小説と未来 -124ページ目

33. 再々依頼

 いったいどれだけの時が流れた事だろう。

 響は昨日抱いた女の事を思い出した。ぺちゃくちゃうるさい女だったが乳はでかく、絞まりも良かった。綺麗でかわいいだけの女よりも、抱くというだけの目的なら最適な女だった。


 だらしない日々が続いていた。目的も、目標も失っていた。恨みも、憎しみも無く、何もかもがなくなったような状態が響の毎日となっていた。ふと自分がまさになってしまったような気がしていた。

『あの人もこんな日々を続けていたのだろう』ふと響はそんな事を感じた。単調な日々を送ることで、人はいかに楽な生活をするかという目的だけに達してしまうかもしれない。

 そんなどうでもいい事を思っていたら、今日もまた昼寝をしていた。毎日酒を飲んで、朝方眠る。気が向いたら女を抱きにゆく。そんな日々の繰り返しだった。



 斉藤が部屋のドアを開けようとしていた。

 響はその事に気づかずに眠っていた。斉藤は気配を消すのが上手だが、響はそれ以上に周りの気配に敏感なはずだった。でもその時の響は斉藤が部屋の中に入り込むまでその存在が迫っている事に気づかなかった。

 ドアがガチャリと鳴って開いたときに響は目を覚ました。そして慌てて身を起こした。


「君にしては少し無用心じゃないか?いや、部屋の鍵はしっかり閉まっていたよ。こいつを開けるのは手間が掛かるんだよ。よくできた鍵なんだ。十分な細工と運に近いコツが必要なんだ。細工が十分でそれがうまく掛かるべき場所に掛かって初めて開くんだよ。それを完了させるには5分、10分は掛かる。いつもの君なら俺の存在に気づいて先にドアを開けてくれる。けど君は俺がドアのピッキングに成功するまで俺の存在に気づかなかった。いつもの君らしくない。どうした?その無様な態度は?最近は鏡も見てないのか?見ていれば気づくものでもないかもしれない。でも君は1ヶ月前に会った時より遥かに衰(おとろ)えている」

 それは的を獲ていた。響は何も答えることが出来なかった。

「それはとても良くない事だ。なぜなら君には今週末にはぜひ実行してほしい事がある。この願いが何なのかはわかっているよね?君はその事を忘れてしまったわけじゃないよね?」


 響は何も言わずこくりと頷く。


 斉藤は何も言わずに背広の内ポケットから1枚の紙切れを取り出し、それを響に手渡す。


次の土曜、そこで彼女(嶋咲枝)は食事会に参加する。君もニュースで知っていると思うが、政界は今いろいろなところで変革中なんだ。彼女と何人かの議員がそこで会合を行う。部屋は四方とも囲まれていて、とても君の入り込める隙は無い。一級の料亭だからめったな客は入れない。あまりチャンスのある場所とは言えない。しかし全くチャンスがないわけではない。まず第一としてこの情報は裏の筋から手に入れたオフレコの内容だ。報道陣や雑誌記者は一人としていないだろう。第二にその店には細い路地を抜けていかなくては入れない。つまり彼女を殺れるチャンスは彼女が帰るころ。その料亭を出たところだ。小路を歩かなくては車には乗り込めない。俺の知るところでは彼女のボディーガードはその日休みとなっている。だから彼女はお忍びでタクシーか何かでやってくるだろう。チャンスはそこに十分にある」


 響は神楽坂の料亭と略図の書かれたメモをじっと見つめていた。

「どうした?何か不満か?」

「いや」

「今回はわざわざ細かく説明してやったんだ。この意味がわかるか?多少難しい条件だという点もある。でもそれだけじゃない」

 響は斉藤の引き締まった顔を眺める事しか出来なかった。


「いいか。今回はこれで3度目だ。4度目はない。君は俺の顔を見すぎているし、君のボス(嶋咲枝)もそろそろ俺の存在に気づき始めている。俺もこれ以上、君に近づく事は危険だ。俺は君が目的を達成してくれる事を何よりも願っている。君の失敗なんて俺には何の価値もない。

 成功してくれれば俺も万事上手く行く。俺は目的を達成できる。君には多額の報酬を用意しておくから、それを基にどこにでも行ってしまえばいい。

 でも君が失敗したらどうなる?君は俺の顔を見ている。その事をよく覚えておいてくれ。この間、俺に会ったときに君は俺に歯が立たないことを理解しているはずだ。これは脅し(おどし)じゃない。そうするしかないという流れなんだ。その事をわかっているか?こんな時に腑抜け(ふぬけ)になっている暇なんてないんだ。君に同じ日々はもう来ないんだ。進んでしまったんだ。ここで気楽にやっていける人生は終わっているんだ。君がその事を望んだ。俺から仕事を請(う)けたろう?その時点で君はもう戻る事のできない選択をしているんだ。その事を忘れてしまったのか?」


 暗い中で、斉藤の綺麗に並んだ前歯が不気味に輝いてみえた。

 響は何も答えられなかった。


「一言くらい返事をしたらどうだ?YESかNOか。NOならこの場で君をどうにかしないとならないがな」

「いや、もちろん、YESだ」

君は自分の状態を心配しているんだろ?俺にだってわかる。君は栓が抜けてしまっている。何がそうさせているのかは知らないが、君はその栓をどうする事もできない。要は栓を閉める必要がなかったからだ。昨夜も女を抱いて満足だったんだろ?君は俺がどこにいたのか、気づきもしなかった」

「つけていたのか?」

「つけていたわけじゃない。昨日は間が悪かったんだ。俺が来たときに君はちょうどここを出てゆくところだった。引き止めるのもなんだったんで、少しだけ後をつけさせてもらった。コンビニに行って帰ってくるだけならその後会う事もできただろうからね。それに人に敏感な君なら俺の存在に気づいてくれると思った。でも昨日の君は女の乳やケツばかりを追っていた。ただのそこらの欲求不満な学生にしか見えなかったよ。君は意外といろいろなところに恵まれているんだな。ぶ男ならそんな事もできないだろう。君は顔もいいし、フェロモンも持っている。頭も悪くないし、鋭い勘をしている。それはそれでどこでも生きていける力を持っている。だからチャンスはある。俺はそんな君の人生を終りにするつもりはない。勿体無いからね。今は大きな時が来ている。人生を誤っちゃいけない。俺は君に成功してくれることを望んでいる。それ以外は望んじゃいない。ただもし君が失敗したときは自分を守るための行為もしなくちゃならない。その事がわかるかい?君のところにもう一度来たのは俺の賭けでもある。よく覚えておいてくれよ」

 斉藤の笑みは決して不気味なものではなかった。この男はこの男なりに筋を追って生きている。得体の知れない存在ではあるが、この男はこの男なりの目的を達成させようとしているだけなのだ。


『俺はどうする?』と、響は自分の心の内に自分で尋ねた。

「あの女を殺(や)らなくてはならない。その先はわからない。ただそうする必要が俺にはあるんだ」

 そして、声に出してそう答えた。


 斉藤は声になって出てきた響のむき出しの言葉に安堵(あんど)の表情を浮かべた。

「そうだ。それでいい。まだ数日ある。自分がしなくてはならない事を見つめ直せ。そしてその先に進むんだ。成功を祈っているよ」

 そう言うと斉藤は響に背を向けた。

「俺の伝える事はそれだけだ。後は頼むよ」

 そして斉藤は響の部屋を出て行った。


 幻のような出来事だった。でも手に握るメモが起こった真実を伝えていた。もうすぐ全てを動かさなくならないときが迫っていた。


34話に続く。

32.前野正の考察

 一週間前、嶋咲枝は大学の講義堂で講演を行っていた。前野正はその講演会に潜りこんで、嶋咲枝の話を聞いていた。これから就職する学生に向けての講演だった。話はまとまっていて、説得力のあるものだった。笑える話もあり、一般的には非の打ち所のない講演だった。

 しかしその話にはある部分が抜けていた。前野正はそのある部分について考えた。それは嶋咲枝の体験だ。普通、人に何かの話をするときは自分の体験を交えて語るものだ。しかし彼女の話には自分の体験がまるでなかった。新聞に載っている知識や過去の偉人の話は出てくるが、自分の話がまるで出てこなかった。

 つまりその話は誰か別の人でも語れる、一つの完成された発表例のようなものであった。

 その講義は嶋咲枝とは関係のない有名私立大学で行われていた。

 前野の知る限り、彼女は自分の大学で講演をした事がなかった。だがそれは普通気にするようなところでないだろう。お呼びがなければわざわざ自分から講演を行う事もないだろうし、時間の都合が合わなければ講演は行われないだろう。選挙区も違うし、わざわざ自分の母校で講演を行う理由はない。だからそれは当然の事といえば当然の事だ。


 でも、前野正は嶋咲枝の学生時代が気になった。



 今回の物語は、前野正の考察(こうさつ)である。この話は前回、前野正が嶋咲枝の過去を追うようになり、彼女の家族にまで会いに行った話の続きである。


 前野は嶋咲枝の母校となる大学が気になり、彼女の大学時代を探る事にした。前野は大学に潜りこみ、何とか嶋咲枝と繋がる人を探そうとした。

 しかし彼の入れる場所で、嶋咲枝に繋がる手がかりは何も見つかりそうになかった。大学は未だ夏休みだったし、図書館に入るにはカードが必要だった。

 事務局で対応をしてくれた局員が唯一教えてくれたのは、嶋咲枝が大学時代に専攻していたゼミの教授が今も同じ大学の同じ所で仕事をしているということだけだった。その教授は20年間変わらずに同じ場所で同じような事を続けている。

 前野はその教授に連絡を取ろうと、学部の電話に連絡してみた。意外にも教授は前野の取材を快諾(かいだく)してくれた。嶋咲枝が講演を行った頃から一週間後の事だった。


 百合崎久江(ゆりさきひさえ)教授は事務局までわざわざやってきて、前野の事を出迎えてくれた。そして彼女は自分のゼミ室に案内してくれた。彼女の年齢は53歳、ほっそりとしてやせ細った女性だった。

 彼女は政経学部で、現代社会学についての研究を行っていた。


  前野:「突然訪れてすみません」


百合崎:「いいえ、構いませんよ」と、にこやかに。


 前野:「それで、わたくし、嶋咲枝さんについていろいろと調べているのですが」


百合崎:「ええ、彼女は大学時代から政治に興味があったみたいで、とても熱心に学んでいました。

     成績も優秀で、レポートもとてもよくまとまっていました」


 前野:「ええ、その辺りはだいたいよく存じています」


 嶋咲枝の過去についてのプロフィールにはたいてい彼女が大学時代に政治について勉強していた事が書かれている。それは彼女の大学時代を示している表の部分なのだ。


 前野:「こんな質問もどうかとは思うのですが、百合崎教授は嶋さんの大学時代について、

     はっきりとした覚えはおありですか?」


百合崎:「そうですねえ。何人もの学生を相手にしてきましたので、

     彼女について思い返したのは彼女が有名になってからですが、

     彼女を最初にテレビか何かで見たときに、とても笑顔が素敵になったなと思いました。

     私が教えていた当時、彼女はまるで笑顔のない子でして、

     私の前だったからかもしれませんが、とても静かでおとなしかった感じがします。

     成績は優秀でしたが、どちらかというと目立たずに友人も少ない感じでした」


 前野は意外に思い、はっとした。

 彼女が大学時代成績優秀だったのは有名である。だから前野は嶋咲枝はリーダーシップがあり、みんなの中心にいるような大学時代を送っていたと考えていたからだ。社会人以後の嶋咲枝からは想像もできない話だった。


 前野:「嶋咲枝さんは目立たない存在だったのですか?」と聞き返す。


百合崎:「そうですね。

     彼女と接する機会が多かったのは彼女が4年生の頃でしたが、

     その頃の彼女は本当に物静かでした。

     黙々と勉強をしていて、話すにしても余計な話はしない。発言をするだけでした。

     後で思い返したのですが、確か彼女は大学3年の時にお姉さんを亡くされていて、

     その事もあったのかもしれませんね


 姉の話は前野も何かの記事で少しだけ見たことがある。

 彼女の家族について、父親は一流企業の役員で、母親は専業主婦、姉がいたがすでに病で他界しているという話である。ただそれだけの記事だった。しかし姉を亡くしたというのは大きな出来事である。その事が彼女の人生を大きく変えたとしても何の不思議もない。

 前野は先月、嶋咲枝の父親に取材をして以来、家族間で何かがあった事を感じていた。つまりそれは姉に関する件だったと考えるのが自然だろう。前野はその事を確信し始めた。


百合崎:「あ、それから」


 前野:「ええ、何か?」


百合崎:「彼女は大学2年の後期後半、つまり1月から3月頃に長い間、姿を見せなかったこと

     があったそうよ。

     私も当時はそんなに彼女の事を気にしていたわけではありませんでしたし、

     これは後になって、成績優秀のはずの嶋さんが思ったより取得した単位が少ないと感じて

     周りの学生に聞いて知った事だったのですが、そういうこともあったみたいね。

     でも多くの大学生は受験疲れで、遊びに走ったり、趣味に夢中したりする時期があるから、

     彼女にとっても特別な事じゃないって思っていましたけどね」


 前野:「そうですか。人にはいろいろとあるんですね。

     輝いている人間がいつも輝いていたとは限らないと言ったところでしょうか


百合崎:「そうですね。

     嶋さんは今でこそとても輝いていますが、やはりつらい時期もあったと思います。

     私はそんな彼女の事を応援していますが」


 前野:「ええ、わたしも彼女は本当に素敵な政治家だと思います」


百合崎:「そうですか」


 前野:「今日は本当にありがとうございました」


 そんなふうにして、前野は新たな真実を手に入れた。



 それから、前野は嶋の父親に手紙を書いてみる事とした。

 それは先日の突然の訪問をわびるところから始まり、娘を亡くした父親の想いを暗に感じて綴(つづ)った内容の手紙であった。そしてその手紙にはもう一点、嶋咲枝の姉が亡くなった時にどんな事があったのかを何とか聞き出そうする内容が裏に隠れて書かれていた。

 前野はその手紙を嶋咲枝の父親に送った

 返信があるかはわからない。それでも、少しだけ真実に近づけた気がして、前野はにやりと笑んだ。ストーリーが繋がる事に前野はライターとしての楽しみを感じていた。


33話へ続く。

31.馬込警部補に仕組まれた罠

 時は過ぎてゆく。どこかで何かが起こるのを待っている。そんなものを待つことほど苛立たしい事はない。選択してしまえばいいことなのに、響は未だ選べずにいる。


 何もしないまま、数日が過ぎた。

 日曜の夕暮れ時だった。最近はこの時刻になると雨が降り出す。

 響は1本の傘を手に家を出た。マンションの前には珍しい訪ね人がいた。馬込純平(まごめじゅんぺい)警部補だった。

 彼は響が声を掛けるより先に、響の存在に気づいた。と言っても気づいたのは響が馬込の事を10秒近く直視してからだった。

「お会いできてよかったです。今日できなかったらどうしようかと思っていました」

 馬込は響に近づいてきて、そんな挨拶を響にした。



 二人は居酒屋『ふくちゃん』に行った。

 客はほとんどいなかった。常連客も誰もいない。その日は歌い人がいた。しかし彼は歌を歌わずに、何か小さな音を奏でて、ギターの練習をしているようだった。

「いらっしゃい」と、ふくちゃんは言ったが、いつか見た例の警官が一緒だと思い、響の事を知らないふりをした。

 響は手前の座敷席に靴を脱いで上がった。馬込はそのあとについて、座敷席に上がった。座布団に座るなり、馬込は話し始めた。


馬込:「実は、わたくし、警察を辞めようと思っているんです」


響 :「急にどうかしたの?」


馬込:「この間、部署を異動されて、わたくし、内勤の仕事になりまして。

    日暮里の事件を追う事ができなくなりました。

    不甲斐(ふがい)ない限りで、一層のこと辞めてしまおうと考えているんですよ


響 :「俺には関係ない話ですね。辞めるなら好きに辞めてくださいよ。

    あ、瓶ビール2本くださーい!」


 響はカウンターにいるふくちゃんに声を掛ける。

 その日は娘の由佳がバイトしていた。ふくちゃんは娘の由佳に響の事を知らない人のふりをするように説明しているみたいだった。

 その通り、由佳はよそよそしく、瓶ビール2本とお通しを置いていった。響は2本のコップにビールを注いだ馬込は軽く礼を言って、そいつをグビッと飲んでから話を始めた。


馬込:「確かに、中本さん(響の偽名)には何の関係もない事ですよねえ。

    わたくしもそのように思っていますよ。

    ですが、どうしてもあなたにこの事をお伝えしなくてはならないと思いまして。

    いや、というよりは、わたくしまだ諦めきれていないのですかねえ。

    つまり、まだあなたから何かをお聴きしなくてならないと考えているんですよ」


響 :「俺は、前にも言ったように、まささんの事はよく知らない」


馬込:「どうしても引っかかるんですよ。

    何も知らないあなたがどうして、月島雅弘(まさ)さんのマンションを譲り受ける事ができたのか?

    それからどうしてただの運送屋(まさの職業)あれほどいいマンションを買う事ができたのか?

    庶民ならそうは簡単にならない。宝くじでも当てたというのなら話はわかりますが」


響 :「じゃあ、宝くじでも当てたんじゃないですか?」


馬込:「あなたは、そのマンションを住む人がいないからと言って譲(ゆず)り受けた?」


響 :「そうですよ。いいじゃないですか?」


馬込:「違う。

    わたしは、自信がある。そうではない。

    彼があのマンションを買ったのはあの爆破事件以後なんです。

    わたしは彼が何らかの報酬を得たと考えている。仕事を月島さんに与えた人物からです。

    中本さん、あなたもその人物と繋がっている

    だからあなたはあのマンションを譲り受ける事ができた。

    だからあなた自身は日暮里スーパー爆破事件の真相を知らないかもしれないが、

    あなたの上にいる人物は日暮里スーパー事件の真相を知っていると考えている」


『でもそれは違う

 まささんが嶋咲枝と繋がるようになったのは、日暮里スーパー爆破事件、つまり俺がまささんと会った日から2年後の事。少なくとも事件が起きた頃、嶋咲枝は一般市民だったし、それほどの力はなかった。俺もいろいろと調べたんだ。日暮里スーパー爆破事件と嶋咲枝とは何の関わりもない。俺はその事を知っている。馬込の言う事は一部、まささんと自分のボスが同じであるという点とかは当たってる。でも爆破事件の真相と、嶋咲枝が関係するとは思えない』

 響は頭の中で、そう考えていた。


響 :「残念だけど、そんな関係はありませんよ。

    俺は貧乏人。まささんがどうやってあのマンションを買ったかはわからない。

    あなたの言うように日暮里の事件で得たお金かもしれません。

   でも俺はただの金のない無職の難民ですよ。運がよかっただけです」

    と、自分とまさの関係を遠ざけるような言い回しを、響はわざとする


馬込:「わたしには時間がない。本来なら今日も休出して仕事をしろと言われていたんです。

    最近、思うのですが、わたしは何かの真相にぶつかろうとしているんじゃないかと感じるんですよ。

    そのせいで、誰かがわたしに真実を知らされないように動いている。

    冗談じゃなく、この事件は警察組織その物が絡んでいる気がするんですよ。

    内部事情を暴露してしまうなんて、正直もう警官として失格ですが、わたしはもうどうでもいい。

    あの事件の真相が知りたいだけになってきました。

    そのためなら自分の隠す部分の全てを見せてでも、あなたの知る限りの真実を知りたい」


 馬込の目は本気だった。だから響は酒を頼んだ。由佳が「浦ヶ霞」を一升瓶ごと持ってきた。響はコップに注ぎ、コップを馬込に渡す。


響 :「熱い話ですねえ。話せる限り、話したいですよ。思い出してみます」


 馬込は熱した勢いでコップに入った浦ヶ霞をグビグビ飲む。


響 :「まささんは、そうですねえ。酒が好きでした。自分でも酒を運んで、その酒をもらって、

    よく酔っ払ってましたよ」


馬込:「そんな事はどうでもいいですよ。それより月島雅弘は何かに恨みを持っていませんでしたか?」


響 :「どうかな。よくわからない性格ですが、特に人を恨むような人じゃなかったな」


馬込:「日暮里爆破の真相としては、恨みとか…」


 馬込は響に乗せられてどんどん酒を飲んでいった。話しては飲み、話しては飲んだ。馬込はだんだん響が言っている事がわからなくなり、仕舞いには自分が何を言おうとしているのかも忘れてしまった。

 酷く酔っ払って、気がつけば外にいた。雨は降っていなかった。腕にはめていた時計はまだ10時だった。しかし酷く酔っていた。

 一人の男が馬込に寄ってきた。馬込は最初、中本=響かと思ったが、それは違う男だった。確か居酒屋でギターを練習している男だと、馬込は思った。

 歌い人=柏木(かしき)は馬込に言った。

「だいぶ、酔っていますね。お送りしますよ。いや怪しいものじゃないです。そこの居酒屋にはいつもお世話になっているんで、ちょっとお客さんの事が心配になったという女将さんの代わりに僕が送りますよ」

 馬込は酔っていたので、そうして欲しかった。歩くのも面倒になっていた。


 何だかよくわからなくなって路上にどてっと座っていると、一台のコンパクトカーがやってきた。柏木は降りて、馬込の肩を抱え、後部座席に馬込を乗せた。

 乗ってしまうと、馬込は眠くて仕方なかった。そして目を瞑り、うとうとし出した。

『この車はどこへ行くのだろう?どこへ行くかも告げてない。でももう面倒だ。きっとどこかのホテルに連れて行ってくれるだろう』と馬込は頭の中で思った。


 やがて車は何処かに着いたようだった。

 見ず知らずの家だった。

「僕の家です。よかったら、泊っていってください」と柏木は言った。

 郊外の一軒家のようだった。築30年といった感じだろうか。若干古さを感じた。

 狭い家の玄関を上がり、客間に入れられた。ソファーに寝転がる。電機は付いたままだった。

 柏木は酔い覚ましの一杯の水を持ってきてくれた。

 馬込はそれを飲んで酔いを醒まそうとしたが、眠気を消すまでには至らなかった。柏木が出て行くと、そこにはもう眠りがあった。


 でも心地よい眠りをまた知らない男の声に起こされた。

「馬込君だね」と男は言った。男は何故か、自分の名前を知っていた。

「君は今、大きな局面を迎えている。俺は君がここに来てくれる事を待っていたんだ。そして君は俺の望みどおりここに来てくれた」

 薄目を開けるとそこには長髪の男の姿があった。一瞬、その男を馬込は中本=響だと感じたが、それは違った。その男はもっと鋭い顔立ちで、響より年を取っていた。

君は一つの真相を暴かなくてはならない。それは君がいる組織に関わる事だ。君は裏の顔を持つその人物を表の世界に引きずり出さなくてはならない。それは君一人で出来る事ではない。君には頼れる上司もいる。しかし自由に動けるのは君だけだ。真実を追って、求めればいい。ただ君の上司を信じるべきだ。市谷というのが君の側にいるはずだ。彼を信じ、君はもう少しだけ真実を求めろ。そしてその真実が少しだけ見えたとき、君は君の信じる答えに向かえ。まずは原点に戻り、君が調べ逃していたものを探るんだ。亡くなった被害者やその周りを調べてみるがいいさ。そうすれば必ず真実に辿り着ける。いいね」

「あなたは誰だ」と、寝ぼけ眼で聞いてみたが、長髪の男は何も答えなかった。

 馬込はいつの間にか眠りに落ちていた。深い眠りだった。


 翌朝、馬込は目覚めた。やけに気持ち悪かった。トイレで吐いていると、柏木がやってきた。


柏木:「大丈夫ですか?」


馬込:「いやあ、すみません。昨夜のことはあまりおぼえていないのですが」


柏木:「ものすごい酔ってましたから。ここ、分かります」


馬込:「ええ、どこだかはよくわかりませんが、あなたの家だという事はわかります」


柏木:「そうです。僕の家です」


馬込:「ところで、誰かと一緒に住んでいるのですか?」


柏木:「いや、一人ですけど」


馬込:「そうですか?昨夜、やけに僕の事に詳しい人がいて」


柏木:「そんなわけありませんよ。僕はたまたま女将さんの代わりにあなたを送ろうとして、

    車で寝てしまったものですから家に連れてきたんです」


馬込:「そうですよねえ」


柏木:「夢でも見ていたんじゃないですか?」


馬込:「夢?そうですね。夢ですねえ。あれは」


 それは夢ではなかった。

『いずれその事が馬込にわかる日が来るだろう』

 柏木守は心の中でその事を思っていた。馬込という人物が、若手旋斗(わかてせんと)のコマの一人である事がやがて理解できる。

 柏木は自分もどうなるのかはよくわかっていなかった。全ては若手の思いのままに進んでいた。やがて来るという警官を、柏木はずっと待っていただけなのだ。そしてその日が訪れた。何かが起ころうとしているという事だけを感じていた。

 全ては若手の仕組んだシナリオの上に成り立っている。柏木だけがその事を知っている。馬込も、響もその事実をまだ理解してはいない。若手の描いた結末に向けて、脚本どおりのシナリオが進められ始めただけだ。この物語に関わる全ての人物がその結末にやがて出会うであろう。



物語は32話へ続く

30. 変わらない生活・変わる事の不安

 上野響(うえのひびき)には、いつもの日々が流れていた。

 週の半ばとなる水曜日には神奈川県三浦にいた。海岸沿いを歩いて、岬を越えた。男はそこで待っていた。

 肌の浅黒く焼けた男だった。松崎しげるのようだった。だけど違った。男はもう少し若い感じだったし、それほど焼けていない感じだった。


「君かい?」と、浅黒い男は響に尋ねた。

響は「そうだ」と言った。


 男は浜辺に上げられた自分の所有するヨットからいつものトランクを取り出した。

「これでいいかな?」

 その問いに響は頷いた。そして代わりにいつもの金の入った封筒を渡した。


 いつもの運び屋としての仕事は何の問題もなく終わった。

 平日の午後3時だった。夏も終わり、9月になってしまったので、海辺に人は、散歩する老夫婦と犬を散歩させる主婦くらいしかいなかった。

 夏はもう過ぎていたのだ。


 20時には、台東区上野に戻った。木崎はすでにマンションの裏で待っていた。いつもよりも落ち着かない様子であった。以前のようにはいかない。

 嶋咲枝を襲って以来、二人の関係は確実に悪いほうへと向かっていた。もう2度と回復する事はない、昔の恋人のように互いは気まずいイメージを崩せずにいた。それでも会わなくてはいけない時間があった。

 木崎を地下の自室へと招き、木崎はいつもの麻薬チェックを行う。そしてそれが済むと、響にいつもの金を渡し、トランクを頂(いただ)いておいとまする。

 その時間が響にはいつもより早く感じられたのは気のせいだろうか。もともと無口な二人だが、その日はいつも以上に静かに感じられた。

 背の高い大男二人が、互いを気にするなど実に気持ち悪い話だ。

『どうでもいい』と響は心の中で呟く。

 2丁めの拳銃は机の一番下に眠ったままだ。



 その夜、響は居酒屋『ふくちゃん』を訪れた。

 嶋咲枝殺しの依頼人斉藤に顔を殴られ、顔が腫れて以来、居酒屋『ふくちゃん』へ行ってはいなかった。顔の状態はすでになんともなくなっていた。響自身はいまだに顔が歪んでいる気がしていたが、木崎も何も気づかなかったし、そこらへんを歩いても誰も響の顔を気にする人間など一人としていなかった。

 そこへ行けば、いつもの時間が流れていた。その夜は常連メンバーがたくさんやってきていた。珍しく、歌い人だけがいなかったが、風俗店店長をやっているナンパ男の式羽(しきば)もいた。


ふくちゃん:「久々だねえ。どうしたの?最近、忙しかった?」


とっちゃん:「いやあ、最近見ないから、ちょうどおまえの話してたんだよ」


  響   :「どうも」


 響はそんなとっちゃんの隣に座る。


 式 羽 :「女でもできたんじゃないの?って話してたのよ」


 由 佳 :座敷席にいる学生風の男たちにツマミを出して、戻りながら、「そうなの?響さん?」


  響  :「そんなわけねえだろ」


とっちゃん:「相手は、さくらちゃんかなあ。とか」


  響  :カウンターの一番奥に座る、かんさんを見ながら、「何で、さくらちゃんと」


 由 佳 :カウンター向こうに戻って嬉しそうに、「違うんだ」


かんさん:「…」酒を飲む(さくらの祖父である)。


 式 羽 :「あ、じゃあ、あの、女か。俺、響ちゃんにあの駅の女と(式羽は橘玲香の事を言っている)」


 響は慌てて隣にいる式羽の口を塞ぐ。


 式 羽  :「ホテルに缶詰で毎晩」


とっちゃん:「どうしたの?」


  響   :「いやあ、何でもないですよ」


 式 羽 :「いつもビンビンで」


  響   :「何、言ってんの。あんた!」と、苦笑いの怒り目。


 由佳は聞かないふりをして、座敷席の客の方へと向かう。

 ガラガラっと、そこで店の扉は開かれる。そこには美坂(みさか)さくらが立っていた。

 21時30分だ。彼女は正確にその時間になると、祖父のかんさんを迎えに来る。響は神社での一件後からずっと顔を合わせたくない気持ちでいっぱいだったから、そこにいるさくらの方を見ることもできない。彼女がどんな顔をしているのか、自分という存在に気づいているのかも、響にはわからない。


ふくちゃん:「さくらちゃん、いらっしゃい。たまには何か飲んでいけば」


 さくら  :「いいえ、すみません。また今度」


 さくらの声はいつもと変わらない、と響は感じ取っている。


かんさん :「なんじゃ、もう行くのか。せっかく響も来たのに」


 さくら  :「おじいちゃん、もう行くわよ」


とっちゃん:「たまにはさくらちゃんも」


 さくら  :「すみません。また今度」


 近い場所でさくらの声がするが、響は気にせず、ビールを飲む。みんなの的はさくらの方に向いている。

「しょうがねえなあ」と言って、かんさんは立ち上がる。

またな、かんさん」「じゃあ」「ありがとね、かんさん」「気をつけて」なんて声が飛び交ってから、かんさんとさくらは居酒屋『ふくちゃん』を後にした。


 それからはしばらく式羽のエロトークが続いたが、話としてはあまりにくだらないので、もしくは使えないネタの連発なので、カット。



 式羽に誘われて、そのまま女でも抱きに行くかという話になったが、響はそれを断り、一人で家路を戻っていった。

 マンションの入口には誰もいなかった。最近は馬込という警官もいないし、歌い人とも会わなくなった。

 まさが死んで以来、止まったような時間を過ごしてきたが、ここ数ヶ月でいろいろな環境が響の周りでは変わろうとしていた。その事を響は心の奥底で感じていた。

 帰れる場所である居酒屋『ふくちゃん』へもやがては行けなくなるのかもしれないと、響は感じている。何かが変わろうとしている寂しさを、響は心の内で感じている。


『若手旋斗(わかてせんと)=謎の組織のリーダー、斉藤=嶋咲枝殺しの依頼人、前野=嶋咲枝を追いかけるフリーライター、馬込=日暮里スーパー爆破事件の犯人を追う警官』


 響には今いろいろな選択肢がある。誰にどう近づくかで道が決まる。それを選ばなくてはならない時が迫っていることを感じている。選択肢はたくさんあるが、選択し直すことはできない。どこへどう進むのか、響は迷いの中にある。選択肢はたくさんあっても、答えは一つしか選べないのだ。


「さくら」

 裏路地でふとさくらの事を思い浮かべる。

『やれやれ』と、響はすぐにさくらのイメージを否定する。彼女とはもう関係ないのだと言い聞かす。

 地下へと下り、部屋に戻る。

「君が待ってくれていれば」

 ふとそんな言葉を呟く響。

『やれやれ』ともう一度。

「せめて、(今日一目彼女の顔を見ておけばよかった)」

 響の頭からはさくらが離れない。考えるべき事は他にあるはずなのに、響の頭からさくらが離れる事はなかった。結局、響は一日中、さくらの事を想っていた。あれやこれやと想像して、一夜が明けていた。

 どうにもならず、響は諦め、想像の中でさくらを抱いた。心地よい想像だった。全てがなくなってしまえばいい。そう思い、想像のさくらを隣に置いて朝の眠りに就いた。安らかな深い眠りだった。


5章終了。

第6章 31話へ続く。

29. 馬込警部補に起こった出来事

「馬込くん、ちょっといいかな?」


 人の良さそうな班長の市谷(いちがや)は馬込の座る席の側まで来て、馬込の肩をポンと叩き、声を掛けてきた。



 今回の話は、馬込警部補の話である。

 馬込警部補とは、日暮里スーパー爆破事件を追っている警官だ。上野響とは何度か対面している。日暮里スーパー爆破事件を追って、まさに目を付けた馬込と、まさの仕事を引き継いだ響は何度か遭遇していた。それでも馬込は事件の手がかりを何も掴めないまま、テンションの落ちる毎日を送っていた。



 ここは馬込警部補の職場警視庁生活安全課未然処理特殊捜査班の事務所である。

 事務所は半蔵門の付近にあるビルの二階にある。見た目はどこかの人材派遣センターみたいなつくりをしていて、とても警察関係の職場には見えない。ここの職場はお悩み相談所のようになっている。これは、悩みある若者の話を聞き、大きな事件に進展させないようにしようとしている場所となってるためである。なので表目は警察に関係のない法人のような看板を立てている。が、実は管轄は警視庁になっている。

 メンバーは全員で9名。


 班長=市谷 初(いちがや はじめ)

 副長=本町 太志(もとまち ふとし)

 メンバー(在籍期間順)に、

     有馬 裕也(ありま ゆうや)=通称 夢見警部

     小倉 五郎(おぐら ごろう)=通称 調べ屋おぐさん

     秋野 こまき(あきの こまき)=こまきちゃん 事務担当

     飯尾 久雄(いいお ひさお)=通称 なまけ

     小野 作人(おの さくと)=おのっち

     入谷 瑞江(いりや みずえ)=みずりん 事務担当

     馬込 純平(まごめ じゅんぺい)=まご


 以上のメンバーである。


 この部署の主な役割は、『犯罪に発展しそうな出来事をいち早く発見し、事件に繋がらないようにする』というところにある。

 1995年の発足当初は特殊な能力を持ったメンバーが募ったが、その後いくつかの事件で殉職者などが出るなどの問題もあり、また事件が起こる前に事件を解決してしまうというわかりにくい観点から、メンバーは徐々にどちらかというと問題児といった感じの警官が一時的に入れられる場所となっていった。今は大した機能を果たしておらず、宣伝もしていないため、ほとんど人も訪れる事はない。人気のない探偵事務所のようになっている。

 馬込警部補も問題児として異動にあった人物の一人である。が、本人はその事を理解していない。

 そんな部署で、早2年、何の命令も受けないままに、馬込は身勝手な日々(勝手に日暮里スーパー爆破事件を捜査する日々)を送っていた。権限はないが、自由に何でもできるいい部署ではあった。


「何でしょう?」

 話は最初に戻る。

 班長である市谷が馬込を呼ぶことはめったにない。なので馬込にはなぜ自分が呼ばれたのか全く理解できなかった。

 市谷は来客用の小さな小部屋に馬込を呼んで、ドアを閉めてから話を始めた。


市谷:「実はね。君は今日で、この部署を異動してもらいたい


馬込:「本当ですかヾ(@°▽°@)ノ」


市谷:「ああ、本当さ。それでね、今度は公安に行ってもらいたいんだ」


馬込:「本当ですか?公安といえば、一級事件を捜査する、あの(°∀°)b 」


市谷:「それで、君には、資料整理をしてもらう話が入っている」


馬込:「…。え、資料整理( ´(ェ)`)」


市谷:「なあに、この部署から思えば大きな仕事だよ。いろいろな事件の極秘情報を整理するんだ。

    そこからいろいろな知識を得て、上に上がることだってできる。今は我慢だよ」


馬込:「すみませんが、その話、少し考えさせてください。僕は出世なんかより、き回って捜査を

    したいんです。そうでないのなら、ここにいます」


市谷:「でもね。そういうわけにもいかないんだよ。これは上層部からの命令でね。

    きっと馬込君も上に買われたんだと思うよ。こんな部署にいつまでもいたってしょうがない。

    僕が言うのもなんだけど、この部署は昔と違って、追いやられてやってくる部署なんだよ。

    君はもうその必要がないと、上が判断したのさ。次をしっかりやれば、さらに望む部署へと

    移っていけるさ」


馬込:「すみませんが、今、とても重要な局面を迎えているんです。もう少しで、真犯人の顔

    見えてきそうなんです。ここまで来まして、この問題を逃す事はできません」


市谷:「それは、つまり、日暮里スーパー爆破事件に関する事だね?」


馬込:「そうです」


市谷:「僕は、馬込君がその事件に関わる事を反対してはこなかったが、周りからは手を引くように

    言われていたよ。その事はもう手を引いたほうがいいんじゃないのか?

    あの事件を追っている警官は他にもいる。君がこれ以上関わらなくてもいいじゃないか


馬込:「市谷さん、前にも言ったように、僕はあの事件に賭けているんです

    僕にとっては人生の一大テーマなんです。それを外すわけにはいきません」


市谷:「君のその情熱はいい。

    けどね、時と場合によっては引かなくてはならない時もあるんじゃないのかな」


馬込:「それが、今だというんですか?」


市谷:こくりと頷き、「僕はね、君をある人と一緒にしたくはないんだ」と言う。


馬込:「…」


市谷:「かつて、とても情熱的な人物が、未処(みしょ=未然処理特殊捜査班の略名)にいた。

    その人はとても優秀だったけど、負けん気が強すぎた。僕の尊敬する先輩の一人でもあった。

    もしあの人がいたら、この部署の班長は彼となり、彼の手によってもっと立派な部署に

    なっていたと思う。でも彼は辞めてしまった。警察官をね。

    彼も君と同じ、この部署を異動になる事に不満を持ち、それで辞めてしまった。

    彼はずっと麻薬に関する捜査をしていたんだ。僕も詳しくは知らない。

    だけど、その事件を途中で放り出せずに、そういう形になってしまった。

    今は何しているかわからないけど、とてももったいない事をした。

    だから君にはそうなってほしくないんだ。もう一度、冷静に判断して欲しい」


馬込:「市谷さん、気持ちは嬉しいですが、僕は何となく納得いきません。もう一度だけ、

    市谷さんこそ、考え直してください。僕は今、事件の真相に迫ろうとしているんですよ」


市谷:「わかったよ。できる限りの事はやってみるよ



 しかし、1週間も経たないうちに、馬込は別部署に異動となった。異例の早さの出来事だった。市谷の言うように、馬込は公安の資料処理室に入れられた。そしてそこで来る日も来る日も資料の整理を行う事となった。神経質な先輩の下で、あれこれ怒られながら、毎日が過ぎていった。

 休みさえ与えられず、日暮里事件の捜査も、響に会う暇さえないまま、毎日は流れてしまっていた。馬込警部補のテンションはどこまでも落ちる一方だった。



30話へ続く。