57. 入口で待つ男 | 小説と未来

57. 入口で待つ男

 静寂に包まれたエレベーターに乗り、響は一階へと下りてゆく。ゆっくりとエレベーターが一階一階下へと移動する。やけに長い時間に響には感じられる。

 時間が夜遅い時間であるせいか、夢の中にいるような気にさせられる。外はまだ暗闇に包まれていることだろう。

 エレベーターが一階に着いた。ドアが開いた瞬間、響は何かの気配を感じる。玲香の家で閉じこもっていたせいもあって、響はまた周囲のかすかな物音や匂いに敏感になっている。

 一階の外扉の外側には誰かがいるのを響は感じている。

『ゆっくりとでいい、ゆっくり扉を開けばいい』と、自分に言い聞かせる。

 その外にいる相手を響は斉藤ではないかと予測する。もし彼が外にいたとしても、いきなり拳銃を撃ちつけるような真似はしないだろうと、響は判断する。斉藤は用心深い男だから、こんな都会のど真ん中で、真夜中といえども拳銃をぶっ放すような真似はしない。その事を響は知っている。


 ゆっくりと扉を開く。左右を窺(うかが)うと、路肩に意外にも前野正が座っていた。

 外へ出ると、入口の扉はカチャリと音を立てて閉まり、ロックされた。


「あんたか」と、響はフリーライターの前野正に対して声を掛けた。

 前野は立ち上がり、響にぺこりと頭を下げた。そして不細工な薄ら笑みを浮かべていた。


前野:「嶋さんの家の傍で張り込んでいたら、彼女が夜中に出て行ったんで、追ってきました。

    こんな時間だったし、特に最近は彼女を追う記者もいなかったので、

    それに気づいたのは僕だけでした。

    それからあなたがここに入って行くのも遠くから見てましたよ。

    でもそこではまだ話しかけるタイミングじゃないと思いまして、それからここで待ってました」


響 :「あの人なら、まだ中だぜ」


前野:「あなたは嶋さんに会ったんですね?


響 :ここで嘘をついても仕方ないので、「ああ、会ったよ」と答える。


前野:「嶋さんと何を話されたのですか?


響 :「それは言えないね。残念だけど、俺はもうあの人と今後会うつもりはないんだ。

    だからあんたとももう関係ない。調べたい事があるのなら、あの人に直接聞くんだな。

    俺はもう何も答えないよ」

   (響は前野正が嶋咲枝のファンであることを知っている)

前野:「すみません。それでも、僕は一つだけどうしてもあなたに聞いておきたい事があるのですが。

    一つだけでいいので」


響 :「まあ、一つくらいなら、答えてやってもいいよ」


前野:「あなたはあの人とあなたがどのような関係にあるか、解っておいでなんですか?」


響 :「関係なければ、こんな風に会う事なんてなんてなかったろうな。それは解ってるよ」


 そうとだけ言って、響は前野の前から立ち去ろうとする。


前野:「すみませんが、最後の質問ですもう少し、しっかりとした答えを聞かせてください

    あなたがあの人とどういう関係かという事について」


響 :「まあ、そうだな。つまりは、社長と平社員といったところだよ。

    ただそれだけだ。これ以上細かく言わないといけないか?


前野:「いいえ、細かく言う必要はありません。

    ただ、あなたは本当の意味でのあなたと嶋さんとの関係を理解していない。

    僕はそんなあなたをこのままここから帰してしまっていいのだろうか?引き止めるべきか?」


 前野は独り言のようにそう響の顔を見上げて言う。


響 :「つまり、何が言いたいんだ?」


前野:「あなたはもう、嶋さんに、『あなたには会わない』と伝えて別れたのですか?」


響 :「確か、質問は一つのはずだけど」


前野:「そうでした。そうですね。どうも」


 前野はそう言って、口を塞いだ。それからじっと変に丸い目で響を眺めているだけとなった。

 中途半端な状態にされて、じれったくなった響が口を開く。


響 :「何だよ。何が言いたいんだ。あの人も俺がもう自分に会わない事くらいわかっているはずだぜ


前野:「嶋さんはあなたにまだ伝えきれていない事があるはずです。何かを言おうとしていた」


響 :「何を?」


前野:「僕の口からは、言えませんが」


響 :「おいおい」


前野:「ただ、嶋さんがあなたに会うのが最後だと考えていたら

    あなたは何らかのヒントをもらっているのかもしれませんが」


響 :「ヒント?」


 響は思い出しかのように、コートのポケットにしまいこんであったパスポートを取り出した。そして、嶋咲枝がそいつを渡した際に響に言っていた変な言葉を思い出していた。『待って。ちょとしたことよ。ただ今は見ないで欲しい』そう言って、嶋咲枝は響がパスポートを開こうとする事を止めさせた。


「それは?」と、前野は尋ねた。

 しかし、響はその問いを気にせず、パスポートの中身に目を当てた。


『 嶋 涼 』


 そこにはそういう名が、響の字体に真似た文字で、サインとして書かれていた。そこにはたくさんの不思議があった。

 第一に、嶋咲枝の苗字である嶋が、上野響の苗字として使われていた事。

 第二に、響が幼い頃、本名として使われていた『涼』という名が、知るはずもないのに使われていた事。

 それと、字体がうまく真似されていたことだ。

 苗字の嶋は、パスポートを作りやすかったから、字体は何かを書いた際にそれを真似てプロに書かせたと考えれば通る。しかし、『涼』という名はずっと秘密にしてきたはずだから知るはずがない。まさでさえ、その名は知らない)

 前野がそのパスポートをちらっと見ていた。


「そう。それが彼女の伝えたかった事。それがあなたの本名

と、前野は言った。


 響はその言葉を聞いて、一瞬にして混乱に陥(おちい)った。

 しかし、数々の思い出がその事実を真実味のある言葉として繋いでゆく。


 響は田山家で育った。田山夫妻の子であるはずだが、戸籍がない。そして隠されて育った。響は自分が両親と思っている相手に少なからず疑念を抱いていた事も確かだ。

 ふと浮かんでくるのはさっき会った時の嶋咲枝の表情だ。母親を思い出させる表情だった。


 前野は響に写真を見せた。それは中下丈(なかしたじょう)、つまりは響の父親にあたる男の写真だった。写真は古いものだったが、背が高く、ほっそりとした顔立ちは自分に似ていた。というより、髪の短くなった自分と瓜二つに思えた。


前野:「これがあなたの、そして、嶋咲枝さんはあなたの、」


 前野ははっきりとは言わなかったが、もう響はその事を理解しないわけにはいかなかった。だからといって、それで響は何をどうする事もできなかった。


前野:「この方、中下丈さんはすでに亡くなっています。

    でも、あなたは嶋さんともう一度会って、真意を確かめる事ができる」


 でも、響はそう素直に足をビルの中へと向わすことができなかった。考えるべき事が思いつかなかった。響はこれが本当の驚きなのだと思う事くらいしかできなかった。

 前野は動かない響に痺れ(しびれ)を切らして、『ブロッサムスプレイ』のインターフォンを鳴らした。反応はない。前野はそれから何度かそのインターフォンを鳴らした。でも反応は起きそうになかった。響きは呆然と立ち尽くしているだけだった。


 朝になれば、彼女は出てくるだろうと、前野は考えていたが、その考えは甘かった。それから30分後、パトカーのサイレンの音が聞こえた。その音は遠いものだったが、やがて近づいてくるのを感じた。上野響もその音にはしっかりと反応した。ここに来る事を感じ取った。

 二人は慌ててその場から遠のいた。そして遠くから様子を窺っていた。パトカーは確かに『ブロッサムスプレイ』が入っているビルの前に止まった。そして警官が降りてきて、彼らはビルの中へと入っていった。やがてパトカーは遠くからもう何台かやってくるようだった。その音が遠くから鳴り響いていた。


前野:「どういう事でしょうか?」


響 :「あの女が呼んだんだ」


前野:「しかしなぜ?」


響 :「わからない。ただこの場にうろちょろしているのは危険だ。離れないと」


 響は知らされた真実の事を忘れ、普段からの慣れで逃げる事を選択していた。響は小走りにその場を離れ、前野がその後ろから慌てて駆け寄ってきた。二人は小走りに遠のき、大通りまで出て足を止めた。


響 :「やばいかもしれないな。これから、どうすればいいだろう」


前野:「一つだけ、もしそうなら、僕は一つだけ、あなたが行くべき場所を知っている


 前野は響の独り言のような言葉にそう答えた。そう答える前野の顔を見つめ、響はその策に乗ってみることとした。何の想像もつかないまま、響は前野の考えに託した。


58話へ続く