まひる野のおすすめ歌人を紹介する「まひる野歌人ノート」。

担当の北山が別の任務にあたっているため、今回からまひる野の北国メンバー4人がピンチヒッターで登場します。

今回の担当は塚田千束さんです。

 

 

 

まひる野歌人ノート⑤後藤由紀恵

 

 

海を産んだような顔をして祖母は眠る 春の真昼を晩年として   後藤由紀恵

 

 

後藤由紀恵さんは愛知県出身の歌人です。

第46回まひる野賞受賞、第49回角川短歌賞次席、第一歌集『冷えゆく耳』で第6回現代短歌新人賞を受賞。

 

後藤さんの歌には後藤さんの人生がくっきりと見えます。穏やかとは言い切れないその人生の波のはざまで、ひたと前を向いて丁寧に生きている姿勢が歌からしんと伝わってくるようです。

主に歌の題材となるのは身近な家族(祖母、両親、第二歌集では夫が登場)と仕事(学生とのやりとり、派遣社員という立場)といった自身の生活が中心であり、まさにまひる野らしい歌となっています。

奇抜さではなく安定感があり、おそらく幅広い世代に愛される歌なのではないでしょうか。

 

 

【介護という現実と向き合う】  

 

終りゆく祖母の時間の先にある死はやわらかく草の匂いが

老いること赦せよという声のして真夜ざぶざぶと顔を洗えり

みずからの母を叱りし母の背が日ごと尖りてゆくまでの鬱

「家に逝く」理想に今も日本の女らするどく追い詰めらるる

笹舟のような家族よ祖母というかろき錘を垂らしつつゆく

糺したきことばかりなる冬の夜は祖母を捨てたしわれを捨てたし

 

『冷えゆく耳』の主題として「痴呆の祖母の介護」が大きなウエイトを占めてきます。

ひとつひとつが実感がこもっていて、重たいです。介護を経験したことのない私にすらボディーブローのようにじわじわと効いてきます。

老いゆく祖母を見守り、その先を意識しながらの日々の中で、時にはかっとなったり苛立ったりすることもあることでしょう。『老いること赦せよ』と言い聞かせながらもやり場のない感情のまま顔を洗うしかなく、母が祖母を怒るという場面を目撃して情けなく悲しくなるという、日本の家庭で起こっていながら明るみには出てきにくい部分が描かれています。家で最後まで看取ること、家族に介護のすべてを担わせるという日本の構造上の問題点にいままさに苦しんでいるひとがいるのです。

家族をひとつの舟、それも簡単に流されていってしまうか弱い笹舟とたとえ、祖母の存在がその舟のひとつの錘として流れを遮り進行方向をゆるやかに制御している。

自分の家庭を見つめながら、その先にある日本社会までを見据えているようで、背中が冷えるようです。

 

 

【恋人・夫への目線】

 

でもきっと同じではない肩を寄せきれいと言いあう月のかたちも

ふれがたき場所をそれぞれ持ちながらひとつの虹を並び見ている

ゆびさきのかすかに触れて夫という君の輪郭いくたびも知る

コンタクトはずして君がてのひらに探しはじめるわれの薄闇

向き合いて眠りのかたち整えるふたり小さな箱舟のまま

君のなかに雨ふりやまぬ場所がありわたしの傘は小さすぎるよ 

夫という輪郭を持つとうめいな壁とわれとに冬の陽の射す

ひき割りの納豆買えば不機嫌になる夫の居てそんなに怒るな 

 

あまやかな相聞に見えて、一首目『でもきっと同じではない』と考えてしまう冷静さ、『ふれがたき場所』を『それぞれ』に持っているという自覚と自負が、甘いだけにならない理由なのかもしれません。

自己がしっかりしている、相手の自己も尊重する、当たり前のことですけれど、とても大切なことです。

『ねむい春』では作者は結婚し、夫と暮らし始めます。

三首目の「君の輪郭」、四首目の「われの薄闇」を互いに探り合い、確かめ合うようなどこか繊細な緊張感すら漂う新婚生活の中で、五首目の「小さな箱舟」で穏やかに眠り合う二人という、運命共同体としての心づもりを感じます。

そんななかで、六首目、七首目のように夫であっても触れられない、助けられない部分があると知るのは小さな痛みなのでしょうか。

けれども、八首目「そんなに怒るな」の結句から感じられる微笑ましさもあって、ほっこりします。

 

 

【悲しみの表現】 

 

悲しみに期限あること知りながらひとしきり泣く春の夕べを

悲しみに文様のありこの夜は牡丹唐草文様のかなしみ

髪ばかり短くなりてゆく夏の君のかなしみに触れざるわれは

感情にくるしめられて隣室にひっそりとある貝の沈黙

ベッド下よりぬっと出てくるかなしみの脚の間にうずくまりおり

 

自分の悲しみ、君の悲しみ、生きていれば様々な悲しみに対面することになるでしょう。

期限があると『知りながら』も涙を流さずにはいられないこともあれば、どこか冷静に悲しみに模様をあてはめていることも、あるいは君の悲しみに触れられないことを「悲しむ」(おそらく)私もいる。四首目では隣室で沈黙することしかできない人への悲しい、思いやりの視線があります。

五首目の、ベッドの足元から不意に現れるという『かなしみ』という、突然湧いて出るような感情の表現にはっとさせられました。

 

 

【「女性」という性に対して】

 

子を産み育て働き痴れてゆく女とは淋しき脚に立つもの

産まざりし身体を通す襟ほそきストライプのシャツ風をはらみて

眠りこむ前のおさなき顔のまま子が欲しいかと問う夫の声

一組の女男でしかなきわれらなり性愛に遠き声を交わして

誰の子も産まないわれを眠らせて関東バスの春の道ゆく

産み産みて生まれ生まれて流れゆく川のほとりに立ちつくすのみ

 

女性というのは結婚するにせよしないにせよ子供がいるにせよいないにせよ、社会から常にプレッシャーを与え続けられています。

祖母の老いゆくさまをみて自分だけでなく女性全ての行く末を重い、『淋しき』と感じてしまう。あるいは夫との会話で、あるいは知人の出産祝いのお見舞いのあとで。

『誰の子も産まない』とはっきり思ってしまうから、『立ちつくす』しかなく、ただそこに妬みだったり怒りといった負の感情は(たとえ抱いたとしても)あえて載せず、ただ淡々と眺めているような視点に感じられました。

 

身近なことをうたっているはずなのにそれだけに収まらず、そのさきに広がりを感じるのは描写が丁寧だからなのでしょうか。

題材が重くとも歌いぶりは重く深刻になりきらず、歌が先走らず、読む方にも伝わりやすいよう心を砕きながら詠んでいるのが伝わってきて、心地よく作品を楽しむことができます。冒頭にも書きましたが、作者の年下の世代でも年上の世代でも感じるところのある、とくに女性であれば共感しやすく理解しやすい歌たちだと思います。それだけにとどまらず、この国で女性として生きていくとき、時に息苦しく感じ、閉塞感に息が詰まりそうに

なったとき、こんなふうに自分のまわりを歌った女性の存在を思い出すことがひとつの助けになるのかもしれないと感じました。

 

 

ひゃくねんの後には砂となり果てむ君の手なれば今すぐに欲し

 

 

 

*本文中の歌は『冷えゆく耳』『ねむい春』より引用しました。

 

 

 

 

 

 

塚田千束(つかだ・ちづか) 「作品Ⅲ」欄所属

近作は「ヘペレの会」発行の冊子『ヘペレの会活動報告書Vol.1』「夏の匂い」15首。

 

 

 

鍋

 

次週予告

 

12/21(金) 12:00  麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑧

※都合により「山川藍のまえあし!絵日記帖」は12/28の掲載となります。

 

お楽しみに!