57. 入口で待つ男
静寂に包まれたエレベーターに乗り、響は一階へと下りてゆく。ゆっくりとエレベーターが一階一階下へと移動する。やけに長い時間に響には感じられる。
時間が夜遅い時間であるせいか、夢の中にいるような気にさせられる。外はまだ暗闇に包まれていることだろう。
エレベーターが一階に着いた。ドアが開いた瞬間、響は何かの気配を感じる。玲香の家で閉じこもっていたせいもあって、響はまた周囲のかすかな物音や匂いに敏感になっている。
一階の外扉の外側には誰かがいるのを響は感じている。
『ゆっくりとでいい、ゆっくり扉を開けばいい』と、自分に言い聞かせる。
その外にいる相手を響は斉藤ではないかと予測する。もし彼が外にいたとしても、いきなり拳銃を撃ちつけるような真似はしないだろうと、響は判断する。斉藤は用心深い男だから、こんな都会のど真ん中で、真夜中といえども拳銃をぶっ放すような真似はしない。その事を響は知っている。
ゆっくりと扉を開く。左右を窺(うかが)うと、路肩に意外にも前野正が座っていた。
外へ出ると、入口の扉はカチャリと音を立てて閉まり、ロックされた。
「あんたか」と、響はフリーライターの前野正に対して声を掛けた。
前野は立ち上がり、響にぺこりと頭を下げた。そして不細工な薄ら笑みを浮かべていた。
前野:「嶋さんの家の傍で張り込んでいたら、彼女が夜中に出て行ったんで、追ってきました。
こんな時間だったし、特に最近は彼女を追う記者もいなかったので、
それに気づいたのは僕だけでした。
それからあなたがここに入って行くのも遠くから見てましたよ。
でもそこではまだ話しかけるタイミングじゃないと思いまして、それからここで待ってました」
響 :「あの人なら、まだ中だぜ」
前野:「あなたは嶋さんに会ったんですね?」
響 :ここで嘘をついても仕方ないので、「ああ、会ったよ」と答える。
前野:「嶋さんと何を話されたのですか?」
響 :「それは言えないね。残念だけど、俺はもうあの人と今後会うつもりはないんだ。
だからあんたとももう関係ない。調べたい事があるのなら、あの人に直接聞くんだな。
俺はもう何も答えないよ」
(響は前野正が嶋咲枝のファンであることを知っている)
前野:「すみません。それでも、僕は一つだけどうしてもあなたに聞いておきたい事があるのですが。
一つだけでいいので」
響 :「まあ、一つくらいなら、答えてやってもいいよ」
前野:「あなたはあの人とあなたがどのような関係にあるか、解っておいでなんですか?」
響 :「関係なければ、こんな風に会う事なんてなんてなかったろうな。それは解ってるよ」
そうとだけ言って、響は前野の前から立ち去ろうとする。
前野:「すみませんが、最後の質問です。もう少し、しっかりとした答えを聞かせてください。
あなたがあの人とどういう関係かという事について」
響 :「まあ、そうだな。つまりは、社長と平社員といったところだよ。
ただそれだけだ。これ以上細かく言わないといけないか?」
前野:「いいえ、細かく言う必要はありません。
ただ、あなたは本当の意味でのあなたと嶋さんとの関係を理解していない。
僕はそんなあなたをこのままここから帰してしまっていいのだろうか?引き止めるべきか?」
前野は独り言のようにそう響の顔を見上げて言う。
響 :「つまり、何が言いたいんだ?」
前野:「あなたはもう、嶋さんに、『あなたには会わない』と伝えて別れたのですか?」
響 :「確か、質問は一つのはずだけど」
前野:「そうでした。そうですね。どうも」
前野はそう言って、口を塞いだ。それからじっと変に丸い目で響を眺めているだけとなった。
中途半端な状態にされて、じれったくなった響が口を開く。
響 :「何だよ。何が言いたいんだ。あの人も俺がもう自分に会わない事くらいわかっているはずだぜ」
前野:「嶋さんはあなたにまだ伝えきれていない事があるはずです。何かを言おうとしていた」
響 :「何を?」
前野:「僕の口からは、言えませんが」
響 :「おいおい」
前野:「ただ、嶋さんがあなたに会うのが最後だと考えていたら、
あなたは何らかのヒントをもらっているのかもしれませんが」
響 :「ヒント?」
響は思い出しかのように、コートのポケットにしまいこんであったパスポートを取り出した。そして、嶋咲枝がそいつを渡した際に響に言っていた変な言葉を思い出していた。『待って。ちょとしたことよ。ただ今は見ないで欲しい』そう言って、嶋咲枝は響がパスポートを開こうとする事を止めさせた。
「それは?」と、前野は尋ねた。
しかし、響はその問いを気にせず、パスポートの中身に目を当てた。
『 嶋 涼 』
そこにはそういう名が、響の字体に真似た文字で、サインとして書かれていた。そこにはたくさんの不思議があった。
第一に、嶋咲枝の苗字である嶋が、上野響の苗字として使われていた事。
第二に、響が幼い頃、本名として使われていた『涼』という名が、知るはずもないのに使われていた事。
それと、字体がうまく真似されていたことだ。
苗字の嶋は、パスポートを作りやすかったから、字体は何かを書いた際にそれを真似てプロに書かせたと考えれば通る。しかし、『涼』という名はずっと秘密にしてきたはずだから知るはずがない。(まさでさえ、その名は知らない)
前野がそのパスポートをちらっと見ていた。
「そう。それが彼女の伝えたかった事。それがあなたの本名」
と、前野は言った。
響はその言葉を聞いて、一瞬にして混乱に陥(おちい)った。
しかし、数々の思い出がその事実を真実味のある言葉として繋いでゆく。
響は田山家で育った。田山夫妻の子であるはずだが、戸籍がない。そして隠されて育った。響は自分が両親と思っている相手に少なからず疑念を抱いていた事も確かだ。
ふと浮かんでくるのはさっき会った時の嶋咲枝の表情だ。母親を思い出させる表情だった。
前野は響に写真を見せた。それは中下丈(なかしたじょう)、つまりは響の父親にあたる男の写真だった。写真は古いものだったが、背が高く、ほっそりとした顔立ちは自分に似ていた。というより、髪の短くなった自分と瓜二つに思えた。
前野:「これがあなたの、そして、嶋咲枝さんはあなたの、」
前野ははっきりとは言わなかったが、もう響はその事を理解しないわけにはいかなかった。だからといって、それで響は何をどうする事もできなかった。
前野:「この方、中下丈さんはすでに亡くなっています。
でも、あなたは嶋さんともう一度会って、真意を確かめる事ができる」
でも、響はそう素直に足をビルの中へと向わすことができなかった。考えるべき事が思いつかなかった。響はこれが本当の驚きなのだと思う事くらいしかできなかった。
前野は動かない響に痺れ(しびれ)を切らして、『ブロッサムスプレイ』のインターフォンを鳴らした。反応はない。前野はそれから何度かそのインターフォンを鳴らした。でも反応は起きそうになかった。響きは呆然と立ち尽くしているだけだった。
朝になれば、彼女は出てくるだろうと、前野は考えていたが、その考えは甘かった。それから30分後、パトカーのサイレンの音が聞こえた。その音は遠いものだったが、やがて近づいてくるのを感じた。上野響もその音にはしっかりと反応した。ここに来る事を感じ取った。
二人は慌ててその場から遠のいた。そして遠くから様子を窺っていた。パトカーは確かに『ブロッサムスプレイ』が入っているビルの前に止まった。そして警官が降りてきて、彼らはビルの中へと入っていった。やがてパトカーは遠くからもう何台かやってくるようだった。その音が遠くから鳴り響いていた。
前野:「どういう事でしょうか?」
響 :「あの女が呼んだんだ」
前野:「しかしなぜ?」
響 :「わからない。ただこの場にうろちょろしているのは危険だ。離れないと」
響は知らされた真実の事を忘れ、普段からの慣れで逃げる事を選択していた。響は小走りにその場を離れ、前野がその後ろから慌てて駆け寄ってきた。二人は小走りに遠のき、大通りまで出て足を止めた。
響 :「やばいかもしれないな。これから、どうすればいいだろう」
前野:「一つだけ、もしそうなら、僕は一つだけ、あなたが行くべき場所を知っている」
前野は響の独り言のような言葉にそう答えた。そう答える前野の顔を見つめ、響はその策に乗ってみることとした。何の想像もつかないまま、響は前野の考えに託した。
58話へ続く
56-2. 再会の日 後半
響はコートを着て、部屋を出てゆこうとした。
真夜中2時のオフィスを去ってゆく男の姿を目で追う咲枝にはまだ言い忘れていたことがある。
「待ちなさい」と、咲枝は響に言った。
響は数秒足を止め、次の言葉もしくは行動を待った。しかし咲枝の言おうとしていた言葉は、迷いのままに口の外へは出てこなかった。
だから響は再び歩き、フロアの外へのドアを開けようとした。
と、その時に咲枝の口が開いた。
「もうやめるわ」
響は開こうとしたドアノブに掛かった手を止め、嶋咲枝の方を振り返った。
そして、「何を?」と聞き返した。
嶋咲枝はいまだにソファーの上に座った態勢でいる。
咲枝:「このつまらない日々をやめるのよ。わたしもあなたと同じくやめるの」
響 :「そうか。そいつはよかった。工場で死んだ奴らも喜ぶよ」
咲枝:「そうね。これでいいでしょ。
そうして、わたしは周囲から見放され、わたしの口封じに何者かがやってくるかもしれないけど、
それはそれでよかったとなるのね」
響 :「あなたがどうなろうと、俺には関係ない。そんな心配事は木崎さんにでも話せばいい」
咲枝:「いいえ。心配事というより、これはあなたにも関わってくる事だと思う。
わたしのバックアップのないあなたは狙われる事になるでしょう」
響 :「そうだとしても、どちらにしても、俺はここから離れる。そして何者かに狙われるかもしれない。
それでも俺はあなたの手助けを受けるつもりはない」
咲枝:「いいわ。わかった。どちらにしても、わたしはあなたに渡しておきたいものがあるの」
嶋咲枝はソファーの脇に置いてあったショルダーバックから折り包みに入った何かを取り出した。そして立ち上がり、入口で待つ響のところまで近づいていった。
差し出した物に反応しない響の手を掴み、それをしっかりと手に握らせた。
「俺は別にあなたからの物なんて受け取りませんよ」
そう言う響だが、一応そいつが何なのか、確かめてみようと包みを解いてみた。中に入っていたのは赤い手帳、いや、それはパスポートだった。響はそれを理解すると、咲枝の顔を見つめた。
「それで、好きな国に行くといいわ。あなたがパスポートを持っていない事は知っていた。だからそれを作っておいたの。本当は航空券も渡せばよかったけど、急だったから準備できなかったけどね」
と、咲枝は答えた。
嶋咲枝は響が伊豆の工場に行った時から彼を海外に逃がそうと考えて、偽造パスポートを準備していた。嶋咲枝は響にそれを渡す事をずっと考えていた。
「お金はあるの?」
と、咲枝は響に尋ねた。
「俺は、あなたにこれ以上世話になるつもりはない。まあ、こいつはもらっておこう」
響はそう言って、パスポートを肩の位置まで上げて示し、嶋咲枝の顔を見つめた。そして心の内で、嶋咲枝の真意を見つけようとしてた。
なぜなら自分が殺そうとした相手にしてはやけに丁寧で優しすぎるからだ。そこには裏を感じずにはいられなかった。でも響は恩義など感じる事もなく、今は目の前にいる女の事を利用しようと考える事とした。真意は少しずつ考える事としてパスポートはもらっておく。もう何も残されていないこの国を離れて海外へ行くのも悪くはないという気持ちになってゆく。
確かめるつもりだったのか、響は自然とパスポートを開こうとしていた。
「待って!」と嶋咲枝は響の行動を止めた。その声に、響は再び嶋咲枝の顔を覗いて、『どうして?』というような顔をした。
「ちょっとした事よ。ただ今はまだ見ないでほしい。大丈夫よ、そのパスポートはあなたが使えるから」
「まあいい」と、響は答える。
じっと見つめる嶋咲枝の顔を響は不思議に感じていた。真意を感じ取ろうとしても、真意はありのままにしか見えなかった。その顔の表情は不思議な優しさに溢れていた。響はどことなく田山さゆり=響の(育ての)母を思い出していた。ずっと心の内の奥深くにしまいこんでいた記憶だった。でも咲枝のその表情は深い記憶の扉をこじ開け、響に懐かしい思い出を与えていた。
響はぎゅっと目を閉じ、その深い思い出を頭の中から消し去った。無心になって、田山さゆりの記憶を消す。そして自分は今もまだ危険な状況の中にあるんだと言い聞かせる。
『行こう』と響の心の内は響に声を掛ける。『もうこれ以上、ここにいる意味はない』
再び、咲枝の顔を見つめた。彼女は不思議な笑みと、不思議な悲しみの混じった顔をしていた。その顔をずっと見ていると響はどうしていいかわからなくなってしまいそうだった。
「ありがとう」
と、響は咲枝に対して言っていた。
それは別れるための言葉が見つからなかったからかもしれない。単純にはパスポートをもらった事にある。でもなぜ、自分が憎み殺そうとしていた相手にありがとうなどという言葉が口から出てきたのか、響は自分自身で言った言葉にさえ、『何を言っているんだ?』という気にさせられた。
嶋咲枝は、響の言葉にこくりとゆっくり頷いた。
その不思議な表情を浮かべる嶋咲枝の顔を見つめながら響は扉を開き、オフィスの外へと出て行った。
一度出てしまうと、かちりと扉の鍵が掛かる音がした。
響は何もかもが終ったんだと感じた。そして明日にはどこか別の国へ旅立つ準備をしようと考え、そのエレベーターへと乗り込んだ。
静かな夜だった。真夜中、幽霊でも出てきそうなくらいの静けさが響を包んでいた。
57話へ続く
第9章~第10章の目次
第9章 結末へと繋がる章
主人公=上野響は生き延びて、人の心を読む女=玲香に会う
上野響のボス=嶋咲枝が、画家=五十嵐卓人と日比谷公園で会う
上野響のボス=嶋咲枝の元に、フリーライター前野正から届いた手紙の内容について
52
.復活・馬込警部補の再捜査
日暮里爆破事件を追っていた馬込警部補が警官に戻ったという話
主人公=上野響は、人の心を読む女=玲香の家を出てゆく
主人公=上野響はずっと住んでいた上野のマンションの地下室へ戻る
第10章 結末の章
主人公=上野響は上野のマンションの地下室で今後の事を考える
56-1. 再会の日 前半
秋葉原を通り、東京駅を過ぎ、日比谷公園を回り、虎ノ門へ、その辺りでタクシーを降り、通り沿いにある地図で行き先を確認する。
『有限会社ブロッサムスプレイ』を探すには時間が掛かった。同じところを何度か廻り(めぐり)、たくさんのビルを眺めた。そしてある5階建てのビルの4階にその看板を見つけた。
1階の入口ドアは閉ざされていた。郵便受けとドアベルがあったので、4階の『ブロッサムスプレイ』のベルを鳴らした。
数秒後、ドアがガチャリと鳴る音がした。
響が入口のドアを引くと、ドアはすっと開いた。ドア奥のエレベーターは1階で止まっていた。
4階へ上り、エレベーターが開く。明かりは非常用の弱い光しか届かない。「ブロッサムスプレイ」の扉は閉じていて、中は見えない作りになっている。
今度は呼び鈴もインターフォンもないので、木の扉をノックする。「コンコン」と音は響き渡る。
数秒後に扉は開いた。
差し込む明かりから顔を覗かせたのは、やはり嶋咲枝だった。響はそうであろうと勘ぐっていたので、特に驚きはしなかった。むしろ彼女の方が響の顔をじっと見つめ、彼の存在を確かめているようだった。
嶋咲枝は何も言わずに響をフロアの中に招きいれた。
フロアは事務所になっていた。閉ざされた部屋が正面と左手にあったが、そちらは応接間や給湯室になっているだけのようだった。右手には机が5つとソファーとそれを囲む棚が並んだ事務所となっていた。
咲枝はソファーに座り、響を低いガラステーブルを挟んで反対側のソファーへと誘った。
響は流されるままにそこに腰を下ろし、鞄を下ろし、コートを脱いだ。
咲枝:「髪を切ったのね」
響 :「変装するつもりじゃない。ただ何となく邪魔に思っただけだ」
咲枝:「そう。その方が似合うわよ」
響 :「…」そして少し照れる。
しばらくの沈黙が続く。
咲枝:「木崎はね、今日は休みよ。
彼はああ見えてマイホームパパだから、今日は家族の世話をしているはずよ。
彼がやってくる事はないわ」意味深にそう言う。
響 :「そうですか」と、単調に答える。
咲枝:「そう。今日はどういう目的なのかしら。何か話があるんでしょ?」
響 :「あなたがどこまで知っているかを俺は知らない。だけどあなたは俺が死んだと思っていたはずだ。
そうでなくても、ここに帰ってくるはずなどないと思っていた。
俺はもうあなたにとっては要らなくなった存在のはずだ。
そんな俺から会いに来たのに、あなたは会うと言った。それも木崎さんもいない中、一人でだ」
咲枝:「そう。わたしもいろいろな事に飽きてしまったみたいでね。
何か変わったことがあればいいと思っていたところなの。
そこへあなたからの電話があった。こんな楽しい事はないじゃない?」
彼女はテーブルの上にあったバージニアスリムを取り出て、ライターで火を付け、それを吸い出した。
響は煙草を吸わないので、その煙さが少し気に掛かったが、なるべく気にしないようにした。そしてじっと嶋咲枝の顔を見つめる。こんな時間でもしっかり化粧をしていた。手にはプラチナのブレスレットをはめていた。彼女もじっと響の顔を見つめていた。だから数秒後に響は咲きえの顔から目を逸らした。
咲枝:「話したい事があるんじゃないの?」
響 :「俺は仕事に失敗した。というよりはあなたを裏切った。
そして大切な物をテロリストに預けた。テロリストは警察にそいつを持っていった。
あなたもまた捕まるかもしれない」
咲枝:「わたしは捕まらないわ。そんな簡単に捕まらない。
あのスーツケースからは捕まらない。捕まるのならせいぜい木崎までね。
認証システムによって、木崎の指紋で開くようになっているからね。
万が一木崎が捕まっても、彼はわたしの事を言わないでしょうね」
響 :「俺はあなたの仕事から手を引いた。テロリストたちの仲間になったつもりはない。
ただ俺はもう、こんな生活は嫌なんだ」
咲枝:「それはわかっている。でもあなたは そんな事をわざわざわたしに伝えに来たの?
そんな事なんて伝えずにどこかに消えてしまったほうがあなたにとっては良かったのじゃないの?
別の用があってここに来たんでしょ?」
響 :「テロリストはあなたの事を恨んでいる。彼らは麻薬を恨んでいる。
彼らは麻薬によって人生を狂わされた。だからそれを扱うあなたを恨んでいる。
彼らの目的はあなたを捕まえる事にあった。
彼らはあなたをおびき寄せようとしていた。でもあなたは冷静に彼らの誘いには乗らなかった」
咲枝:「言ったでしょ。わたしは捕まらないって」
響 :「でもどうしてあなたはそんな危険なものを扱っているんだろう?」
咲枝:「そうね。なぜかしら?稼ぎがいいからじゃないかしらね」
響 :「彼らはそんなもののために苦しんでいた」
咲枝:「あんなものは煙草と同じ、お酒と同じよ。嵌(はま)らなければいいの。
ギャンブルだってそう。何事にも理性が必要なの。それがあれば後は個人の自由。
個人で規制できればそれでいいの。法も要らない。
バカな人間が自主規制できないから法がある。
そしてそれでも自主規制できない人間はどうやっても規制はできないのよ。
法で縛っただけルートは狭まるのよ。
それでも欲しい人には与えてやればいい。わたしはそうできるルートを開いていただけよ。
うまくやっている人間はいくらでもいるからね」
響 :「それでもあなたは恨みを買った」
咲枝:「そうでなくてもわたしはたくさんの恨みを買っているの。
わたしが偉くある以上はたくさんの妬みや恨みが周囲に渦巻く。
あなたが絡んだ点で言えばその麻薬の話だけ。
実際にはより多くの人にわたしは恨み妬まれているの」
響 :「いったいあなたはなぜそんな事をしているんだ。
恨み、妬まれて、どうして偉くなるんだろう」
咲枝:「そうね、あなたというとおり、どおしてわたしは偉くなったのかしら?
そしてこれ以上に偉くなろうとしていたのかしらね。
ただ、貪欲に望んでいたらそうなっただけ。
人にはね、皆、欲望がある。そして何かを満たしたいと思う。
わたしはその欲を社会的権力につぎ込んだだけ。きっとそれだけの事なんだと思う」
響 :「彼らは死んだんだ。そういった権力に潰されるようにして死んだ。
俺には彼らが恨む理由がわかる。あなたが偉くなりたい理由よりはっきりと」
咲枝:「恨む人がいて、恨まれる人間がいる。そうでしょ?
恨まれる人間が貧しくて死にそうな生活をしていたら、恨むのもやめてしまうでしょ。
わたしは恨まれるに等しい生き方をしているから恨まれるのよ。
そして、あなたはわたしを殺しに来たの?」
響はそう訊いてきた咲枝の顔を見て黙っている。煙草の吸い終わった咲枝は二本目に火を付けるかどうか迷いながら、響の次なる言葉もしくは行動を待っている。しかし響は何もしようとしない。
咲枝:「拳銃はないけど、包丁なら給湯室にあるわ。何もなければそれを持ってくればいいわ。
わたしはどこにも逃げないわよ。
そんな事なら最初からあなたをここに呼ぶような真似はしないでしょ?」
響 :「違う。そうじゃない。
それなら、あなたはなぜ、まささんを殺したんだ。
恨みや妬みがあの人にあったからなのか?」
咲枝:「そうね。それは恨みでも、妬みでもない。
それは、そうね。恐れ、というよりは、安心が欲しかったから」
響 :「あの人があなたを殺そうとしていた。だからあなたはあの人を殺した?」
咲枝:「正しくはそうじゃないわ。あの男はわたしを殺すような事は考えていなかった。
ただ、わたしは案じたの。案じて、そのためにあの男を殺した」
響 :「よくわからない」
咲枝:「そうね。よくわからないことを言っている。
綺麗ごとは嫌いだけど、綺麗事を言えば、そこには愛があった。
わたしはね、ある人と出会ったときに、心が張り裂けるような想いがしたの。
それは最初は恋かと思った。でもそれは恋じゃなくて愛だった。
どんなに心を忘れたつもりのわたしでも、愛する想いが残っていたのね。
だからわたしはその愛のためにあの男を殺したの」
響はいい歳の女が愛だの恋だのいう事、それによって人を殺すなんていう真似に到った事に酷く憤りを感じた。
響 :「あなたは愚かですよ。
俺は、あなたの愚かさを感じて、ただその全てから離れたくなった。
もういい。俺はあなたのくだらなさを感じた。
とてもあなたをバカにする。
それだけだ。それを言うために俺はここへ来たのかもしれない。
もしくはその逆に、あなたを認めるつもりでもあったのかもしれない。
でも、あなたが言った言葉を聞いて、俺はあなたをバカにする。
それだけです。俺はそれだけです」
咲枝:「そう。それだけ?あなたはわたしを殺しはしないの?」
嶋咲枝はがっかりしたようにそう言って、煙草に火を付ける。そして煙を吸い込み、大きくその煙を宙に吐き出した。
時計は深夜2時を回っていた。響は立ち上がり、その場を離れようと、コートを着た。
彼は去ろうとしている。この場から去ろうとしている。咲枝はじっとその男の事を見つめていた。やっと再会できたはずのその男の顔を咲枝はじっと見つめていた。
その2へ続く
55.何もない部屋の中で
目が覚めて、自分がどこで目覚めたのかを考える。ここはどこなのか。
昨日の行動を思い返せば、今、自分がどこにいるのか、すぐに思い出せる。ここは、5年近く世話になった以前の自分の部屋だ。
響はずっと自分が暮らしていた場所に戻ってきた。
『でもこの部屋にはもう何もない。ここはもう俺の部屋ではなくなった』
響は心の中でそうつぶやいた。
まだ眠りたりないのか、脳は働き出さない。日差しの射し込まない地下では今が昼か夜かもわからない。響は時計をしていない。もちろん全てが運び出されたからっぽの部屋に時計はない。時間をわかる術はない。
昨日の夕暮れ過ぎに着いて、響はそのままここへ倒れこみ、寝てしまっていた。
『まださほど多くの時間が過ぎたわけではないだろう。21時か22時か、どんなに遅くても深夜1時といったところではないだろうか?』と推測から時間を判断する。
なんとも言えない異様な気分が、響にはある。金がなく、野宿の場所として空いていて部屋に泊まった、そんな気分でそこに寝ている。やがて誰かがこんなところで寝てては駄目だと言いに来るだろうと、そんな予感に恐れながら響はずっと目を閉じている。
最初に戻って考え直すためにここへ来た。その答えなくしては動き出すことができない。というのが、実際のところだが、響にはほとんど何も考えも浮かんではこなかった。
ただ浮かんでくるものを見つめる事はできた。長い旅から帰ってきたように、数日間の出来事が絶え間なく響の脳裏には勝手に浮かんできた。
若手旋斗に銃を撃ちつけた時の、若手の表情が思い浮かぶ。彼は笑顔で笑っていた。その笑みが闇の中にある。嫌な熱気が周囲を覆っている。それなのにどこか肌寒い。あの瞬間の感触が体中を覆う。
耐え切れなくなって、響は頭を揺さぶり、その想像を振り払った。
じっと静かにしていると、冷たくなっている手の甲を玲香が温かい手で包んでくれているような妄想を浮かべる事ができた。理由なく勃起した。彼女のココナッツのような甘い匂いを思い出した。蕩(とろ)けるような瞳を見つめていたかった。彼女はいつも不思議そうに響の顔を覗いていた。いつも優しく甘い目をしていた。
その想像も長くは続かなかった。また廃工場の機械くさい匂いが鼻に付いた。やはりあそこでの時間の出来事が頭を離れない響は、より昔の記憶を呼び戻ろうとした。
居酒屋『ふくちゃん』の事を思い出した。女将さんのふくちゃんが作った金目鯛の煮付けの味を思い出すと、口の中によだれが溢れてきた。お腹は減っていた。それでも胃はそれほど多くの物を欲してはいなかった。ただあの煮つけなら食べたいと感じた。かんさんや式羽の声が浮かんだ。騒がしく話している姿が浮かんだ。
『そういえば歌い人の件もある。俺はあそこには戻れないだろう』
警察は捕まった柏木守=歌い人があの居酒屋の常連だった事に気づいているだろう。誰かが響という人物が歌い人のいなくなったときと同時期にいなくなったと言えば明らかに自分が怪しまれる。響には何の身分証明もできないし、アリバイもないのだから。
現実に戻され、そんな事を考えていた。
『会わなくてはならない相手がいる』
響の頭に、その時ふと確信が生まれた。そこへ行けば、あるのは死かもしれないとも感じるが、今の響には他に行く場が想像できない。
『そこへの行き方は単純明瞭(たんじゅんめいりょう)な方がいい』
だから響は目を開いた。
明かりのない部屋に明かりを点(とも)した。がらんどうの部屋の一面が広がる。部屋はとても広い。何もないとこれほど広かったのかと感じる。軽い運動ができそうだ。天井も高い。もともと小さな飲み屋として経営できる広さだった。裏路地があまりに暗く入りにくい場所なので、そうならなくなった部屋を、響が使っていた。だからその部屋は本当に広かった。
響はトイレに行き、用を足した。 風呂場を覗いたが、風呂には入らないことにした。
『目覚めのシャワーは無事に全てが終わってからにしよう。それまでは脳は眠ったようなままの方がいい』
と、自分の心に言い聞かせた。
再び玄関口まで来て、電機と暖房を消した。そして扉の内鍵を開き、暗闇に慣れた目で入口に誰もいないことを確認して、外に出た。鍵を閉めた。
スポーツバッグは背負ったままだ。厚手のコートを着ていて、茶色いスニーカーを履いている。ズボンは真新しいリーバイスだ。
地下を駆け上がり外の外に出る。予想通り、外はまだ暗闇の中だった。
もう遅い時間なのだろう。辺りはどことなく静まり返っている雰囲気に包まれていた。心地よい寒さの夜だった。布団もなく寝ていたので体が軋(きし)んでいた。響はそこで大きく一つ背伸びをした。
マンションへの入口の扉ノブを捻った。しかしそれは開かなかった。もう誰もここを通る必要がなくなったのだ。だからそこは閉まっていた。
響は表に回った。いつもの花壇に馬込警部補はいなかった。響は彼がどうしたかも知らない。しかしその事はほんの少し気になった事だった。
中に入ると、右手にオートロックのついた入口がある。そのまままっすぐ行くと裏へと抜ける通路が奥に続いている。その途中の左手に管理人室がある。響はそこまで行き、その管理人室の扉を叩く。そして斜め上に付けられたカメラに自分を映す。
扉はカチャリと開いた。中からは冴えないおじさんが出てきた。高橋克実のような冴えないおじさんだった。響は何度かその男にあったことがある。
寝ぼけ眼のその男は少しだけ驚いていた。
管理人:「あんた、生きてたんか。消えたってきいたんで、死んだんかと思ったよ。
ここに帰ってきたって部屋はもうないぞ。それにあんたは死んでいると思われた方がいいかもな」
響 :「木崎さんに連絡が取りたい」
管理人:「??」
響 :「俺の部屋を片付けたのは誰だ?それから俺の部屋を所有してたのは誰だ?
そいつに会いたい」
管理人:困った顔をして、「面倒だな。あんたもう死んだと思われてた方がいいぜ。
世の中知らないほうがいい事もたくさんある。そのままの方がいい」
響 :「そうするわけにはいかない」
少し迷ってから、管理人は答えた。
「まあ、いい。確かに木崎って人が何かあったら連絡をくれと言って、俺に名刺を置いていった。あの部屋を所有していたのはよくわからない会社だから、そんなのは言ったって仕方ない。俺はあの人がどこの誰か知らない。けど、いろいろと見てきてわかるんだよ。ああいうのはあまり関わっちゃいけないってね。だから本当はもうこれ以上関わりたかないけどよ」
さらに少し悩んでから、
「まあいい。連絡してやるよ」
響自身は木崎の連絡先を知らない。それはその必要がなかったからだ。本来ならいつもどおりの回り事(麻薬のやり取りのみ)で済んでいた。
電話を回しながら、管理人は言う。
「でもよ、こんな時間だから、誰も出ねえと思うぜ。これ携帯じゃないし」
管理人室にある時計は夜中の1時10分過ぎを指していた。
電話は長い間鳴った。そして誰かが出たようだった。管理人は急に綺麗な敬語に変わり、電話の向こうの相手と応対していた。
「ええ、そうですか。わかりました」と言って、電話を切った。
「何か知らないけど、女が出た」管理人は言う。「その女があんたに会いに来なさいって言っていたよ。住所はここだそうだ」
管理人はそう言って、一枚の名刺を響に渡した。
『有限会社ブロッサムスプレイ』
それがそこの会社の名前だった。場所は虎ノ門だった。
「ありがとう」
響は珍しくそうお礼を言って、その管理人に頭を下げた。そして急いでその場を走り出ていった。
管理人は何もなかった事にほっと一息ついて、眠りに就こうとしていて起こされた頭を再び寝付かせる方へと切り替えるのだった。
56話へ続く