ない運転をされてひやっとした時、わたしも東部ことばでののしっています。

なんな!なんな!あんた何キロ出しよん!そきぃ、80ち書いちゃるじゃろうが!

「あぶね、あぶねっちゃ!左から抜いたらわりいんで!

こういう場合、共通語や西部ことばではだめです。

 

私の大好きなTVの広告にこんなのがありました。

車の運転中、とわかる簡単なセットの中で、おじさんが怒っています。

あーっ!また渋滞じゃあ!なし、こげえ車が(おい)いんか!

そこへ後方から自転車に乗ったカッパが(大分の地方放送のキャラクターはなぜかカッパが多いです。)やってきて、追い抜きざまに叩きつけるように叱ります。

「あんたん車も、車んうちじゃあ!

おじさんは、はっとしてわが身を省みます。

そして次の場面ではおじさんとカッパが仲良くバスの座席に並んで座っていて、「バスを利用しましょう。」の文字が流れます。

不思議なことにわたしは、おじさんやカッパをとても愛らしいものに感じます。

また放送してくれないかな。

 

「フランス語は愛を語るのに、スペイン語は神と語るのにふさわしい。」などと言うそうですが、大分ことばは、人を非難するのにふさわしい・・・でしょうか。

このままではこのサイトを見た大分県ゆかりの人に「なんな!」と叱られてしまいそうなので、次回は、こわくてもあったかハートのお話をしたいと思います。

 

 

サンチャゴの鐘は遠き日耶蘇の鐘納戸のやうな豊後に()りぬ

                                  川野里子『王者の道』

 

 

*おわび:「ぶんぶんだより⑥」で「おだちーず」とご紹介した音楽ユニットですが、正しくは「おだつセッション」でした。訂正してお詫びいたします。ああ、フエゴ島まで偽りの情報を発信してしまった・・・。

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

 

おでん左おでん真ん中おでん右

 

 

 

次週予告

12/28(金) 12:00更新 山川藍のまえあし!絵日記帖⑦

お楽しみに!

 

 

 

まひる野のおすすめ歌人を紹介する「まひる野歌人ノート」。

担当の北山が別の任務にあたっているため、今回からまひる野の北国メンバー4人がピンチヒッターで登場します。

今回の担当は塚田千束さんです。

 

 

 

まひる野歌人ノート⑤後藤由紀恵

 

 

海を産んだような顔をして祖母は眠る 春の真昼を晩年として   後藤由紀恵

 

 

後藤由紀恵さんは愛知県出身の歌人です。

第46回まひる野賞受賞、第49回角川短歌賞次席、第一歌集『冷えゆく耳』で第6回現代短歌新人賞を受賞。

 

後藤さんの歌には後藤さんの人生がくっきりと見えます。穏やかとは言い切れないその人生の波のはざまで、ひたと前を向いて丁寧に生きている姿勢が歌からしんと伝わってくるようです。

主に歌の題材となるのは身近な家族(祖母、両親、第二歌集では夫が登場)と仕事(学生とのやりとり、派遣社員という立場)といった自身の生活が中心であり、まさにまひる野らしい歌となっています。

奇抜さではなく安定感があり、おそらく幅広い世代に愛される歌なのではないでしょうか。

 

 

【介護という現実と向き合う】  

 

終りゆく祖母の時間の先にある死はやわらかく草の匂いが

老いること赦せよという声のして真夜ざぶざぶと顔を洗えり

みずからの母を叱りし母の背が日ごと尖りてゆくまでの鬱

「家に逝く」理想に今も日本の女らするどく追い詰めらるる

笹舟のような家族よ祖母というかろき錘を垂らしつつゆく

糺したきことばかりなる冬の夜は祖母を捨てたしわれを捨てたし

 

『冷えゆく耳』の主題として「痴呆の祖母の介護」が大きなウエイトを占めてきます。

ひとつひとつが実感がこもっていて、重たいです。介護を経験したことのない私にすらボディーブローのようにじわじわと効いてきます。

老いゆく祖母を見守り、その先を意識しながらの日々の中で、時にはかっとなったり苛立ったりすることもあることでしょう。『老いること赦せよ』と言い聞かせながらもやり場のない感情のまま顔を洗うしかなく、母が祖母を怒るという場面を目撃して情けなく悲しくなるという、日本の家庭で起こっていながら明るみには出てきにくい部分が描かれています。家で最後まで看取ること、家族に介護のすべてを担わせるという日本の構造上の問題点にいままさに苦しんでいるひとがいるのです。

家族をひとつの舟、それも簡単に流されていってしまうか弱い笹舟とたとえ、祖母の存在がその舟のひとつの錘として流れを遮り進行方向をゆるやかに制御している。

自分の家庭を見つめながら、その先にある日本社会までを見据えているようで、背中が冷えるようです。

 

 

【恋人・夫への目線】

 

でもきっと同じではない肩を寄せきれいと言いあう月のかたちも

ふれがたき場所をそれぞれ持ちながらひとつの虹を並び見ている

ゆびさきのかすかに触れて夫という君の輪郭いくたびも知る

コンタクトはずして君がてのひらに探しはじめるわれの薄闇

向き合いて眠りのかたち整えるふたり小さな箱舟のまま

君のなかに雨ふりやまぬ場所がありわたしの傘は小さすぎるよ 

夫という輪郭を持つとうめいな壁とわれとに冬の陽の射す

ひき割りの納豆買えば不機嫌になる夫の居てそんなに怒るな 

 

あまやかな相聞に見えて、一首目『でもきっと同じではない』と考えてしまう冷静さ、『ふれがたき場所』を『それぞれ』に持っているという自覚と自負が、甘いだけにならない理由なのかもしれません。

自己がしっかりしている、相手の自己も尊重する、当たり前のことですけれど、とても大切なことです。

『ねむい春』では作者は結婚し、夫と暮らし始めます。

三首目の「君の輪郭」、四首目の「われの薄闇」を互いに探り合い、確かめ合うようなどこか繊細な緊張感すら漂う新婚生活の中で、五首目の「小さな箱舟」で穏やかに眠り合う二人という、運命共同体としての心づもりを感じます。

そんななかで、六首目、七首目のように夫であっても触れられない、助けられない部分があると知るのは小さな痛みなのでしょうか。

けれども、八首目「そんなに怒るな」の結句から感じられる微笑ましさもあって、ほっこりします。

 

 

【悲しみの表現】 

 

悲しみに期限あること知りながらひとしきり泣く春の夕べを

悲しみに文様のありこの夜は牡丹唐草文様のかなしみ

髪ばかり短くなりてゆく夏の君のかなしみに触れざるわれは

感情にくるしめられて隣室にひっそりとある貝の沈黙

ベッド下よりぬっと出てくるかなしみの脚の間にうずくまりおり

 

自分の悲しみ、君の悲しみ、生きていれば様々な悲しみに対面することになるでしょう。

期限があると『知りながら』も涙を流さずにはいられないこともあれば、どこか冷静に悲しみに模様をあてはめていることも、あるいは君の悲しみに触れられないことを「悲しむ」(おそらく)私もいる。四首目では隣室で沈黙することしかできない人への悲しい、思いやりの視線があります。

五首目の、ベッドの足元から不意に現れるという『かなしみ』という、突然湧いて出るような感情の表現にはっとさせられました。

 

 

【「女性」という性に対して】

 

子を産み育て働き痴れてゆく女とは淋しき脚に立つもの

産まざりし身体を通す襟ほそきストライプのシャツ風をはらみて

眠りこむ前のおさなき顔のまま子が欲しいかと問う夫の声

一組の女男でしかなきわれらなり性愛に遠き声を交わして

誰の子も産まないわれを眠らせて関東バスの春の道ゆく

産み産みて生まれ生まれて流れゆく川のほとりに立ちつくすのみ

 

女性というのは結婚するにせよしないにせよ子供がいるにせよいないにせよ、社会から常にプレッシャーを与え続けられています。

祖母の老いゆくさまをみて自分だけでなく女性全ての行く末を重い、『淋しき』と感じてしまう。あるいは夫との会話で、あるいは知人の出産祝いのお見舞いのあとで。

『誰の子も産まない』とはっきり思ってしまうから、『立ちつくす』しかなく、ただそこに妬みだったり怒りといった負の感情は(たとえ抱いたとしても)あえて載せず、ただ淡々と眺めているような視点に感じられました。

 

身近なことをうたっているはずなのにそれだけに収まらず、そのさきに広がりを感じるのは描写が丁寧だからなのでしょうか。

題材が重くとも歌いぶりは重く深刻になりきらず、歌が先走らず、読む方にも伝わりやすいよう心を砕きながら詠んでいるのが伝わってきて、心地よく作品を楽しむことができます。冒頭にも書きましたが、作者の年下の世代でも年上の世代でも感じるところのある、とくに女性であれば共感しやすく理解しやすい歌たちだと思います。それだけにとどまらず、この国で女性として生きていくとき、時に息苦しく感じ、閉塞感に息が詰まりそうに

なったとき、こんなふうに自分のまわりを歌った女性の存在を思い出すことがひとつの助けになるのかもしれないと感じました。

 

 

ひゃくねんの後には砂となり果てむ君の手なれば今すぐに欲し

 

 

 

*本文中の歌は『冷えゆく耳』『ねむい春』より引用しました。

 

 

 

 

 

 

塚田千束(つかだ・ちづか) 「作品Ⅲ」欄所属

近作は「ヘペレの会」発行の冊子『ヘペレの会活動報告書Vol.1』「夏の匂い」15首。

 

 

 

鍋

 

次週予告

 

12/21(金) 12:00  麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑧

※都合により「山川藍のまえあし!絵日記帖」は12/28の掲載となります。

 

お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

 

麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑦おなかがすいた

 

 

このところウオーキングにいそしんでいます。

なるべく土の細道を選んで、古い陣屋町のある谷間をぐるっと囲むように遠回りして歩きます。

それは遠いむかし、小さなわたしが近所の子どもたちと探検した野山の細道と、あちこちで重なります。

それらの道は、そのころの里人の山仕事の道であったり、けものたちのつくったかすかな道であったり

しました。

熊は九州にいないので、イノシシ除けのつもりで鈴を鳴らしていきます。

ものの芽の吹く春、笹原を行くと、枝先の葉の中心から針のように細長く丸まった新しい葉っぱが伸びています。

その柔らかい緑のそばを通るたびに思います。

「たべられる。」

道の傍らには松の木もあって、これも新しい明るい緑の葉をつんつんと伸ばしています。

「たべられる。」

古い町並みに入ると「武家屋敷」の名残の杉垣から噴き出した無数の若芽がゆれています。

「たべられる。」

 

ものの芽だけでなく、いろんなものを小さなわたしたちは食べました。

畔に生えるシシントウ(スイバ)の葉、堤の上の()(ばな)

誰もお腹をこわさなかったのは、年長の子どもたちから食べてもいいものを教わっていたからではないかと思います。

野生の果物はけっこうごちそうの部類に入りました。

初夏の木いちご、草いちご、ゆすら梅、茱萸(ぐみ)、秋のあけび、山ぶどう、生の栗。

茱萸や山ぶどうは酸っぱすぎたし、生の栗は口の中がえぐくなってそんなにたくさんは食べられませんでしたけど。

柿は栽培作物でしたので、よその地所の柿を無断で食べていると,決まって藪がガサガサと揺れて持ち主のおじさんが「誰かあ!」と怒鳴りながら現れて、子どもたちは一斉に走って逃げたものです。

「誰か」は見ればわかったはずですが、あとで子どもの家に苦情がきたことはなかったですね。

 

子どもの頃はいつも「おなかがすいた。」と思っていました。

団塊の世代の後から生まれましたから、もちろん父母や祖父母の世代が体験したような本物の飢えというものは知りません。

時代は既に「高度成長期」に入っていましたが、いちばん近い海から40㎞、生の魚をまだ「無塩(ぶえん)」と呼んでいる山里でしたので、都市部とはずいぶん食事の中身が違っていたかもしれません。

そのうえ諸般の事情でうちにはあまりお金がなかったし、世帯主の祖父が貧乏性で粗食を奨励していたので、日々の食事はきちんと食べられたけれど、おかずはつましいものでした。

それでもときどき魚がありました。新鮮ではなかったけれど肉もありました。ほとんどクジラでしたが。

飢えてはいませんでしたが、おなかはすいていました。

何か、そう、葉っぱでも生栗でもいいから、身体を維持する三度の食事以外のものが無性に食べたかったのです。

 

粉末ジュースというものがお店に売られていました。

ずいぶん不健康な飲み物だったと思いますが、水に溶いたらたちまち完成というハイテクな感じと、

着色料の鮮やかな光彩が、夢や憧れのようなものを満たしてくれて、そのころの子どもたちにはごちそうでした。

でも、それも体に悪いということでめったに買ってもらえませんでした。

 

そうそう、確率は高くありませんでしたが、そういう感じのものを飲めるチャンスが小学校にありました。

回虫の虫下しです。

回虫の卵が発見された子どもは先生に呼ばれて保健室に行き、オレンジジュース味の駆除剤を飲ませてもらえるのです。

名前を呼ばれなかった子どもたちからは「いいなあ~。」という羨望のため息がもれました。

呼ばれた子の後をぞろぞろとついて行き、隙間を見つけて中を覗きこみました。

回虫持ちの子は引き戸の隙間にたくさんの眼が並んでいるのを尻目に、誇らしげにオレンジ色の虫下しを飲み干したものです。

今から考えると学校の職員にそういう医療行為を任せるというのは大いに問題だし、子どものプライバシーなんかあったものではありませんが、わたしたちは回虫のいる子がひたすらうらやましかったし、

本人もうれしそうに威張っていましたっけ。

ほどなく「高度成長」に伴う生活の変化が九州の山里にも訪れました。

畑から肥溜めが消え、野菜や食器を合成洗剤(!)で洗い、毎日お風呂に入る「清潔」な暮らしが一般化したころには、検査結果は当事者だけに伝えられ、駆除も医療機関で行われるようになっていきました。

 

「食事以外の何か」への渇望が十分に満たされる機会が年に何度かありました。

一つは遠足です。

「おやつは○○円まで」という決まりに沿って母がお菓子を買ってくれました。

工夫すると5~8種類くらいは買えたでしょうか。

この喜びを最大・最長にするため、遠足当日はお弁当の後で少しだけ食べて、残りはうちへ持って帰り、数日をかけて少しずつ消費したものです。

もう一つは都会の親戚の手土産です。

東京からは榮太樓飴や泉屋のクッキーを、関西からはユーハイムのバウムクーヘンやモロゾフのチョコレートをもらいました。

それらは恭しく仏壇の前に供えられ、母や祖父の厳重な管理のもとに少しずつ分配されるのでした。

きらきらした包装、箱を開けるとふわっと立ち上るバターの香り、クッキーに塗られた卵の照り・・・。

それらはふだん野山の果実や葉っぱをかじっている子どもには異次元のおやつでした。

ああ、なんだか三浦哲郎の小説のようになってきたぞ・・・。

 

日々の暮らしの中でいつも、とっても食べたかったのは、駄菓子屋さんのお菓子でした。

でも、うちではお小遣いがもらえなかったので買えませんでした。

「お金は不浄なもの」「子どもが関わるべきでないもの」という古めかしい意識があったのでしょう。

あるいは買い食いの癖がついてはいけないと考えたのでしょうか。

単にお金がなかったからかもしれません。

親戚からもらうお年玉やお小遣いはまず仏壇に供えられ、そのうち「ゆみちゃんへ」と書かれた熨斗袋ごとどこかへ見えなくなるのでした。

 

わたしたちの小学校は殿様の陣屋の跡に建っていて、周囲には子どもたち相手の文具屋さんや駄菓子屋さんが何軒かありました。鉄砲組の人たちが住んでいた「鉄砲町」と藩主の墓所がある「寺町」の辻にも古い駄菓子屋さんがありました。

物心ついたときからの幼なじみがそこでお菓子を買っていたので、わたしもよくそこへついていきました。

この辺の町並みは明治の大火の後に建て直されたそうですから、その店もそのころの築だったのでしょう。突き固めた土の上に平たい石を置いて、それを土台にして建てられた、床下をすうすう風の通るお店です。板張りにボール紙の箱やガラスのポットに入ったお菓子が並び、子どもたちはそこに肘をついて今日のおやつを吟味していました。

お金を持っていなかったわたしは、後ろに立って彼らが5円や10円の硬貨と引き換えにニッキ水やくじ付きのガムなどを買うのをじーっと見ていました。

ときどき、幼なじみがわたしの手のひらにラーメン菓子を5、6本のせてくれることがありました。

わたしはそれらを押し頂くようにして、ゆっくりゆっくり1本につき1分ぐらいのスピードでかじりました。

そして、もうちょっともらえないかなあというさもしい期待を胸に彼女の後にくっついてまわったものです。

働くようになってから同い年の同僚にそのことを話すと呆れられてしまいました。

「そりゃあ、情けねえ話じゃなあ。親が聞いたら泣くぞ。」

私もそう思います。気の毒な親たち・・・。

でも、あのころはごはんが入るのとは別のおなかがほんとうにすいていたのです。

 

時はずんずん流れて、高度成長期が終わり、バブル期さえも昔語りになりました。

陣屋の小学校はとうになくなり、四、五軒あった文具屋さんや駄菓子屋さんは一軒も残っていません。

たまに小学生を見かけると、あっ、子どもだ!と感動してしまいます。

鉄砲町と寺町の辻のお店は住宅に建て替えられて、間口だったところはブロック塀と門柱になりました。

幼なじみの友は西宮に移り住み、もうすっかり関西人です。

回虫のいた子もいなかった子もみんな遠くちりぢりに別れて、何人かは亡くなり、何人かは消息も分かりません。

あのラーメン菓子はリニューアルを重ね、味のバリエーションが増えています。

思い出して「チキン味」の「大人買い」をやってみたのですが、残念、別のお菓子だなあと思うくらい記憶とは違っています。

昔のラーメン菓子はぎしっと稠密(ちゅうみつ)で堅く、断面が鋭くとがって、もっと濃厚な味でした。

小さいころは、食べ物の味だけでなく、冬の水が冷たかったこと、転んで痛かったことさえ、くっきりと鮮やかだったような気がします。

 

 

今日もイノシシ除けの鈴をちりんちりんと鳴らして歩きます。

鉄砲町と寺町の辻、駄菓子屋さんの跡にさしかかると思うことがあります。

笹の芽や松の芽のみどり、香り立つ泉屋のクッキー、手のひらにのせてもらった5本のラーメン菓子。

おなかがすいたわたし、じつは幸せな子どもだったんだなあと。

 

 

 

     長々と昭和終わるか雪の道晴れて遠くに人転びけり

                                 岡部桂一郎『戸塚閑吟集』

 

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

お団子  プリン  コーヒー

 

 

 

来月の更新スケジュール

12/ 7 (金)  お休み

    14(金)  まひる野歌人ノート(担当:塚田千束)

    21(金)  麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑧

    28(金)  山川藍のまえあし!絵日記帖⑦

 

来月もお楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイク今回の記事の皆様のご意見をまとめるにあたって出席者の方々やまひる野若手スタッフ、著者の田村さんなど多数の方にご協力いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。さくらんぼ


山川藍

名古屋市出身 2001年まひる野入会

歌集『いらっしゃい』(2018年/KADOKAWA)

 

足あと「いらっしゃい新聞」1~3号はPDFで公開中足あと

足あとリンクはこちら足あと

いらっしゃい新聞1~3号

 

 

きのこ

 

 

次週予告

11/30(金)12:00更新 麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑦

 

お楽しみに!

 

 

 

 

まひる野歌人ノート④篠原律子

 

 

篠原律子は「作品Ⅰ」に所属している高知県在住の歌人。

 

十字架を胸より我は外したり九十歳が私を生きる

わが霊に農夫が一人棲みはじめ召天の日の開墾をする

壺を焼き絵を描き木を彫り歌詠むは我の命のあそびにありし

わが一生手紙に書きて門の戸に貼りて盗人来なくなりたり

 

作者がどういう人物なのかがわかるような歌を、まずは選んだ。

キリスト教を信仰しているらしい。十字架を胸から外すという表現がなにを意味しているのかわかりづらいが、解放感があり晴ればれとしている。「九十歳が私を生きる」という言い回しは抽象的だが、スケールの大きさと堂々とした態度に惹かれる。

 

二首目、「霊」というのはキリスト教の用語で「魂」のようなものらしい。九十という年齢に達した魂に「農夫」が棲んで「召天の日の開墾をする」。歌会で盛り上がりそうな歌だ。篠原の歌には人生の終わりを見据えたものが多いが、決して暗くはならない。特にこの歌は突き抜けている。「開墾」の先には「未来」しかないではないか。

 

三首目に詠まれている高知の山中での暮らしぶりは、篠原が繰り返し詠んでいるもののひとつ。陶芸をしたり絵を描いたりすることを、人は「趣味」と呼んだりもするが、これを「命のあそび」と呼んで憚らない。ここにも、篠原の器の大きさのようなものを感じる。

 

四首目は代表歌として推したい歌。なんとなくだが、この手紙はどろぼう対策というよりもどろぼうへの挨拶として書かれたもののような気がする。あれ? どろぼう、来なくなってしまったなあ、というとぼけた呟きが聞こえるようだ。天然の力に支えられている、他の人には書けそうで書けない一首だと思う。

 

 

篠原の歌の主な題材は、老いてもうじき天に召される自分自身だ。個人的に、年を重ねれば重ねるほど、歌のなかの「私」の濃度は薄まっていき、社会と「私」が一体化していくと考えているが、篠原の場合はそうではない。むしろ「私」しかない。いや、最後に残ったものが「私」だったと言うべきか。

ひたすらに「私」を見つめ、「私」を考え、「私」を詠む。

 

生かされて今日もこの世にゐる我を鏡の前を通る時見る

いぢめする人を神とし生きし我晩年一人一宇宙する

たまらなく寂しき日には山家にて我は心の鳥を鳴かせる

幾人の我ひき連れて生くるなり老いた体一人で無くなる

死者たちが時々我にあらはるる心の中に扉がありて

かくれんぼ我は毎日生きてをりまもなく鬼が見付けてくれる

 

鏡の前を通るときに思わず自分の姿を見てしまうのは行動として理解できるが、これは意識して見ている。しかし立ち止まるわけではない。歩きながら見て、通り過ぎている。この確認と認識が不可解だが、

その微妙さがやけにリアルだ。視界から消えたかと思うと、もうキャッチャーミットに収まっている魔球のように、読者を完全に置いてけぼりにする下句だ。

 

「一人一宇宙する」とは、キリスト教用語なのだろうか。初句からぐいぐい引っ張ってスケール大きく歌い納める。口を挟む隙を与えない、勢いのある一首だ。ちなみに「(名詞)をする」という結句は、他にも<一生が終りとならむわが体心が金の夕焼けをする><十字架を胸より外す日々にゐてわが全身が十字架をする>といった歌にも見られ、篠原の歌の特徴のひとつである。

 

三首目。誰にでも、心の痛みや孤独をひとりで乗り越えなければならないときがある。篠原の心のなかには、鳥が棲むうつくしい山があるのだろう。山の中の家、家の中の私、私の心の中の鳥、と、対象がどんどん小さくなっていくことに妙な安らぎを覚える。

 

「幾人の我」とは、これまでの記憶や想い出といっていいかもしれない。注目は「一人で無くなる」だ。つまり、それまでは一人だったが、もう一人ではないのだ。なんて頼もしく、あたたかいことだろう。人生の歴史を重ねた末の発見である。

 

篠原の心の中には鳥も棲んでいるが、死者たち(ここで言う「死者」には、亡くなった家族や友人はもちろん、世界中の死者たちも含まれそうだ)がやってくる扉もある。「扉」はこちらとあちらを自由に行き来するためのものだ。ドアノブを回し、扉をあけてこちらを訪ねてくるなんて、行儀のいい死者たちだ。こちらとあちらはお隣同士で、扉を開ければすぐに行けるという認識は、さびしくもあり、平和的でもある。

 

六首目、ここで言う「鬼」はまぎれもなく「死」(キリスト教としては「召天」と言ったほうがいいのだろうか)のことだが、それに対して「見つけてくれる」と表現する。「かくれんぼ」は鬼に捕まることが大前提の遊びだ。長いかくれんぼの後、鬼と肩を並べて、人はどこへ行くのだろう。

 

 

 

亡父(ちち)の声亡母(はは)の声してこほろぎが今年も山に鳴きはじめたり

手の平は他界の地図でちちははが暮らせる村と町があるなり

心の()すべてを開けてひとり棲む最晩年は母の胎内

死の分娩われの体にはじまりて納札(をさめふだ)なる歌を詠むなり

 

この四首は、歌会ではもしかしたらあまり評価が高くないかもしれない。一首目のように、亡くなった家族が昆虫や鳥になって季節を報せるという歌はよくあるし、二首目は発想が突飛だと指摘する人もいるだろう。三首目の結句「母の胎内」も初句の「心の扉すべてを開けて」とうまく繋がっていないように思える。四首目は「死の分娩」という表現がヴィヴィッドで目を引くが、抽象的すぎてよくわからない。

「盗人来なくなりたり」の歌でもふれたが、篠原の歌の魅力は、洗練された技術というよりも、天然の勢いで言葉が自由に繰り出される点にある。この四首も、自らの気持ちを短歌定型に「えいやっ!」とのせていったのだと思う。玄人の歌人にとっては、きっと穴ぼこだらけの歌に見えるだろう。

しかし、私はこれらの歌にたいへん興味を引かれる。

「こほろぎ」の歌は、ふつうならもっとあたたかい歌になりそうだが、「亡父」「亡母」の「亡」の字や、「こほろぎ」をチョイスしたことでなんとなく不穏な感じが漂って好きだ。すずむしとか雀よりよっぽど面白い。

<手の平は他界の地図でちちははが暮らせる村と町があるなり>これも消える魔球系の歌。自由すぎる発想へのついていけなさが心地良い。

「母の胎内」「死の分娩」もこの言葉が使いたいだけなのでは?と思わなくもないが、「ひとり棲む」や「納札」(お遍路さんが四国八十八か所を回るときに、お寺へ納める札だそうです)が一首の重しとして効いていてスルーできない。

 

篠原の歌を読んでいると、細かい理解とか、他人の評価とかがどうでもよくなってくる。

もっと自由に、自分の詠みたいものをやりたい放題に詠めばいい、表現とは本来そういうものなのだと勇気づけられる。言葉で言い表すことのできないエネルギーで突き抜けていく歌を、私が求めているからなのかもしれないが。

篠原にはもっと長生きして、もっともっと自由奔放な歌を詠んで、私たちをびっくりさせてほしい。

 

ふしあはせに生きたる我が長寿して山家に山のいきものを飼ふ

追伸の手紙の如く人生の残りし部分生きつぎにけり

我老いてこの世を去るが近づけりすべての歌が死の乳母車

 

 

*文中の歌はすべて過去四年間の「まひる野」本誌から引用しました。

 

(北山あさひ)

 

 

栗

 

 

次週予告

11/23(金)12:00更新  山川藍のまえあし!絵日記帖⑥

お楽しみに!

 

 

 

 

 

麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑥ ”おだづでねえ”

 

もう、ずいぶん前の「まひる野」の全国大会でのことです。

結社の代表を窪田章一郎先生が務めておいでのころです。

恒例の記念撮影をするとき、隅っこに隠れようとするわたしを、福井県の会員の方が

「しぇんしぇいのねき(先生のそば)に行って座りなさい。」と促してくださいました。

わたしは魂消えました。それって、完全に豊後ことばではないですか。

「えっ、今なんとおっしゃいました!?」

「あそうさん、それは失礼よ。」

横で聞いていた年配の方にたしなめられました。

「あっ、いえ、すみません。大分のことばとまるきり一緒だったので驚いて・・・。」

「方言というのは古い言葉が地方に残ったものが多いのよ。方言古語説っていうでしょう。」

ええ、そりゃ分かってますけど、海山隔てた若狭のくにの人から実際に「しぇんしぇいのねき」を聞くとやはり驚いてしまいます。

 

こんなこともありました。

備中吹屋を訪ねたとき、農産物直売所にそれは見事なまるまるとした黒豆が売られているのを見ました。

以前津山で食べたおいしい黒豆ご飯を思い出し、直売所のおばあさんに尋ねました。

「これ、黒豆ご飯にできますか?」

「はい、()してな。」

へっ!?

「浙す(水に浸す)」は『広辞苑』に載っていますから、まるきり古語というわけではないようですが、わたしは東京で耳にしたことはないし、浅学のためか文章中にも見たことがありません。

うちのあたりでは「ゆうべから浙しちょったき、もう、ほとびちょる。(ゆうべから水につけておいたから、

もう、ふやけてる。)」のように使います。

 

※ちなみにですが、わたしは高校生のとき、いとみやびなる『伊勢物語』「東下り」の段、「(かれ)(いひ)のうへに涙落としてほとびにけり。」の中にいとみやびならざる豊後ことばの語彙を見つけて、なんじゃこれー!

と笑いました。

わが豊後ことばが多くの古語を蓄えておきながら、いかにみやびならざる言語であるかは、別の回にて詳しくお話ししたいと思います。

 

備中は西国ですし、豊後とは瀬戸内海でつながっていますので、共通点が多くても、そう驚くことではないのかもしれません。驚くべきはもっともっと思いきり遠くはなれた地方で 「方言周圏論」のモデルみたいな事象を見聞きすることです。

ある日、漫然とテレビを見ておりますと、東北の地方局制作と思われる学園ドラマが放送されておりました。複数のこわい上級生がいたいけな下級生を取り囲んでみちのくことばで威嚇しております。

「おだづでねえ。」

え、え、えっ?

いま、この子たち「おだつ」って言ったよね?

「おだつ」。

それはわたしたち豊後の住人のことばでもあります。

大分豊後の山の中の中学校では、どこからか次のような言葉が聞こえてきたら、下級生は急いで辺りを見回し、自分に向かって言われたのではないことを確認しなければなりませんでした。

「おだっちょおん!(態度がでかいぞお!)」

「おだつな!(いい気になるな!)」

最悪の場合、講堂の裏(体育館はありませんでした)に呼び出されてこわい目にあうことが想定されたからです。

使われる状況も東北の学園ドラマと一緒ですねえ・・・。

かりにドラマの舞台が仙台だとすると、「おだづ」と「おだつ」には道のりにして1,400kmの隔たりがあります。

ドラマの子どもたちがほんとうに「おだづ」と言ったのか、次の「まひる野」全国大会のおりに仙台支部の皆さんに確かめてみました。

皆さんはちょっと表情を曇らせて顔を見合わせ、「おだづは・・・そういうときに使いますけど・・・あんまり、いい言葉じゃないなあ。」と答えてくれました。

やっぱり! わたしは推察しました。

 

【かつて自動詞「おだつ」は他動詞「おだてる」と対になる単語として広く用いられていたが、列島の中ほどでは「勝手にそのような状態になる」という自動詞の方は忘れられてゆき、両端の九州や北日本に残ったのではないか。】

 

そこで五(四)段活用の自動詞「おだつ」を『日本国語大辞典』で確認することにしました。

あれ・・・? な、ない!

下一(二)段活用の他動詞としての「おだつ」なら載っています。

これは口語の「おだてる」、豊後ことばの「おだつる」のことです。

柱と頼んでいる『日本国語大辞典』に無視されて、わたしは大いにめげました。

でも、ずいぶん異なる二つの方言グループの文脈の中で、同じ意味で使用されているのだから、「あおられなくても勝手に舞い上がる」という意味の「おだつ」はかつて列島に遍在していたに違いない!

辞書にないのは、自動詞「おだつ」の用例が記載された文献がなかったからですよ、きっと。

大分県と宮城県の話し言葉にあることは確実です。もう少し分布を知りたい。

でも大きな図書館に行ったり専門家に質問したりする時間はない。

悩んでいると、「まひる野ブログ」の仲間・北山川さんがツイッターで調査してくれました。

 

 

アンケート結果 → ある 22%

             ない 78%   (投票総数:169)

 

アンケート結果 → 四国・中国 4%

             関東・甲信越 8%

             関西 4%

             その他 84%(福島1、岩手3、北海道8)  (投票総数:25)

 

 

やはり、東北地方(なぜか太平洋側)と、東北の人たち人がおおぜい入植した北海道にありますね。

「おだつ」も「ブラキストン・ライン」を越えたのです。

はるか東の釧路のかたから「ある」と回答をいただいたのが感動でした。

4%というのは1人ですが、たった1人で方言が維持できるわけはないので、その地域にも相当数の「おだつ」使用者がいらっしゃるものと思われます。

九州を選択肢にしなかったのは、自分とこがそうだから周りもおそらくそうだろうという安易な想定です。(でも鹿児島市の人は知らんと言っていた・・・。)

『おだつ考』という論文が書けるほど厳密な調査ではありませんが、これは「おだつはかつて遍在していた」という仮説を立てるには十分でないでしょうか。

うれしい!

アンケートにご協力くださった各地の皆さまと、SNSがこわいぶんぶんに代わって調べてくださった北山川さんに厚く御礼申し上げます。<(_ _)>

 

さて、仙台支部の皆さんが顔を曇らせたのは、人を批判したり、威嚇したり、牽制したりと、パワハラの言葉として用いられることが多いからだと思います。

それは大分でも同じですが、ほかにも用法があります。

子どもが興奮してきゃっきゃっとはしゃいだり駆けまわったりする状態も「おだつ」です。

大分市には「おだちーず」というアマチュアバンドがあるそうです。

「おれたちゃなんぼでんおだっちゃるぞ、それがどしたっつか!?(俺たちはいくらでも勝手に舞い上がってやるぞ、それがどうしたってんだ!)」という不逞なパワーが感じられて、いいです。

お祭りなんかでも若い衆が「おだた」なかったら盛り上がりませんよね。

不当な「おだつな~」には委縮せず、「おだつ」べきときにはどんどん「おだち」たいと思います。

もちろん、決して「おだっ」ちゃいけないときもありますね。

誰かに対して自分が圧倒的に優位にあるときなんかは特に。

 

 

 

   敗北はあるひは罪かブラキストン・ラインこえきし祖父を超すべし

                                      時田則雄 『北方論』

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

ハロウィンおばけハロウィン

 

次週予告

10/26(金) 12:00 まひる野インフォメーション

※11/2、9 はお休みをいただきます。  

  次回の「まひる野歌人ノート」は11/16更新予定です。

 

 

まひる野歌人ノート特別編

「第63回まひる野賞」受賞作を読む!スペシャル

 

 

今年のまひる野賞は森暁香さんの『日々を重ねて』と、伊藤いずみさんの『母と手』の二作同時受賞となりました。1943年生まれの森さんは、タイトルの通り、夫や孫との暮らしを丁寧に描き、1970年生まれの伊藤さんは、病で介護が必要になった老母との日々を、迫力ある一連にまとめました。歌の内容も表現方法も、対照的な二作品です。

今回はまひる野誌に掲載された三十首から、印象に残ったものをいくつか挙げてご紹介します。

 

 

 

『日々を重ねて』   森暁香

 

1.      硝子戸を背に立ちをればとんとんと陽に(たた)かるるやうな冬の日

2.      いつせいにラッパ水仙土に()る祝祭のごとし農なる庭は

3.      ここからは見えぬところに水の音菫の道を爪立ちてゆく

4.      「あと五分」律儀に風呂が呼んでゐる今日はちひさな春を見て来し

 

『日々を重ねて』には、家族の大事件や、ドラマチックな苦悩や葛藤が描かれているわけではない。

タイトルどおり、毎日の暮らしのようすが淡々と詠まれていく。

一見、かなり地味だが、一首一首にじんわりと胸に沁みるような表現があり、読んでいて心地良い。

私はこの作品を読んで「出汁が大事」という教訓を得たのだが、みなさんはどう感じるだろうか。

 

1・作品冒頭の歌。硝子戸を透かして冬の弱い陽が背中にほんのりとあたたかい。そのあたたかさが、

人の温もりを連想させるのだろうか。「とんとん」と背中をたたいて自分を呼ぶような冬の日差し。

冒頭で差し出されるこのやさしさや穏やかな雰囲気が、この連作のトーンを決定づけているように思える。

 

2・「農なる庭は」という結句の効率の良さにはっとする。「農」ってとても強い言葉だ。たったこれだけで水で湿った土や草の匂い、あたりを飛び回る蝶や、地面を動き回る小さな虫たちのことが瞬時にイメージされる。言葉の力を巧みに引き出した一首。

 

3・おそらく、どこかで流れている水の音を消してしまわないように、そしてその水の音を愉しみながら、

つま先立ちでしずかに歩いている。あまりにもささやかな幸福だが、短歌がなければこうして書き残されることはなかったかもしれない。

 

4・すこし不思議な感じがする一首。「あと五分」と呼んでくる湯沸かし器のシステムと、「今日はちひさな春を見て来し」はたぶん関わり合ってはおらず、言ってしまえば上句も下句も独り言の呟きである。

惹かれるのは下句の充実感。「ちひさな春」が具体的に何なのかはわからないけれど、その小さな春を見つけられた喜びと充足した気持ちが、今まさに満ちようとしている温かなお湯に重なる。とても好きな一首。

 

5.      妻よりも優しき声のカーナビに応へて夫は綺麗に曲がる

6.      不器用に大人と子ども往き来する男孫寡黙に夕飯を食む

7.      ひといきに「翼をください」弾き了へしこの子の未来にわたしは居らぬ

8.      いつの間に入れ替はりしか若きらに囲まれ身体(からだ)すうすうとする

9.      姉の声しだいに細る小学の校歌「利根川」歌ひつづけて

10.   化粧水の瓶を満たして一時(いっとき)はよべの屈託払ひたりしに

11.   ひとしきり紋白蝶は野に遊び空の奥処にまぎれてゆきぬ

 

5・ともすれば「妻の尻に敷かれる夫」とか「カカア天下」のような方向に行きそうだが、森は「このカーナビ、やさしい声してるなあ」「この人、きれいにカーブするなあ」と、あくまでも一定の距離を保って夫を見つめている。選評で今井恵子が「本作の作者像は、登場人物の心の揺れや、それを囲む状況を察知し、しかもそこに無遠慮に踏みこまない。程よく知的な距離をとる。」と述べているが、まさにそのとおりだ。

この距離感が二人の関係を物語っている。

 

6・「孫」という題材は、扱いがとても難しいと思う。読者にとって「孫」は遠すぎる。「対岸の火事」どころか、「南極の吹雪」くらい遠い。その距離をどう埋めて、面白いと思ってもらえるような一首にするか。

短歌実作者としてたいへん興味深い課題だ。「男孫寡黙に夕飯を食む」は、「不器用に大人と子ども往き来する」という観察があるからこそ、ただの孫歌にならずに済んでいる。

 

7・照れ隠しなのか、「翼をください」を曲の内容もおかまいなしにあっという間に引き終えた孫。

まだ人生の辛苦も知らない若者だからこその(わざ)だ。彼が「翼をください」に想いを寄せる頃には、自分はもうすでにこの世にはいない。人生のどのあたりから、「未来」はこんなに切ないものになるのだろう。

 

8・バスの中の様子だと取った。先ほどまで乗っていた老人たちはいつの間にかいなくなり、代わりに学生たちでぎゅうぎゅうになった車内。自分はここにいていいのだろうか、自分もさっさとバスから降りるべきだったのではないか――。「身体すうすうとする」はユーモラスだが、ただの身の置き所の無さではなく、からだの実体がなくなるような、存在そのものが透けてしまうような表現が見逃せない。

 

9、10・老いた姉に、もう「未来」と呼べるほどの時間は残されていない。か細い歌声をただ聴いているほかない自分にとっても、だ。孫や若い学生たちと老いゆく者たちが対になることで浮かび上がるこうした残酷さに、「屈託」は澱のようにたまってゆく。化粧水をたっぷり補充して、少しだけ元気になって、また落ち込んで、庭で草花を眺めたりして、またちょっと寂しくなって。そんなふうに毎日は過ぎていく。

 

11・野原を自由に飛び回る蝶は若い命の象徴。それは、孫やバスの中で出会った若者たちであり、

いつかの自分でもある。寂しいが、あたたかく充実している、余韻を残す一首。

 

 

まひる野誌に掲載されている歌を読んでいると、二十代や三十代の作者と六十代以降の作者では、「連作」という手法についての意識にかなり差があるように思われる。

森はどちらかというと「連作」をあまり意識せず、ナチュラルに歌を重ねていると感じたが、「日々を重ねて」を読んでいくと、思いのほか、一首一首がしっかりと関係し合い、響き合っていることに気が付く。特に、孫の存在と、七十代の自分や病床の姉との対比は読み応えがあった。

日々の重なりと、歌の重なり。人と人との関わり。「連作を作る」のではなく、「自然と連作になる」という、理想的な現象を見た思いがした。

 

 

 

『母と手』  伊藤いずみ

 

 

1.      神様の赤ん坊となった母の居るさみしい街のこの橋渡る

2.      耳たぶをいのちの赤が染めている半身(はんみ)の感覚失くしし母の

3.      でたらめのあやとり歌に吊り橋を少女なんども壊して笑う

4.      芍薬の耐えきれず散るばらばらと介護職員罵る母よ

5.      もう支うるものを持たずに一本の釘その湾曲を晒しておりぬ

6.      干からびた母の背中を見てしまい昼のとかげのように隠れた

7.      つぎの神もつぎの兵士も産まず在る酔って横断歩道を渡る

8.      ほどかれることないロープにつながれたボートのような母の傾き

9.      睡ること増えゆく母は孵化をすることなき最後の固き繭吐く

10.   面妖な印に結びし母の手を解きほどくときその肉熱し

11.   母の炊いた芋の煮ころがし甘すぎて塩っぱすぎて 冬のさびしき

12.   凶事の予兆のように一斉に櫻開花す今年の春も

 

なにげない日常の風景を淡々と描いた『日々を重ねて』とは対照的に、伊藤の『母と手』は、病に倒れ介護の手が必要となった老母をめぐる、いわば人生の一大事を詠んだ一連である。

一読、迫力がある。「赤」「壊」「芍薬」「罵」「晒」「孵化」「肉」といった漢字が目に飛び込んでくるから、というだけではもちろんない。作者の、この連作に対する情念というようなものが、短歌の定型に乗って荒波のように打ちつけてくる。「これを歌にするんだ」という歌人の気迫がすごい、というのが私の第一印象だった。

森の作品のようにいくつかの視点が用意されているわけではなく、連作にすることによって歌が転がっていくわけでもない。どこにも行けない「淀み」がこの一連を濃く、深くしている。

 

1・もう自分の手が届くことはない「神様の赤ん坊」となってしまった母。取り残された子どもだけが母と子であったことを覚えている。母に会うために渡る一本の橋は、そんな母子の脆く危うい絆のようだ。

 

2・半身の麻痺した母。その麻痺していない方の耳朶に、血が巡り、赤く染まっている。「いのちの赤」という表現が優しく、母への想いを感じる。

 

3・すでに痴呆も進んでいるのだろう。でたらめのあやとり歌で作られる吊り橋は決して完成することはなく、誰も渡れない。この連作には、子である主体が橋や横断歩道を「渡る」という歌がいくつかあるが、

渡ることのできない吊り橋は、わかり合えない母子を象徴しているようで切ない。

 

4・介護職員を口汚く罵る母。その姿は娘にとってどれだけ衝撃的で切なかっただろう。シンプルな作りの一首だが、芍薬が花びらをばらばら落すという比喩が胸に響く。

 

5、6・変わり果てた母の姿が繰り返し詠まれる。もう誰も必要としなくなった、古びて、曲がってしまった釘。老いて干からびたような母の背中。「昼のとかげのように隠れた」という下句が繊細でしっとりと暗く、印象に残る。

 

7・主体は「つぎの神」や「つぎの兵士」を産むことはないと言う。ではその母は何を産んだのか。つまり母から生まれた自分は「神」なのか、「兵士」なのか、それとも別の何かなのか――。仰々しい言葉選びだが、世界観をつくるという意味では成功しているのでは。

 

8・9・10・主体が見つめる母の姿。もはやその役目を失い、ロープで繋がれたままのボート。岸に留めようとするロープの力と水面の揺らぎの間で傾きながら、母は何を思うのだろうか。繭は本来、幼虫が孵化するための守りであるが、老いた母はもう孵化することはない。吐き続けるのは、目覚めるためではなく、より深く睡るための固い繭だ。麻痺しているほうの手だろうか。自分の意思とは関係なくもつれてしまった手を、「面妖な印」と喩える。母は何かを祓おうとしているのだろうか。それとも呪おうとしているのか。

「その肉熱し」という実感が生々しい。

 

11・主体にとって芋の煮ころがしは、いわゆる「おふくろの味」なのだろう。病んだ母が久しぶりに作ってくれたそれは、昔とは違う味になってしまった。味覚によって呼び覚まされる思い出の嵩に、「甘すぎて塩っぱすぎて」以降の言葉を継ぐことができない。切なく、寂しい良い歌だと思う。

 

12・春というフレッシュな季節にピンク色の花びらをあふれさせる桜。だいたいのひとは桜を見ると嬉しく、テンションが上がるのではないだろうか。それを「凶事の予兆」と喩える。一見意外にも思える喩だが、咲き誇る桜のあの渦巻くようなエネルギーは、確かに恐ろしくもある。主体にとって桜はずっと不穏なものなのだ。母の存在が、今年はさらにそう思わせるのだろう。

 

どこにも行けず、何にもなれず、母と子は母と子のまま、日々は続いてゆく。

 

肉親の病や死は、人生においては避けられない出来事だ。それを歌にするかしないかは歌人の自由だが、詠むとなると相当のエネルギーと覚悟が要る。こうした大テーマに挑んだ伊藤に敬意を表したい。

 

 

 

まひる野賞受賞作は「まひる野」8月号に掲載されています。

ご注文は問い合わせフォームからどうぞ。

 

 

ぶどう

 

 

 

次週予告

10/12 (金) 12:00更新 山川藍『まえあし!絵日記帖⑤』

 

お楽しみに!

 

 

 

 

こんにちは。この度「まひる野全国大会潜入レポ」を書くことになりました、佐巻理奈子と申します。

簡単に自己紹介しますと、2016年入会で所属は作品Ⅲ、北海道札幌市在住のちょっぴり人見知りです。普段はまひる野北海道支部の若手が集まった勉強会「ヘペレの会」で月に一度勉強会を行いながら、

まひる野ブログで山川藍さんが連載している「まえあし!絵日記帖」のピヨ太くんに感情移入する日々を送っています。よろしくお願いします!

 

さて、数ある短歌結社の中には年に一度「全国大会」なるビッグイベントを開催している結社があります。大会と聞いて皆さんは何を想像しますか?私は運動会でした。

でも短歌結社の大会とはそうではなく、日本中の結社会員が集い短歌について学び、会員同士の交流を行うことを目的とした一大イベントだそうです。

先輩の北山あさひさん(当ブログでは「まひる野歌人ノート」を担当されています)は、まひる野全国大会を「まひる野ロックフェス」と言います。まひる野ロックフェス…!?一体どんな様子なのでしょう?

私は胸をドキドキさせながら飛行機に乗り、ロックフェス開催地・東京へ向かいました。

 

全国大会はホテルで行われます。

遠方から来る人が多いこと、また2日間に渡り開催されることから、会員の多くはホテルに宿泊して参加することになります。2018年まひる野全国大会はルポール麹町で行われました。

 

 

こちらは田舎者ゆえTシャツ・ズボンで大会1日目を過ごしてしまった私です。

参加されている皆さんはもう少しフォーマル寄りの恰好をしていました。男性は襟のついたシャツ、

女性は皺の目立たない素材のワンピースを着ている方が多かった印象です。

会場の前では、事務局の方たちが受付をしています。名前を言って資料とルームカードを貰い、いざ会場へ!

 

会場は自由席。

ヘペレの会として共に活動しているマチエールの広澤治子さんのお隣に着席しました。

人見知りの私、ほっと一息です。

会場の後方には歌集・同人誌の即売コーナーがあります。

この日はヘペレの会で初めて作りあげた汗と涙の結晶「ヘペレの会活動報告書」も置かせてもらいました。

 

物販の様子。大会当日にルポール麹町に滑り込み納品された「ヘペレの会活動報告書vol.1」(左端)

 

 

【総会はじまり】

 

マチエールの後藤由紀恵さん、富田睦子さんの司会進行により、総会が始まりました。

まずは大会委員代表の柳宣宏さんのご挨拶です。

次いで物故者哀悼・黙祷。今年亡くなった会員へ黙祷を捧げました。

その後、篠弘さんよりご挨拶があり、会務報告、会計報告、会計監査報告と進みます。

ここで”緊張しい”にとって最初の難関、参加者紹介のコーナーが始まりました。

既に配られている本日の参加者リストの名前を、新藤雅章さんと庄野史子さんが読み上げます。

リストは都道府県順に作られており、恐ろしいことに私の名前が先頭になっているではありませんか。「北海道からお越しの佐巻理奈子さん」私は「はい!」と手を挙げて返事をし、立ち上がりました。

「手は上げなくて結構ですよ!」

・・・。ひとり決まりの悪さの波に飲み込まれる私を置いて、その後も参加者の名前が呼ばれます。

「あ、いつもまひる野で読んでいるあの人だ!」「この間歌集を買ったあの…!」

普段誌面のみでお名前を拝見している先輩たちご本人が次々と立ち上がります。

…この感じ…どこかで…あ…ロックフェス…?

 

【まひる野賞授賞式】

 

まひる野では、まひる野賞として5月に50首の連作を会員より募集し、この8月の全国大会で授賞式が行われます。今年の受賞は森暁香さんと伊藤いずみさんです。(今年のまひる野賞については、10月5日更新予定の「まひる野歌人ノート・まひる野賞を読む!スペシャル(北山あさひ)」を読んでくださいね!)

授賞式の後は、広坂早苗さんによる審査委員講評がありました。心して聞きます。

 

【代表講演・パネルディスカッション】

 

篠弘さんによる代表講演です。テーマは「いかに災害を読むか」。

結城哀草果の歌集『すだま』よりお話をされていました。

2018年もあと4か月ですが、今年は災害を身近に感じる年でしたね…。

代表講演が終わると次はパネルディスカッションです。先程の篠さんによる「講演」はイメージできますが、「パネルディスカッション」…?あまり聞きなれない言葉ですよね。

パネルディスカッションとは、数名の登壇者が各自見解を述べ、それについて議論を行うことです。

まひる野全国大会2018の場合、年間テーマ(今年は「身体感覚の可能性」)について、4人のパネリストが各自事前に選んできた短歌とテーマに沿った評を述べ、それについて意見し合う形で行われました。

年間テーマは1年を通して考えるもの。まひる野誌には毎月会員が書いた年間テーマについての評論が掲載され、大会でもこのように取り扱われます。1年間ひとつのテーマを意識していると、次第に見えてくるものってあるんです。年間テーマを積み重ねて、いろんな角度から歌と向き合えるようになるのかしら…ねぇピヨ太くん…。

 

篠弘さんによる代表講演

 

パネルディスカッションの様子。

左から、柳宣宏、岡本勝、広坂早苗、後藤由紀恵(敬称略)

 

 

【懇親会】

 

総会が終わると次は懇親会。一度荷物を部屋に置いて会場へと向かいます。

会場に入る前にくじをひきます。このくじで座席が決まるんですね。私は大当たり!まひる野賞受賞者のお2人と同じ、会場前方のテーブルに着くことになりました。お隣はマチエールの田村ふみ乃さん。

人見知りの私ですが、田村さんが2016年に中城ふみ子賞(北海道帯広市の短歌賞です)を受賞された時に北海道に来たお話をしてもらい、楽しいひとときを過ごすことが出来ました。

 

懇親会ではまひる野賞受賞者のスピーチがありました。

 

森さんは「お正月明けから作品作りに取り組んだ」「ウォーキングをしながら歌を考え、推敲する」と仰っていました。先程書いた通り、賞の応募は5月。それをお正月明けから…。細かなところまで整った日常詠の一連は、森さんの丁寧な暮しから生まれたものなのだと感じます。

伊藤さんは「何度も短歌をやめてしまったが、戻ってきて続けることが出来たのはまひる野があったから」とお話していました。ダイレクトな表現、比喩を使った力強い歌が印象的な伊藤さんの一連ですが、対象から目を逸らさない覚悟の根底にある背景が伺えました。

 

懇親会も後半になると皆さん立ち上がって好きに過ごすように。

私も広澤さんに連れられて先輩たちにご挨拶をして、会場を歩き回ります。

懇親会の終わりに、短歌結社まひる野門外不出の「ふるさと」なる極秘儀式を参加者全員で行い、

無事1日目は終了しました。

 

 

【大会2日目】

 

ひとり部屋(ここは人見知りにとって重要ポイントですね)で泥のように眠り、朝食ブッフェでお腹を満たしたら2日目のはじまりです!

今日は大会のメインイベント、総勢105名での歌会が行われます。歌会は無記名制。参加者は事前に郵送された詠草一覧から5首選んで投票し、既に集計が行われた状態でのスタートです。

 

まひる野全国大会2018の歌会は、詠草番号1~53の人たちでA会場、詠草番号54~105の人たちでB会場に集まり、高得点の歌を除いた詠草の評を行います。その後全員で1つの会場に集まり、高得点の歌のみを取り上げ総合歌会を行います。

私は56番だったのでB会場へ向かいました。

 

【歌会 B会場】

 

B会場の歌会ではまず、講評者として大下一真さん、批評者として今井恵子さんが登壇していました。

講評者と批評者は他にも何名かおり、会の途中で入れ替わりがあります。

講評者と批評者…とありますが、役割として大きな違いはないように感じました。講評者が歌に対して評を述べ、次に批評者が補足したり意見をする印象でしょうか…。これにより議論が生じることもあるので、より深く取り上げている歌についての評が行われます。

基本的に参加者は登壇者の評を聴講しますが、会も終盤にさしかかるとオーディエンスも白熱。

「わたしはこう思うけど!」と意見が飛び出す場面もありました。

約50首、怒涛の評を4時間。途中昼休憩も挟みましたが、ふだん札幌でグータラしている私にとってはものすごい熱量でした。

 

病む日々を思い返せばほつほつとホットケーキの小さき泡よ/佐巻理奈子

 

私の詠草です。この1首について

 

・時系が変じゃないか。「病みし」日では?

・眼前の光景で思い返しているのか、それとも比喩なのか

・感情が湧き上がり固められていく様子は窺えるが、何を想起させたいのかいまいち読めない

・作り方が現代短歌の一つの定型パターン。一定の修辞であると理解しているか。

 

といった評がされました。

これを×50首。すごいなぁ…と思う反面、自分がいかに勉強していないかを痛感します。

 

 

「札幌に帰ったら定山渓に籠って修行しよう」と思いながら食べたお弁当。

 

 

【総合歌会】

 

昼休憩のあともまたひたすら評を聞き、B会場の歌会が終わりました。

若干時間がおしてしまったので急いで総合歌会会場へと移動します。

ここで急展開!のん気に席へ着こうとする私に、マチエールの富田睦子さんが突然マイクを渡してきました。

「佐巻さん、マイク係をお願いします」

総合歌会では、司会が参加者をあて、あてられた人が評をするというドキドキの参加者一体型で行われます。マイク係とは司会者にあてられた参加者の元へマイクを持っていく係。私にそんな大役が務まるのか…。

「あてられた方の元へは、こちらの若手がマイクを持って走ってかけつけます」

富田さんの司会にさらなるプレッシャーを(勝手に)感じます。

これは私の良くないところのなのですが、緊張状態でひとつのことを行うとそれ以外のことに目がいかなくなってしまいます。私は鬼のマイク運びマシーンと化し、五感のすべては「あてられた人にいち早くマイクを持っていくこと」のために集中。評、まるで耳に入っていません。ロックフェスの裏方としてフロアを沸かせるアーティストからアーティストへと走るのみです。

開始からどれほどの時が経ち、何人の元へマイクを運んだでしょうか…気づけば歌会のレジュメは手元にありません。でもいいんだ、マイク一本あれば良い…そんな境地に至った私を、突如雷が貫きます。「…なぜこの歌を採らなかったのか、既にマイクをお持ちの佐巻理奈子さん!お願いします」

この後自分が何をしゃべったのか。

思いだそうとすると、春にヘペレの会で行った知床の「オシンコシンの滝」が脳裡に浮かびます。

雪解けで勢いを増していた滝。近づくと顔に水しぶきがかかって……あの滝壺に飛び込みたい。

そして気が済むまで滝に打たれたい…。

私の心情と口から出た評、会場の空気が伝わりましたでしょうか?

その後は抜け殻のままマイク運びマシーンとしての職務を全うし、無事総合歌会は終了しました。

 

このような次第でしたので、残念ながらこの潜入レポートでは総合歌会の様子をまともにお伝えすることが出来ず、情けないことです。

でも大丈夫!まひる野では、毎年11月の結社誌で大会の内容が掲載されます。

総合歌会の評まとめの担当はマチエールの立花開さん。安心です!

 

今年の最高得点歌は奈良英子さん。篠弘特選は今井恵子さんでした。

表彰のお写真を撮りたかったのですが、ばらばらになった魂を集めるのに必至でかなわなかったことが悔やまれます。

 

最後に事務局長の小嶋喜久代さんより閉会のご挨拶があり、大会は終了。

まっしろに燃え尽きた2日間でした。

 

 

 

家に帰って多少自分を取り戻したころ、得表評を見てみました。各詠草の得点数と作者、また誰が自分の歌に投票してくれたのかが分かります。私の得票は6評。その中に、作品Ⅲの池田郁里さんのお名前を見つけました。

 

ブラウスの裾はためかせ突風に子を抱きしめてぶつかっていく/池田郁里

 

突風の吹く日。向かい風は強いけどとにかく前へ進むしかない。

はためくブラウスの裾もそのままに、小さなわが子を胸に守りながら、足を踏み出し自ら風にぶつかっていく。自分のこともままならないような目まぐるしさ、息苦しさの中にいながら、強い意志を持って進む。

実はわたしも池田さんの詠草に票を入れていたのです。愛情だけではない、個人としての「覚悟」を感じる好きな歌でした。

 

大会では池田さんとお話することができました。

年齢も入会日も近く、毎月まひる野誌で作品を読みながらどんな方なのだろうと考えていたので、声をかけて貰ってとても嬉しかったです。

まひる野に入会したのは、簡単に言えば短歌を作る生身の仲間が欲しかったから。たまに顔を出していた超結社の歌会は面白かったけれど、もっと安心して自分をさらけ出して、生活を映した短歌を作って誰かに見て欲しかったし、その誰かが作った短歌と生活を実感したかった。1日目の懇親会で会場を見渡した時、目に入る人全てがその「誰か」なのだと気づき、はるばる北海道から飛行機に乗ってやってきて本当に良かったと思ったのでした。

 

来年のまひる野全国大会は青森県八戸で開催予定。

今度は苦手な飛行機ではなく、フェリーで参加したいと思いますヒヨコ

 

 

(佐巻理奈子)

 

 

 

 

イチョウ

 

 

次週予告

10/5 (金) 12:00更新  まひる野歌人ノート「まひる野賞を読む!スペシャル」(北山あさひ)

 

お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑤備中ドラキュラ城

 

 

津山のいとこのお墓参りに行ったとき、岡山県のガイドブックを買いました。

いちおう満遍なくページをめくっていると、山深い備中高梁・新見エリアの観光スポットのところに、

お庄屋さんで鉱山お大尽だったという広兼さんの、お城のようなお屋敷が紹介されていました。

「映画『八つ墓村』のロケ地として有名」と書いてあります。

そうなのか、セットじゃなくて実在のお屋敷を使って撮影したんだ、と眺めているうちにわたしの目はまんまるになりました。

広兼邸へのアクセスの地図なんですが、お屋敷以外の家屋がありません!

いや、よくみるとあるにはありますが1、2軒が遠く離れて記されているだけで集落がありません。

ドラキュラのお城じゃあるまいし、深い山中にお庄屋さんの豪邸だけがぽつんと建っているなんてどういうことでしょう。

お庄屋さんは行政の末端として村の中心にいて、人びとを管理していたはずです。

集落から遠く離れたところでどうやって年貢を集めたり、お触れを通達したりしていたの?

カリスマ? こわーい!

興味を掻き立てられました。いつか行ってみよう!

 

 

『八つ墓村』という物語に出会ったのは小学生の頃でした。

うちではマンガを買ってもらえず、お小遣いもなかったので、隣のお兄ちゃんのところに遊びに行って、

おせんべいをかじりながら、少年マンガを読ませてもらっていました。

『八つ墓村』は『巨人の星』などと一緒の雑誌に連載されていたと思います。

ところどころ読んだのであらすじはよくわからなかったけど、主人公のほんとうのお父さん(その時点では正体不明)が、真夜中に枕元にやって来てしくしく泣くところが最高に怖かったです。

あと、双子のおばあさんが並んで座っているところもなかなか怖かったですね。

あとになって小説を読み、映画も観ましたが、最初に読んだマンガほど怖くはなくてちょっとさびしかったのを覚えています。

 

さて、わたしの高校は家から67㎞ほど離れた大分市にありましたので、毎日自宅から通うことはできません。

高校のすぐそばの下宿屋さんにお世話になることになりました。

下宿は、「八つばか村」と呼ばれていました。

呼ばれた、というよりわたしたち下宿生が「八つばか村なんですよ。」と積極的に吹聴していたようです。

高校や短大に通うため田舎からやってきた8人の“おばか”な下宿生が、毎日ほんとうに楽しく暮らしていました。

人生には少しだけそんな夢のような時間があるものかもしれません。

楽しくなかったことなど思い出せないくらいです。

あまりに学校に近かったので、高校生は始業3分前までご飯を食べ続け、朝のホームルームの後、

トイレで歯磨きをすることもできました。

歯ブラシをくわえたまま走って登校する人もいましたね。

「八つばか村」だからそれでいいのです。

 

部屋の広さは2畳でした。

「2畳?せまい!」と驚かれるのですが、押し入れの上段に持ち物や衣装を入れて、下段に布団を敷いて、2畳の畳に机と本棚を置いて、全く不自由はありません。

コンパクトでシンプルな暮らしです。

それぞれが仕送りのお小遣いで買ったマンガや雑誌は、読み終わると廊下の突き当りの本棚に置くことになっていて、わたしは今まで読めなかったマンガを廊下にうずくまって溺れるように読みました。

あまり映画を観なかったのに、映画のことをところどころ知っていたのは、廊下の突き当りにマンガと一緒に積まれていた映画雑誌のおかげだったのでしょうね。

先輩のだれかが買っていたので「キネマ旬報」なんてけっこう難しそうな雑誌もあって、それを読むと映画のことがわかったような気分になりました。

 

下宿は古い木造の建物でしたので、しばしば何かごそごそする小動物が現れ、現れるとすぐになぜかわたしが呼ばれました。

「あ、ゴキブリ!ゴキブリ!あそうさん呼んで!」

あ?なんでわたし?

とりあえず悲鳴のするところへ駆けつけ、スリッパでたたいて退治します。

わたしは大分市で暮らすようになって初めて、ゴキブリという虫の実物を見ました。

自宅が、百科事典に「冷涼、多雨。」と書かれている山の中にあり、江戸時代の築でしたから気密性なんてものはまるでなく、家の内外も同じように寒かったのでゴキブリが棲めなかったのです。

わたしはそれを一見して、コオロギが平たくなったような虫、バッタの一種だと判断し、なんじゃあ、ごげなもん!と、バシバシ退治しました。

ほんとはバッタよりもカマキリに近い昆虫らしいです。

 

ゴキブリは、ほんとうに気持ち悪いという人にとっては、ほんとうに気持ち悪いもののようですね。

クラスの男の子たちがこんな話をしていたことがあります。

「ゆうべ寝ていたら、ゴキブリがおれの顔の上を通って行ったんだよ。」

「うわー、気持ち悪いなあ。」

「おれ、それからの記憶がない。気絶したんだと思う。」

わたしは笑っているのを知られないように後ろを向かなければなりませんでした。

 

脚を広げると手のひらくらいもある、大きな蜘蛛も出ました。

「あそうさん、あそうさあん!きてきて!クモです!」

カマドウマ(便所コオロギ)も出ました。

「あそうさあん!」

 

お役立ち感があって、けっこう喜んで退治していました。

 

楽しい時はみるみる過ぎてゆき、わたしは高校を卒業して下宿を去ることになりました。

後輩たちと短大生のおねえさんたちが食堂を使ってお別れ会を催してくれました。

余興は、身の回りのもので精一杯扮装をしたシンデレラのお芝居です。

王子さま役の短大生が、男の人だぞ、ということを示すために顔の下半分に濃紺のアイシャドウを塗りのばして出てきたのは、王子というより山賊のようで、最後の夜をみんなと思いきり笑い転げました。

 

 

さらに時は流れ、すっかりおばさんになったわたしは、ふと思い立って備中の広兼邸がほんとうに山中の孤城なのか確かめに行くことにしました。

考えてみるとグーグルマップなどを使えば行かなくても分かったのです。

その時うちは既にインターネットが使える環境になっていたのですが、世の中に疎かったので、グーグルマップって何なんだろう、難しい技術や知識が必要なんだろうな、お金がかかるんだろうなと漠然と思っていたのです。

 

伯備線の高梁駅で路線バスに乗り換えて、老年期のもこもこした丸い山々がどこまでも連なる中国山地の奥深く分け入ります。

車がすれ違うことができないほど狭いところもあり、木の葉が車窓をしゃらしゃらと擦ってゆきます。

うちの町で山の集落へバスで登ってゆく時もこんな感じだなあと思っているうちに、終点、往年の鉱山町吹屋です。

「広兼さんへは4㎞くらいです。タクシーがありますよ。」

「大丈夫、わたし歩いてお遍路に行ったことがあります。」

よく晴れた山の道を気持ちよく歩いていきますと、なるほど、そそり立つ石垣と一体化した城壁のような白壁の築地、お城です。

周囲に見える人家は予想より多いようです。

ガイドブックでは省略されていたのでしょうか。でも、ぽつり、ぽつり。

「大庄屋さんのご門前にしては人家が少なすぎる気がするんですけど。なぜ、こんな寂しいところにお屋敷があるのでしょう。」

管理人の方に聞いてみると、ここは中野といって以前たくさんの人が住んでいたそうです。

鉱山が閉山になり過疎が進むと、一般の人々のお宅は空き家になり、やがて取り壊されていったのですが、お庄屋屋敷は文化財として保護されて、ぽつんと残ったと言うのです。

なんだ、とっても分かりやすい、まっとうな理由があったのでした。

遠く離れた山中から不思議な力で領民を支配するドラキュラ城じゃなかったんだなあ。

 

 

    常磐(ときは)なる吉備の中山おしなべて千歳をまつのふかき色かな

                よみ人知らず 『新古今和歌集』

 

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

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次週予告

9/28(金)更新  「まひる野全国大会」潜入レポート!(佐巻理奈子)

※「まひる野インフォメーション」はお休みします

 

お楽しみに!