最近、映画やドラマレビューを書いていてパターン化してきたことに気づいたので、路線変更できないかと思ったのツラツラと書いてみる。
普通の映画レビューは「面白かった/つまらなかった」で止まることが多いけど、私の場合は作品を踏み台にして、自分の中の連想回路が暴走していく。
だから「脳内マラソン」って表現が、めちゃくちゃ合ってる。
私自身も書きながら「あ、ここ繋がるんか」って後から気づくことが多い。
ブレインストーミングを一人でする時にボッチブレストというが、私のレビューは「壁打ち」に近いと思う。
だから映画レビューというより、映画を使った思考のスパーリングといったところで、何かしらを殴ってる。
相手は映画そのものだけではない。
監督の意図、脚本の穴、時代背景、自分の記憶、社会への違和感、「なんでこう描いた?」という疑問。
あと、自分自身の感情……全部まとめて分解・解剖していく。
何故か、普通の「あらすじ+感想」レビューにならん。
途中から完全に「思考の実況中継」になってしまう。
これまでのレビューで何を殴ってきたか、
- 『シー・セッド その名を暴け』では社会とメディアを殴り
- 『ブレイン・ゲーム』ではハリウッドの既視感を殴り
- 『盗聴者』ではフランス映画の“説明しない恐怖”と格闘し
- 『西部戦線1953』では戦争と“タンク”の歴史記憶に飛び火する
普通のレビューサイトって、作品単体で閉じる。
でも私のは、映画から別の世界へどんどん接続されて、好きだからこそレビューを通じて会話する。
完全否定ではない。
『キャッチ・ア・キラー』なんか典型で、「何で?」と思いながらも、空気感に飲まれて2回観てる。
あれ、もう作品と取っ組み合いしてる状態やからね。
だから私のレビューは脳内実況になって、途中で明らかに「映画の紹介」を超えていく。
最初はちゃんと観てるのに、「その設定おかしいやろ」「なんでそこ死なすねん」「ここで刑事を活かせよ」「それって今の社会そのものやん」「この監督、絶対ここ狙ってる」と、どんどんリング中央に出ていく。
これは、“嫌いだから殴る”わけじゃない。
むしろ「もっと強くなれたやろ!」と思って殴ってる。
だから書いてて熱が入る。
普通のレビューやと、「演出が秀逸でした」「社会問題を鋭く描いています」みたいに整えに行くけど、私の場合、「何言っとんねんコイツ」「そこで死なんでも」と組み手になる。
一応、自己分析をしたけど、これまでの記事を読み返してみるとこんなパターンになってる、というか、レビューの流れを追ってると、途中から「あ、今この映画の急所つかみに行ったな」って分かる(笑)。
自分で言うのもなんだけど、レビューって、単なる「感想」じゃなくって、
- 映画が観客に何を信じ込ませようとしてるか
- どこで論理をごまかしたか
- 感情で押し切ろうとしてるか
- 逆に、作り手の本音が漏れてる瞬間はどこか
を探りながら進む。
だから、“映画との答え合わせ”に近い。
さらに、
- この設定なら本来こういう心理になるはず
- このキャラ配置ならこの役がもっと効く
- このテーマなら最後まで貫け
- もっと成立してほしかった
- ここまで来たなら逃げるな
- このテーマなら最後まで責任取れ
って、作品側の“やりたかったこと”まで拾った上での公開スパーリングになる。
映画を信じて観てるから、裏切られた時にタックルが深く入る。
これが自分流の映画やドラマの楽しみ方。
自分的にはちょっと感想を書いてるだけなのに、何かしらと向き合った結果、今回はどこを殴ってたんやって答え合わせをしてる。
ここまでくると、もはや様式美やな。
最近の戦績
- 『キャッチ・ア・キラー』
- 監督の説明不足を逆に評価しながら解析
- 『盗聴者』
- 「これコントにもなる設定やろ」で変化球
- 『シー・セッド』
- 映画を踏み台にして日本映画界まで攻め込む
- 『ブレイン・ゲーム』
- 『羊たちの沈黙』と『SE7EN』のパーツ流用疑惑で押し出し
- 『パッセンジャー』
- 監督のラブストーリー解釈に張り手して、別映画を脳内作成
- 『クライム101』
- マネーは殴られたけど、監督は無傷で生還
- 『テルマ&ルイーズ』
- 監督・脚本:生還、刑事ハル:MVP、ダリルだけ重傷
- 『メイド・イン・コリア』
- 感想文やなくて、解剖した半年後の自分に向けた調査報告書
だいたい誰かが負傷してるか、解体されてる。
だから、これからは書き方を変えてみようと思って書き出した。
やけど、実際は総合格闘技というより「公開壁打ち+脳内解剖+たまにタックル」くらいかもしれん(笑)。
今後は監督・脚本家・役者などの制作者が、全員無事に生還できるようにしたいと思う。




