まひる野歌人ノート⑦ 今井百合子


 

今井百合子は札幌のケアハウスで暮らす歌人。

現在は闘病しながら毎月まひる野に歌を寄せる日々を送っている。

 

晩秋の東の空は明るめりリハビリしてゐる廊下の窓に

リハビリに今日も励みて寛ぎぬ窓には葉月の雨降る午後を

リハビリに励みつつ日を重ねきぬ悔い残さじと思ふ心

 

聞き流すことも大事か五十人共に暮らせば様々ありて

それぞれに痛いところを言い合ひてケアハウスでの日常会話

病もつ我の若さを羨しといふ健やかなれる年上の人

音を消し救急車が今来てゐると夕餉の帰りに入居者より聞く

 

まず目につくのは「リハビリ」という言葉の多さだ。今井の日常である。

 

1首目、廊下で歩行訓練をしているのだろう。

日に日に日照時間の短くなる季節、ひたむきにリハビリに取り組んでいると、ふいに東向きの明るい窓辺に心が引き寄せられる。ほんのりと前を向く気持ちを感じられる歌だ。

2首目、夏の雨。日課のリハビリを終えた午後を雨が降っている。

雨と聞くと少し憂鬱なイメージがあるが、この歌の雨はやわらかい。短い札幌の夏を彩る緑をやさしく濡らし、緊張していた気持ちが開放される様子が感じられる。

 

今井は日々リハビリに励み、その様子を多くの歌にしている。それらを読んでいると、だんだんと真面目な人柄が浮かび上がってくる。

 

3首目、悔いを残したくないという。リハビリの目的は身体機能の回復である。

しかし今井にとってはそれだけではなく、結果とは別に日々のリハビリに悔いを残したくないという気持ちがあるようだ。「心」という体言止めに、その気持ちの強さが伺える。

また、先述2首目の「寛ぎ」も、真剣にリハビリに取り組んだ緊張があってこそだろう。

気持ちで負けたくないのである。

 

4、5、6首目は、ケアハウス内での人間関係を詠んだ歌。

4首目、ケアハウスには50人の入居者が暮らしているらしい。50人とは結構多い。

高校のクラスなどで35人前後だから、ちょっとうんざりしてしまう人数かもしれない…きっと「様々ありて」だろう。

「聞き流すことも大事か」というのは、もしかしたら何か人間関係で失敗してひとり内省している瞬間なのかもしれない。そうそう、聞き流した方が良い時もあるよね、と、心の中で今井に相槌をうつ。

5首目、聞き流すことにしているのは、どうやら他の入居者たちも同じようだ。

共通の話題をそれぞれ言い合うだけ、会話をしているようでしていない…。

そのことに自分だけが気づいているようなところが面白い。共通の話題が「痛いところ」なのがケアハウス独特だ。

6首目、心に棘の刺さるような瞬間である。相手に悪意はないのかもしれないが、

きっと今井はムッとしたし、傷ついただろう。それでも相手は「健やかなれる年上の人」と表現され、過剰な悪意は感じられない。憎しみに飲み込まれずに自分の心を取り上げる、その賢しさを好ましく思う。

 

 

今井は普段外出することなく、一日をケアハウスの中で過ごしているようだ。

たまの外出も受診の時と限られているらしい。建物に閉じこもる閉塞感、膠着する時間の流れから囚われぬよう、今井の意識は外へ向き、そこに現れる季節の移り変わりを短歌にしていく。

 

ひと冬を受診の他は外出(そとで)せず真つ先に咲くムスカリの花

車椅子漕ぎて軒端に暫し出でエゾハルゼミの声近く聞く

様々な思ひが今日もよぎりゆき窓に見てゐるひすがらの雪

台風の近づく秋の午後の庭マリーゴールドの色冴えて咲く

秋めける真夜中を雷(らい)遠く鳴る台風逸れて過ぎゆく気配

 

1首目、ようやく迎えた春を喜ぶ歌。

「真つ先に咲く」に、嬉しい気持ちが花めがけて駆けて行くような喜びを感じる。

春に咲くムスカリとようやく暖かな外に出られた自身を重ねているのだろう。ムスカリと今井が待ちわびた季節だ。

2首目、外へ出るとエゾハルゼミの声がよく聞こえる。部屋にいたときよりも大きく聞こえるのは、

外に出たことでセミとの距離が近くなったから。いつもの部屋で遠く聞くセミの音と大きさが違うということが、今井にとっては大事なことなのだ。

1首目2首目ともに「受診」や「車椅子漕ぎて」と自身の境遇が分かる説明が入れられていることで、

今井にとって季節の息吹がどのぐらい意味のあることなのかが分かる。

4首目、これは少し不穏な歌。台風が近づく午後、庭のマリーゴールドの色が妙に冴えて感じられる。

台風が来たらマリーゴールドは折れてしまうかもしれない。そのときを待って、不安と期待がないまぜになった爛々とした気持ち。怖くて好きな歌だ。

 

 

これまでに紹介した歌にもいくつかあるが、「窓」という言葉が頻出する。

外出することがあまりない今井にとって、外の世界とつながる窓は特別なものなのだろう。

 

取り止めもなくもの思ふ昼下がり窓に湧き立つごとき夏雲

窓の辺の片割の月仰ぎつつ介護を受けて暮るる秋の日

ひとりでは外出(そとで)のできぬ身となりて今日の窓辺にこの五月晴

窓多きわが住まひなり窓毎の匂ふばかりに滴る緑

 

どの歌も、窓の外に意識を向けている歌である。が、そこには窓の内側にいることを余儀なくされた今井の姿が浮かび上がる。

長い時間を室内で過ごし、取り止めのないことをひとり考える停滞した夏の午後、片割の月の浮かぶ秋の夜…。

2首目、「介護を受けて」という直接的な言い方に、読者は容赦のない現実感を味わう。

3首目、窓辺にわざわざ「今日の」とあることで、もうひとりでは外に出ることが出来ない今日の自身が浮かび上がる。もしこれが昔の自分だったら?今日の五月晴れはどんなものだっただろう?


 

今回まひる野に掲載された過去2年分の歌をさらったが、今井の歌を読みながら、「情緒」とはなんだろうと何度も考えた。

ありふれたわたしのありふれた生活から生まれる、ありふれた情緒。

それが、同時にかけがえのない唯一のものだという矛盾。


 

先述の「窓」と同様に、「日が差す」という表現もよく使われる。それが短歌的に良いのか悪いのかは論じない。だって今井の生活には本当にいつも日が差していて、そこに心が動くのだから。

 

白樺の木肌ひときは輝けり木立に今し朝の日差して

公園に咲ききはまれる連翹に日輪今し頭上より照る

頂きし置物のパンダ健気なり光の射せば身を振り止まず

 

 

「わたし」とはどこにあるのだろう。何をもって「わたし」なのだろう。

麻痺と病のある肉体と、その中に確かにある精神、その両方なのだろうか?

これまでの人生、今の暮らし、これから確実に自分の身に起こること…地続きの日々の中で薄まっていく感受性を繋ぎとめるように、心の動いた瞬間を掬いだす。それがきっと「わたし」だ。

 

花見れば花を詠みたし月見れば月を詠みたし恙ある身に

思ふことありて沁々聞くショパン秋の朝日は淡く差しつつ

満開の白木蓮は風に揺れケアハウスは夕暮れてゆく

 

 

 

佐巻理奈子(さまきりなこ) マチエール所属

近作は『歌壇2月号』 「水底の背」30首 (第三十回歌壇賞候補作)

 

 

 

パンダ

 

 

次週予告

2/15 (金) 12:00更新 山川藍のまえあし!絵日記帖⑨

 

お楽しみに!