38. 馬込の新捜査
馬込警部補が、警部補でなく、ただの馬込となったのは、ちょうど響が神楽坂で嶋咲枝殺害に失敗し、小田原で薬を受け取り、伊豆の廃工場へ行くことになった時の頃だった。
彼は警察を辞め、警察の寮を去った。でも彼は自らの想いを成し遂げる事を止めてしまおうとはしていなかった。馬込は警察を辞める前に自分で作った資料の全てを極秘に持ち出していた。そしてそれを基にもう一度最初から調べ直す決意をしていた。
本話は馬込(まごめ)警部補の物語である。
馬込が向ったのは、日暮里スーパー爆破事件で亡くなった被害者の家だった。
最初に訪れたのは、亡くなったスーパーの店員、松嶋康孝(まつしまやすたか)の結婚相手だった松嶋紗枝(まつしまさえ)の家だった。場所は千駄木の坂を上ったあたりにあった。彼女は夫の生命保険と、兼ねてから蓄えで、娘と二人で細々した暮らしをしていた。
玄関越しで、馬込は松嶋紗枝に尋ねた。
「あの事件の事をもう一度調べています。松嶋さんが何か恨まれるような事はなかったでしょうか?」
松嶋紗枝は何も答えずにじっと黙っていた。すでに40を越えているはずだが、彼女は馬込と同じである30歳くらいに見えるくらい、皺のない綺麗な顔立ちをしていた。馬込は何も答えない松嶋紗枝の顔に一瞬見とれてしまっていたくらいだ。
「今は娘と二人で、何とかやっています。あの日の事はもう忘れたところなんです。長い7年半でした。やっとここまで来たんです。今になって何かを思い出せと言われましても」
松嶋紗枝は柔らかい口調でそう答えた。
馬込は納得した。これ以上、この家族を追っても何も出てこない事は目に見えていた。
そこで馬込は今度、スーパーに買い物に来ていて、爆破事件に巻き込まれて亡くなった田山夫妻の家を訪れる事とした。
田山夫妻の家は7年経った今でも空き家になったまま、スーパーから100m程のところに建っていた。
今の所有者は名古屋に住む、亡くなった田山さゆりの親戚となっていた。馬込が親戚の女に電話をしたときに、親戚の女は答えていた。
「何度も売ろうとしたんだけど、その度にさゆりちゃんが夢に出てきて、いやそうな顔をするのよ。だから売る事を止めにしていたの」と語っていた。それから、「家の中に入りたいなら近くの不動産屋さんが鍵を持っているから、その人に聞けば中を見ることができるよ」と教えてくれた。
馬込は言われたとおりに田山家の近くの不動産屋へ行き、そこで田山家の中を見せてもらいたいとお願いした。
不動産屋の女はやけに色気むんむんの女で、家の事は何も知らないようだった。
「田山さんのところですか?あそこはなかなか売れないって所なんですよね。うふっ」
と、そんな感じだった。
不動産屋の女は一緒に田山家まで行くと、「後はどうぞ」というふうに言って、馬込を中に通し、自分は家の外で待っている態度を取っていた。
馬込は一人で家の中へと入っていった。
中は不思議な光景だった。今も生活観のある状態のまま、物が残されていたのだ。靴も置いたまま、飾りやお土産などが棚にそのまま置かれていた。さすがに冷蔵庫の中や衣類は片付けられているようであったが、家具は全てありのままに置かれている感じだった。明日から暮らせと言われれば、いつでも暮らすことができそうだった。7年間の空白はほとんどないような状態で残されていた。
台所と居間、奥の間を見たが、特に何も目に付くものはなかった。トイレも風呂場も何もなかった。
しかし客間か何かの小部屋に入ったときに馬込は妙な違和感を覚えた。
誰かが住んでいた気配があったのだ。当然、そこには昔、田山夫妻が住んでいた。しかし二人はほぼ居間と奥の間で暮らしていたと想定できる。その夫妻とは違う誰かがそこにいたような感じがそこにある。
馬込は名古屋の親戚に再び電話を掛けた。
「はい」と親戚の女は出た。
馬込:「ああ、すみません。この間、田山さんの家の中を見たいと言っていた者です」
親戚:「ああ、どうも、苅野(かりの)です」
馬込:「どうも。あの、今ですね、田山さんのお宅を見させていただいているのですが、
田山夫妻は二人暮らしでしたよね」
苅野:「ええ、もちろんそうですよ」
馬込:「誰かよく泊りに来ていた方とかはいましたか?」
苅野:「さあ、どうかしら。離れているからほとんど会うこともなかったからねえ。
でもあの夫婦はよそ者は入れなかったから、そんな事はないと思いますがねえ」
馬込:「あの、押入れとか開けてしまってもよろしいでしょうか?」
苅野:「ええ、ご自由にどうぞ」
馬込:「ええ、ありがとうございます。それでは」
苅野:「どうも」
そんな会話で確認後、馬込は白い手袋を嵌(は)め、小部屋の中にある押入れを開いた。
中の下の段には不思議な事にたくさんのおもちゃが入っていた。馬込が最初に目に付いたそれだった。不信には思ったが、調べてもどうにもならないので、馬込は続いて上の段を見た。上には布団があるだけだった。
再び下の段を見て、今度はおもちゃの入っている大きなダンボール箱を退(ど)かした。
奥からはたくさんの本が出てきた。そこには教科書や絵本が入っていた。そういえば小部屋には勉強机があって、それはたとえば夫が本を読むのに使っていたのかもしれないが、実際は子供用の勉強机のようにしか見えないものだった。
重なりあっている本を退かしてゆくと、最後に一冊のアルバムが出てきた。アルバムの表紙には『涼の思い出』と書かれていた。
中を捲るとそこには一人の少年が映っていた。始まりのページは小学生くらい。それは徐々に成長して、最後のページは結構大きな少年になっていた。全ての写真がポラロイド写真で撮られていて、全ての写真が家の中だった。
馬込はその写真を見て、不信感とかよりも異様な気持ち悪さを感じた。
そして最後の一枚の写真をじっと見つめた。馬込にはその写真の少年にどことなく見覚えがある気がした。鋭い目つきに、細い顔、すらっとした体。
『そうだ!』
馬込の勘が働いた。
「中本龍平(響の偽名)」
馬込はその言葉を口にしていた。
しかしまるで馬込には意味がわからなかった。
「いったいどういう事だ?」と呟いていた。
馬込はその写真をアルバムから取り出すと、急いでポケットに仕舞い、後は全て元あったままの状態に戻した。そして心は落ち着かないまでも、冷静なふりをしてそそくさと家の外に出た。
家の外では不動産屋のむんむん姉さんが待っていた。
「よろしいですか?」とむんむん姉さんは尋ねた。
「ええ、ありがとうございました」
馬込はそう言って、鍵を不動産屋に返し、足早にその場を立ち去った。
『いったいどうなっているんだ?』
馬込の頭は混乱のまま、答えに繋がりそうにはなかった。そして何も思いつかないまま、落ち着かないままに一端自宅へと戻る事にした。
39話へ続く
37. 廃工場
響が連れてこられた場所は、若手旋斗(わかてせんと)のおじが所有する工場だった。
所有するといっても、現在は廃工場となっていて、使われていない。おじは工場を諦めて、現在は東京で中国人相手にブローカーの仕事をしている。工場は2年前に閉鎖し、一時はIT関連の業者が温泉施設を開くために買い取ることとなっていたが、工場の解体費をどちらが払うかという点で揉め、結局IT企業の業績が悪くなったために、買い取り手のないまま野放しにされているというのが現状である。だから所有権も現在はまだ若手のおじにある。
工場の中は今も工場をやっていた時のままで、たくさんのミシンや布を裁(た)つための機械が置かれたままになっている。古い布もそのまま残っていて、今も服を作ろうとすれば作れなくもない。
若手は数ヶ月前よりこの廃工場に来て、今後の様々な可能性が起きた際の拠点(きょてん)として準備を進めていた。そして本日その日となったわけである。
廃工場にはすでに若手を中心とする仲間たちが集結し、今後に向けての準備を進めていた。
この集団は麻薬に対するテロ的活動をする数人の集団である。メンバーは皆、麻薬に対して何らかの恨みを持っているものの集まりである。
メンバーは以下の通りだ。
若手旋斗:リーダー 年齢 30代後半 鋭い目と細身の体が特徴
この組織を集めた中心的存在で、もともとは刑事として麻薬捜査をしていた。
警察組織に不信を感じ、自ら独自の捜査をするために組織を立ち上げた。
木島(きじま):補佐的役割 年齢 34歳 四角い顔立ちと四角い体が特徴
若手が幼い頃、孤児院で育った時の友達。
若手の誘いで加わった。若手がいない時に皆をまとめる副リーダー的存在。
倉本(くらもと):若きリーダー 年齢28歳 小さい体に鍛えた筋肉が特徴
若手が刑事の時に、街で捕まった不良。
若手に逆らうが、意思と意見をしっかり持っている、熱い男
金原(かなはら):化学・メカ担当 年齢31歳 眼鏡っこの女の子
国立大理系卒のエリート。化学に詳しく、ネットなどでさらに爆弾や毒薬なども研究。
危険なものを作るのに長けていて、倉本の紹介で加わった。
睦美(むつみ):世話役 年齢28歳 色白で華奢な体の女性
孤児院が一緒で、木島の誘いに誘いによって加わった。木島の恋人でもある。
おとなしく、人の世話をするのに徹する。
桑野(くわの):情報屋 年齢 29歳 丸い顔でちょこちょこ動くのが特徴
若手が刑事の時に、街で捕まった麻薬中毒者。
回復後、若手にいろいろな裏事情を教えてくれた若手には欠かせない情報マン。
金子(かねこ):料理長 年齢 43歳 にこやかな顔と細い体が特徴
若手が警官時代に知り合った麻薬被害者。後の誘いによって仲間となる。
普段は江東区で中華料理店を営む。隠れた名店で、組織の資金源にもなっている。
小菅(こすげ):役なし 年齢25歳 坊主に笑い顔が特徴
若干頭が弱い。孤児院を出て、行き場のなかった彼を睦美が連れてきた。
桐平(きりひら):役なし 年齢22歳 黒髪の艶やかな美少年
物静かな男である。親が薬で捕まった際にはぐれた少年。
桑野が連れてきて、若手が預かる形となった。
柏木守(かしきまもる):まさの見張り役だった。 年齢28歳 フォークギターを片手に持つ男
歌い人として登場する彼だが、実は若手の仲間。
若手とは組織が出来てから出会った。若手にとっては最も関連性の薄い仲間である。
廃工場内には金子以外のメンバーは全員揃っていた。
メンバーは上野響の事を歓迎しなかった。正しくは上野響の持ってきたぶつを歓迎しなかった。
倉本は、若手に訴えた。
「俺たちがそいつの仲間だと思われるのが落ちだぜ。そうやって世の中は弱い者を陥(おとしい)れるんだ」
でも若手は笑みを作って返した。
「何、一時的な事さ。そのトランクにはきっと場所を示す探知機が付いている。彼らはきっとそれを取り返しにやってくるさ」
若手は最初からその事を予想していた。ぶつが手に入ればそうなると。
しかし若手にとっては本来、上野響さえ味方になってくれればよかった。そうなれば口封じのために上野響を捕まえるか殺すために彼ら(麻薬の組織の者)はやってくると想定できたからだ。
ただぶつがあり、探知機があれば話は早い。おびき寄せなくても彼らは自然にやってくるだろうと、若手は想像した。
ところが若手の想像に反して、彼らはやってはこなかった。日曜・月曜とその場で待った。
廃工場は締め切り、簡単には開かない仕組みになっている。化学担当の金原がいろいろな爆弾を仕掛け、入ると同時に大変な目に合うこととなっている。その他簡単ではあるが、強力なエアガンなどの武器は持っていた。食料も1か月分は買い貯めし、準備は十分に整っていた。
火曜となる翌日、若手は金原にトランクを開けるよう指示をした。
中には探知機が入っているはずだし、ぶつ(麻薬)も入っているはずだ。その事を確認しようとした。
ところが金原でもそのトランクを開けることはできなかった。トランクには特定の人間だけに反応する認知システムが付いていたし、とても重厚で切り裂いてあけるようなものではなかった。出来るとしたら、全てを爆破させてしまうしかなかったが、それは中身ごと爆破してしまう可能性が高かった。
しかし金原はパソコンを持ってきて、何かを打ち込み、中に探知機が入っている事の確認には成功した。金原のパソコンには地図が映し出され、それは伊豆半島にある現在のアジト付近を示していた。
「じゃあ、やつらが出てこないのはなぜかな?」
いつも比較的中立的な立場を取る木島は若手に尋ねた。
「なるほどね」と、若手は言った。「得体の知れない相手には簡単には近づかないという事か。という事はやつらは光の方向から攻め込んでくる。倉本が言っていたこともまんざら外れてはいないかもしれないな。やつらは警察組織などを上手く使い、俺たちを包囲しながら追い詰めていこうとしているのかもしれない」
それは最悪の事態に思えた。しかし若手は焦ってはいなかった。それもまた想定した範囲内なのだ。
一方、斉藤はその廃工場の近くまで来ていた。しかしその工場には近づかず、様子を窺っていた。
さらに木崎は一度、嶋咲枝の下に戻り、今回の件を報告していた。
「申し訳ありません。こんな結果になるとは思ってもみませんでした。どんな処分も受けます。あなたのおっしゃるとおりにしてください」
「あら、いやねえ」と、嶋咲枝は答える。「そういうんじゃなくてもいいのよ。あれはもう諦めましょう」
木崎:「しかし、それでは莫大な損出となりますし、組の者(麻薬の受け取る側)にも説明が付きません。
非があるのは完全にこちらなのですから。あのぼうず(響)が裏切ったとなるとどうなるか、
あいつはあなたの事を恨んでいましたから、これからどういう手に出てくるのか」
嶋 :「弱気ねえ。立場を考えなさい。誰が立場的に上なのかを、ね。
私が恨まれているのは今に始まった事じゃないわ。
私はいろいろと前々から恨み妬(ねた)まれている。
でも私を利用しようとしている人間も、この世にはたくさんいるわよね。
全て諦めてしまえばいいのよ。そうすれば新しい味方がこちらには付くわ。
組の者は慌てて対策をとってこちらに近寄ってくるでしょう」
木崎:「では」
嶋 :「深追いする必要はないのよ。焦れば焦るだけ、墓穴を掘る事になるだけよ。
もともと何が起きても大丈夫なような仕組みになっているの。
あの坊や(響の事)を放っておいても害はないわ。あなたももう帰りなさい」
木崎:「しかし、このままでは」
嶋 :「あなたがこれ以上動くほうが余計に危険なのよ。
手は他にも打つからあなたは気にしなくていいわ。後は私に任せなさい」
嶋の企み、若手の想定。すでに争いは水面下で始められていた。
響は何も想像できないまま、ただその争いを見守ることしかできそうになかった。
第7章スタート
38話へ続く。
36. 最後の仕事
日曜日の夕方16時、木崎はいつものマンションの地下への入口で響を待っていた。
朝も早かったからもうとっくに着いてもおかしくない時間ではあったが、上野響の姿はまだなかった。部屋の中にもいないようだ。だから木崎はしばらくそこで響が来るのを待っていた。
「いつまで待っても、彼は帰ってこないよ」
その声に目を瞑って待っていた木崎は目を開いた。夕暮れの側に黒い服を来て、黒い帽子に黒いサングラス、白いマスクをした男は立っていた。
「嶋咲枝のSPだね」と、男は木崎に尋ねた。
「あんたは誰だ?」
その男は斉藤である。しかし斉藤は自分の名を名乗らずにこう答える。
「僕?僕が誰か?そんな事はどうでもいい事だ。それより僕はあなたに重要な事を伝えなくてはならない」
木崎:「いいから、名前を言え。それからだ」
木崎は立ち上がり、自分の図体のでかさで斉藤を圧力を掛ける。しかし斉藤は動じない。
斉藤:「名前なんてどうでもいい。そんなものは何の価値も無い。それは僕を呼ぶのに必要かもしれない。
でも僕はここであなたに会って以降、あなたに会うことはないでしょう。
だから名前なんて聞くだけ無意味さ。
あなたが知りたいのはむしろ僕がどこからやってきた、どういう人間かという事だけでしょう。
答えてもいいが、それよりまず、重要な事を伝えなくちゃならない」
木崎:「わかった。何が言いたいんだ」
木崎は諦(あきら)めて、とりあえず斉藤の言いたい事を言わせてやる事にした。
斉藤:「あなたの待っている男はここには来ない。それからあなたの待っているぶつもここに届く事はない。
あなたが必要としている物が今どこにあるか、それは僕にもわからないが」
木崎は少しその言葉の意味を考えてから、尻ポケットに仕舞ってあった、モバイルPCを取り出して開いた。起動させて、何やらのGPS機能の付いた地図を見て、唖然(あぜん)とする。
斉藤:「さあ、あなたがそういうのを持っているとは思ったんだ。
どうだ?僕の思い通り、その機能の示す位置はこの辺りではないだろう?
どこなんだ?今も変わらず最初の位置か?
それともどこか別の場所へ動いているのか?僕はそれが知りたいんだ」
木崎:「きさま、何者だ!奴をどうした!?」
斉藤:「おっと。僕も被害者なんでね。僕もこうなる事を望んじゃいなかった。
だいたいあなたはあなたのボスがわざわざそういう機能をつけてやっているのに、
それを頼りにせず、彼がここに来ると信じきっていた。それは愚(おろ)かな事だろう?
あなたは彼がここに来ると信じすぎていた。
というより、あなたの脳の思考は別の可能性なんて考える事ができなかったんだろう?
世の中にはありとあらゆる事が起きるんだ。
その事を注意深く意識しなくちゃいけないのに、あなたはそれができなかった。
責めるのは僕じゃない。自分自身だろ?」
木崎:「うるさい!とやかく言うな!!きさま、奴をどうした!!」
斉藤:「それが僕にもわからない。言える事は彼には別の抜け道があった。
彼は少なくとも、あなたが思うよりずっと器用な奴だ。それは僕が思うよりもだった。
彼の能力ではないかもしれない。いずれにしても彼には別の方向性が存在していた。
彼はその方向へと動いている。それがどこなのか。僕もそれが知りたいところだ」
木崎はモバイルPCの地図を見た。GPS機能は伊豆の方へと向かっていた。
斉藤はそれを覗き見て感じた。第3の何者かが確かに存在すると。
(第1を木崎と嶋咲枝とするのなら、第2が自分=斉藤、そのどちらにも関わらないもの=第3の集団)
その3時間前、響は小田原漁港を訪れていた。
潮風は若干秋を思わせる静けさに溢れていた。漁市場はすっかり静まり返っていて、辺りには海釣りを楽しむ釣り人がいるだけだった。それでも結構な数の釣り人だった。
ぶつの渡し役の男は早川の河口で響を待っていた。男はまだ20代の釣り人だった。
「いや、釣りはしてないんですよ」と、男は言った。「でもこんなところででっかいトランク持ってボーっとしてたら怪しまれるでしょ?だからクーラーバック代わりのトランクってところで、釣りをしているふりをしてたんですよ。まあ、この辺りじゃ波が荒すぎて魚はいませんがね」
響は封筒を見せ、それを男に渡した。
釣り人:「ああ、これっぽっちですか」
響 :「俺が決めているわけじゃない」
釣り人:「まあ、そりゃそうだ。やばい仕事で報酬がいいって聞いたんで、いくらもらえるかと思ったけど、
これじゃあ車の一台も買えませんね。原付程度だ。原付」
響 :「まあ、この程度の仕事だ。君がそれを持って、待っていて、俺に渡す。
ただそれだけの仕事で、それだけの金が入る。十分だろ?」
釣り人:「そうか。そういや、そうですね」
響は釣り人が納得したところで、トランクを頂き、その場を離れた。男はそこから離れず、煙草に火を付けて吸い出すと、また魚のいない波打ち際に棹(さお)を投げた。
それから響は早川の駅前まで戻り、そこにある公衆電話からある男の携帯へ連絡した。男がすぐに出るかは疑問だったが、男はすぐに出た。
「もしもし?」
「もしもし、上野響です。といえばわかりますか?」
「響君?ああ、よかった。そうですか。電話してきてくれたか」
「歌い人、いや柏木(かしき)さんですね」
「ええ、今、どこにいるの?」
「小田原の早川って駅にいる。あなたの嫌いなものを抱えている。このまま逃亡しようと思っているが、どうやってどこへ行けばいいかわからない」
「小田原?いい所にいるね。それなら急いで向うよ。今、東京だから、2時間以内には車でそこに付くようにするんで」
そして2時間が過ぎた。
響は一度小田原に戻り、喫茶店で時間を潰した。それから再び早川に戻り、早川のインターで柏木を待った。スターレットが小田原厚木道路を降りてやってきた。
柏木はにこやかに微笑んでいた。後ろには若手旋斗(わかてせんと)も乗っていた。
「さあ行きましょう!」と柏木は言った。
「どこへ?」と響は尋ねた。
「いいから。大丈夫。ちょうど通り道なんで。我らの館(やかた)には」
柏木はそう言ってにっこり微笑んだ。
響は何も言わずに頷(うなず)く事しかできなかった。そしてトランクを車のバックドアから入れて、自分は助手席に乗り込んだ。
車は間を置かずに走り出す。響は後ろを振り向くと、若手はにやりと笑った。
「こうなる事を待ち望んでいたよ。思ったよりスムーズに進んでいる。運気は向いてきたみたいだ」
そしてそう言った。
響には何の事かさっぱりわからなかった。しかし行き先の思いつかない響にはこの男の考えに便乗(びんじょう)するしかなかった。どうする事もできない。選べる権利は何もないのだ。
第6章終了。
第7章、37話に続く。
35. 食事会の日
地下の一室は今日も時間が分からない。しかしここはいつもの場所だ。住み慣れた家とも今日でおさらばだ。響はその事を知っている。もうここに戻ることもない。明日はどこにいるのか?その答えもない。
目的を達成する事だけが響の頭の中にはある。それだけしか考える事はできなかった。あの女(嶋咲枝)をどうやって殺(や)るか、その事だけを考えなくてはならない。昨日は本来下見をしておくべきだったのだが、響はさくらの事しか思い浮かべていなかった。
居酒屋『ふくちゃん』にも行かなかった。さくらに会っただけだった。
それでも響の心に後悔はなかった。響は一番やりたい事を十分に満たしていた。心には生きる力が湧いていた。後は結論に達するだけでよかった。
時計は16時を指していた。嶋咲枝が出席する食事会は20時からだ。早ければ19時に嶋咲枝は料亭に着いているかもしれない。神楽坂までは30分あれば行ける。2時間少しの猶予はある。失敗は許されない。
まずは目覚めの熱いシャワーを浴びた。体は少しだけしゃきっとした。
目が覚めると腹が減っていた。だから準備を済ますとまずはたまに行く喫茶店に向かった。そこでホットドッグを食べ、モカ・マタリを飲んだ。
感情は揺れていた。どこかで逃げてしまいたい思いも浮かんでいた。「全てから逃げてしまえばいい」と昨日、さくらは言った。
『いざとなったらどこか知らない場所へ行こうか』と弱腰の自分も響の内にはあった。
逃げろといっても逃げる場所は限られていた。響にはパスポートもそれを取るための身分証明書もなかった。存在しないはずの男は捕まって存在を示すか、存在しないままこの世から消え去るしかないのだ。選択の全てを迫られていた。時間は刻一刻と迫っていた。
大江戸線に乗って牛込神楽坂までやってきた。響は斉藤に渡されたメモと地下鉄出口にあった地図で自分の居場所と目的地を確認する。渡された地図の目的地へと向かってゆく。
まだ18時だった。
時間は十二分にあった。通りを越えて、小道へと入って行く。右手にイタリアンかフレンチのお店があって、目の前に小さな公園がある。メモはその公園を抜けた階段の上を指している。確かに公園の先には階段があって、そこには四方に抜けられる小道が存在する。目的の料亭はその右手だ。
通りへの出口は斉藤のいうとおり狭く、車の入ってこれるような道ではなかった。しかし小路は四方どの方向にも抜けられて、それを絞るのは難しそうだった。しかも道が狭いわりには通な客がちょこちょと現れてはまた去ってゆく。一人でこの場にぼけっと立っているわけにはいかない。
斉藤の言うような簡単な仕事じゃない。かばんの中の拳銃を簡単に構える事さえできそうにない。
まだ時間は早かった。だから響は仕切り直そうと、一度その小路を抜けて、神楽坂より下方の飯田橋方面へ向かった。そして近場の喫茶店で時間を潰すこととした。
先ほどの場所をもう一度思い浮かべる。
小路を右手に抜けていった。先には小さなパーキングがあり、嶋咲枝が食事会を終えて抜けてゆくのはそっちだと推測してもいい。しかし場合によっては左手の中心地に抜ける可能性もあるし、公園のあった方に抜ける可能性もある。じっと身を潜めるのなら公園の辺りの方が無難だが、料亭内はまるで目が届かないのでいつ終わるかもまるで予想できない。パーキング側は身を潜める場所もなかった。
チャンスはほとんど皆無に等しいというのが、響の到った結論だ。
『六本木のホテルが最後のチャンスだった。腕の隙間を抜けていった弾丸が最後のチャンスだった。あの弾丸が当たらなかったことで、すでに俺は負けていた。だからあの女は俺を使い続けた。もうチャンスがないことを分かっていたんだ』
響は自分がすでにチャンスを失っている事に気づいた。
少なくとも斉藤の計画はいつもチャンスのあるような場面ではなかった。最初の五十嵐邸でも絶対のチャンスとは言いにくかった。もし本当に殺(や)るのなら、この1ヶ月の間に響は自分で動かなかったければいけなかったのだ。しかしその時間ももう無い。斉藤に与えられた期限は今日しかなかった。
すでに終っている事を響は感じ取っていた。
もはや料亭の傍に行く意味がないことを響は理解していた。そこにいるのは嶋咲枝でなく、むしろ響を消そうとする斉藤が待っている事だろうと、響は脳裏にその場面を描いた。今はまだ斉藤はいない。響はその事を感じ取っている。今日は少なくとも数日前よりは勘がしっかりしている。
『行き先は?』
響は一つだけ選べるルートが思いついていた。それはどこかから生まれていた一つの流れだった。その流れを無視するわけにはいかなかった。
20時、可能性の光を追って、響は土曜の夜を遊び疲れた若者で込み合う中央線の電車で、新宿方面に向かっていた。全ての流れはその先にあるだけだった。
36話へ続く。
34.別れの意味
誰かが図った事のように、斉藤が訪れた翌日に、木崎がやってきた。
だから最初、響は昨日斉藤という男に会っていた事が木崎に知られたのかと恐れた。でもそうではなかった。木崎はいつものように金の入った2枚の封筒と、指示の書かれた紙を持ってきただけだった。
嶋咲枝殺し未遂の後だったに会った先月のような、ぎくしゃくしていた感じは、この日の二人の間にはなかった。
木崎はサングラスをしていた。薄暗い地下の部屋で時間もわからなくなってしまうが、外はまだ昼なのだ。
「最近、うろうろしているやつはいなくなったみたいだな」
それは馬込警部補の事だ。斉藤の事ではない。
そういえば馬込警部補はどうした事だろう、と響は脳裏で思った。
最後に馬込にあったのは、居酒屋『ふくちゃん』に一緒に行った日だ。響は馬込の愚痴話が面倒になって、酒をたらふく飲ませて酔わせただけだった。響はその後の馬込の事を知らない。だから響が思ったことは、あの刑事はもう仕事を辞めてしまったかどうかという事だけだ。いずれにしてももう関わる事のない相手だという答えにすぐに至った。
斉藤に関して、木崎はやはり何も気づいていないようだった。斉藤は注意深いが木崎はそれほど鋭い勘を持ってはいない。斉藤は必ず袋小路の入口から入ってきて、マンションの表に姿を見せるようなまねはない。一見はただのサラリーマンにしか見えないし、人の中に紛れ込むのが上手い。一昨夜は響でさえ気づかなかったのだ。斉藤は自分の存在がそろそろ気づかれ始めていると言っていたが、木崎にそれらしい態度は見られなかった。響は木崎が嘘を隠すのが下手な事も知っている。だから斉藤の言う事は当たっていないと考える方が自然だった。
「ここだ」
木崎はそう言って、今度の行き先を示した便箋(びんせん)を響に渡した。場所は小田原。ずいぶん今回は遠い場所だ。響の行った事のない未知の場所ではある。
「時間は朝早い。前のりして一泊した方が都合がいいだろう。まあ、おまえの好きなようにしたらいい」
日付はこれも図ったかのように、嶋咲枝殺害を実行する翌日の日曜日となっている。
この仕事はまず無いことだ、と響は思う。仕事を指示するボスを前の日に殺す事になっているのだから、この仕事の計画が実行される事は無いだろう。
それでも響はいつものように封筒の中身(金の枚数)を確認し、それを肩掛けかばんに仕舞い込む。
「それだけだ」
木崎はそうとだけ言うと、すぐに部屋の外へと出て行った。
たったの数口しか話さなかった。響においては一言として口を開かなかった。しかしそれは気まずさから来るものではなかった。最初から木崎と響の間に会話などなかった。二人はいつもに戻っただけだった。
いつもに戻ったが、これが最後である事も、響だけは知っていた。
木崎が去った後、響はソファーに横になっていて考え事をしていた。響の頭の中が何かに気づこうとしている。
『この当たり前の毎日は終りを迎えようとしている。大きな出来事じゃないか?でも俺はまだその事に実感がない。どうにかしなくてはならなかったのに。全ての生活が変わるというのに。
もう居酒屋ふくちゃんに行く事もないだろう。未来はもう迫っている。明日には俺は旅立たなくてはならない。俺はどうする?もうここに戻る事もない。
その事を今日この日まで少しも考えていなかった。今までと変わらない日々しか思い浮かばなかった。これからしようとしている事がいかに大きい事か考えていなかった。
俺はこの生活の中で、何をしてきたのだろう?何のためにこんな毎日を送ってきたのだろう?何もない日々だった』
そう思うと、虚(むな)しくて仕方なくなった。響は自分が何のために生きているのか、さっぱりわからなかった。今ある生活の全てを捨ててしまう事をこの時まで理解してはいなかった。
『ふくちゃん』の店での笑い声や涙声、怒鳴り声が、思い出の中から聞こえてきた。もうその声を聞くことはなくなる。まさが亡くなってしまった時と同じような虚しさが響の心にやってくる。
今度は一人じゃない。この数年間で出逢った全ての人と別れなくてはならないという寂しさが募る。
幼少時代の響は田山家で軟禁されるように育ち、父と母しか知らなかった。田山家から出て、まさに拾われて、田山涼から上野響となり、かんさんやとっちゃんと出逢った。ふくちゃんがいて、娘の由佳がいた。さくらとの出逢い、式羽(しきば)や歌い人もやってきた。
それはそれで楽しい日々だった。響は当り前の日々がとても懐かしかしく感じられる。もう同じ日々はやってこない。その事を少しずつ理解しようとしてきていた。
孤独に育った男が今、別れの意味を知ろうとしている。
「俺はいったいどこへ行くんだろう?俺はいったい何なんだろう?俺はいったい…」
そう呟いて、自分の存在に疑問を持った。急に、誰かに自分を知ってほしくなった。誰かに伝えないと自分という存在が虚しさと悲しさに消し去られてしまう気がしていた。
慌ててシャワーを浴び、頭を梳(と)かして、服を着て、家を出た。
外は曇っていた。
坂道を駆け上がり、神社の階段を駆け上がり、社務所(しゃむしょ)へと向かった。さくらは巫女の姿でお札を売っていた。響の心臓は急いできたためバクバク言っていった。あるいはそれは急いできたためではないかもしれないが。
さくらは響の姿に気づき、近寄ってきた。
「どうしたのですか?」
さくらは自分の巫女の姿を気にし、すぐに社務所の中へ響を招き入れた。さくらが招き入れたのは社務所内にある、テーブルとテレビくらいしかない休憩室だった。
「どうかしたのですか?」と、さくらはあらためて響に尋ねた。
響は何も言わず、鋭い目でさくらの方を見つめていた。
さくら:「この間は、ごめんなさい。あの事を気にしていたのなら、もうお忘れください」
響 :「その事じゃないんだ。ばかばかしい話をするかもしれない。
でもどうしても君にしておきたい話がある。俺は君に伝えたい事がある」
さくらはちらりと顔を上げた。響は久々にさくらと目を合わせた。でも響は照れる事なく、じっとさくらの顔を見つめていた。
さくら:「ええ、話してください」
響 :「実は、俺はもう、君に会えなくなる。
さくらちゃんにだけじゃなく、かんさんや『ふくちゃん』の店で出逢った皆と、もう会えなくなる。
俺はいろいろと全てを変えなくてはならないところまで来ているんだ。
それをする事が正しい事とは言えないけど、そうしないといけないんだ。
そして、君に会えなくなる」
さくら:「どこかへ行ってしまうのですね(驚きはしていないようだった)」
響 :「そうだね。俺はどこかへ行く事になる。そこは何もない孤独な場所かもしれない。
でも俺は、そこへ行かなくとならないんだ」
さくら:「そうですか」
響 :「ずっといつかはそうなる事になると思っていたんだ。
でも心からその事を理解しようとしていなかった。
変わる事がいかに大きな事か、俺は知ろうとしていなかったんだ。
でも今、変わる事がいかに大きい事かという事を理解した。
君と別れなくてはならない。皆とも別れる、その事がとても悲しい事だってわかったんだ」
さくら:「それは、私も、とても寂しいです」
響 :「俺は、とても無駄な毎日を過ごしてしまった。とてもバカだと思う。
いつか時は変わってしまうのに、その事に気づかず、大切な事を見過ごしてきた。
どうしてこんな大切な事に今頃気づいたんだろう。君に伝えなくちゃいけないんだ」
響はさくらの顔をじっと見つめた。さくらもじっと響の事を見つめていた。
響 :「俺はずっと、さくらちゃんの事が好きだった。今も好きだ。
その顔も、その声も、その心も、とても愛らしくて大好きだ」
さくらはその事に気づいてはいたけど、はっきり言われてとても嬉しい気持ちになった。世の中で愛される事がいかに嬉しい事かを理解した。そしてそれは好きだと言ってくれた相手が望ましい相手であった事も重要である。さくらはあまりに嬉しくて涙が零れてきた。
それからとても素敵な笑顔を浮かべた。
響 :「俺は、さくらちゃんに最初に会ったときから、ずっと君の事が気になっていた。
でも俺はまささんの下でずっと悪い事ばかりをやっていたから、君とは住む世界が違う。
だからこんな事を伝えるべきじゃないと思っていた。でも、どうして俺は君の事が好きなんだ。
さくらちゃんに会えて嬉しかった。君がいたから、俺の毎日は楽しかったのかもしれない。
君に会えると思ったから、俺は『ふくちゃん』の店に行っていたのかもしれない。いつも、
ずっと君の傍(そば)にいたかったから」
響には言いたい事がたくさんあった。その全てを今言わないわけにはいかなかった。恥ずかしい言葉でも、その全てを伝えないと自分の存在が何なのかわからなくなってしまいそうだったからだ。全てを伝えてしまえば、自分の存在がさくらの心に残るような気がした。自分の存在が残る。そうなればいろいろな決心がつく。自分のハートの全てを伝えたい相手に伝えきってしまおうとしていた。
さくら:「それでも、行ってしまうのですか?
もう、私にも、皆にも会えない場所へ、響さんは行ってしまうのですか?」
響 :「ああ、そうだね。それでも行かなくてはならないんだ」
さくら:「それなら、もう少し早く言ってくれればよかったのに。もう遅いです。でもとても嬉しいです。
とても嬉しい。私は、響さんにそう言われたいとずっと思っていた。
たとえもう会えなくても、好きだなんて言ってもらえて、とても嬉しいです」
響 :「そうか。よかった。そんなふうに言ってくれるなんて、思わなかったよ」
さくら:「私は、ここでの日々を続けていかなくてはなりません。だからどこにも行けません。
本当は他の世界にも行ってみたいけど、これが私の運命だから、私はここで暮らしていきます。
響さんはとても素敵です。私はあなたに好きだと言ってもらえてとても嬉しかった。
響さんはどこかもっと素敵なところへ行ってください。
あなたに好きだと言ってもらえた事、その事だけで私は幸せですから」
響は少し、渋い顔をした。
響 :「そうじゃないよ。俺は素敵な場所に行くわけじゃない。きっと警察に捕まるだろう。
人を殺す事にだってなるかもしれない」
さくら:「どうして!?」
響 :「俺は、まささんを殺した犯人を知っている。だからその仇(かたき)を討たなくちゃならないんだ。
それだけじゃない。仇とかそんなんじゃなんくて、どうしてもしなくてはいけない事なんだ」
さくら:「それは…」恋心の世界はパッと覚めていった。
響 :「俺はその犯人を殺す。そして警察に捕まるだろう。逃げる事もできるかもしれない。
でもきっと逃げられないだろう」
さくら:「駄目です。そんなのは駄目です。(さくらは響に近づき、響の腕を掴んだ)
もしそうなら、響さん、あなたをどこかに行かせることなんてできません」
響 :「俺は、どうしても、行かなくてはならない。この事は君に伝えたかった事なんだ。
わかってはもらえないかもしれない。
ずっと人の優しさを感じて育った。君の優しさも感じる。俺は、人の優しさがとても好きだ。
君はとても優しい。まささんも優しかった。
その全ては壊れた。
壊れたもの、壊した奴がいる。俺はその壊れたもの、壊した奴を消さないといけない。
もうどうにもならない。優しさや不幸の根源を作り出すものを消し去りたいんだ。
俺にはもうそうする事しかできないんだ」
さくらはじっと黙ってその話を聞いていた。でもパッと目を見開いて、響の方を見つめた。
「全てを捨ててしまえ」と言った。「おじいちゃん(かんさん)が言っていた。どうにもならなくなったときは全てを捨ててしまえばいいって。そして生きる事だけを考えるだって。だから響さんも全てから逃げて、そうすればきっと優しいものも戻ってくる。何もなくても生きていけば、きっといつかはそういう場所に戻れるはずだから、人を殺すなんて駄目よ。私もそれを信じているの」
響はこくりと頷いた。
「覚えておくよ」
そしてさくらの頭を撫でた。それ以上、響はさくらに触れられなかった。それで十分だった。
響はさくらの掴んでいた手をゆっくりと解(ほど)いた。
「もう行くよ」
二人は最後に長い間見つめ合った。瞳と瞳がお互いの想いを伝え合っていた。どれだけ時が過ぎたのだろう。響はゆっくりと目を閉じた。
さくらは少しだけ不安な顔をした。
響は再び目を開くと、にこりと微笑んだ。
それがさくらが最後に見る響の笑顔だった。素敵な笑みだった。
35話へ続く