49.野良猫の居ついた所
つまらない日々を家でダラダラ過ごす。
八畳一間の女の部屋で、テレビを見ている。見ているというよりテレビの映像が流れているだけといったほうがいいかもれない。響は自分が何をしようとしているのか忘れてしまった。もうやる事は何もないかのようだった。
ニュースは次々刻々といろいろな事を伝えようとしている。食品内にトルエンが混入した事件など食の安全についての話題を取り上げていた。響にとってはもちろんどうでもいいニュースであった。
伊豆の工場が爆発した事件も数日間は3番目くらいに大きなニュースとして取り上げられていたが、どの映像も全て、焼けて無くなった工場跡とそれを処理する消防隊の姿しか映さなかった。響に起きた真実を伝える映像はまるで見られなかった。
2日後には、工場に火を付けた犯人として、柏木守容疑者が逮捕されたニュースをやっていた。最初の日は放火の理由を不明としていたが、数日後には爆弾の実験を行っていたという内容のニュースが見られるようになり、ニュースも大々的に取り上げるようになってきた。火災による死者も公表された。死んだのは全て爆弾を作っていた仲間である事を冒頭に伝え、『カナハラ、キシマ、キリヒラ、クラモト、クワノ、コスゲ、ムツミ、ワカテ』の8人の名が挙げられた。響の名前は出てこなかった。と同時に、死体は損傷が激しいため、死体の数と柏木容疑者が告げた人物が一致できない事を伝えていた。
自衛隊の役人が更迭されたというニュースがあった日には、柏木守と日暮里スーパー爆破事件が関連している可能性がある事をニュースは特集として挙げていた。柏木守は日暮里スーパー爆破事件の直接の実行犯ではないが、その爆破事件と今回の伊豆工場模作爆弾爆破事故(ニュースでは一般的にそう呼んでいる)とに爆弾の造りなどから関連性がある事を挙げていた。
しかし伊豆工場模作爆弾爆破事故が麻薬と関連している事はどこのニュースを探しても伝えている報道機関はなかった。麻薬のニュースはどこかの大学生が大麻を栽培したとか、どこそこの芸能人が再犯で捕まったとか、そんなニュースしかやっていなかった。
あのトランクはどこへ行ってしまったのか、その真実は闇の中に葬り去られてしまった。
有名作曲家の詐欺事件、米大統領の決定がニュースで流れる頃には、伊豆での事件はまるでなかったかのようにニュース番組という枠から消されてしまっていた。
時は過ぎ行く。響はただそんなニュースばかりを見る日々を送っていた。
響がどこにいるのかといえば、 今帰ってきた女の家だ。
「ただいま。いい子にしてた?余計な事しちゃだめだからね」
女は猫なで声で、響の顔を覗き込んだ。人の心を読む女、橘玲香(たちばなれいか)だ。
柏木守と別れた後、響はまず銭湯に行って、体を洗った。近くのユニクロで服を揃え着替えて、近くの散髪屋で髪をとても短く切り、伸びた髭を全てそり落とした。そしてどこかのロックンローラー風の男はどこかの高校野球児に変身したのだ。響は変装するつもりではなかったが、全てをすっきりさせたい思いが自然の成り行きで変装するという形になった。
それでも響には帰る場所がなかった。このままどこか知らない街へ行ってしまっても良かったが、遠くの町を知らない響は小田原に行こうかと考えた。でもその考えを止めた。嶋咲枝への復讐という思いがまだ残っていた。でもそれはとても弱いもので、今すぐどうしようという気にもならず、結局たどり着いた場所が水道橋の駅だった。全てはどうでもよくなっていた。
玲香はそんな時に限ってしっかりそこにいた。
「ずっと待っていたのか?」と響は混雑した夕暮れ過ぎのホームにいる玲香に尋ねた。
「そうね。そうかもしれない」と彼女は答えた。
玲香は響をいつものようにどこかのホテルに連れこもうとしたが、響はそれを断った。
「そうじゃない。今日はそうじゃなくて、行き場がなくなった。それはそれでいいんだけど」
玲香はその言葉で察して、そのまま総武線に乗って、中野区にある玲香のアパートまで響を連れてきた。小さな建物だった。
「いいわ。ここに住んで」
「金はある」
「お金は要らないわ。その代わり、わたしがしたい時に相手して欲しい」
「それは・・・」
「いやならここでお別れよ」
「構わない」
そして響は玲香に手を引かれ、部屋の中に入り込んだ。電器も付けないまま、二人はその場で抱き合った。響は廃工場にいたとき、そっちは何もなかったので、急な興奮を感じて、すぐに達してしまった。
「すごいわね」と玲香は言って、さらに激しく抱き合った。そして二人の共同生活が始まった。
居候(いそうろう)響はそのまま猫のように玲香の家に居ついてしまった。玲香は「単身用の家だから静かにしててね」と言って、響を家に閉じ込めた。響は言われるままにおとなしくしていた。小さな音でテレビを見て、冷蔵庫にあるアサヒを飲んだ。他は何もなかったし、何もしなかった。
幼い頃の田山家での生活に戻ったかのようだった。苦痛ではなかった。息苦しい感じもあったが、それは響の気持ちを苦しめるほどの息苦しさではなかった。
玲香は毎日どこかに出掛けた。たいていは会社のようだが、会社が休みの日もどこかに出掛けた。男を抱きにいったのかもしれないが、響はそれを言及しなかった。
響は玲香が帰ってくると嬉しかった。どこかで彼女を求め出していた。一人きりからの開放感は彼女の帰宅と共に訪れた。それは響が13歳まで過ごした田山家での日々に似ていた。一つだけ違う点は、ほぼ毎日帰ってきた女を抱きしめて満足させなければいけないという点だけだった。玲香の性欲は強く、響はほぼ毎日求められた。響の気持ちがどうであっても、腹が減っていても、眠くても、関係なく響を男にさせた。
事が終わり、眠りに就く頃になると、響は自分が何をしているのかとふと疑問を持たせられた。でもそれを考える事もどうでもよく、すぐに眠ってしまった。玲香もまた響に、なぜここに来て、これからどうするのかと尋ねることはなかった。
一人の時間が来ると、響はこれからどうするかを考えさせられた。こんなところでいつまでもこうしているわけにはいかないこともわかっていた。でもここは安全だった。嶋咲枝の手下である木崎も、嶋咲枝殺害の依頼者である斉藤といった危険な人物がここにやってくる可能性は低かった。その日々に甘えていた。甘えるだけ甘えた。玲香と一緒にいることが楽だった。たまに服を脱ぎ散らかして怒られるくらいの楽な生活だった。性欲は満たされるし、酒も好きなだけ飲める。響は無趣味だし、他に欲しいものもなかった。本当なら復讐の思いを燃やし、その追行をしないといけないのだが、その思いは若手旋斗に放った銃弾に込められた思いともに飛び散ってしまったみたいだった。
感情のなく堕落した時間が続いていた。
響は女を満たすためのただの男という存在になっていた。
50話へ続く。
第5章~第8章までの目次
第5章 新たな展開のスタート
主人公=上野響の住処(すみか)に、殺しの依頼人斉藤が訪れる
主人公=上野響は、人の心を読む女=玲香に会いに行く
主人公=上野響は、巫女の美坂さくらに会いに行く
嶋咲枝を追うフリーライター前野正が嶋咲枝の過去を調べ出す話
日暮里スーパー爆破事件を追う馬込警部補は、上司の市谷初に部署異動を伝えられる
主人公=上野響は仕事を終え、居酒屋『ふくちゃん』を訪れる
第6章 転換となる章
主人公=上野響と馬込警部補が会い、居酒屋『ふくちゃん』で飲む
フリーライター前野正が嶋咲枝の通っていた大学を訪れる話
主人公=上野響の住処に殺しの依頼人斉藤が現れ、再度殺しの依頼をする
主人公=上野響は木崎の依頼を受ける。そしてさくらに会いに行く
主人公=上野響は嶋咲枝を殺害するため、食事会が開かれている神楽坂へ行く
木崎と斉藤が出会い、主人公=上野響は仕事を済まし、逃走する
第7章 真相への序章
若手旋斗の組織のアジトへ、主人公=上野響が連れてこられる
馬込警部補が仕事を辞め、新たな捜査を始める
若手旋斗が未処の班長=市谷初に電話を掛けてる。二人の関係が明らかになる
若手のアジトでは静かな時が流れる。一方未処の班長=市谷は警備部長に電話を入れる
馬込は主人公=上野響を再び探しに居酒屋『ふくちゃん』を訪れる
日暮里スーパー爆破事件の真相が明らかになる
第8章 第一の結末
廃工場にいるメンバーは閉ざされた空間でそれぞれの時間を送っている
馬込=元警部補の前に、若手のメンバーの一人がやってくる
爆破事件メンバーの一人である化学担当の金原の話である
若手は主人公=上野響との会話を続ける
廃工場内に爆発が起きる
廃工場内でメンバーが終わりの時を迎える
廃工場内で若手旋斗と主人公=上野響が最後の時を送る
生き残ったメンバーが自分のなすべきことをしようと横浜へ向う
48. 残務
明るい日差しを受けているようだった。耳元にはヴーンと唸る音が続いていた。単調な音だった。
目を開いた。車の中にいる。そこは車の中だ。
「目が覚めたようだね」と、車の運転手が言った。
響はその声の主の方に目をやる。
運転しているのは、柏木守(かしきまもる)だった。
ここは地獄へと入口かもしれない。それをなぜ柏木守が連れて行ってくれるのかわからないが。という感じで、響は現実的な想像をする事が出来ずにいた。自分が生きているはずがないと思っていた。
でも、響は生きていた。ここは確実に現実世界だった。
「急がなくてはならないんだ」と、柏木守は言った。「すでに僕らを包囲していた連中は僕のスターレットのナンバーも控えていただろう。SATはおそらく、静岡県警とは完全に無関係だった。だから工場に火災が起きて、消防車や警察官が工場にやってきたとき、彼らは僕らの存在には気づいていなかっただろう。だから僕はこうして逃げ出すことができた。きっと僕らの存在はSATを操り、そいつを探している警視庁の一部の連中しか知らないはずだ」
そいつ、と言って、柏木守は響の横に置かれた大きなトランクを目をやった。
響には何もかもがちんぷんかんぷんだった。どうして自分が生きているのか、柏木守があの爆発の中からどうやって外へ逃げ出たのか。そしてこのスターレットがどこに向っているのかも、響にはまるでわからなかった。
「これから僕らは横浜へ向かう。そこで僕は待ち合わせをしている。君も会ったことがあると思う。中華料理屋を経営している金子という人だ。彼は馬込という人物と今一緒にいる。君もその人物を知っているはずだ。僕はその馬込という男にそいつ(麻薬の入ったトランク)を渡し、それを信用のある警官に渡してもらう。僕らの戦いはもう終っている。だから僕は最低限出来る事をするつもりだ。僕自身も自首するつもりだ。これが僕なりのせめてものけじめだから」
柏木はそこまですらすらと動揺もないように話した。
「俺はどうしたらいい?」
まだ現実に戻れない響は柏木にそう尋ねた。
「申し訳ないが、その点に関しては、僕には何の答えもない。だから君の好きにすればいい。正直、僕は君を助けるつもりなんてなかった。僕は食堂側の入口を遠隔操作で爆破させ、逃げ道を作った後、若手さんを助けに事務室へ入った。でも若手さんはいなかった。代わりに君が倒れていた。僕は若手さんの名を呼んだけど、彼はどこにも見当たらなかった。そして君が意識を取り戻した。目の前で爆発が起きて僕も限界を感じた。僕は君を放っておけるほど冷血な男にはなれない。僕が響君の名を呼ぶと、君は付いて来た。田舎町だったから人もさほどいなかった。僕らは急いで煙に隠れながらスターレットへと走った。誰にも見られなかったとはいえない。けど僕らを追ってくる者は誰もいなかった。そして僕らはここまで来た。君は途中でまた眠ってしまったけどね」
響には一切の記憶がなかった。だから柏木が言っている事が本当なのか、嘘なのかもわからなかった。唯一の真実は、響がここにいて助かったという事実だけだ。
「だから君の好きにすればいいさ」と、柏木は付け加えた。
柏木守は、響が若手に銃口を向けたことはおろか、拳銃を持っていた事さえ知らないようだった。彼が必死で、もしくは煙に巻かれた中で、まるで何も見えていなかったと考えればそれもそうなのかもしれない。でも彼は全てを知っていて嘘を付いているのかもしれない。その真実はわからない。そしてそれを知ることによってどれだけの価値があるかを考えれば、それは知る必要のない事だという答えはすぐに出た。
だから響は頷いた。そして答えた。
「横浜まで着いたら、適当なところで降ろしてくれ。後は好きにさせてもらうよ」
肩掛けかばんをしていた響がそのかばんのうちに手を突っ込むと、中には財布が入っていた。拳銃は入っていなかった。金は十分にあるようだった。だから当分は一人で生きていくこともできそうだった。
柏木はその言葉にしっかりと頷いた。
車は海老名まで来ていた。もうすぐ横浜まで辿り着く。
町田ICで降り、16号を下り、西横浜で、二人は別れた。
「どこかに行く前に、まずは風呂にでも行って、服を着替えたほうがいいね」
別れ際、柏木守は響にそうアドバイスをした。
確かに顔も服も全てが真っ黒にくすんでいた。
柏木守はそれから車を山下の方へと走らせた。そして山下公園を越えた先の駐車場に車を停めた。そこから携帯で金子に連絡を入れた。金子はすぐに出て、すぐ側にいる事を伝えた。
柏木は追っ手が先にやってこないか恐れたが、そこには誰も追ってはこなかった。10分後に歩いてやってきたのは金子と馬込純平だった。
車の窓をノックする金子に柏木は窓を開けてから答えた。
「予定は変更です」
金子は柏木のその言葉に対して無念そうに頷いた。
柏木は金子の横から柏木の顔を覗く気の弱そうな男に挨拶をする。
「やあ、久しぶりですね。君に会えてよかった。君の信頼できる警官に僕とこいつ(トランク)を連れて行ってほしい」
馬込はよくわかっていなかったが、その尋ねに二度縦に首を振って答えた。
第8章終了
第9章49話へ続く。
47(-3). 時の終りを見つめる 後.
響は何度目かの爆発で、日暮里スーパー爆破事件の事を思い出していた。日暮里スーパー爆破事件の爆発自体を響は目にしていない。それでも響の思う両親である田山夫妻を失った彼の中で、爆破事件の記憶は自分に起こった出来事のように心の内に刻まれていた。
また大きな爆発に響は慄(おのの)いた。
でもすぐに気を取り戻し、若手を見つめた。若手は頭を抱えていた。
響はそんな若手の態度に見て、「何が起こっているんだ?」と尋ねた。
若手は何も答えなかった。長い時間を掛けて行ってきた作業が今、全て失敗に終ろうとしている。ここで終わる訳にはいかないはずだが、若手には次の一手が見えていないようだった。
戦いに負けた事を認めるのだろうか。
滅び行く幾つもの爆音が響いた。焼け焦げた嫌な匂いが取り巻いていた。
「また失敗に終った。俺の負けだ」と、若手は小さな声で呟いた。「俺はそこにいる。たった一人の男の口さえ割る事ができなかった。こうなる前に出来た事もあっただろう」
若手はそうとしか言えなかった。起きている爆発の原因よりも起こる前に出来た事が出来なかった事を悔やんだ。現状を前向きに捕らえることはできそうになかった。
自分のした質問に答えない若手を理解して、響はくだらない質問をした事を感じた。もう崩壊は始まっているのだ。何がどうあれ、この場にいる事でどうにもならない事を、響は理解した。
それと同時に、響は自分が選んだ、この廃工場へ来たという道のりにも失敗を感じた。若手らはテロリスト的な集団でありながら変に律儀な点があった。こういう状況になる可能性があるのならもっと響に酷い仕打ちをする事もできたし、嶋咲枝を警察などに引き渡そうとする考えなど持たずに暗殺するという考えがあってもよかっただろう。若手旋斗(わかてせんと)という男はいろいろな点から詰め将棋のように上手な手を打ちながらも、最後の一手に手を掛ける事ができない男だった。失敗は作戦にあったのではない。そもそもこの世界の物事にはルールなどないのだから、突然将棋台をひっくり返される事もあるのだ。若手はその事がわかっていなかった。だから失敗に終わったのだ。
「俺の考えはあらゆる意味で、甘かったのだろう」若手はその事を理解し、そう口を開いた。「日暮里のスーパーの時も同じだ。もっとしっかりと確かめておくべきだった」
響はその言葉を聞き逃さなかった。一度は部屋を出ようと考え、食堂側の扉付近まで移動していた響だが、若手のその言葉に外に出るのを止め、若手の方を振り返った。
「今、なんて言った?今、なんて言ったんだ!」
響は今まで出したこともないくらいの大きな声を上げた。
若手はその響の声に顔を上げた。彼の目は不思議と笑ってみえた。
「7年前、日暮里のスーパーに爆弾を仕掛けた。従業員の松嶋という男はスーパーの倉庫に麻薬を隠し、路上で売りさばいていた。俺は奴の持つ麻薬を軽く爆破させ、奴のやっている馬鹿げた行いを世に知らしめようとした。だが爆破がでかすぎた。世間に騒がれた、世にいう日暮里スーパー爆破事件、あの事件を起こした犯人は俺だ」
響は瞬時に肩掛けかばんの中に仕舞っていた拳銃を手に取り、取り出した。そしてその銃口を若手に向けた。若手は驚きもせず、あいかわらず目が笑っていた。
若手は何も飲み込めていなかった。自分がなぜ銃口を向けられたのか、その理由が若手には全く理解できていなかった。
また一つ大きな爆発が起こる。作業場の方、爆発は少しずつ二人のいる事務室の方へと近づいていた。逃げ場も少しずつなくなりつつあった。次の瞬間には食堂の方で爆発が起こる。辺りは爆発音に包まれ、熱気が増していた。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
最初の爆発からどれだけの時間が過ぎたのか、響には想像も付かなかった。一瞬のうちに爆発は起きている。10分20分は経っているように思えるが、実際は5分も過ぎていないうちの出来事なのかもしれない。
爆発の全てが起こり、もうすぐ全てが終りを迎える。その事を響は感じている。響の額には異様な汗の玉粒が吹き出てきている。空気の薄さも感じ、意識も少し遠のきつつあった。
「あの事件が起きたとき、俺の両親もあのスーパーにいた。あの事件で亡くなった田山夫妻が俺の両親だった」
若手の表情から笑顔が消えた。顔を上げてから初めて真顔を見せた。
「バカな。あの二人には子供はいなかった」
「理由はわからない。どうして俺があんなふうに育ったのか、俺も知らない。でも俺の両親だった」
響のその言葉に、若手はさっきまで話していた響の生い立ちについて思い出していた。その話はとても遠い過去の出来事のように若手には思えた。
「そうか、そうだな。確かに、君の変わった少年時代の話からそれもあるのかもしれない」
「俺には仇(かたき)を打たなければならない相手が二人いる。一人はまささんを殺した女、そしてもう一人は俺の両親を殺したあんただ」
若手は再び笑った。今度は口元を上げて、大きな笑顔を作った。
「不思議な組み合わせだな。とても不思議な組み合わせだ。そうだな。俺は君に殺されるべきだ。君は俺を殺す理由がある。そしてその理由は俺を殺す権利でもある。そうするべきだ」
響は引き金にしっかりと指を掛けた。
「最後に教えてくれないか?」と、若手は響に尋ねる。「君のもう一人の仇(かたき)、君はまさを殺した女、と言った。その人物の名前を教えてくれないか?最後にそれくらい教えてくれてもいいだろう」
若手はそう言うと立ち上がった。そして2、3歩後ろに後退し、後ろのドアに背を凭(もた)れかけた。そして両手を広げ、大の字となった。
「さあ、名を言え!そして俺を打て!それが俺の本望だ!」
「女の名は、嶋咲枝、俺はその女を打つ。打つためにここで死ぬわけにはいかない」
響は若手にそう叫び伝え、ガンの引き金を引いた。同時に若手の後ろで大きな爆発が起きた。弾の行方も見届けられないほどの大きな爆発で、辺りは煙に包まれた。全ては煙の中に消されてしまった。再び事務所の窓側で爆発が起こり、響はもう、何も目にする事ができなかった。次の瞬間には背中側、食堂の側で爆発が起こり、響はその爆風でその場に倒れこんだ。
『俺は死ぬのか?』と響は心の中の自分に自問した。
意識は遠のきつつあった。何も見えない中で、全てが失われていった。見えたのは嶋咲枝の想像上の姿だけだった。やり遂げなくてはならない思いが頭の中に浮かんでいた。しかし体はどうしても自由を聞いてくれそうになかった。どうにもならない中、朦朧(もうろう)として意識は完全に消えてしまおうとしていた。
全てが消えていった。
全てが終わろうとしていた。
煙のせいか、はたまた果たせぬ想いのせいか、響は開けなくなった目を瞑り、そこから一粒の涙を流した。
全ては終わってしまったのかもしれない。
48話へ続く。
47(-2). 時の終りを見つめる 中.
倉本は爆発を掻い潜り(かいくぐり)、機械室までやってきた。
金原は椅子に座ってじっとしていた。丈の長い白衣を身にまとい、ただ実験の結果を見守っている研究員のようにコンピュータの画面を見つめていた。
「金原!」
その声に金原が顔を上げると、機械室の入口には煙に巻かれて汚れた姿の倉本が立っていた。
「どうして、ここまで来れたの?」
と、金原は倉本に尋ねた。
「おまえ、どうしてこうなった?」
金原は仕掛けた爆発を知っている。内側の爆発は自分のため、誰も近づけさせないための爆発でもあった。いくつかの扉の爆発で、自分が孤立する事はわかっていた。最初の爆発は本来自分を一人にするための爆発だった。
次の瞬間、また別の爆発が起こる。今度の爆発は結構大きな爆発だ。
倉本は身構える。
「大丈夫よ。その爆発は、材料室と裁断室、それから作業室を分離するための爆発だから、まだここに危害が及ぶ事はないわ」
と、金原は答える。
倉本は金原に近づいて、じっと金原の顔を見つめた。
倉本:「金原、おまえが仕掛けたのか?」
金原:「色々な事が煩(わずら)わしくなった。わたしたちが何をしてもうまくはいかない。
そろそろこうする時間になっただけ。飢え死にはしたくない。
死ぬなら、自分で作った装置を試してから死にたいから」
倉本:「俺は、最初から、おまえを信用したくはなかった。
若手さんがおまえをかばわなければすぐにでも追放してやった。
もっとまともな人間を仲間にすればよかったのさ」
金原:「そう。そのとおりね。そうすればよかったのに」
倉本:「おまえみたいな奴の考えている事なんてわからねえよ」
金原:「そう。あなたにはわからない。
でも、皆、遅かれ早かれ、こうなると思っていた。
皆怯えていた。いずれ連中に攻め込まれる。
そして捕まるなら死んだほうがましだと思っていた。
苦しまないように、わたしはじっくりと煙を充満させてゆく。そして死ぬ。皆」
倉本:「俺は望んじゃいない!」
金原:「それならここに来なければよかった。ここには出口がない。
あなたは最も間違った選択をしてしまった」
倉本:「なんてこった」
そして、再び爆発は起きた。爆発は裁断室の方から起きた。
外側からの爆発で、大きな爆発だった。
材料室の桐平はそれでも動こうとはしなかった。頭の弱い小菅は横になって、金縛りにでもあっているかのようにプルプル震えていた。桐平はそんな小菅の頭を優しくさすって上げた。
「このままじゃどうにもならない」
桑野はそう言って、立ち上がった。心は怯えていた。こうなる事もどこかでわかっていた気がしていた。でも桑野はただこのまま死んでしまう事に怯えていた。
作業室への扉も、裁断室への扉も爆発してしまった。トイレへ向うのはより不可能だ。出口は外への扉しかなかった。そこには爆弾が仕掛けられている。その事を桑野は理解している。しかしその爆発はどうやることによってどのように爆発するのか、桑野は知らない。
「きっとそれしかない」
桑野は桐平の側に座っていたが、立ち上がり外への扉へと向っていった。
桐平は桑野のその行動に気づいたが、何も言わなかった。
『そうだよ。それでいいんだよ』と心の内で優しく声を投げかけただけだった。
桑野は外へと扉に手を掛けた。そして手を扉の内鍵をゆっくりと外した。
ドアノブに光の筋が走った。そしてその光はドアの内側に付いていた細い紐を伝わった。爆弾は足元に仕掛けられていた。桑野の足元から全てが破壊され、桑野は一瞬にして煙の中に消えていった。光の筋はさらに辺りを駆け巡り、大きなシャッターが一瞬にして倒壊した。天井が崩れ去り、辺りの全ては煙に覆われた。地上からさらなる爆発が起き、桐平と小菅もその爆破の中に消えていった。
『さようなら。僕は何も悔やんでいないよ』
全ては一瞬の出来事だった。
機械室にいた倉本はその爆発に身の毛がよだつ思いがした。どうしようもない恐れで体が震えた。
「今のは、何だ?」
震える声で、金原にそう尋ねた。
「材料室のシャッターが爆破した。あれは誰かが扉を開けなければおきない。誰かが開けた」
金原はそう答えた。
倉本にはもう時間がないことを悟った。たとえ絶望に近くても、このままここで終りたくはない思いが働いた。震えている暇はなかった。
「俺は生きる!俺はここから出て、生き延びる」
倉本は金原にそう伝えた。金原は相変わらず座ったままの姿勢で動こうとはしなかった。だから倉本は気にせずに金原に背を向けた。そして煙の増した機械室の外へと飛び出していった。
金原の目からは自然と涙が零れ落ちた。
『誰もわからない。誰も理解できない。人間なんて、皆、個。個人の勝手。理解なんてし合える事はない。皆、やりたい事を勝手にやっているだけ。わたしはそうしただけ。こうしたかっただけ』
金原はパソコンのZキーを押した。それは一つの答えだった。機械室は内側から爆発を起こした。それもまたとてつもなく大きな爆発だった。
金原は誰とも理解し合えないままに消えていった。愛も知らない。本当は幻想でもいいから、誰かを愛したかったのだろう。でもその想いは遂げられないまま、機械室と共に金原は消えていった。
機械室の爆発は厚い壁を幾つも破壊し、食堂まで響き渡った。
食堂では木島と睦美が寄り添っていた。状況が迫りつつあるのを感じていた。それでも二人はその場を動こうとはしなかった。二人は解り合っていたのだ。ここが終わりの場所だと心の内で通じ合っていた。
二人の想いがすれ違う時も過去にはあった。木島は自分がテロリストの仲間になる事に疑問を持っていた。それにそこに睦美を連れてくる事にも抵抗があった。睦美にとっても自分が正しい事をやっている自信はなかった。その場を離れようと何度も思ってきた。互いは何度もすれ違い、何度もまた同じ場所で笑っていた。抱き合えば幸福だった。自由と束縛の合間で日々はいつの間にか過ぎ去っていた。
いつの間にか二人は長い時間を共に過ごしてきていた。
睦美はエプロンのポケットから睡眠薬の錠剤を取り出した。いつどうなるかわからない状況の中、食事担当の睦美はそれをいつか食事に混ぜてしまおうと考えていた。しかしそうならなくなった今となっては二人で飲んで眠るためのものとしてしか使い道はなかった。
「すぐに眠れるわ」と、睦美は木島に告げた。
木島は睦美の目を見つめ返し、その言葉の意味を理解し、頷いた。
『僕らはこうなるしかなかったのかな?』と言いたい言葉を、木島は発せずに止めた。
それ以上の言葉は要らなかった。煙はすでに辺りを取り巻いていた。
二人は互いの口に睡眠薬の錠剤を入れ合った。そして抱きしめた。これで終わりだとわかっていた。抱きしめて、互いを見つめた。襲ってくる眠りと互いを見つめていたい想いが交互にやってきて、二人は時を長く感じていた。二人は最後の瞬間としては十分すぎる時間を感じ合っていた。
47-後へ続く。