33. 再々依頼
いったいどれだけの時が流れた事だろう。
響は昨日抱いた女の事を思い出した。ぺちゃくちゃうるさい女だったが乳はでかく、絞まりも良かった。綺麗でかわいいだけの女よりも、抱くというだけの目的なら最適な女だった。
だらしない日々が続いていた。目的も、目標も失っていた。恨みも、憎しみも無く、何もかもがなくなったような状態が響の毎日となっていた。ふと自分がまさになってしまったような気がしていた。
『あの人もこんな日々を続けていたのだろう』ふと響はそんな事を感じた。単調な日々を送ることで、人はいかに楽な生活をするかという目的だけに達してしまうかもしれない。
そんなどうでもいい事を思っていたら、今日もまた昼寝をしていた。毎日酒を飲んで、朝方眠る。気が向いたら女を抱きにゆく。そんな日々の繰り返しだった。
斉藤が部屋のドアを開けようとしていた。
響はその事に気づかずに眠っていた。斉藤は気配を消すのが上手だが、響はそれ以上に周りの気配に敏感なはずだった。でもその時の響は斉藤が部屋の中に入り込むまでその存在が迫っている事に気づかなかった。
ドアがガチャリと鳴って開いたときに響は目を覚ました。そして慌てて身を起こした。
「君にしては少し無用心じゃないか?いや、部屋の鍵はしっかり閉まっていたよ。こいつを開けるのは手間が掛かるんだよ。よくできた鍵なんだ。十分な細工と運に近いコツが必要なんだ。細工が十分でそれがうまく掛かるべき場所に掛かって初めて開くんだよ。それを完了させるには5分、10分は掛かる。いつもの君なら俺の存在に気づいて先にドアを開けてくれる。けど君は俺がドアのピッキングに成功するまで俺の存在に気づかなかった。いつもの君らしくない。どうした?その無様な態度は?最近は鏡も見てないのか?見ていれば気づくものでもないかもしれない。でも君は1ヶ月前に会った時より遥かに衰(おとろ)えている」
それは的を獲ていた。響は何も答えることが出来なかった。
「それはとても良くない事だ。なぜなら君には今週末にはぜひ実行してほしい事がある。この願いが何なのかはわかっているよね?君はその事を忘れてしまったわけじゃないよね?」
響は何も言わずこくりと頷く。
斉藤は何も言わずに背広の内ポケットから1枚の紙切れを取り出し、それを響に手渡す。
「次の土曜、そこで彼女(嶋咲枝)は食事会に参加する。君もニュースで知っていると思うが、政界は今いろいろなところで変革中なんだ。彼女と何人かの議員がそこで会合を行う。部屋は四方とも囲まれていて、とても君の入り込める隙は無い。一級の料亭だからめったな客は入れない。あまりチャンスのある場所とは言えない。しかし全くチャンスがないわけではない。まず第一としてこの情報は裏の筋から手に入れたオフレコの内容だ。報道陣や雑誌記者は一人としていないだろう。第二にその店には細い路地を抜けていかなくては入れない。つまり彼女を殺れるチャンスは彼女が帰るころ。その料亭を出たところだ。小路を歩かなくては車には乗り込めない。俺の知るところでは彼女のボディーガードはその日休みとなっている。だから彼女はお忍びでタクシーか何かでやってくるだろう。チャンスはそこに十分にある」
響は神楽坂の料亭と略図の書かれたメモをじっと見つめていた。
「どうした?何か不満か?」
「いや」
「今回はわざわざ細かく説明してやったんだ。この意味がわかるか?多少難しい条件だという点もある。でもそれだけじゃない」
響は斉藤の引き締まった顔を眺める事しか出来なかった。
「いいか。今回はこれで3度目だ。4度目はない。君は俺の顔を見すぎているし、君のボス(嶋咲枝)もそろそろ俺の存在に気づき始めている。俺もこれ以上、君に近づく事は危険だ。俺は君が目的を達成してくれる事を何よりも願っている。君の失敗なんて俺には何の価値もない。
成功してくれれば俺も万事上手く行く。俺は目的を達成できる。君には多額の報酬を用意しておくから、それを基にどこにでも行ってしまえばいい。
でも君が失敗したらどうなる?君は俺の顔を見ている。その事をよく覚えておいてくれ。この間、俺に会ったときに君は俺に歯が立たないことを理解しているはずだ。これは脅し(おどし)じゃない。そうするしかないという流れなんだ。その事をわかっているか?こんな時に腑抜け(ふぬけ)になっている暇なんてないんだ。君に同じ日々はもう来ないんだ。進んでしまったんだ。ここで気楽にやっていける人生は終わっているんだ。君がその事を望んだ。俺から仕事を請(う)けたろう?その時点で君はもう戻る事のできない選択をしているんだ。その事を忘れてしまったのか?」
暗い中で、斉藤の綺麗に並んだ前歯が不気味に輝いてみえた。
響は何も答えられなかった。
「一言くらい返事をしたらどうだ?YESかNOか。NOならこの場で君をどうにかしないとならないがな」
「いや、もちろん、YESだ」
「君は自分の状態を心配しているんだろ?俺にだってわかる。君は栓が抜けてしまっている。何がそうさせているのかは知らないが、君はその栓をどうする事もできない。要は栓を閉める必要がなかったからだ。昨夜も女を抱いて満足だったんだろ?君は俺がどこにいたのか、気づきもしなかった」
「つけていたのか?」
「つけていたわけじゃない。昨日は間が悪かったんだ。俺が来たときに君はちょうどここを出てゆくところだった。引き止めるのもなんだったんで、少しだけ後をつけさせてもらった。コンビニに行って帰ってくるだけならその後会う事もできただろうからね。それに人に敏感な君なら俺の存在に気づいてくれると思った。でも昨日の君は女の乳やケツばかりを追っていた。ただのそこらの欲求不満な学生にしか見えなかったよ。君は意外といろいろなところに恵まれているんだな。ぶ男ならそんな事もできないだろう。君は顔もいいし、フェロモンも持っている。頭も悪くないし、鋭い勘をしている。それはそれでどこでも生きていける力を持っている。だからチャンスはある。俺はそんな君の人生を終りにするつもりはない。勿体無いからね。今は大きな時が来ている。人生を誤っちゃいけない。俺は君に成功してくれることを望んでいる。それ以外は望んじゃいない。ただもし君が失敗したときは自分を守るための行為もしなくちゃならない。その事がわかるかい?君のところにもう一度来たのは俺の賭けでもある。よく覚えておいてくれよ」
斉藤の笑みは決して不気味なものではなかった。この男はこの男なりに筋を追って生きている。得体の知れない存在ではあるが、この男はこの男なりの目的を達成させようとしているだけなのだ。
『俺はどうする?』と、響は自分の心の内に自分で尋ねた。
「あの女を殺(や)らなくてはならない。その先はわからない。ただそうする必要が俺にはあるんだ」
そして、声に出してそう答えた。
斉藤は声になって出てきた響のむき出しの言葉に安堵(あんど)の表情を浮かべた。
「そうだ。それでいい。まだ数日ある。自分がしなくてはならない事を見つめ直せ。そしてその先に進むんだ。成功を祈っているよ」
そう言うと斉藤は響に背を向けた。
「俺の伝える事はそれだけだ。後は頼むよ」
そして斉藤は響の部屋を出て行った。
幻のような出来事だった。でも手に握るメモが起こった真実を伝えていた。もうすぐ全てを動かさなくならないときが迫っていた。
34話に続く。