麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑪ 駅のはなし(その2)

 

 

春になりました。

いつもは人気のない駅も、進学や就職で旅立つ若者や行楽客で少しばかりにぎやかです。

わたしもこの駅から出発して、大分市の学校へ、それからもっとひろい世界へ出ていきました。

仕事に就くために帰ってきたのもこの駅です。それからずっと生まれた町に住んでいます。

ときどき旅に出て帰ってくるのもこの駅でした。

今よりちょっと元気でパスポートを活用していたころは、帰りの航空機との接続がよかったので、

全席指定の観光列車をよく利用しました。

わたしは自宅へ、日常へ帰っていくのですが、周りのほとんどが観光地へ向かう行楽客です。

非日常のモードに入っているお客さんたちは、何にでも感動して歓声を上げます。

「あっ、滝よ、滝!すごーい!きれーい!」

(全国各地によくある、きれいな滝です。)

「あっ、見て見て、牛!牛さーん!」

(柵の中のぬかるみにホルスタインが一頭、糞をくっつけて立っています。)

わたしは時差でぼんやりして足もむくんでいるので、座席の前にスーツケースを置いてよっこらしょと足を載せます。

きらきらのアトモスフィアの中に、きわめて風情のない姿を割り込ませて申し訳ないのですが、やむにやまれず爆睡します。

でも、寝過ごしたりすることはなく、2駅ほど手前で目覚めるのは不思議です。

列車が見慣れた風景の中に入っていくと、つい「Green, Green Glass Of Home」などのメロディをハミングしてしまいます。

走行音に紛れて周りには聞こえないでしょう、たぶん。

やがて古いプラットフォームに降り立ち、薄暗い駅舎を通り抜けて、北緯33度の明るい風の中へ、

静かな町の静かな日常に帰っていくのです。

 

さて、うちの91歳になる母は、なんと航空機の油圧システムの基本について説明することができ、

油圧管の素材や製造法を知っています。

「ここに操縦桿があって、ここをこうすると力が油圧管を伝わって・・・。」と91歳のおばあさんが図面を描きながら説明します。

わたしは「ほえ~。」と言って聞きます。

1945年のはじめ、16歳の少女だった母は、うちから80㎞ほど離れた久留米市の「日本タイヤ」の工場で、戦闘機の油圧管を作る作業をしていました。高等女学校の「学徒動員」です。

母の受け持ちは大きなゴムのシートから油圧管の先端の蓋になる部分を一つひとつはさみで丸く切りぬくことでした。

(本人に言わせると、「こげなおろいい(粗末な)もんで勝つわけねえ。」と思っていたそうですが。)

卒業も近い3月27日のことでした。ボーイング29の大編隊が久留米の上空に現れました。

女生徒たちの寮は筑後川のほとりにあって、非常時には河原に集合することになっていました。

(そんな開けたところに女の子を集めてどうするんだと思いますが。)

河原の土手には防空壕が掘られていましたが、中には水がいっぱい溜まっていて入ることができません。しかたなく土手の斜面に貼りつきました。

作戦の標的が久留米ではなかったからでしょう、編隊は少女たちの頭上をごうごうと通過していきました。

その夕方、少女たちは汽車に乗って久留米を離れ、夜遅くふるさとの駅に帰ってきました。

その途中、暮れてゆく空を赤々と染めて、北の方のどこかが大きく燃えているのが車窓から見えたそうです。

後から分かったのですが、それが「大刀洗大空襲」の第一波だったのでした。

 

母は4月から大分市の上級学校に進学が決まっていたのですが、そのころ大分の街は何度も空襲を受けていて授業どころではない、しばらく自宅待機せよという知らせが来ました。

そのうち空襲はもっとひどくなって大分の市街はまる焼け、駅に降り立つと青い青い別府湾がすぐ目の前にあったといいます。

生徒を収容する校舎も寮もなく、やっと入学式ができるようになったのは8月1日のことでした。

母は行李を背負ってひとり汽車に乗って出発しました

進学しなかった同級生たちはみんなまだみんな女学校に残っていました。「専攻科」という名目で留め置かれたのです。

卒業させてしまったら組織的に動員できなくなるからじゃなかったか、と母は言いいます。

女学校の傍らにも「日本タイヤ」の分工場がやってきていて、少女たちはそこでも油圧管を作っていたからです。

 

ここからは女学校に残った友人のたみ子さんの話です。

たみ子さんも大陸にある上級学校の入試に合格していたのですが、ご両親が「こん非常時に、

そげな(とい)いところに行かんじょくれ。」と泣きながら止めたので進学を断念したそうです。

半年後に大陸で起こったことを思えば、行かなくて本当によかったと思います。

うちの町の駅は肥後小国方面へつながる路線の分岐点として機関区が設けられ、けっこう栄えていました。

今も、転車台のある扇形の機関庫が残って、地元の有志の努力で整備され、ささやかな観光資源になっています。

戦争も終わりに近い8月4日、全国の大きな街を焼き尽くした空襲が大分の山の中にもやってきて、

この駅と機関庫が艦載機の機銃掃射を受けました。

機関庫のコンクリートの外壁には弾けたような銃弾の跡がくっきりと残っています。

(窓ガラスもあちこち割れていますが、機関区は1971年まで現役でしたので、こちらはその後の経年劣化や心ない投石のせいです。)

3人の駅員さんが亡くなりました。

女学校と工場があったのは駅のすぐそばでしたが、そこが軍需工場であるという情報は伝わっていなかったのでしょう、学校と工場は無事でした。

ちょうどその時、たみ子さんのお父さんは、夏の田んぼの中で草取りの最中でした。

田んぼからは直線距離で3㎞あまりでしょうか、でも長い丘陵にさえぎられて、駅のあるあたりは見えません。

お父さんには、鳴り響く空襲警報の中、艦載機が女学校や分工場の方へ降下したように見えました。

丘を迂回すると道のりは4㎞あまりです。お父さんは田んぼの泥をつけたまま走り出しました。

「たみ子!たみ子!生きちょるか!」

走りながら泣きました。叫びました。

「たみこお!たみこお!」

たみ子さんが無事に立っているのを目にしたお父さんは、泣きながらその場に座り込んでしまったそうです。

 

母がその話を聞いたのは、60年以上も経った同窓会の夜のことでした。

温泉旅館の広間に布団を並べて明かりを消した後に、たみ子さんが昔語りを始めたのです。

「もう、お父さんちゅうてから、てがてかったあ。」

(てがてえ=堪えがたい、つまり恥ずかしい)

話をじーっと聞いていた母は言いました。

「たみちゃん、それはいい話よ。いいお父さんじゃったね。」

たみ子さんはしばらく黙ってから、小さな声で「そうかね。」と言ったそうです。

 

母が自宅待機をしていた5月、日本の戦闘機「屠龍」が艦載機に体当たりをして、2機とも県北の山中に墜落することがありました。

パラシュートで脱出した3人のアメリカ兵が、福岡の収容所に護送される途中、うちの町の警察署にしばらく留め置かれました。

「敵」を目の当たりにすることでを戦意を高揚させるためでしょうか、見物に行くことが住民に奨励されたそうです。

母は近所の人たちにまじって、高い塀越しに警察署の裏庭を見下ろしました。

それは東洋の島国の山中に育った少女が初めて目にする、西洋人の若者たちでした。

あどけない丸顔、ももいろの皮膚、まつ毛の長いつぶらな目。

まだほんとうに若い、少年と言えるくらいの年頃だったのでしょう。

母は「あれ、キューピーさんがいる。」と思ったそうです。

何日かして、彼らは駅から汽車に乗せられ福岡へ移送されていきました。

中津市の山で毎年日米合同の慰霊祭が行われているのは知っていましたが、わたしも母も何となく、それは墜落の時亡くなった人を悼むもので、捕虜になった3人は無事にアメリカに帰ったのだろうと思っていました。

だって、そのあとすぐに戦争は終わったのですから。

若者たちがそのあと、朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずにいてくれるといいな、故郷の街でしずかに暮らして、おじいさんになっているといいな、慰霊祭にも来ているんじゃないかな、などと勝手に思っていました。

調べてみるとすぐにわかりました。

若者たちはご家族のところに帰ることはできませんでした。移送先の福岡で首を斬られてしまったのです。

捕虜にそんなことをしてはいけないのです。

福岡大空襲の仕返しをしたのではないかとも言われます。

「おかあさん、キューピーさんたち、死んじょったよ。福岡で斬られたち。」

母はむこうを向いたまま、短く「そうね。」と言いました。

 

若者たちの名はそれぞれ、エドガーさん、ラルフさん、オットーさんというのでした。

 

 

春の駅前通りはがらんとして明るく、春塵が舞っています。

この静かで小さな駅が、これからずっと静かな思い出だけを積んでいくことを願います。

 

 

 

裏富士のかげりふかくして旗たつる家あり兵のいでたるならむ

                       前田夕暮『富士を歌ふ』

 

 

河原にすくむ少女を艦載機の看過しけるによりて()れたり

                           麻生由美

 

 

 

      

                             絵:麻生由美

 

 

 

天さかる鄙・大分豊後からのたより、いかがでしたでしょうか。

あかぬけない話を11回もの長きにわたってお読みくださった皆さま、そして執筆の機会をくださった「まひる野」の皆さまに厚くお礼を申し上げます。<(_ _)>

歌人・川野里子さんが「納戸のような」と詠んだ、まずしくてゆるくてしょぼい、そして幸せだったふるさと大分に寄せる思いを少しでもお伝え出来たらさいわいです。

 

2019年3月29日

麻生由美

 

 

 

麻生由美

大分県出身 1978年まひる野入会

歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)

 

 

 

 

桜

 

 

次週予告

4/5 (金) 12:00更新  山川藍のまえあし!絵日記帖 (最終回)

 

昨年の5月から始まった毎週更新も次回で最終回となります。

ラストは山川さんの絵日記帖です。ぜひ、最後までお付き合いください!