56-1. 再会の日 前半
秋葉原を通り、東京駅を過ぎ、日比谷公園を回り、虎ノ門へ、その辺りでタクシーを降り、通り沿いにある地図で行き先を確認する。
『有限会社ブロッサムスプレイ』を探すには時間が掛かった。同じところを何度か廻り(めぐり)、たくさんのビルを眺めた。そしてある5階建てのビルの4階にその看板を見つけた。
1階の入口ドアは閉ざされていた。郵便受けとドアベルがあったので、4階の『ブロッサムスプレイ』のベルを鳴らした。
数秒後、ドアがガチャリと鳴る音がした。
響が入口のドアを引くと、ドアはすっと開いた。ドア奥のエレベーターは1階で止まっていた。
4階へ上り、エレベーターが開く。明かりは非常用の弱い光しか届かない。「ブロッサムスプレイ」の扉は閉じていて、中は見えない作りになっている。
今度は呼び鈴もインターフォンもないので、木の扉をノックする。「コンコン」と音は響き渡る。
数秒後に扉は開いた。
差し込む明かりから顔を覗かせたのは、やはり嶋咲枝だった。響はそうであろうと勘ぐっていたので、特に驚きはしなかった。むしろ彼女の方が響の顔をじっと見つめ、彼の存在を確かめているようだった。
嶋咲枝は何も言わずに響をフロアの中に招きいれた。
フロアは事務所になっていた。閉ざされた部屋が正面と左手にあったが、そちらは応接間や給湯室になっているだけのようだった。右手には机が5つとソファーとそれを囲む棚が並んだ事務所となっていた。
咲枝はソファーに座り、響を低いガラステーブルを挟んで反対側のソファーへと誘った。
響は流されるままにそこに腰を下ろし、鞄を下ろし、コートを脱いだ。
咲枝:「髪を切ったのね」
響 :「変装するつもりじゃない。ただ何となく邪魔に思っただけだ」
咲枝:「そう。その方が似合うわよ」
響 :「…」そして少し照れる。
しばらくの沈黙が続く。
咲枝:「木崎はね、今日は休みよ。
彼はああ見えてマイホームパパだから、今日は家族の世話をしているはずよ。
彼がやってくる事はないわ」意味深にそう言う。
響 :「そうですか」と、単調に答える。
咲枝:「そう。今日はどういう目的なのかしら。何か話があるんでしょ?」
響 :「あなたがどこまで知っているかを俺は知らない。だけどあなたは俺が死んだと思っていたはずだ。
そうでなくても、ここに帰ってくるはずなどないと思っていた。
俺はもうあなたにとっては要らなくなった存在のはずだ。
そんな俺から会いに来たのに、あなたは会うと言った。それも木崎さんもいない中、一人でだ」
咲枝:「そう。わたしもいろいろな事に飽きてしまったみたいでね。
何か変わったことがあればいいと思っていたところなの。
そこへあなたからの電話があった。こんな楽しい事はないじゃない?」
彼女はテーブルの上にあったバージニアスリムを取り出て、ライターで火を付け、それを吸い出した。
響は煙草を吸わないので、その煙さが少し気に掛かったが、なるべく気にしないようにした。そしてじっと嶋咲枝の顔を見つめる。こんな時間でもしっかり化粧をしていた。手にはプラチナのブレスレットをはめていた。彼女もじっと響の顔を見つめていた。だから数秒後に響は咲きえの顔から目を逸らした。
咲枝:「話したい事があるんじゃないの?」
響 :「俺は仕事に失敗した。というよりはあなたを裏切った。
そして大切な物をテロリストに預けた。テロリストは警察にそいつを持っていった。
あなたもまた捕まるかもしれない」
咲枝:「わたしは捕まらないわ。そんな簡単に捕まらない。
あのスーツケースからは捕まらない。捕まるのならせいぜい木崎までね。
認証システムによって、木崎の指紋で開くようになっているからね。
万が一木崎が捕まっても、彼はわたしの事を言わないでしょうね」
響 :「俺はあなたの仕事から手を引いた。テロリストたちの仲間になったつもりはない。
ただ俺はもう、こんな生活は嫌なんだ」
咲枝:「それはわかっている。でもあなたは そんな事をわざわざわたしに伝えに来たの?
そんな事なんて伝えずにどこかに消えてしまったほうがあなたにとっては良かったのじゃないの?
別の用があってここに来たんでしょ?」
響 :「テロリストはあなたの事を恨んでいる。彼らは麻薬を恨んでいる。
彼らは麻薬によって人生を狂わされた。だからそれを扱うあなたを恨んでいる。
彼らの目的はあなたを捕まえる事にあった。
彼らはあなたをおびき寄せようとしていた。でもあなたは冷静に彼らの誘いには乗らなかった」
咲枝:「言ったでしょ。わたしは捕まらないって」
響 :「でもどうしてあなたはそんな危険なものを扱っているんだろう?」
咲枝:「そうね。なぜかしら?稼ぎがいいからじゃないかしらね」
響 :「彼らはそんなもののために苦しんでいた」
咲枝:「あんなものは煙草と同じ、お酒と同じよ。嵌(はま)らなければいいの。
ギャンブルだってそう。何事にも理性が必要なの。それがあれば後は個人の自由。
個人で規制できればそれでいいの。法も要らない。
バカな人間が自主規制できないから法がある。
そしてそれでも自主規制できない人間はどうやっても規制はできないのよ。
法で縛っただけルートは狭まるのよ。
それでも欲しい人には与えてやればいい。わたしはそうできるルートを開いていただけよ。
うまくやっている人間はいくらでもいるからね」
響 :「それでもあなたは恨みを買った」
咲枝:「そうでなくてもわたしはたくさんの恨みを買っているの。
わたしが偉くある以上はたくさんの妬みや恨みが周囲に渦巻く。
あなたが絡んだ点で言えばその麻薬の話だけ。
実際にはより多くの人にわたしは恨み妬まれているの」
響 :「いったいあなたはなぜそんな事をしているんだ。
恨み、妬まれて、どうして偉くなるんだろう」
咲枝:「そうね、あなたというとおり、どおしてわたしは偉くなったのかしら?
そしてこれ以上に偉くなろうとしていたのかしらね。
ただ、貪欲に望んでいたらそうなっただけ。
人にはね、皆、欲望がある。そして何かを満たしたいと思う。
わたしはその欲を社会的権力につぎ込んだだけ。きっとそれだけの事なんだと思う」
響 :「彼らは死んだんだ。そういった権力に潰されるようにして死んだ。
俺には彼らが恨む理由がわかる。あなたが偉くなりたい理由よりはっきりと」
咲枝:「恨む人がいて、恨まれる人間がいる。そうでしょ?
恨まれる人間が貧しくて死にそうな生活をしていたら、恨むのもやめてしまうでしょ。
わたしは恨まれるに等しい生き方をしているから恨まれるのよ。
そして、あなたはわたしを殺しに来たの?」
響はそう訊いてきた咲枝の顔を見て黙っている。煙草の吸い終わった咲枝は二本目に火を付けるかどうか迷いながら、響の次なる言葉もしくは行動を待っている。しかし響は何もしようとしない。
咲枝:「拳銃はないけど、包丁なら給湯室にあるわ。何もなければそれを持ってくればいいわ。
わたしはどこにも逃げないわよ。
そんな事なら最初からあなたをここに呼ぶような真似はしないでしょ?」
響 :「違う。そうじゃない。
それなら、あなたはなぜ、まささんを殺したんだ。
恨みや妬みがあの人にあったからなのか?」
咲枝:「そうね。それは恨みでも、妬みでもない。
それは、そうね。恐れ、というよりは、安心が欲しかったから」
響 :「あの人があなたを殺そうとしていた。だからあなたはあの人を殺した?」
咲枝:「正しくはそうじゃないわ。あの男はわたしを殺すような事は考えていなかった。
ただ、わたしは案じたの。案じて、そのためにあの男を殺した」
響 :「よくわからない」
咲枝:「そうね。よくわからないことを言っている。
綺麗ごとは嫌いだけど、綺麗事を言えば、そこには愛があった。
わたしはね、ある人と出会ったときに、心が張り裂けるような想いがしたの。
それは最初は恋かと思った。でもそれは恋じゃなくて愛だった。
どんなに心を忘れたつもりのわたしでも、愛する想いが残っていたのね。
だからわたしはその愛のためにあの男を殺したの」
響はいい歳の女が愛だの恋だのいう事、それによって人を殺すなんていう真似に到った事に酷く憤りを感じた。
響 :「あなたは愚かですよ。
俺は、あなたの愚かさを感じて、ただその全てから離れたくなった。
もういい。俺はあなたのくだらなさを感じた。
とてもあなたをバカにする。
それだけだ。それを言うために俺はここへ来たのかもしれない。
もしくはその逆に、あなたを認めるつもりでもあったのかもしれない。
でも、あなたが言った言葉を聞いて、俺はあなたをバカにする。
それだけです。俺はそれだけです」
咲枝:「そう。それだけ?あなたはわたしを殺しはしないの?」
嶋咲枝はがっかりしたようにそう言って、煙草に火を付ける。そして煙を吸い込み、大きくその煙を宙に吐き出した。
時計は深夜2時を回っていた。響は立ち上がり、その場を離れようと、コートを着た。
彼は去ろうとしている。この場から去ろうとしている。咲枝はじっとその男の事を見つめていた。やっと再会できたはずのその男の顔を咲枝はじっと見つめていた。
その2へ続く