34.別れの意味 | 小説と未来

34.別れの意味

 誰かが図った事のように、斉藤が訪れた翌日に、木崎がやってきた。

 だから最初、響は昨日斉藤という男に会っていた事が木崎に知られたのかと恐れた。でもそうではなかった。木崎はいつものように金の入った2枚の封筒と、指示の書かれた紙を持ってきただけだった。

 嶋咲枝殺し未遂の後だったに会った先月のような、ぎくしゃくしていた感じは、この日の二人の間にはなかった。


 木崎はサングラスをしていた。薄暗い地下の部屋で時間もわからなくなってしまうが、外はまだ昼なのだ。

「最近、うろうろしているやつはいなくなったみたいだな」

 それは馬込警部補の事だ。斉藤の事ではない。


 そういえば馬込警部補はどうした事だろう、と響は脳裏で思った。

 最後に馬込にあったのは、居酒屋『ふくちゃん』に一緒に行った日だ。響は馬込の愚痴話が面倒になって、酒をたらふく飲ませて酔わせただけだった。響はその後の馬込の事を知らない。だから響が思ったことは、あの刑事はもう仕事を辞めてしまったかどうかという事だけだ。いずれにしてももう関わる事のない相手だという答えにすぐに至った。


 斉藤に関して、木崎はやはり何も気づいていないようだった。斉藤は注意深いが木崎はそれほど鋭い勘を持ってはいない。斉藤は必ず袋小路の入口から入ってきて、マンションの表に姿を見せるようなまねはない。一見はただのサラリーマンにしか見えないし、人の中に紛れ込むのが上手い。一昨夜は響でさえ気づかなかったのだ。斉藤は自分の存在がそろそろ気づかれ始めていると言っていたが、木崎にそれらしい態度は見られなかった。響は木崎が嘘を隠すのが下手な事も知っている。だから斉藤の言う事は当たっていないと考える方が自然だった。


「ここだ」

 木崎はそう言って、今度の行き先を示した便箋(びんせん)を響に渡した。場所は小田原。ずいぶん今回は遠い場所だ。響の行った事のない未知の場所ではある。

「時間は朝早い。前のりして一泊した方が都合がいいだろう。まあ、おまえの好きなようにしたらいい」

 日付はこれも図ったかのように、嶋咲枝殺害を実行する翌日の日曜日となっている。

 この仕事はまず無いことだ、と響は思う。仕事を指示するボスを前の日に殺す事になっているのだから、この仕事の計画が実行される事は無いだろう。

 それでも響はいつものように封筒の中身(金の枚数)を確認し、それを肩掛けかばんに仕舞い込む。


「それだけだ」

 木崎はそうとだけ言うと、すぐに部屋の外へと出て行った。

 たったの数口しか話さなかった。響においては一言として口を開かなかった。しかしそれは気まずさから来るものではなかった。最初から木崎と響の間に会話などなかった。二人はいつもに戻っただけだった。

 いつもに戻ったが、これが最後である事も、響だけは知っていた。


 木崎が去った後、響はソファーに横になっていて考え事をしていた。響の頭の中が何かに気づこうとしている。


『この当たり前の毎日は終りを迎えようとしている。大きな出来事じゃないか?でも俺はまだその事に実感がない。どうにかしなくてはならなかったのに。全ての生活が変わるというのに。

 もう居酒屋ふくちゃんに行く事もないだろう。未来はもう迫っている。明日には俺は旅立たなくてはならない。俺はどうする?もうここに戻る事もない。

 その事を今日この日まで少しも考えていなかった。今までと変わらない日々しか思い浮かばなかった。これからしようとしている事がいかに大きい事か考えていなかった。

 俺はこの生活の中で、何をしてきたのだろう?何のためにこんな毎日を送ってきたのだろう?何もない日々だった』

 そう思うと、虚(むな)しくて仕方なくなった。響は自分が何のために生きているのか、さっぱりわからなかった。今ある生活の全てを捨ててしまう事をこの時まで理解してはいなかった。

 『ふくちゃん』の店での笑い声や涙声、怒鳴り声が、思い出の中から聞こえてきた。もうその声を聞くことはなくなる。まさが亡くなってしまった時と同じような虚しさが響の心にやってくる。

 今度は一人じゃない。この数年間で出逢った全ての人と別れなくてはならないという寂しさが募る。

 幼少時代の響は田山家で軟禁されるように育ち、父と母しか知らなかった。田山家から出て、まさに拾われて、田山涼から上野響となり、かんさんやとっちゃんと出逢った。ふくちゃんがいて、娘の由佳がいた。さくらとの出逢い、式羽(しきば)や歌い人もやってきた。

 それはそれで楽しい日々だった。響は当り前の日々がとても懐かしかしく感じられる。もう同じ日々はやってこない。その事を少しずつ理解しようとしてきていた。

 孤独に育った男が今、別れの意味を知ろうとしている。

「俺はいったいどこへ行くんだろう?俺はいったい何なんだろう?俺はいったい…」

 そう呟いて、自分の存在に疑問を持った。急に、誰かに自分を知ってほしくなった。誰かに伝えないと自分という存在が虚しさと悲しさに消し去られてしまう気がしていた。



 慌ててシャワーを浴び、頭を梳(と)かして、服を着て、家を出た。

 外は曇っていた。


 坂道を駆け上がり、神社の階段を駆け上がり、社務所(しゃむしょ)へと向かった。さくらは巫女の姿でお札を売っていた。響の心臓は急いできたためバクバク言っていった。あるいはそれは急いできたためではないかもしれないが。

 さくらは響の姿に気づき、近寄ってきた。

「どうしたのですか?」

 さくらは自分の巫女の姿を気にし、すぐに社務所の中へ響を招き入れた。さくらが招き入れたのは社務所内にある、テーブルとテレビくらいしかない休憩室だった。


「どうかしたのですか?」と、さくらはあらためて響に尋ねた。

 響は何も言わず、鋭い目でさくらの方を見つめていた。

さくら:「この間は、ごめんなさい。あの事を気にしていたのなら、もうお忘れください」


 響 :「その事じゃないんだ。ばかばかしい話をするかもしれない。

    でもどうしても君にしておきたい話がある。俺は君に伝えたい事がある」


 さくらはちらりと顔を上げた。響は久々にさくらと目を合わせた。でも響は照れる事なく、じっとさくらの顔を見つめていた。


さくら:「ええ、話してください」


 響 :「実は、俺はもう、君に会えなくなる。

    さくらちゃんにだけじゃなく、かんさんや『ふくちゃん』の店で出逢った皆と、もう会えなくなる。

    俺はいろいろと全てを変えなくてはならないところまで来ているんだ。

    それをする事が正しい事とは言えないけど、そうしないといけないんだ。

    そして、君に会えなくなる」


さくら:「どこかへ行ってしまうのですね(驚きはしていないようだった)」


 響 :「そうだね。俺はどこかへ行く事になる。そこは何もない孤独な場所かもしれない。

    でも俺は、そこへ行かなくとならないんだ」


さくら:「そうですか」


 響 :「ずっといつかはそうなる事になると思っていたんだ。

    でも心からその事を理解しようとしていなかった

    変わる事がいかに大きな事か、俺は知ろうとしていなかったんだ。

    でも今、変わる事がいかに大きい事かという事を理解した。

    君と別れなくてはならない。皆とも別れる、その事がとても悲しい事だってわかったんだ」


さくら:「それは、私も、とても寂しいです」


 響 :「俺は、とても無駄な毎日を過ごしてしまった。とてもバカだと思う。

    いつか時は変わってしまうのに、その事に気づかず、大切な事を見過ごしてきた。

    どうしてこんな大切な事に今頃気づいたんだろう。君に伝えなくちゃいけないんだ」


 響はさくらの顔をじっと見つめた。さくらもじっと響の事を見つめていた。


 響 :「俺はずっと、さくらちゃんの事が好きだった。今も好きだ。

    その顔も、その声も、その心も、とても愛らしくて大好きだ」


 さくらはその事に気づいてはいたけど、はっきり言われてとても嬉しい気持ちになった。世の中で愛される事がいかに嬉しい事かを理解した。そしてそれは好きだと言ってくれた相手が望ましい相手であった事も重要である。さくらはあまりに嬉しくて涙が零れてきた。

 それからとても素敵な笑顔を浮かべた。


 響 :「俺は、さくらちゃんに最初に会ったときから、ずっと君の事が気になっていた。

    でも俺はまささんの下でずっと悪い事ばかりをやっていたから、君とは住む世界が違う。

    だからこんな事を伝えるべきじゃないと思っていた。でも、どうして俺は君の事が好きなんだ。

    さくらちゃんに会えて嬉しかった。君がいたから、俺の毎日は楽しかったのかもしれない。

    君に会えると思ったから、俺は『ふくちゃん』の店に行っていたのかもしれない。いつも、

    ずっと君の傍(そば)にいたかったから」

 

 響には言いたい事がたくさんあった。その全てを今言わないわけにはいかなかった。恥ずかしい言葉でも、その全てを伝えないと自分の存在が何なのかわからなくなってしまいそうだったからだ。全てを伝えてしまえば、自分の存在がさくらの心に残るような気がした。自分の存在が残る。そうなればいろいろな決心がつく。自分のハートの全てを伝えたい相手に伝えきってしまおうとしていた。


さくら:「それでも、行ってしまうのですか?

    もう、私にも、皆にも会えない場所へ、響さんは行ってしまうのですか?」


 響 :「ああ、そうだね。それでも行かなくてはならないんだ」


さくら:「それなら、もう少し早く言ってくれればよかったのに。もう遅いです。でもとても嬉しいです。

    とても嬉しい。私は、響さんにそう言われたいとずっと思っていた。

    たとえもう会えなくても、好きだなんて言ってもらえて、とても嬉しいです」


 響 :「そうか。よかった。そんなふうに言ってくれるなんて、思わなかったよ」


さくら:「私は、ここでの日々を続けていかなくてはなりません。だからどこにも行けません。

    本当は他の世界にも行ってみたいけど、これが私の運命だから、私はここで暮らしていきます。

    響さんはとても素敵です。私はあなたに好きだと言ってもらえてとても嬉しかった。

    響さんはどこかもっと素敵なところへ行ってください。

    あなたに好きだと言ってもらえた事、その事だけで私は幸せですから」


 響は少し、渋い顔をした。


 響 :「そうじゃないよ。俺は素敵な場所に行くわけじゃない。きっと警察に捕まるだろう。

    人を殺す事にだってなるかもしれない


さくら:「どうして!?」


 響 :「俺は、まささんを殺した犯人を知っている。だからその仇(かたき)を討たなくちゃならないんだ。

    それだけじゃない。仇とかそんなんじゃなんくて、どうしてもしなくてはいけない事なんだ」


さくら:「それは…」恋心の世界はパッと覚めていった。


 響 :「俺はその犯人を殺す。そして警察に捕まるだろう。逃げる事もできるかもしれない。

    でもきっと逃げられないだろう」


さくら:「駄目です。そんなのは駄目です。(さくらは響に近づき、響の腕を掴んだ)

    もしそうなら、響さん、あなたをどこかに行かせることなんてできません」


 響 :「俺は、どうしても、行かなくてはならない。この事は君に伝えたかった事なんだ。

    わかってはもらえないかもしれない。

    ずっと人の優しさを感じて育った。君の優しさも感じる。俺は、人の優しさがとても好きだ。

    君はとても優しい。まささんも優しかった。

    その全ては壊れた。

    壊れたもの、壊した奴がいる。俺はその壊れたもの、壊した奴を消さないといけない。

    もうどうにもならない。優しさや不幸の根源を作り出すものを消し去りたいんだ。

    俺にはもうそうする事しかできないんだ」


 さくらはじっと黙ってその話を聞いていた。でもパッと目を見開いて、響の方を見つめた。

「全てを捨ててしまえ」と言った。「おじいちゃん(かんさん)が言っていた。どうにもならなくなったときは全てを捨ててしまえばいいって。そして生きる事だけを考えるだって。だから響さんも全てから逃げて、そうすればきっと優しいものも戻ってくる。何もなくても生きていけば、きっといつかはそういう場所に戻れるはずだから、人を殺すなんて駄目よ。私もそれを信じているの」


 響はこくりと頷いた。

「覚えておくよ」

 そしてさくらの頭を撫でた。それ以上、響はさくらに触れられなかった。それで十分だった。

 響はさくらの掴んでいた手をゆっくりと解(ほど)いた。

「もう行くよ」

 二人は最後に長い間見つめ合った。瞳と瞳がお互いの想いを伝え合っていた。どれだけ時が過ぎたのだろう。響はゆっくりと目を閉じた。

 さくらは少しだけ不安な顔をした。


 響は再び目を開くと、にこりと微笑んだ。

 それがさくらが最後に見る響の笑顔だった。素敵な笑みだった。


35話へ続く