『ジョーカー』 放電される狂気と哀しみ | シネマの万華鏡

シネマの万華鏡

映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

三連休は台風で大変でしたね。こちらは13日には台風一過、お昼には電車も動き出したので、幸い連休後半は映画に出かけることができました。ただ、予定していた『ジョーカー』『蜜蜂と遠雷』までは観られたものの、連休中に観たかったもう1本『WEEKEND』は時間が合わず、週明けに持ち越しです。

テレビをつければまだまだ水が引かない地域もあって、なんだか申し訳ないような気持ちです。今回の台風19号、来る前から関東は大騒ぎで「騒ぎすぎなんじゃ・・・?」と思うほどでしたが、ニュースを観てびっくり!!

最近の台風被害、本当にひどいですね。何かが確実に変わってる。

皆さんのお住まいの地域は大丈夫だったでしょうか?

 

ジョーカーの異端性

『ジョーカー』は『バットマン』シリーズのヴィラン・ジョーカーを主人公にしたスピンオフ作品。

ジョーカーの名前の由来は言うまでもなくピエロの絵がお決まりのトランプのジョーカーなんでしょう。

ポーカーはじめさまざまなゲームで万能のワイルドカードになるジョーカー。一方で、ババ抜きでは最後にジョーカーが手許に残った人が負け。最強の時もあれば、最悪のカードになる時もある不思議な1枚です。

もっとも、最強であれ最凶であれ、トランプの4つのヒエラルキーのどこにも属さない異端者的存在である点は変わりません。

 

ジョーカーのミステリアスな特性は、そのままピエロのそれとも繋がってる。

口は笑っているのに、目の下には涙を描くことも。

映画の中では狂気の殺戮者=「殺人ピエロ」として描かれることがしばしば。スペイン映画『気狂いピエロの決闘』(2010年)では、冴えない道化師の男が女性への愛をめぐって暴走し始める。『IT/イット ”それ”が見えたら終わり。』(2017年)では、謎のピエロ「ペニーワイズ」が子供たちを狙う奇怪な連続殺人事件のカギを握っています。

 

人を笑わせる存在であるはずのピエロが、物語の中では笑いながら殺戮者に変貌するのは何故なのか?

全くの推測ですが、笑いには狂気の発現につながる側面もあること。そしてもうひとつ、人間には普段心置きなく笑いものにしているピエロの逆襲をひそかに恐れる心理があるんじゃないかと。その心理が「殺人ピエロ」という存在を作り出したのかも・・・そんな気もしています。

 

いずれにしても、分厚い化粧の下に素顔を隠したピエロという存在の不可解さ、不気味さは、さまざまなドラマを生み出してきました。『バットマン』のジョーカーもそのひとつ。これまではバットマンの宿敵というジョーカーの一面が描かれてきましたが、今回は、ピエロのジョーカーが人間社会に憎悪を抱く怪人へと変貌した過程を描きます。

 

今作のあらすじ(ネタバレ)

 

舞台はバットマンシリーズお馴染みの架空の街ゴッサム・シティ。ただし、時代背景は実写版『バットマン』のそれより少し前。当時のゴッサム・シティは不況のどん底で、ストライキや経費削減で公共サービスは停止し、街は失業者とゴミと大量発生したネズミで溢れています。

この街に暮らし、コメディアンを目指すアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は体の弱い母親と2人暮らし。精神的に不安定なアーサーは市が賄うカウンセリングに通いながら、ピエロのアルバイトで生計を立てていますが、ストレスの溜まった街の人々に暴行を受けることもあり、嫌なことばかり。そんな中で同僚に護身用の銃を手渡されます。

しかし銃を持っていたことが露見してピエロのアルバイトはクビに。絶望のどん底に突き落とされたところで理不尽な暴行を仕掛けてきたエリートサラリーマンを銃殺してしまい、ピエロによる殺人事件はゴッサム・シティの大ニュースに。

一方で、母親が生活支援を乞う手紙を送り続けていた街の実力者トーマス・ウェインが自分の実の父親であることを知ったアーサーは、息子と認めてもらうべく強引にウェインに近付きますが、自分の息子ではない、母親の妄想だと否定されて・・・

 

アーサーの憧れのコメディアン・マレー・フランクリン役にロバート・デニーロ、アーサーと同じアパートに住むシングルマザー役でザジー・ビーツ出演。

 

過去最高のジョーカーを更新

『バットマン』シリーズのジョーカー役は、何故かバットマン以上に花形。もともとスカッとするヒーローものというよりは何か異質な後味が残るダークな作品でもあり、その分ヴィランが映えるのかもしれません。

映画版の初代ジョーカーを演じたジャック・ニコルソンに、『ダークナイト』のヒース・レジャー、いずれも伝説的な名演。単にヒーローに倒される悪役ではなく、ヴィランならではの魅力を存分に発揮してきたジョーカーは、俳優にとっても挑戦し甲斐のある役柄、同時に相当ハードルの高い役でもあるんでしょうね。

 

そんなプレッシャーを軽々とはねのけて、ジョーカー伝説をさらに塗り替える名演を見せた今作のホアキン・ジョーカー。

『ザ・マスター』や『ビューティフル・デイ』など、どこか狂気を湛えた役柄で格別の輝きを見せるホアキン・フェニックスには、ジョーカー役は文字通り「彼のための役柄」。どんな時代に生まれても、きっとこの役を引き当てたんじゃないかと思うほどです。

しかも今回はジョーカー主演のスピンオフという特別な作品。

ジャック・ニコルソンの陽性のジョーカー、ヒース・レジャー渾身のマッド・ジョーカーも素晴らしかったけれど、それはあくまでもヴィランとしてのジョーカー。それに対して今作は、この世界観にバットマンが登場したら逆に違和感があるほどどっぷり人間ドラマです。

物語中盤までに蓄えた社会への怒りを終盤全身から放電するような鬼気迫るジョーカーが、ホアキン・フェニックスによって完成する、その瞬間に痺れるような戦慄があります。

 

アーサーから確変したジョーカーの降臨を強く印象づけるのは、彼が赤のスーツをまとった姿で、ビルの谷間の石段に現れるシーン。

舞台の上で一身にスポットライトを浴びるヒーローさながらに、ナルシスティックにステップを踏みながら石段を降りてくるジョーカー。その狂気!陶酔!

いつまでも残像が残り続ける禍禍しくも美しい場面です。

 

 

どう考えてもゴールデングローブ賞・アカデミー賞の男優賞ノミネートは確実。有力な受賞候補にもなってくるんでしょうね。

 

世界観への違和感と既視感の強いストーリー

ただ、ホアキンの演技は文句なしの名演と認めざるをえない一方で、この作品に何か決定的に物足りないものを感じてる自分がいる・・・個人的には、それが正直な感想です。

 

上にも書いたように、この作品の生々しい日常感はバットマンが登場するあの同じ世界の出来事としては違和感がありすぎる。

せっかく世界観に入り込んでいたところで「ゴッサム・シティ」という名前が出てくると、ふっと醒めてしまうし、あのジョーカーがカウンセリングを受ける場面までガチに見せてしまうリアリティーも、何かくどさを感じてしまって。

 

もうひとつ、「殺人ピエロ」というモチーフは、何も『バットマン』のジョーカーだけでなくさまざまな作品で取り入れられてきたものだということ。人を笑わせる存在であるピエロが凶行に及ぶストーリーもすでに何度も映画になっていて、既視感が強いんですよね。

抑圧されたピエロが凶悪な破壊魔に変貌するというストーリーなら、『気狂いピエロの決闘』のほうが突き抜けていて面白い。ファンタジーという制約がある『ジョーカー』と違って政治批判もシャープだし、容赦なく陰惨です。

 

 

さらに、最も中途半端さを感じたのが、アーサーと同じアパートに住む女性・ソフィーとの関係。

この作品の流れなら、彼女との関係が完全にアーサーの独り相撲(というか妄想)で現実では彼女に拒絶されるという事実に絶望し、怒り狂うシーンがありそうなものですが、そこが綺麗に削り取られた気配。

女性に危害を加えるようなストーリーはDC実写版には合わない。たぶんそういう制約があって、ソフィーとの関係の描写が中途半端になってしまったような・・・邪推かもしれませんが。

彼女との物語が弱いことによって、女性や家族への憧れという、アーサーの中にある求めても得られないものへの渇望がヒリヒリする痛々しさで迫ってこないんですよね。

 

本作で前に出しているのは、人が笑いをもらうだけでなく、時として嘲笑をぶつけ、ストレスの捌け口にしてしまう存在としてのピエロ、あるいは社会的弱者の社会への逆襲。

もっとそこにフォーカスしても良かった気がします。父親問題は後で書く意味では重要だけれど、ちょっとテーマを欲張りすぎた感も。

 

デニーロとの「競演」が見どころ

内容的にはありきたりな印象もある中で、見どころとして面白いのが、マーティン・スコセッシが監督し、ロバート・デニーロが主演した『キング・オブ・コメディ』のオマージュという要素。

もともとこの作品にはプロデューサーとしてマーティン・スコセッシが参加するという話があったので(最終的には立ち消え)、『キング~』のエッセンスを取り入れるというアイデアは当初からあったのかもしれません。

 

(『キング・オブ・コメディ』は冗談抜きでイタいコメディアン志望の男を描いた作品。傑作だけど笑えないし、むしろホラー。)

 

アーサーが人気お笑い番組への出演を妄想しながら自宅でひとり芝居を演じるシーンのイタさは、まさに『キング・オブ・コメディ』でデニーロが演じていたイタい妄想のオマージュ。

『キング・オブ・コメディ』ではデニーロが憧れのコメディアンにストーカーばりに付きまとって自分のコメディアンとしての素質をアピールしますが、今作ではアーサーの憧れの人気コメディアン役がデニーロ。否が応でも『キング~』のデニーロと今作のホアキンが重なって見える仕掛けで、2作を併せて観ると2人の「イタい男」の演技合戦が楽しめます。

 

ヒーローとヴィランは表裏一体の存在

ヒーローもヴィランも社会の歪みの投影、そしてどちらも孤高の存在。常に対立する存在でありながら、実は表と裏の関係であり、さまざまな意味で似ています。

ヒーローの正義は社会を悪から守ること。しかし、既存社会=善という大前提が崩れたら、正義の定義も揺らぎ始めます。そうなってしまうと、社会を守るヒーローと社会を壊そうとするヴィランの境目はたちまちのうちに曖昧なものになってしまうわけです。

既存社会の住人である私たちにとってはとても恐ろしい発想ですが、この作品では社会の必ずしも善ではない一面を指摘し、正義も悪も相対的なもの、場合によっては逆転さえしうるものだということを示唆しているのです。

 

そして、正義と悪のリバーシブルな関係性を見せつけるように、今作ではバットマンとジョーカーの関係に新たな可能性を仄めかしています。

本作では、アーサーがトーマス・ウェインの息子だという可能性を否定する方向に向かわせつつも、完全には否定せずに終わってる・・・でも、仮に事実だったとしたらバットマンとジョーカーは兄弟だったということになるんですよね。

大胆不敵な設定!! そのくせ、まるで原作『バットマン』の時代からの裏設定でもあったかのように、バットマンの世界観にすっと溶け込むものがあります。

 

人間、物事の表と裏が前提にあるこのシリーズをますます面白くさせる「疑惑」。アメコミらしからぬ重さが苦手だった『バットマン』シリーズですが、この「疑惑」によって楽しみが増えました。

なんだかんだ言って、話題を広げてくれるという意味では面白い作品でしたね。