大分豊後ぶんぶんだより⑩ 駅のはなし(その1)
子どものころは、大分の田舎のどこのうちでもそうだったように、うちにも自家用車などはなかったので、少し離れたところへ行くとき、家族は自転車か乗り合いバスを使っていました。
未舗装の道が多かったので、路面はゆるいW型に波打ち、バスは、雨の日には泥水を跳ね上げ、
乾いた日には土ぼこりをもうもうと巻き上げながら走っていました。
幹線道路に面した建物の外壁はいつも泥や土におおわれていましたね。
バスの待合所の外壁は泥しぶきが何層もかさぶたのようにくっついて、そこには学生服やふとん綿や殺虫剤などの琺瑯看板が打ちつけてあったのですが、文字なんかほとんど読めませんでした。
殺虫剤の看板にはおかしな薄物をまとった女優さんが片膝を抱えて微笑んでいて、変だなと思っていたら、アイキャッチだったのですね。後からわかりました。
ちなみに、朝ドラや大河ドラマなどは時代や風俗の考証がよくできていると思うのですが、道に轍が刻まれていないことと、土ぼこりがないことは不満です。
あ、役者のみなさんの髪の毛がみんなさらさらで、べとっと脂じみていないのも、違うなあ。
もう少し遠くへ、母に連れられて海沿いの大きな街に出かけるときには、うちから3㎞ほど離れた駅まで行って汽車に乗りました。
最盛期には1日5000人(!)もの利用者があったと資料に書かれています。
ロータリーには、出発を待つ路線バスや客待ちのタクシーが並び、駅前通りの商店街には食堂、
喫茶店、酒屋、書店、薬局、呉服屋、洋装店、レコード店、写真館・・・、町の人びとの需要を満たすさまざまなお店が並んでいました。そう、映画館まであったのです。
今でもよく思い出すのは冬の旅のことです。
降りしきるみぞれを避けて小走りに駅舎の中に入ると、ガラス越しに大勢の職員が働いているのが見え、待合室には汽車を待つ人びとのいきれと煙草の煙がたちこめています。
大きな鋳鉄のストーブに石炭がかっかと燃えて、お客さんたちはそれを囲んで手をかざしたり、雫の垂れる手袋を乾かしたりしていました。
小さいわたしは大人たちの防寒着の裾のへんから、よそのおじさんの酒焼けの赤ら顔や、赤ちゃんを背負った女の人の鬢のほつれを見上げて、なんだかものがなしい気分になったものです。
大人って大変だなと、こども心に思ったのかもしれません。
山奥の集落からやってきたおじさんたちは、毛皮の耳あてのついた帽子を被り、堅く乾いた足先がついたたままの、いかにも自分で作りましたという感じの、テンやキツネの襟巻をしていましたっけ。
さて、そこから汽車に乗って出発するわけですが、海辺の街までの行程は小さなわたしにとって難行苦行の2時間でした。
汽車、つまり蒸気機関車に牽引される列車の旅は、それはそれは難儀なものです。
観光ガイドのサイトなどを見ると「もくもくと煙をはきながら力強く走るその勇ましい姿」などとSLの魅力が紹介されていますが、その煙こそが曲者なのです。
今、日本のところどころをちょっとずつ走っている、観光SLの気密性の高い、きれいで快適な客車を想像してはいけません。
もくもくの煙のにおいは客車のいたるところにしみついて、壁や天井もうっすらと暗く煤けていました。
鼻の中には必ず煤が入り込み、うっかり窓枠に腕をのせようものなら、一張羅のお出かけ着の袖が黒く汚れてしまうのです。
小さいわたしは鼻や喉や耳も弱かったのでしょう、必ず酔いました。
スチームの暖房はたいそう乾燥するので、喉が痛くなり、人がいっぱいだから酸素濃度も低かったのでしょう、そこへ人のにおいと熱気が充満して息苦しいことと言ったらありません。
わずかに開けた窓の隙間に鼻をくっつけて、冷たい外気を吸い込みながらしのぎましたが、トンネルが近づくたびに立ちあがって、すばやく閉めねばなりませんでした。
窓が開いているとどうなるかの詳細は、芥川龍之介の短編小説『蜜柑』をご参照ください。
トンネル内で窓が開いているとあのように大変なことになるのです。
山はみぞれの日でも平野には陽がさんさんと降りそそぎ、梅の花や菜の花が咲いていたりします。
その明るい街の駅に、眼も眩れ心も消え果てて降り立つのが、小さいわたしのSLの旅でした。
デパートのファミリー食堂で、にぎやかなお子様ランチや、銀色の器にくるんと盛られたアイスクリームを食べさせてもらえるのでなかったら、きっと街へなんか行きたいとは言わなかったでしょうね。
時は流れ、わたしが中学生になるころにはディーゼル機関車というものが山の駅を発着するようになりました。
袖も鼻腔も汚れず、窓を慌てて閉めなくていい列車の旅はなんと快適なことでしょう!
中学生は関西へ修学旅行に行くことになっていましたが、わたしたちは当然これに乗って行けるものと思っていました。
山霧のたちこめる秋の日、団体客用入り口からホームに出たわたしたちが目にしたのは、昔ながらの8026型という蒸気機関車でした。
「えーっ!何で、しゅっしゅっぽっぽなん?!」とかなしみの声が一斉に上がったのを覚えています。
それから大阪駅まで、寝台のない客車で一泊、じゃんけんで負けたら床に新聞紙を敷いて寝るという難行苦行の旅が始まったのでした。
「修学旅行は汽車で行った。床に寝た。つらかった。」と、しばしばこぼしてきましたが、さっき資料で調べてみると、どうもその汽車がうちの駅を発着した最後の汽車だったらしいのです。
「つらいだろうが、これが最後のSLだ。」と知っていたら、いくらかしみじみと乗車したかもしれませんね。
その翌年に父が自動車を買いました。
「これより大分県に入ります。車が揺れますのでお気をつけください。」
観光バスのガイドマニュアルにそう書かれていたという悪路が急速に整備され、わたしたち一家は父の車で阿蘇山にも別府温泉にも気軽に遊びに行けるようになりました。所用で県庁のある大分市に行くにも車が便利です。
どんなことでもあとになってからよくわかるのですが、それがわが町やわが家のレベルでのモータリゼーションというものだったのですね。
わたしが高校や大学に通うために家を離れている間に、駅も、駅前の商店街もしずかにしずかに寂しくなっていきました。
就職して数年の間、走る、バスに乗る、列車に乗る、走る、という通勤を続けていましたが、周りが迷惑だからいいかげんにしろと叱られ、人の1,5倍くらいのお金と時間をかけて運転免許を取得し、小さな車を買いました。
一度車に乗り始めるとバス停も駅もわたしの暮らしから見えなくなりました。
何年も経って気がつくと、駅舎に人はまばらになり、路線バスやタクシーで混みあっていたロータリーもがらんと広くなっていました。
さらに時は流れて、駅は業務委託駅になりました。夜は誰もいません。
夜遅く列車で帰ってくると、駅舎はしんと暗く、キオスクの跡には飲み物の自販機だけが2台、静かに灯っています。
駅前通りも、ずっと遠くまで誰もいません。
変わりゆくのはこの世のことわり。(※)
イノベーションが必要だあと言われれば、そうでしょう。
でも、全ての人がそれを強いられるのはむごくないでしょうか。
駅前通りには昔、すてきなワインをそろえている小さな酒舗がありました。同級生のヤスコさんの生家です。
ヤスコさんが「どうして、普通に暮らしたら、生きられんのかね。」とつぶやいたことがあります。
わたしも、そう思います。
旅先にふるさとむしろ近くあり晴れたる駅の鉄銹のいろ
島田幸典『駅程』
※英国統治下のビルマで書かれた小説に
『変わりゆくのはこの世のことわり』(ティッパン・マウン・ワ/てらいんく出版 2001年)
というのがあります。
麻生由美
大分県出身 1978年まひる野入会
歌集『水神』(2016年/砂子屋書房)
来月の更新予定
3/ 8 (金) お休み
15 (金) まひる野歌人ノート⑧ (最終回) 担当:小原和
22 (金) 山川藍のまえあし!絵日記帖⑨ (最終回)
29 (金) 麻生由美の大分豊後ぶんぶんだより⑪ (最終回)
来月もお楽しみに!