小説と未来 -119ページ目

54.ふりだしに戻る

 響の頭の中には何の答えもなかった。

 何もないが、動かないわけにはいかなかった。


 響がずっと暮らしていたマンションの地下室に戻ってきた。響は表から入らずに裏路地を通って、地下室への入口までやってきた。

 ずっと気を張って、辺りを注意しながら歩いてきた響は、周囲に自分を知る人物がいないことを感じ取っていた。木崎もいなければ、斉藤もいない。

 日暮れは早く、辺りはすでに暗闇に包まれていた。ただでさえ暗い裏路地はすでに何も見えない世界に変わっていた。ここに来る者はもういない。この袋小路の路地に入り込むものは、響を別とすれば野良猫ぐらいのものだろう。

 地下への扉の鍵を差し込み、扉を開けた。響は今もその鍵を持っていた。この場を出て、2ヶ月近くが経つ。しかしその場に帰ってきた響は昨日の出て行ったばかりように、その階段を下っていった。

 暗闇の中にあるドアの位置もわかっている。そこにある鍵穴に鍵を差し込むのは探さなくてもできることだ。鍵穴に鍵は入り込む。そしてドアの錠(じょう)は外れる。

 扉を開く。


 中には、何もなかった

 何もない空間が広がっていた。

 全ては片付けられた後だった。


 響は心の震えるような思いがした。何もない部屋に明かりがついた。だから何もない事がはっきりとわかった。そのがらんどうを目の前に、自分の帰る場所が本当になくなってしまった事を響は理解した。


『いいんだ。これでいい。俺はここに帰ろうと思ったわけじゃない

 響は自分の心にそう言い聞かせた。そして目を閉じ、扉の内鍵を掛けた。震えは少し落ち着き出した。むしろ扉が開いたのは意外な事だった。鍵はまだ替えていなかっただけなのか、替えるつもりがなかったのか、それも響にはわからなかった。


『つまりは、俺が帰ってくる事は想定していなかっただろう』

 わかる事はそのくらいだった。

 片付けたのはきっと木崎か、それ以外の嶋咲枝の部下か、マンションの管理人かもしれない。その男も響がここに住んでいることを知っていた。いずれにしても嶋咲枝は響がここへと戻らない事を感じて、全てを処分した。そして鍵は替える必要はないと思ったのだろう。鍵を持っているのは、響と木崎だけだった。この地下の一室を知る者はマンションの管理人と響と木崎だけだった。

 ただし斉藤という男がこの場を知っている。それを知っているのは響だけ。そして斉藤はどこへ消えたかはわからない。彼もまた響がここへ戻らないと感じて、どこか別の可能性を探しに行ってしまったのだろう。

 ここには誰もいない。やがて誰かがまた居つくかもしれない。それでも今は誰もいない。そして誰も来る気配は今のところ、ない。


『まずは最初に戻る。ここから、俺はどこへ行こう』

 響には何の答えもなかった。行く場所も思いつかなかった。嶋咲枝はどこにいるかもわからない。連絡を取れる相手もいない。


『ここへ誰かが来るだろうか?』

 自分にそう尋ねたが、その答えは自分の内から出てこなかった。ただ行き場がなく、帰ってきた場所でしかなかった。しかしそこにはもう何もなかった。


『今日はここで考える。明日は明日の居場所を探そう』

 電機を消し、再び部屋を暗闇に戻した。何もない部屋はとても冷えていた。冷暖房が残っていたのでそれを付けた。電機は通じていたので、そいつはしっかりと付いた。それでも何もない部屋は冷え冷えとしていて十分に辺りを温めてくれそうにはなかった。

 途中で温かそうなコートを買っておいたことがせめてもの救いだ。響はそいつの襟を立て、その何もない部屋のフロアリングの上にうずくまる。

 この場所にいる意味がないことを響は知っている。ホテルに泊まる金も十分に持っている。しかし人に触れる場所には近寄りたくなかった。誰もいないこの場所で休みたかった。できれば今までと同じようなソファーと毛布が欲しかったがそれはなくなっていた。それでも響はこの場が落ち着いた。

 自分が自分であれる場所がここにある気がした。だからここにうずくまり、自分に戻って、明日への可能性を探り始めた。それがせめてものここに来た理由なのだ。


第9章終

第10章 55話へ続く


53. 野良猫は気の赴くままに

 時ばかりが過ぎてゆく。

 時間というのは無駄に使えばいくらでも無駄に使える。体(てい)たらくに生きれば、いつまでもそこから抜け出せなくなってしまう。


 また新しい朝を迎えていた。窓の橘玲香(たちばなれいか)の部屋は朝が明るい。彼女はもう出て行った。響は玲香が出て行った事には気づいていたが、ずっと彼女が出てゆくまで眠ったふりをしていた。彼女の香りが今も鼻をくすぐっている。柔らかい愛情がそこにはあった。

『このままの日々で、終ってしまう事もできるだろうか?』と、響は自問した。


 それは頭のどこかにはあったけど、考えてはいけない事だとして響はずっと頭の隅っこに置いたままにしていた。響は嶋咲枝を殺害するために生き残ったわけだし、それをしなければ死んでいった廃工場の連中たちに申し訳ない気がしていた。

 若手旋斗(わかてせんと)の言っていた光の者、闇の者、光と闇を操る上位の者について考えた。ここは光ある場所に思えたそれは橘玲香という女がいかに性というものに対して貪欲であるにしても、彼女の持つ運勢が光ある者の方だと、響は感じた。そして自分自身がどれだけ光を求めても、闇の方の人間である事を感じてしまう。両親(田山夫妻)は光があったがその子供であるはずの自分は闇だった。だから両親にも不幸が起き、まさにも不幸が起きた。それは自分自身が闇の存在だからかもしれないと、響は感じた。

「わかっていたいた事なんだ」と、響は呟いた。

 そしてその事を思うと微かな涙が頬を伝った。


 体を起こしたのは昼過ぎだった。

 テレビをつけるとNHKのお昼のニュースをやっていた。元厚生省の偉い人を殺した犯人が警察署に出頭したニュースを伝えていた。それが最新ニュースとなり、工場爆発事故の続報などはもうすっかり見えないところへ消されてしまっていた。トルエン混入のニュースも、自衛隊役員のニュースも、有名作曲家詐欺のニュースでさえも、もう過去のこととして消えてしまった。ニュースなのだから、当然過去は伝えないだろう。しかしそれはあまりに何もなかったかのように消え去られてしまった。彼らのしようとしていた全て、してしまった全ては人々の脳から忘れ去れてゆく。

 そんなニュースを見ていたら、玲香が帰ってきた。


玲香:「ただいま」


響 :「今日は早かったんだね」


玲香:「今日は日曜日よ。休みなんだからいいでしょ?」


響 :「そうか。俺は曜日さえ忘れていたよ」


玲香:「ずっと家の中で何をしているの?一人でオナニーしてんの?しょうがないわねえ」


響 :「何言ってるんだよ。俺はただテレビを見ているだけさ」


玲香:「いつまでもそうしているの?」


響 :「そうだね。俺はいつまでもここにいるわけにはいかないね


玲香:「そうね。いつまでもそうしているわけにはいかないでしょ


響 :「出ていこうとは思っている」


玲香:「そうじゃない。もしあなたがわたしと一緒にいたいなら、ここを出なくてならない。

    ここは独身専用の住宅だからね。

   だからわたしがあなたと一緒に暮らすには別の家が必要なの」


 玲香は響の言葉を逆手にとってそう言った。でもすぐに響はその玲香の言葉を否定した。


響 :「そうじゃない。俺は、ここを出て行かなくちゃならないと思っている」


玲香:「嫌よ。簡単には出て行ってはこまる。わたしの傍からは離さない。

    世の中の理由とか常識とかは嫌なの。あなたがどこの誰でも構わない。

    わたしの傍にいてほしいの!」


響 :「君には世話になった。

    だからこんな事は言いたくないけど、俺はいつまでも君の傍にはいられない」


玲香:「このままじゃいられない。それはあなたが勝手に思い込んでいる事にしかすぎないわ


 そう言って、玲香は響に近寄り、顔を近づけ、響の瞳を見つめる。


玲香:「さあ、わたしの場所へおいで(^з^)-☆Chu!!あなたの好きなようにしていいのよ」


 玲香の瞳が響を誘う。どこまでも愛おしい唇が響を誘う。柔らかく、優しい香りが響を包み込む。男と女は惹かれあう。特別な感情なんて必要ない。男と女だから惹かれあう。いい男に女が惹かれ、女の色気に男が誘われる。ただそれだけの事だ。男と女の関係なんてそうあればいい。ただその求め合いで、一生そうやって共に暮らしていけばいい。一生かどうかはわからないが、少なくても求め合える心がある内はそうし合えばいい。その感情が響を誘う。どこまでも甘い香り。どこまで柔らかい感触。その誘惑に誘われる。


「駄目なんだ」そう言って、響は玲香の視線を避け、包み込む手を振り払った。「俺にはやらなくちゃならない事がある。あんたには感謝している。でももう感情が抑えきれない。俺はあんたを好きになるだけの感情じゃ生きられない。俺にはやる事がある」


 玲香は響のその言葉に涙を流していた。激しい涙ではなかった。頬を伝う静かな涙だった。そして玲香は響に尋ねた。


「わたしは、ただ体だけの女かしら。女なんて体だけにしかすぎない?あなたもそういう男なの?男はみんなそうやって自分を肯定する。女の幸せの理由も考えず、わたしが何かを捨ててもいいと思っていた事なんて考えもしないのね」


 響は何も答えられなかった。玲香が何を言おうとしているかは憶測でわかった。ずっと自分と一緒にいようと考えていた玲香の気持ちはわかった。自分がそれを利用しようとしただけの愚かさが、響の胸を打った。


「でもいいわ。あなたがそう言う事はわかっていた。わたしはこういう日々を送っているだけだから、それは別に構わない。あなたと会えてよかったとも思う。もしこのままの日々が続くなら、それが幸せだとも思ったの。でもそうならない事はわかっていた」


「俺も君の気持ちに応えたかった。君がそう思っていることをどこかで感じてはいた。でも俺はこのままじゃいけない事もわかっている。君と俺とは住む世界が違う。俺は最後までやらなくてはならない事がある。押し出してほしい。このままここにいないように俺を押し出してくれ」


「引き止めたいわたしに押し出してくれなんて、あなたはホントにわがままな子ね。SEXも、それ以外の考えもあなたはすべてわがままなのね。しょうがない子ね。行ってしまいなさい。あなたが願うままの行為に到りなさい。わたしはそうなる事をわかっていたのよ。でもそうならない可能性も望んでいたのよ。それがわたしに言える全てだから、あなたはあなたのしたいようにすればいいわ」


 少年は女の体を振り払うと、寝巻きから普段着に着替えた。そしてずっと部屋の隅に置かれたいたスポーツバッグを背負った。その間、女はじっと座ったままだった。

 こんな強引な事は響も望んではいなかった。むしろそっといなくなっていた方がよかったのかもしれない。こんなやり方がいいとは考えていなかった。でもタイミングはそんな時にしかやってこなかった。

 後ろにいる女の事を見つめる事もできた。でも響は振り返らなかった。振り返れば気が揺らぐ事はわかっていた。それと同時に後ろから抱きしめられ、引きとめて欲しい願望もあった。そうすれば響は足を止め、間違えなく今日の所を諦めてしまうだろう。けど、その柔らかい温もりが響の背中を覆うことはなかった。響は靴を履き、3週間前に訪れたその部屋を後にした。久々に眺める外の太陽は眩しかった。心地よさも感じた。玲香の声をもう一度聞きたいとも思った。

『君で駄目な理由など、俺のわがままにしかすぎないんだ。君は十分に素敵だったし、俺は十分に幸せだった。いけない事があるとすれば俺が俺であることだけなんだ』

 響は声にならない言葉を頭の中に並べた。それが玲香に対する最後の言葉だった。


 玲香はまたどうしようもない相手に恋をしてしまったと思った。そしてまたいつもに戻る。


54話へ続く

52. 復活・馬込警部補の再捜査

 青空の下を、馬込(まごめ)は歩いていた。いつもと変わらない日、いつものように何かを探している。ずっと変わらないはずだ。馬込はまた、馬込警部補に戻った。まだ追わなければならないものが残っている。



回想

 柏木守と横浜で会った馬込は柏木のスターレットで都内へと向った。そして柏木守と白い粉の入ったトランクを半蔵門にある未然処理課まで運んだ。

 車の中で、二人はこんな会話をした。


柏木:「僕は伊豆工場爆発事件の犯人であり、日暮里スーパー爆破事件の犯人です。

    僕はそれで捕まります」


馬込:「このトランクは、上野響から手に入れたんですよね?」


柏木:「すみませんが、僕はその人からそれを手に入れてはいません。

    上野響さんとは居酒屋で会ったことはありますが、それ以外ではありません。

    あなたは何か勘違いしている。それはクワノと言う男が持ってきました。

    僕たちの仲間です。小田原の辺りで手に入れたそうですが、詳しい事はわかりません」


馬込:「そうですか。わかりました。

    でも金子さんはそれは上野響が持ってきたと


柏木:「さあ、金子さんは何かを勘違いしている。それをあなたが勘違いしたんですね」


馬込:「あなたはいろいろと嘘を付く方なんですねえ」


柏木:「どうですかねえ。嘘は付かなくはないですけど、正直な方だと思うんですが」


馬込:「そうですか。じゃあそれでいい事にしますよ。わかりました。

    あなたが2つの爆破事件の犯人で、それはクワノという男が持ってきたという事にしましょう」


柏木:「そうですか。わかってくれてよかったですよ」


馬込:「いや、わたしは本当に信じているわけじゃないんですけどね。

    最近思ったことがあるんですよ」


柏木:「はあ」


馬込:「真実はどうでもいいと思いました。そんなわかりにくいものを追う事は止めることにしました。

    ただ、わたしはですね、やり遂げるべき事をやり遂げようと考える事にしました。

    本当にね、わたしは頭が大してよくないんですよ。

    それはとても残念ですが、人のトリックを暴(あば)けるほど頭が回らないんです。

    誰かの言った事が嘘か本当かなんて、よくはわからないんです。

    警察なんて、いまは警官じゃありませんが、警官の真似事でさえ、わたしには向かない。

    でもですね。わたしはもう30になりますが、この年までこうやって生きてきてしまいました。

    今更やり直しはきかないんですよ。ここまで来たらこの道を突き通したいんですよ。

    結果、わたしはあなたを捕まえる事ができた。真実は別のところにあるでしょう。

    誰かがそれを求めるかもしれない。でもわたしの仕事はここまでなんです。

    真犯人じゃなくても、わたしは犯人を捕まえる。

    真犯人か、犯人じゃないかはどうでもいいんです。わたしは捕まえられる相手を捕まえる。

    なぜならわたしは頭があまりよくないんです。間違えてばかりなんです。

    それでもやり遂げないと、気がすまない性質(たち)なものですから


 それはとんでもない、独りよがりのようでもあった。間違えた犯人でも構わないなどというのは常識的に考えられる事じゃないだろう。しかし馬込はそう言った。でもそういう思いが柏木逮捕に繋がった。そして手土産に薬入りのスーツケースを持ち帰った。的は獲ていない。でもやった事は価値のないことじゃない。馬込は誰よりもその事をよく知っている。諦めずにやる事がどういう結果をもたらすか、その答えをここに出していた。


 馬込は警部補に戻った。

 それは異例の事だったが、爆破事件犯の逮捕を一人でやってのけた事はそれ以上に大きな価値のある出来事だった。辞職の取り消しだけでなく昇進の話もあったが、馬込はそれを断った。馬込はお気に入りの古畑任三郎に従い万年(まんねん)警部補でいるつもりのようだ。


 そして馬込は再び上野響を探そうとしていた。それがどんな事件に繋がっているかはわからないが、それは何らかの事件に繋がっている。そしてその男を逮捕する事が、馬込警部補の使命と変わったからだ。

 馬込警部補が上野響を追い始めた理由はもう一つある。

 工場爆破事件での生き残りは、柏木の話では柏木一人だった。柏木はメンバー全員の名前を述べたが、上野響の名は述べなかった。その後、金子も逮捕されたが、彼もまた上野響については一言も語らなかった。

 柏木の取調べを行う刑事は、馬込から聞いたその話を何度か持ちかけたが、知らないというので、やがてはその刑事も、上野響という謎の人物についてはどうでもよくなってしまった。柏木にはまだ話してもらわなければならない事がたくさんあったからだ。

 廃工場の焼け跡からは、5人の遺体しか見つからなかった。その内、身元が判明できたのは木島と睦美の遺体のみだった他は損傷が激しく、もともと身寄りのないメンバーだったので確認する資料が出てこずにわからないままとなってしまった。相当なまでに焼かれてしまったので、他のメンバーは姿形も残さずや焼かれてしまったのだろうという意見が主流となり、全員の死が警察内では黙認されるようになっていた。


 一方、柏木が持ち込んだスーツケースは、付いていた認証システムがある暴力団幹部の指紋に反応して開いた。

 これは極最近の事であり、まもなく確認作業がなされ、逮捕状が出れば、ある暴力団幹部が逮捕されることとなる。

 しかしそのスーツケースがどこからどのように手に入ったかという話には到らなかった。そしてその暴力団幹部が逮捕されたところでその流通経路までは間違いなく話さないだろうと予測されていたので、全ての事件はその幹部の逮捕で終わりとなることが予想された。


 一人だけ、馬込警部補だけがその事件の続きを追っていた。

 上野響は生きている。馬込警部補はそう信じて、その男を追っていた。

 それは亡くなったとされる若手旋斗(わかてせんと)という男が追おうとしていたものが何なのかを知りたいと感じる思いにも繋がっていた。若手とは同じ道を歩まなかった馬込だが、若手という男には興味を注がれるものがあった。馬込はまだ若手という男もまだ生きているのではないかと考えていた。

 正直、馬込は何を追っているのかわからなかった。

 でも追わなければならないものを追えば何かが見えてくる気がした。若手がしようとしていたこと、それだけでなく、何か大きなものに近づける気がしていた。


53話へ続く。

51. 前野正からの手紙

 フリーライターの前野正は気づいてしまった事をどうしたらいいか、酷く悩んだ。それは仮説にしか過ぎないが、前野正の思うところではそれは極めて真実に近い仮説として成り立っていたいたからだ。

 一度は心の内にしまい込もうとした前野正だが、それでは自分のしてきた事があまりにも無意味に思えてならなかった。

 前野は自分自身の人生を振り返ってみた。


 何もない人生である。ぶ男で女にはもてないし、才能もない。少しだけ仕事ができたけど、それはせいぜい最低限生きてゆくための力にしかすぎない。ただ生きるだけの人生なんて彼には僅かな価値も感じていなかった。だからフリーライターになった。

 やるからには何かを成し遂げたかった。一人の気になった女性の事をずっと追い続ける事となった。その素敵な女性とは会うことすらできないだろうが、何の関わりでもいいから少しは関係性を持ちたかった。そうする事で自分がこの世の中を生き抜いている事に少しは意味があると感じられたからだ。そして前野はその女の事を調べに調べた。少しでも、その女性との繋がりが持てるように。


 あなたにお手紙を書くという事。


 11月10日、前野正の手紙は嶋咲枝の元に届いた。普段はファンレターなんて読まない嶋咲枝だが、その手紙は書留で届けられ、差出人が「1988年より」と書かれていたので、嶋咲枝はその手紙を封を開けた。


前野正の手紙;

『このような手紙を、あなたに送らなくてはならない事にわたしも迷いがありました。このような手紙は送らない方がよいのではないかとも思いました。それでもわたしは嶋咲枝様にどうしてもこの事をお伝えしたいと思い、このお手紙を書かせていただきました。

 わたしはフリーライターをやっている前野正という者です。あなた様には前々から各所で遠くより拝見させていただいております。わたしはフリーライターであると同時に、あなた様のファンであります。だから世の中のあなた様に対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の記事にはいささか憤り(いきどおり)を感じる次第であります。だからわたしはあなた様の真実を世の中に伝えたいと思っておりました。

 わたしは知っております。あなた様が全国の孤児院に多大なる寄付をしておられる事を。それから、世の中の若者のためになるための政治対策を打とうとしている事を知っております。あなた様が身分の弱いものに対し、手を差し伸べようとしている多くのことをわたしは知っております。

 わたしはその想いがいったいどこから浮かび上がってくるのかを知りたく思い、あなたの色々な過去を調べさせていただきました。そしてある事実と出会いました』


 忘れたい真実が、嶋咲枝の心の内から湧き上がってきていた。失っていたもの、失おうとしていたもの、その虚しさが心の内から溢れてきていた。

『人はどうあっても孤独なのか?それとも家族と呼べる相手が傍にいれば、孤独な思いは消えるのか?』と、嶋咲枝は心の内で呟いた。


前野の手紙の続き;

『わたしはあなたの過去を探っていく中で、一枚の手紙を入手しました。その写真にはあなたの姉とあなた、そして中下丈(なかしたじょう)という男が写っていました。わたしは中下丈を見たときに気づいてしまったのです。これ以上、わたしは何も申し上げたくはありません。しかし伝えなければなりません。

 今年の7月に、わたしはその中下丈にそっくりな男に会いました。彼はあなたのボディーガードをしている方の車から降りてきました。しかし中下丈は今から19年前に亡くなっていますからその人物は中下丈ではありません。

 わたしにはもうこれ以上の事を申し上げる事はできません。ただ言える事はあなたがどうして幼い恵まれない子とのため、また若者のために力を注いでいるのか、その事がわたしにはわかりました。そしてわたしとしてはただあなた様がその中下丈に似た人物と共に過ごせる時間が少しでも多く出来る事を願っております。

 わたしはとても小さな人間ですが、わたしなりに何かできないかを考えております。わたしはあなた様のような立派な方を目指し、世の中の若い女性たちがあなたに憧(あこが)れ、あなたのような人物になる事を目指すようになる事を望んでおります。わたしはただそれだけの人間です。だからこそ、わたしはあなたの幸せを願っております』


 嶋咲枝は知っていた。


 中下丈は、ただ自分の体に興味があるだけの最低な男だった。それでも恋愛ベタだった咲枝は口説いてくる自分の姉の夫に体を許してしまった。そして深く愛してしまった。

 半年後には子を身ごもってしまった。咲枝はどういう形であれ、愛する中下の子を産みたいと中下に告げた。中下は知らないふりをした。そして、『そんな事をしたら君の家族も、君もどうなることか、よく考えるんだな』と冷たく言い放った。

 咲枝は家族に知られないように一人暮らしを始めた。そしてお腹の中の中下丈の子を生もうと考えた。でもその頃の咲枝には愛する中下丈の子を生むことなんて考えてはいなかった。思いはすでに激しい憎悪に変わっていた。お腹の子を産んで、中下の変わりに殺してやるつもりだった。誰も知らずに産んで、誰も知らずに殺してしまえば何の罪にもならないと思ったからだ。そしてその憎悪のために咲枝はお腹の子を育てた。

 そして春先のある日、咲枝はなぜか日暮里を歩いていた。知り合いはいない場所だったし、誰にも会わずに散歩ができそうだったからだろう。気晴らしだったのかなぜなのか、咲枝は理由なく日暮里を歩いていた。お腹の中の子供はそんなところで突然、咲枝のお腹を叩いた。

 田山夫妻は咲枝を優しく包んでくれた。そして生まれてくる子を楽しみにしていた。そして生まれてきた子を嬉しそうに見つめていた。咲枝は生まれてきた子を殺そうとしていた事を酷く恥じた。田山が生まれてきた子を咲枝の顔元に寄せるとその子は優しく微笑んでいた。その笑顔は世界一愛らしく、その笑顔を見せる子は咲枝にとって世界で唯一の愛おしい存在だった。

 咲枝の頬から涙が流れた。そしてその涙は止まらず、涙に留まらずに酷く大きな声で泣き始めた。そこにはかつて感じた事のないくらいの喜びがあり、かつて感じた事のないくらいの悲しい思いがあった。咲枝はその思いを止める事ができなかった。そしてどうしもなく涙が流れ続けた。

 喜びと悲しみの混じり合った涙を流す中で、咲枝は決めた。感情など捨ててしまおうと。人を愛する事は二度とないだろう。人を恨む事も二度とないだろう。喜びは二度と来ないけど、悲しみも二度と来ない。そうすれば涙も止まる。二度と流す事もない。

 咲枝は感じる事をやめた。涙が止んだ。それでも子供の顔を思うと再び涙が流れてきた。だから咲枝は子供の事を考えるのもやめた。全てを捨てる事とした。


 それから20年が過ぎた。感情のない中で、ただ何かを満たそうと生きてきた。欲望を満たすためのゲームが20年間続いた。でも微かな記憶の中で、嶋咲枝はわが子を思っていた。


52話へ続く

50. 生きる理由

 曇り空の日比谷公園は昼間だというのに、夜更け過ぎのように暗かった。雨も降りそうなので足を止める人もいない。そんな中、一組の男女がベンチに座って、日曜の昼間かのようなゆったりした時間を過ごしてる。


 女は男に言った。

「 あなたは何のために生まれたの?」

「僕は、絵を描くために生まれました。僕に出来る事はそのくらいですから」

 画家である五十嵐卓人はそう答えた。


 肌寒い風が吹いていた。静かな時間の中に二人はいた嶋咲枝はいつものようなシャレた格好はしておらず、紺のスカートに青いハイネックのセーターを着て、ベージュのカーディガンを羽織っていた。装飾品は全く身に着けていなかった。化粧も軽いファンデーションのみだった。


嶋咲枝:「わたしは何のために生まれてきたのか、わからない。

      この日々が何のためにあるのか、私にはわからない。

      人は高性能ロボットのようなものよ。神が創り出した高性能ロボット。

      人は特別な生命体である人として生きてゆこうとするけど、生命である以上、ただ生きるだけ。

      食を味わい、美を堪能しても、私たちは自らの個の好みを追求するだけ。

      ただ好みを探して生きているだけ。私はそんな生き方に飽きたみたい」


五十嵐:「そんな事をおっしゃらないでください。あなたにはあなたの才があるのですから。

      それを世の中のために与えてやってください」


嶋咲枝:「きっとそれはあなたの思う嶋咲枝という人物の事ね。

      私はあなたの思うような人じゃないわ。

      私はもっと貪欲で、煩悩の多いだけの人間よ


五十嵐:「僕にはそんなふうに思えません。

      あなたが今思うあなたこそ、あなたらしくはない。

      自分らしい自分なんて自分の思う所にあるものではありませんから」


嶋咲枝:「そうだとしても、私には私の思う自分が内にあるのよ

      だから私はこういう生き方をしてきた」


五十嵐:「それでもいいじゃないですか。世のため、人のためだとはもう言いませんよ」


 いつもは気の弱い五十嵐が嶋咲枝に慰められるのだが、この日ばかりは違った。珍しく元気のない嶋咲枝を五十嵐は慰める感じだった。それでもあまり人を慰める事をしたことのない五十嵐はその後、何を言えばいいか言葉が出てこなかった。


嶋咲枝:「あなたと私が出会ったのはパリの美術展だった。

     あなたは『水色の光景』というセーヌ川に佇む少年の絵を出展していた」


五十嵐:「そうですね。あの時、僕はあなたがどのような方か知らずに失礼な事を」


嶋咲枝:「それはよかったのよ。ただ私は一つだけ気になった事があっただけだった

     本当を言えばわたしには芸術的感性なんてない。

     あの時はあなたの絵を褒(ほ)めたけど、本当はそうじゃないのよ。

     私はただ、あなたの書いた絵が気になっただけだった。

     どうしてあなたはあんな絵を描いたの?」


五十嵐:「どうしてでしょうね。僕はあの美術展の前にパリに行った事があります。

     その時は感性を磨くとか言って、友人と訪れたのですが、臆病者で何もできませんでした。

     ただ来る日も来る日も、セーヌ川のほとりにカンバスを広げて、何かを書こうとしていました。

     でも絵は全く描けなかった。何のイメージも浮かばないまま、ただそうしていました。

     近くを通り過ぎる人は僕のカンバスを覗いて、何も描けていないのを見て通りすぎていきました。

     何も書かないのか?と訊いてくる人もいましたし、笑っている人もいました。

     それでも僕は何も描けなかった。

     でもある日、そこに10歳くらいの少年がいるのを見ると、それを描きたいなと思いました。

     でも少年は絵を描いている時にはいなくなっていました。最初からいなかったのかもしれない。

     僕はその少年がそこにいた表情を思いながら『水色の光景』を描きました。

     一気に描き、後は部屋で修正を重ねました。とてもいい絵に仕上がった」


嶋咲枝:「私はあの絵を見たとき、気づいてしまったの。

     だから私はあの瞳を求めて追い出した。その全ては幻だとわかっていても。

     でも人は不思議とつながり合う。それは偶然かもしれない。求め合いの結果かもしれない。

     どちらにしても私たちは出会った


 五十嵐は嶋咲枝が何を言おうとしているのか理解できなかった。それは自分との出会いの事を言っているのかもしれないし、芸術と言うものとの出会いを言っているのかもしれないとも思えた。しかし嶋咲枝の言おうとしている事はそのどちらでもなかった。


嶋咲枝:「私には生んだ子供がいた。私はあなたの絵にその子の事を思い出した。

     いいえ、思い出したというより、より確かにその子に会いたいと感じた


五十嵐:「そうですか。そんな事を思っていらしたとは」


嶋咲枝:「子供の事は私しか知らない。私にしか知らないこと」


五十嵐:「それで、という事は、その子に出会えたのですね」


嶋咲枝:「そう。私たちは偶然出逢った。でも私は真実を伝える事ができなかった。

     そして、その子を見殺しにしてしまった。

     もっとしっかりと助けてやる事もできたはずなのに、私は…」


 そこで嶋咲枝は口を止めてしまった。止めたというより動かなくなってしまった感じだった。


五十嵐:「亡くなられたのですか


 嶋咲枝はそっと頷く。


五十嵐:「それがあなたを苦しめているんですね」


嶋咲枝:「感情はもっと複雑なの。数日前に、いろいろと気づかされた。

     思い出したくない事もあった。でもそれに私は触れてしまった。

     いろいろと感じる中で気づいた。

     私が生きている理由は、貪欲なものではなく、その子のためだったんだってね。

     そして私は生きる理由がなくなってしまったの。その感情がとても強く、押し迫ってきたの」


 五十嵐はそれに対して何かを言おうとした。

 しかし嶋咲枝はすっと立ち上がり、「ありがとう。今日はあなたに会えてよかったわ」と、先にそう言った。


 二人が座るベンチに向って、SPの男が駆け寄ってくる。五十嵐はもう時間なのだという事を感じ、言いたかった言葉を失ってしまった。

 嶋咲枝はベンチに座る五十嵐に軽く手を振り、SPの男の方へと近寄っていった。

 五十嵐卓人は何かを言わなければならないと思ったが、どうしても言葉は口から出てこなかった。


51話へ続く。