47(-1). 時の終りを見つめる 前.
倉本が食堂の扉をガラリと開けたとき、木島はテーブルの上に座っていた。入り口側から一番奥にあたる部分にあるガスコンロと流しのある調理場では、睦美が一人、昼食の準備をしていた。
食堂にはシチューの食欲をそそる甘い香りが漂っていた。
「どうした?」と、木島は倉本に尋ねた。
倉本は木島の質問を気に止めずに食堂の奥、トイレへと通じる方の扉へと向っていった。シチューのよい香りからして、焦げ臭い匂いが睦美の調理ミスでない事は倉本にはすでに承知済みだった。
息を呑むような真剣な表情をした倉本の姿が、木島と睦美には伝わり、二人を緊張させた。睦美はコンロの火を止めて、木島の方へと近寄っていった。木島はテーブルから降りて立ち上がった。
次の瞬間だった。
倉本の前から大きな爆風がやってきた。倉本はその爆風に飛ばされ、しりもちをついた。ボンという大きな音が当たりに響いたが、それだけで終り、後はまた静けさに変わった。
灰色の煙が食堂の方へと入り込んできた。誰も身動き一つ取る事はできなかった。木島と睦美は爆風に吹き飛ばされた倉本の姿を見て、ただ呆然として立ちすくんでいた。
倉本は瞬時に顔の前で腕をXにし、体を丸めたため、大きなダメージを受けていなかった。ただ煙の立ちこむ向こう側を見ようとしていた。
倉本は感じていた。『どうして、そこで起こったのか?』と。
爆風のやってきたところは工場の外部からではなく、内部でのあたりにしか見えなかった。トイレのあたりから攻め込まれて起こった爆発とも考えられたが、それなら睦美が調理していた流し台の方にも何らかの異常が見られるはずだが、流しのなんともなくシチューは無事だった。感覚的に見て、それは内部で起こった爆発なのだ、と倉本は悟った。
『おそらく内部防御のための扉』
爆弾は工場内にも仕掛けられていた。それは工場に追い手=SATが入り込んだ時に中で防御するための爆弾だ。爆発したのはおそらくその爆弾だ。だから自分たちを守るために強い爆発はしない。
「金原、どうなっているんだ」と呟き、倉本は立ち上がった。そして一瞬木島の方に目をやった。
「そこから動くな。俺は金原を探してくる」
そう言って、倉本は煙の立ち込めるトイレの方の扉を潜っていった。
「倉本!」と、木島は呼び止めたが、すでに遅かった。倉本は煙の中に消えてしまっていた。
その爆発は工場内の全てに伝わっていた。
事務室に若手と響がいて、作業場に柏木守がいた。食堂には木島と睦美が残って、倉本は爆発の起きた方へと飛び込んでいった。金原は機械室にいて、桐平と小菅、桑野は材料室でゲームをしていた。裁断場には誰もいなかった。
『あの煙はどこからともなくやってきて、僕らを包み込んでゆくのかな?無関心な出来事かもしれない。きっと誰もそんなに憎んではいなかっただろうし、恨んでもいなかったのだから。むしろその憎しみや恨みは自分自身に向っていたんだ』
桐平は爆発して起きた煙を見ながら、そんな事を思っていた。
『若手さんや倉本さんは知らないだろう。僕らがどんな人間なのか、彼らは知らない。最初から何かを成し遂げようとか、世の中をあっと言わせようとか、そんな気はなかった。
僕らは僕らの程度を知っている。
そんな僕らを若手さんは快(こころよ)く迎え入れてくれた。そして僕らにも出来る事があると、勇気付けてくれた。僕らは皆生きる意味を持たされた。
その事が嬉しかった。僕らにも生まれてきた意味がある事を教えてくれた。
本当の僕らは存在意義も持てない人間たちだ。
理想ばかり高く、現実と向き合おうとしない人間たちだ。僕らはそんなどうしようもない人間たちなのに、若手さんは僕らの味方になってくれた。道を踏み外してしまった僕らの道をしっかりと作り直してくれた。
若手さんの優しさを僕らは十分に感じてきた。
ずっと深い闇の中にいた僕に、小さな蛍を投げ入れてくれた。僕はずっと闇の中にいるのだけれど、その蛍が僕の関心を誘う。何もない暗闇ではそんな小さな関心さえ持てなかった。
若手さんが与えてくれた事に僕は感謝している。だけど僕らは小さな暗闇の中にずっといるんだ。そしてただ若手さんが投げ入れてくれた蛍を見つめる事、そんな事しか出来ないんだ』
次の瞬間、二度目の爆発が起きた。爆発は再びいくつかの通路を塞いだ。材料室と裁断室はもう繋がってはいなかった。作業室と材料室も繋がってはいなかった。
二度目の爆発が工場をいくつかに分断した。
事務室では若手が苦い表情を浮かべていた。
「また回路が狂ったか」と呟いた。
響はどうしようもない状況に追い込まれていた。爆発による熱のせいか、はたまた冷や汗か、額には玉粒上の汗が滲(にじ)み沸いていた。
47-2へ。
47話は前・中・後に分けて掲載します。
46. 追求
上野響は嶋咲枝がどんな人物なのか、詳しくは知らない。
嶋咲枝は政治家でありながら麻薬で金を儲けている女だという事しか知らない。嶋咲枝という名は世の中に広く知れ渡っている。だからその名を口にすれば、若手もすぐに解っただろう。響と嶋咲枝の繋がりがある事を伝えれば、普通に理解できないくらい驚くだろう。
嶋咲枝は少なくても表向きにはクリーンなイメージの政治家だ。彼女がクリーンでないのは、そのルックスから来る男絡みの問題だけであって、その他の面ではクリーンだとして知られている。だから世の中にも受けがいいし、彼女を嫌う人間もいれば好き好む人間もいる。
それが嶋咲枝に対する世論の評価といったところだ。
真実の嶋咲枝は不思議な魅力を持っている。
上野響は少なくとも彼女の事をそう捉(とら)えている。実際に会ったのは殺害を試みたあの一夜限りだ。響は嶋の不思議な魅力に心を揺さぶられた。
その揺さぶりを掛ける感触を響はしっかりと覚えている。あの感触に誰もがやられていくのだろうと響は後で感じた。感触は女としての弱さ、その逆の内面の強さ、と同時に捉えきれない感情のようなもの。一種の女の勘とでもいうのか、嶋咲枝にはそういった女としての独特の感性を人一倍強く持っている感じだった。
それが嶋の力である事を響は感じていた。
若手と響の長い会話は続いていた。長い会話と言っても、無口になる時間が多く、話は一向に進まなかった。
響はまさについての話をした。
彼は麻薬の運び屋ではあったが、その面を除けば人のいいおじさんだった。誰もが持つ金欲や性欲を思うままに満たしている人だった。そして社会に対する欲を持たない人間だった。上手に稼げて、上手に遊べる金が欲しかっただけの男なのだ。響は若手に対してまさをそう説明した。
若手はその人物が自分の間逆にいるタイプの人間である事を理解した。若手は自分が社会欲の強い人間だと感じている。そうでなければわざわざここまで麻薬に取り組んでこなかっただろうと何度か自分を見つめ直したこともあった。
金や女に対してはさほどの興味がない。食欲や性欲がないと言ったら嘘になるが、欲望に順番付けばそれはとても低い方に値する。彼にとって大切なのはあくまで自分がこの世に何を残せるかという事だけだ。それを果たせずして、金も女も欲する気持ちにはなれなかった。
響は木崎についての話も、名前こそ出さなかったが、若手にした。
それはつまり響の仕事について教えたようなものだった。木崎がやってきて、金を受け取り、ある場所に麻薬の入った物を頂きに行く。そしてそれを手に入れて戻って木崎に渡すという事だった。そしてその人物=木崎はがたいがよく、真面目で硬い男だと、響は若手に説明してやった。
嶋咲枝を取り囲む環境についての話はだいたいした。しかしその頂点に立つ本人の話になると、響の口は仁王像のようにつむって固まってしまった。響はどうしてもその先を口に出す事ができなかった。
なぜ話す事ができないのか、響は一人になったときに何度も考えた。
一つは若手との考え方の違い。響は嶋を殺す事を狙っているのに、若手は嶋を捕まえる事を考えているという狙いの違いからだ。
でもその点に関する問題だけなら現状の篭城(ろうじょう)生活を続ける事には何の得もない。なぜなら嶋咲枝自身がこの場に失われた麻薬を取り戻しに来る事は到底考えられないからだ。
響は現状からの抜け出す道として若手の仲間になる事を決めたが、それが嶋咲枝殺害へどう繋がるかまではその時まるで考えていなかった。
一度思い切って殺害の狙いを若手に告げたが、実際にはとても無理難題である事も響は理解していた。
有る可能性を考えるのなら、嶋咲枝という名を、若手に告げてしまったほうが得なのだ。殺害に関しては、嶋咲枝が追い込まれてからチャンスを窺(うかが)えばいい。現状追い込まれているのはむしろ響の方だ。打破するには若手に嶋咲枝という名を告げるべきだ。それを理解しても響は若手に嶋咲枝の名を口にする事ができないでいる。どうしてなのか、そこには嶋の不思議な魅力があるせいなのか、響はふとそんな事を思い浮かべていた。
不調和。この流れの中では何も見つからない。同じ流れの中では先に進む要素が見つからない。
若手は今の打破を考える。
若手:「何か別の話をしよう」
響 :「何を?」
若手:「君にとって、楽しみとは何かか?」
響 :「酒、女、くらい。煙草は吸わない」
若手:「君はまだ20歳くらいだったかな?」
響 :「そうだけど」
若手:「ふふ、20歳とは思えない考え方だな。
誰かに似たのか、それとももともとそういう人間性なのか」
響 :「人間なんてそんなものさ。実際はただの欲望の塊なんだ」
若手:「それは君の意見か?それとも君を育てた人の意見か?」
響 :「どっちでもいい。ただ、俺はそう思っただけだ」
若手:「じゃあ、君の育てた人の話はやめよう。それは聞いたからな(もちろん、まさの事である)。
君の実の両親は健在か?」
響は口を結んだまま、開かなかった。
若手:「そうだな。長い間、会っていないのだろうから、それもわからないのだろうな」
響 :「両親は、死んだ」
若手:「そうか、君も不幸な人生を送ってきたというわけか。
不幸と言い切る事もできないし、君の人生は俺の人生とも違うから一概(いちがい)には言えないがね」
響 :「両親に対しても、まささんに対しても、不幸は感じていない。
ただ、彼らを俺から奪ったものに恨みがあるだけだ」
若手:「まさという男に対しては、君のボス。両親は?病死か?事故死か?
君を見ていればわかる。両親は優しい人間だった。君はその愛情に育てられたのだろう」
響は黙っていた。
若手:「子供の頃なら、酒や女じゃなく、別の楽しみもあっただろう。友達と遊んだ楽しみもあっただろう」
響 :「子供の頃に友達なんていない。俺は普通じゃないんだ。そういう育ち方はしていない。
一般的な物の見方で判断されても困る」
若手:「そうか。ならどう違う?引越しが多かったとか、病弱だったとかか?
君を見る限り、周りに虐められるような人間には見えないが、それともそういうことかな?」
響 :「どれも違う。俺は、独りで育ったんだ。ずっと狭い部屋で、俺は両親しか知らずに育った」
若手:「なるほど、それは確かに変わっている。君の言うようにそれは一般的じゃないね」
響の少年時代はずっと両親しかいなかった。遊びはいつも一人遊びで、嬉しい事といえば、勉強をして両親に褒(ほ)められることくらいだった。両親は響にテレビも見せなかったし、テレビゲームもやらせなかった。一般的な社会に関係する遊びをする事は一切拒んだ。それは両親(田山夫妻)が涼(響)に、自分が人と違う事を悟られないためにだった。それでも自然と物心が付けば、自分が何かおかしな生活をしている事に気づき出していたし、両親のいない時にテレビの盗み見もしていた。全くの監禁ではなく、外を知ることも出来たし、勉強もさせられていたから、知識は徐々に付いていっていた。
若手:「そして、君の両親は亡くなり、君は麻薬の運び屋であるまさに出会った。確かに変わっているな。
普通じゃない」
焦げ臭い、異臭の漂う匂いが鼻に付いて、若手は会話を止めた。
若手:「倉本!」
若手は倉本を呼び寄せた。
倉本は二人が話をする事務所へと駆けつけてきた。
「異臭がする。睦美の昼食の調理ミスでもなければ、やつらが攻めてきているのかもしれない。食堂を覗いた後、木島と一緒に周囲を見渡せ。それから、これが毒ガスか何かでないか、金原に聞け。そうだったらすぐにマスクを用意させるんだ。いいな」
「わかったよ。確かに変なにおいがする」
と、倉本は答えた。
「話はしばらく中断だ。いや、本来なら中断している暇もない。何かが迫っているのかもしれない。全ての鍵は君が握るのだからな」
若手のその言葉に響は黙っていた。
どこからともなくやってくる不安な気持ちが響の心を取られていた。響の勘は別のところに働いていた。何かが攻めてくるというより、別の何かが起ころうとしてることを響は特別な勘から感じていた。
47話へ続く。
45. 爆破事件の当事者
漆黒(しっこく)の闇が包む。何度目かのトタン屋根を叩く音が響いた。SAT(特殊急襲部隊)の連中がまた突破口を切り開こうと始めているみたいだった。
息が詰まり苦しい感じがするのは皆同じだ。睦美は食料の心配を感じ始めていた。頭の弱い小菅はたまに泣き出しそうな声を発した。
「あああああ、あああああ」
その声が場内に響き渡ると、皆嫌な気分になる。特に倉本は苛立ちを隠せずに足を震わせていた。
個々の時間が過ぎ去ってゆく。風のない場所が空気を重く感じさせる。「もうやめよう」という気が起きないと言えば嘘になる。
心の見えない女、金原は誰よりも強く絶望を感じていた。
彼女は倉本の呼びかけに応じて仲間になったメンバーだ。だが彼女は麻薬に関して恨みを抱いているわけではなかった。彼女の怒りは麻薬と言うよりもむしろ世の中にあった。だからただ、その世の中をひっくり返すような考えを持っている若手という存在に対して惹(ひ)かれる気持ちを持っていた。
金原は小学校からずっと虐められてきた。
オシャレにも興味がなく、眼鏡を掛け、本ばかりを読んでいる彼女はかっこうのいじめの的となった。誰もが根暗で、人と話をしない彼女を避けた。
彼女は別にそれでも構わなかった。人と付き合うよりは色々な物の仕組みを解明していく方が何倍も楽しかった。いじめは当り前の出来事だった。無視されるだけなら楽だったが、トイレで水を掛けられたり、机に落書きされたり、時には後ろから突き飛ばされたりすると苛立ちを強く感じた。
でも本当に彼女が感じていたのは、怒りというより虚しさだった。どうして世の中の人間はくだらない虐めのような事を楽しむのだろうかという疑問が彼女の心を虚しくさせていった。彼女は周りの人間がもっと自分と同じように、色々な物の仕組みに興味を持って取り組んでいけばいいと望んでいた。
しかし中学校に入っても、高校に入っても、彼女の周りの人間にそのような深い興味を持った人間が見つかることはなかった。実際はいたのかもしれないが、話ベタな彼女は自分の世界に入り込むばかりで、人と関わろうとしなかったから、そんな想いを持つ人間を見つける事ができなかった。
結局、一人で家に閉じこもり、パソコンと向き合う生活の方が増えていった。高校を卒業する頃になると、金原は世の中に対する怒りを強く感じるようになっていた。世の中の人間はゴミのようなやつらばかりだと感じていた。この国が滅ぶのも時間の問題だと感じ、むしろそうなる事を望むようになった。
爆弾の作り方を掲載するコミュニティーの中で彼女は倉本に声を掛けられた。倉本は金原が書き込むコミュニティーの細かい説明に興味を持った。『仲間になってほしい』と彼女を呼びかけてきた。最初は何だかわからなかったが、やがて倉本の存在が近づいてくると、そこに未来があるような気がした。金原は思い切って、心の扉を開いた。その後、若手と出会い、自分が必要とされている存在である事を理解した。
深い闇の青、音のない場所、音のない暮らし。
胸が苦しい。心が荒(すさ)む。
それでも今また、金原は苦しんでいた。
彼女は惨劇(さんげき)の全てを知っている。日暮里スーパー爆破事件の爆発がどうしてあれほど大きかったのか。あれは間違いだったのか、正しかったのか、知っている。
若手はあの爆発を『間違えだった』と言った。あの爆発物は間違えて作られた物が爆発したからだと思っている。
金原はあの爆発物が、間違えて作った物なのかどうなのか、その事を一番良くわかっている。作った本人はその事を一番よく理解している。あの爆発物がどれだけの威力のある物なのか、金原は理解していた。
わかっていた。あの爆発は間違えではなかった。あれはああなるようになっていたのだ。金原は試したのだ。自らが作った物にどれだけの威力があるのかを。
それは大変な威力(いりょく)だった。あれほどの爆発が起こり、あれほどの人が亡くなったのだ。だから金原は爆発後、若手と会った時、「間違いだった」と告げた。若手は、「仕方ないさ。誰にだって間違えはある。仕掛けたのは俺だから俺の責任だ」と答えた。
二人の間違えという言葉には大きな誤差があった。金原は、あの爆発物を作った事が間違いだったと言ったのだ。しかし若手は、あの爆発物の作りに間違いがあったと思っているのだ。
「しかたない。間違えもある。あれは強すぎた」
金原はその言葉を聞いて、若手の勘違いを理解した。そして金原は自分の心の内に自らの間違いをしまい込んだ。もともと口数の少ない金原だから、それ以上口を開かないのは自然だった。皆あの爆発が間違った作りよって作られた爆弾が爆発した物だと思い込むようになっていた。
そして時はいつの間にか過ぎていた。
金原という存在がいなければ、若手らはまだテロリストと呼べるほどの集団ではなかっただろう。そしてあの事件がなければ、彼らはそこまで危険な集団として考えられなかっただろう。彼らがテロリストだという事は実際のところ、工場内にいるメンバーと未処(市谷と夢見警部)、それから馬込純平くらいしかいない。現実では彼らはまだ誰にも、といっていいくらい知られていない。しかしあの事件犯だということで彼らはいずれテロリストと世間に言われるようになるだろう。
闇の中で恐れているのか、SATの連中はまだトラップの内側に入ってこない。
『本当に間違いだったのか、正しかったのか』
金原はもう一度、自問する。
自分が作った物がどれだけの威力があるかを試したかった。ずっとパソコンの中で理論立ててきた物が形になった。金原が一言、欲しい部品や化学薬品を言えば、桑野と倉本は時間を掛けてでも、その物を調達してきてくれた。そしてそれらを使い、実際に作るという、理論の世界を越えた第2の楽しみを金原は味わう事ができた。様々な失敗は失敗で楽しめた。それは金原にとってかつてない楽しみだった。
そしてここまで来た。廃工場を覆う数々の爆発物、その全てがどうなるか、金原だけが知っている。彼女のしたい事はSATを入らせない事よりもむしろそのトラップがしっかりと出来ているかという事にあった。そして彼女の苛立ちはSATに囲まれている事ではなくて、むしろ自分が仕掛けたトラップに誰もいまだに引っかからない事にあるようだった。
『もう、ここまでやってしまった』
彼女は心の中でそう呟いた。誰もいない機械室で一人息を詰まらせていた。人を殺した罪悪感がないわけではいない。しかし彼女はその悪の根源は自分をそうさせた世の中にあると捉(とら)えていた。
彼女は今、自虐的(じぎゃくてき)に全てを終わらせようと考えている。ドミノの最初の一押しみたいなスイッチを彼女は手にしている。ある部分が少しずつ熱を帯び、やがて火薬を発火させるようになっている。ろうそくに火が付き、やがて溶けた蝋(ろう)が零(こぼ)れ落ち、熱せられ、熱が伝わる仕組みになっている部分もある。それらの一つ一つがうまくいくのか、計算上ではうまく行くはずだが、実際にどうなるかはやってみないとわからない。
『もう時は迫っている』
金原はその事を感じていた。だから彼女は自分を満たしたいと微笑んだ。
そして最初のスイッチを押した。
一気には何も起こらない。少しずつ時間が過ぎ、やがて爆発が始まる。彼女はその事を知っている。
世の中に対する恨み、憎しみ、彼女は心の見えないところでずっと一人その想いを持ち続けてきた。その全てが今、満たされ、終わりを向かえようとしていた。
誰も知らない真実の中で、若手らのメンバーは個々の場所で個々の時間を送っている。
46話へ続く。
44. 意外な来客への来客
馬込は市谷からの連絡が再び入るまで上野響を探す事とした。しかし彼にはどこに行ったらいいかという答えがなかった。だからとりあえずいつもどおり上野響が住んでいたマンションの前までやってきた。
『彼はあの日、ここから出ていった!つまりそれはどういう事なのか。んふ~、はい、そうです、つまりですね』と、腕を組んで、人差し指を額に当てながら、古畑任三郎の真似をして、上野響の行き先を考えた。
しかしどこにも上野響がどこへ行ったかという手がかりは見つかりそうになかった。馬込には何の予測も浮かばなかった。
結局、馬込はいつものように、マンションの前の花壇の脇に座り込み、ただぼけっとするだけの時間を送る事となった。すでにいなくなった男が戻ってくる確率はとても低かった。それでも馬込には上野響を待つことしかできなかった。
『この先、僕はどうしたらいいんだろうか』なんてニートの悩みが浮かんでいた。
1時間が経過した。辺りを通りすぎる人を見つめながら時を送っていた。
やがて一人のおっさんと目が合った。おっさんは青いジャンパーにベージュのチノパンを穿いていた。角刈りの似合う40過ぎの人の良さそうおじさんだ。だから馬込は宗教勧誘者かなんかだと感じ、目を逸(そ)らせた。
「すみません」
おっさんは予想どおり馬込に話しかけてきた。
「いえ、間に合ってますから、大丈夫です」
何が間に合っているかは不明だが、馬込はとにかくそう答えた。
「あの、そういうことじゃなくて、ひょっとしてあなたは馬込さんではないでしょうか?」
馬込は顔を上げた。そしてその男の顔をまじまじと見つめた。角刈りにほりの深い顔立ち、馬込にはまるで見覚えのない顔だった。
『いや、知らない』と、心の中で呟いた。
『待ってください。たしかこの男は、ひょっとして、と言いました。ということはですねえ、つまりそれは、彼がわたくしの事を本当に知っているわけではない。しかし、彼はわたしの名前を知っていた。それはつまり、急にわたしが有名になってしまって、人々に知られたなんて事がない限り、わたくしの名前を知っているなんて事はありえない。最近わたくしに起こった出来事といえば、市谷班長に会ったこと。市谷班長は若手という男の手助けをしてほしいと言っていた。ここは上野響の住んでいるマンションである。という事は、上野響を知る者である事は確かなのだが、何者かははっきりしてこない。んんん』
と、一人勝手に長い推測を行う。
男 :「わたしは金子と申します。馬込さんでしょうか?」
馬込:「ええ、そうですが」
金子:「じゃあ、柏木(かしき)さんという方をご存知ですよね」
馬込:「ええええ~とお」
金子:「なんといいますか、ギターを弾く男でして、居酒屋『ふくちゃん』というところで会ったかと」
馬込:「ああ、ああああああ。お世話になった人だ」
金子:「ええ、わたくし、彼の知り合いでして、彼からの頼みでここに来ました」
馬込:「…?、どういう理由でしょうか?」
金子:「まず、わたくしたちがどのようなものかをお伝えしておこう思います。
わたくしたちは麻薬に対して恨みを持っている者の集まりでして、麻薬の駆除(くじょ)を行っています」
馬込:「そうですか。という事は、あなたたちはですね、若手という男と関係しているわけですね」
(馬込にしては珍しく飲み込みが早い)
金子:「ええ、すでに、その方の名前をご存知なのですね」
馬込:「つまり、若手の指示であなたはここに来た」
金子:「おそらく、そうですね」
馬込:「それで、彼は今、どこに?」
金子:「まあ、その事は後にして、先にお話させてください」
馬込はしぶしぶ頷く。
金子:「わたしたちは麻薬を恨んでいる集団です。そしてわたしたちはそれを無くしたいと考えている。
それであなたにぜひ協力がしていただきたいと思い、あなたを探しておりました。
あなたには麻薬を扱(あつか)っている組織のボスを捕まえていただきたいのです」
馬込:「…・でも、わたしはすでに、知っておられるかわかりませんが、警官ではないのです」
金子:「いえ、それは構いません。あなたはそのボスに物(ぶつ)を預かっている事を説明し、
関かわっている警察関係者の名を伝えていただければいいのです。
まだボスが何者なのかは判明していませんが、わかり次第してほしいのです。
ボスと思われる人物に揺さぶりを掛け、麻薬と関わっている証拠を見つけ出してほしいのです」
馬込は9割方理解できた。
先日、市谷班長たちと話した件が今の話に繋がっていた。警察関係者とは警備部の石間部長の事だ。『石間が麻薬と関わっていた事を自供した』とボスとなる人物に伝えれば、麻薬のボスにも逃げ道はない。頼みの警察を失えば捕まる覚悟をするしかないだろう。しかしボスとはどこのどんな人物なのか、馬込にはまるで答えがなかった。
だから馬込はその点に関して金子に尋ねた。
金子:「ボスが何者なのかはわたしたちもまだ判明できていません。
わたしたちはすでにある人物を味方に付け、物(ぶつ)を手に入れました。
そしてその人物から、ボスの名を聞き取ろうとしています」
馬込:「ある人物ですか?」
金子:「ええ、運び屋で、上響響という人物です。ひょっとしてあなたはその人を探しているのでは?」
馬込:(もちろん知っている)「運び屋、運び、運ぶ、運送業。なるほど、そういう事か」
馬込は一気にいろいろな謎が解けた気がした。そしてそれはあまりのすっきり感だったので、思わずとてつもない笑顔になってしまった。
でも次の瞬間には嫌な気持ちが湧いてきた。全てにおける謎が解けたと同時に、浮かび上がってきたのは、自分が何を追いかけてきたかという疑問だった。
馬込がずっと追いかけてきたのは、日暮里スーパー爆破事件の犯人だった。しかし先日の夢見警部の話と、今日の金子の話を足すと、その犯人はほぼ若手か、その部下かという事が決定付けられてきた。
日暮里のスーパーに麻薬を運んでいたのは、今麻薬の運び屋であったと判明したまさだと考えられる。そのまさが爆発物を仕掛け、松嶋を殺す理由などどこにも見当たらない。そんな事をすればむしろ自分の飯の種が減ってしまうわけだからその可能性は低い。日暮里スーパー爆破事件の犯人はむしろ、麻薬の売人である松嶋を恨む、若手たちの集団である確率の方が明らかに高い。
今日まで馬込が推測してきた考えは全て外れていて、真相が浮かんできた。犯人はまさではなく、目の前にいる金子と名乗る男も含む若手らのグループであるという事だ。
馬込が長年追ってきた相手は麻薬のボスではなく、日暮里スーパー爆破事件の犯人なのだ。
そして馬込はもう一つの真相も理解できてきた。それは上野響に関する件だ。先日訪れた居酒屋『ふくちゃん』で聞いた上野響とまさの生活、その前の田山家で見つけた上野響の写真を総合して考えると、田山夫妻が何らかの形で預かっていた少年=涼=上野響が、田山夫妻が亡くなった事で行き場を失い、何らかの理由で麻薬の運び屋だったまさに引き取られる事となった。上野響がなぜ田山家で生活していたのか、そしてなぜそれが世間に知られないようになっていたのか、また、なぜまさが上野響を引き取ったのかという事までは、馬込にまだ疑問として残る形となった。
それでも答えはそこにあった。馬込が追いかけるべきは日暮里スーパー爆破事件の犯人=若手らであって、上野響でも、まさでも、麻薬のボスでもなかったのだ。
馬込:「あなたは、日暮里スーパー爆破事件というのをご存知ですか?」と金子に尋ねた。
金子:「ええ、聞いてはいます。あれは事故だったのです」
馬込:「事故?爆発物を仕掛けた事故なんてあるんですか?」
金子:「火薬量を間違えたと聞いている。
若手さんたちはただ松嶋という売り手を警官に捕まえさせたかっただけなんです。
そのための小さな仕掛けだった。それが大きな事故になってしまった」
爆破事件が起きた時、その場に最初に駆けつけた警官は馬込だった。つまり本来想定していた爆発だったなら、馬込は爆破した辺りの物=麻薬を押収して、松嶋を逮捕するという事に到っていただろう。馬込は麻薬犯逮捕という大きな経歴を残し、次の事件を追う事ができただろう。そしてそれを仕組んだ若手も満足して、麻薬捜査の件を警察に任せて別の事を始めていたかもしれない。
しかし事実はこうなった。スーパーは爆破され、6人の死者が出た。最初にその場に駆けつけた警官であった馬込は日暮里スーパー爆破事件を追う事となり、爆破を仕掛けた若手は麻薬もろとも爆破させてしまうという失敗に至り、さらなるチャンスを探して麻薬を扱う真の犯人を追い求める事となった。狂わされた二人の7年間は戻ることのないまま、2008年の秋を迎えていた。
馬込:「いずれにしろ、わたしはあなたたちを捕まえなくてはならない。それがわたしの使命なんです」
金子:「協力はしてもらえないという事ですか?」
馬込:少し悩んでから、「麻薬の犯人が見つかるまでは手伝いましょう。しかし、それで終りではない」
金子:「わたしたちを捕まえるつもりですね」
馬込:「取引なんてしたくないんです。本当は単純にわたしは犯人を捕まえたいだけなんです」
金子:「わたしも同じです。わたしもただ麻薬がなくなればいいと思っているだけです。
今回の件が終りましたら、わたしの知る限りを全て、あなたにお伝えします。
若手さんたちがどうするかはわたしにはわかりませんが、わたしはあなたに約束しますよ。
この件が済みましたら、わたしはあなたに協力します」
馬込:「それではまず、彼らはどこにいるか、教えてもらえますか?」
金子:「彼らは、伊豆にいる。若手の叔父がやっていた工場の跡地に彼らはいます。
しかし、今は近づけません。彼らは警察の者に囲まれています。
近づく事は、とても危険なんです。信じてもらえますか?」
馬込:「ええ、だいたいわかってますから」
馬込は自分の中で一皮向けた気がしていた。焦りや不安が急に減った気がした。謎が解け、犯人を理解してしまった今となっては焦っても仕方ない気がした。後は捕まえるだけ、というはっきりした答えが馬込にかつてない余裕をもたらせていた。
45話へ続く。
