まひる野歌人ノート特別編

「第63回まひる野賞」受賞作を読む!スペシャル

 

 

今年のまひる野賞は森暁香さんの『日々を重ねて』と、伊藤いずみさんの『母と手』の二作同時受賞となりました。1943年生まれの森さんは、タイトルの通り、夫や孫との暮らしを丁寧に描き、1970年生まれの伊藤さんは、病で介護が必要になった老母との日々を、迫力ある一連にまとめました。歌の内容も表現方法も、対照的な二作品です。

今回はまひる野誌に掲載された三十首から、印象に残ったものをいくつか挙げてご紹介します。

 

 

 

『日々を重ねて』   森暁香

 

1.      硝子戸を背に立ちをればとんとんと陽に(たた)かるるやうな冬の日

2.      いつせいにラッパ水仙土に()る祝祭のごとし農なる庭は

3.      ここからは見えぬところに水の音菫の道を爪立ちてゆく

4.      「あと五分」律儀に風呂が呼んでゐる今日はちひさな春を見て来し

 

『日々を重ねて』には、家族の大事件や、ドラマチックな苦悩や葛藤が描かれているわけではない。

タイトルどおり、毎日の暮らしのようすが淡々と詠まれていく。

一見、かなり地味だが、一首一首にじんわりと胸に沁みるような表現があり、読んでいて心地良い。

私はこの作品を読んで「出汁が大事」という教訓を得たのだが、みなさんはどう感じるだろうか。

 

1・作品冒頭の歌。硝子戸を透かして冬の弱い陽が背中にほんのりとあたたかい。そのあたたかさが、

人の温もりを連想させるのだろうか。「とんとん」と背中をたたいて自分を呼ぶような冬の日差し。

冒頭で差し出されるこのやさしさや穏やかな雰囲気が、この連作のトーンを決定づけているように思える。

 

2・「農なる庭は」という結句の効率の良さにはっとする。「農」ってとても強い言葉だ。たったこれだけで水で湿った土や草の匂い、あたりを飛び回る蝶や、地面を動き回る小さな虫たちのことが瞬時にイメージされる。言葉の力を巧みに引き出した一首。

 

3・おそらく、どこかで流れている水の音を消してしまわないように、そしてその水の音を愉しみながら、

つま先立ちでしずかに歩いている。あまりにもささやかな幸福だが、短歌がなければこうして書き残されることはなかったかもしれない。

 

4・すこし不思議な感じがする一首。「あと五分」と呼んでくる湯沸かし器のシステムと、「今日はちひさな春を見て来し」はたぶん関わり合ってはおらず、言ってしまえば上句も下句も独り言の呟きである。

惹かれるのは下句の充実感。「ちひさな春」が具体的に何なのかはわからないけれど、その小さな春を見つけられた喜びと充足した気持ちが、今まさに満ちようとしている温かなお湯に重なる。とても好きな一首。

 

5.      妻よりも優しき声のカーナビに応へて夫は綺麗に曲がる

6.      不器用に大人と子ども往き来する男孫寡黙に夕飯を食む

7.      ひといきに「翼をください」弾き了へしこの子の未来にわたしは居らぬ

8.      いつの間に入れ替はりしか若きらに囲まれ身体(からだ)すうすうとする

9.      姉の声しだいに細る小学の校歌「利根川」歌ひつづけて

10.   化粧水の瓶を満たして一時(いっとき)はよべの屈託払ひたりしに

11.   ひとしきり紋白蝶は野に遊び空の奥処にまぎれてゆきぬ

 

5・ともすれば「妻の尻に敷かれる夫」とか「カカア天下」のような方向に行きそうだが、森は「このカーナビ、やさしい声してるなあ」「この人、きれいにカーブするなあ」と、あくまでも一定の距離を保って夫を見つめている。選評で今井恵子が「本作の作者像は、登場人物の心の揺れや、それを囲む状況を察知し、しかもそこに無遠慮に踏みこまない。程よく知的な距離をとる。」と述べているが、まさにそのとおりだ。

この距離感が二人の関係を物語っている。

 

6・「孫」という題材は、扱いがとても難しいと思う。読者にとって「孫」は遠すぎる。「対岸の火事」どころか、「南極の吹雪」くらい遠い。その距離をどう埋めて、面白いと思ってもらえるような一首にするか。

短歌実作者としてたいへん興味深い課題だ。「男孫寡黙に夕飯を食む」は、「不器用に大人と子ども往き来する」という観察があるからこそ、ただの孫歌にならずに済んでいる。

 

7・照れ隠しなのか、「翼をください」を曲の内容もおかまいなしにあっという間に引き終えた孫。

まだ人生の辛苦も知らない若者だからこその(わざ)だ。彼が「翼をください」に想いを寄せる頃には、自分はもうすでにこの世にはいない。人生のどのあたりから、「未来」はこんなに切ないものになるのだろう。

 

8・バスの中の様子だと取った。先ほどまで乗っていた老人たちはいつの間にかいなくなり、代わりに学生たちでぎゅうぎゅうになった車内。自分はここにいていいのだろうか、自分もさっさとバスから降りるべきだったのではないか――。「身体すうすうとする」はユーモラスだが、ただの身の置き所の無さではなく、からだの実体がなくなるような、存在そのものが透けてしまうような表現が見逃せない。

 

9、10・老いた姉に、もう「未来」と呼べるほどの時間は残されていない。か細い歌声をただ聴いているほかない自分にとっても、だ。孫や若い学生たちと老いゆく者たちが対になることで浮かび上がるこうした残酷さに、「屈託」は澱のようにたまってゆく。化粧水をたっぷり補充して、少しだけ元気になって、また落ち込んで、庭で草花を眺めたりして、またちょっと寂しくなって。そんなふうに毎日は過ぎていく。

 

11・野原を自由に飛び回る蝶は若い命の象徴。それは、孫やバスの中で出会った若者たちであり、

いつかの自分でもある。寂しいが、あたたかく充実している、余韻を残す一首。

 

 

まひる野誌に掲載されている歌を読んでいると、二十代や三十代の作者と六十代以降の作者では、「連作」という手法についての意識にかなり差があるように思われる。

森はどちらかというと「連作」をあまり意識せず、ナチュラルに歌を重ねていると感じたが、「日々を重ねて」を読んでいくと、思いのほか、一首一首がしっかりと関係し合い、響き合っていることに気が付く。特に、孫の存在と、七十代の自分や病床の姉との対比は読み応えがあった。

日々の重なりと、歌の重なり。人と人との関わり。「連作を作る」のではなく、「自然と連作になる」という、理想的な現象を見た思いがした。

 

 

 

『母と手』  伊藤いずみ

 

 

1.      神様の赤ん坊となった母の居るさみしい街のこの橋渡る

2.      耳たぶをいのちの赤が染めている半身(はんみ)の感覚失くしし母の

3.      でたらめのあやとり歌に吊り橋を少女なんども壊して笑う

4.      芍薬の耐えきれず散るばらばらと介護職員罵る母よ

5.      もう支うるものを持たずに一本の釘その湾曲を晒しておりぬ

6.      干からびた母の背中を見てしまい昼のとかげのように隠れた

7.      つぎの神もつぎの兵士も産まず在る酔って横断歩道を渡る

8.      ほどかれることないロープにつながれたボートのような母の傾き

9.      睡ること増えゆく母は孵化をすることなき最後の固き繭吐く

10.   面妖な印に結びし母の手を解きほどくときその肉熱し

11.   母の炊いた芋の煮ころがし甘すぎて塩っぱすぎて 冬のさびしき

12.   凶事の予兆のように一斉に櫻開花す今年の春も

 

なにげない日常の風景を淡々と描いた『日々を重ねて』とは対照的に、伊藤の『母と手』は、病に倒れ介護の手が必要となった老母をめぐる、いわば人生の一大事を詠んだ一連である。

一読、迫力がある。「赤」「壊」「芍薬」「罵」「晒」「孵化」「肉」といった漢字が目に飛び込んでくるから、というだけではもちろんない。作者の、この連作に対する情念というようなものが、短歌の定型に乗って荒波のように打ちつけてくる。「これを歌にするんだ」という歌人の気迫がすごい、というのが私の第一印象だった。

森の作品のようにいくつかの視点が用意されているわけではなく、連作にすることによって歌が転がっていくわけでもない。どこにも行けない「淀み」がこの一連を濃く、深くしている。

 

1・もう自分の手が届くことはない「神様の赤ん坊」となってしまった母。取り残された子どもだけが母と子であったことを覚えている。母に会うために渡る一本の橋は、そんな母子の脆く危うい絆のようだ。

 

2・半身の麻痺した母。その麻痺していない方の耳朶に、血が巡り、赤く染まっている。「いのちの赤」という表現が優しく、母への想いを感じる。

 

3・すでに痴呆も進んでいるのだろう。でたらめのあやとり歌で作られる吊り橋は決して完成することはなく、誰も渡れない。この連作には、子である主体が橋や横断歩道を「渡る」という歌がいくつかあるが、

渡ることのできない吊り橋は、わかり合えない母子を象徴しているようで切ない。

 

4・介護職員を口汚く罵る母。その姿は娘にとってどれだけ衝撃的で切なかっただろう。シンプルな作りの一首だが、芍薬が花びらをばらばら落すという比喩が胸に響く。

 

5、6・変わり果てた母の姿が繰り返し詠まれる。もう誰も必要としなくなった、古びて、曲がってしまった釘。老いて干からびたような母の背中。「昼のとかげのように隠れた」という下句が繊細でしっとりと暗く、印象に残る。

 

7・主体は「つぎの神」や「つぎの兵士」を産むことはないと言う。ではその母は何を産んだのか。つまり母から生まれた自分は「神」なのか、「兵士」なのか、それとも別の何かなのか――。仰々しい言葉選びだが、世界観をつくるという意味では成功しているのでは。

 

8・9・10・主体が見つめる母の姿。もはやその役目を失い、ロープで繋がれたままのボート。岸に留めようとするロープの力と水面の揺らぎの間で傾きながら、母は何を思うのだろうか。繭は本来、幼虫が孵化するための守りであるが、老いた母はもう孵化することはない。吐き続けるのは、目覚めるためではなく、より深く睡るための固い繭だ。麻痺しているほうの手だろうか。自分の意思とは関係なくもつれてしまった手を、「面妖な印」と喩える。母は何かを祓おうとしているのだろうか。それとも呪おうとしているのか。

「その肉熱し」という実感が生々しい。

 

11・主体にとって芋の煮ころがしは、いわゆる「おふくろの味」なのだろう。病んだ母が久しぶりに作ってくれたそれは、昔とは違う味になってしまった。味覚によって呼び覚まされる思い出の嵩に、「甘すぎて塩っぱすぎて」以降の言葉を継ぐことができない。切なく、寂しい良い歌だと思う。

 

12・春というフレッシュな季節にピンク色の花びらをあふれさせる桜。だいたいのひとは桜を見ると嬉しく、テンションが上がるのではないだろうか。それを「凶事の予兆」と喩える。一見意外にも思える喩だが、咲き誇る桜のあの渦巻くようなエネルギーは、確かに恐ろしくもある。主体にとって桜はずっと不穏なものなのだ。母の存在が、今年はさらにそう思わせるのだろう。

 

どこにも行けず、何にもなれず、母と子は母と子のまま、日々は続いてゆく。

 

肉親の病や死は、人生においては避けられない出来事だ。それを歌にするかしないかは歌人の自由だが、詠むとなると相当のエネルギーと覚悟が要る。こうした大テーマに挑んだ伊藤に敬意を表したい。

 

 

 

まひる野賞受賞作は「まひる野」8月号に掲載されています。

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ぶどう

 

 

 

次週予告

10/12 (金) 12:00更新 山川藍『まえあし!絵日記帖⑤』

 

お楽しみに!