小説と未来 -117ページ目

60-2.生まれ変わる日.〈終〉

 成田空港に着いたのは、朝7時過ぎ、チェックインを通って、式羽と別れる。


「じゃあな」と式羽は嬉しそうな、悲しそうな笑みを浮かべる。


「いろいろと世話になったな」と、響。


「いろいろって、まあ、あっちばかり…」


『ポカ』と、 響がそこで式羽の頭を叩く。


 そんな感じで、式羽はいつもと変わらない。いつもと変わらない人がいなくなる。今度こそは本当に長い別れになる。その事を響は知っている。そして共に過ごすさくらとは長い付き合いの始まりでもある。今はまだうまくどうしていいか解り合えていない二人だが。

 式羽はそんな二人を心配しながら、遠くで手を振っていた。


 出発ロビーに辿り着く。

 朝のニュースでは、嶋咲枝に代わる補選の選挙人が選ばれた事をやっていた。

 彼女における捜査は進展のないまま、ニュースで報道されている。しかしこの不況の中では一議員のどうだこうだは野党の批判を浴びる程度で、総理大臣の顔に比べたら出番もとても少ない。

 補選の男は選挙区の街頭で大きな声を張り上げて、オバマのように叫んでいる。響はその顔を知っている。見た事のある顔、そして二度と会いたくない顔だ。しかしその顔がそこに映されている姿を見て、響は大きく安心した。

 その男は斉藤だ。

 いや、今は平田という名で演説をしている。正しくは平田、それが彼の名前だ。

 あの男は嶋咲枝が殺されて、勇姿を見せて立ち上がるというシナリオを描いていたのだろう。その思惑は失敗に終わり、今は与党を何とか立て直すための顔を見せている、ただの若手一議員にしか過ぎない。少なくても嶋咲枝の失脚でチャンスはやってきた。彼はその姿を必死で見せていた。

「時代は変わる。新しい力で、この苦しい時代を乗り切っていかなくてはなりません」

と、男は声を張り上げて演説している。

『いや、時代は変わらない。ただ、立場が変わるだけだ。おまえ自身がその事は一番よく知っているはずだ』

 響は心の中で、斉藤と名乗っていた男にそう言い返した。当然声は届かないが。


「どうかしたの?」と、さくらが不思議そうな顔をして響に聞く。

「いや、なんでもない」

 さくらはまだいろいろな事を知らない。響はまださくらに自分の十分の一も話していない。それはいずれ少しずつ語らなくてはならないことだろう。でも話はあまりに複雑で長すぎる。だから今は語れない。それに響もさくらの事を十分の一も知らない。二人はまだ互いの事を知らない事だらけなのだ。でも時間はまだまだ長くある。二人はまだ二十歳と十九歳だ。まだまだ長い人生の出発点にしか過ぎない。これまでの事はこれからの長い何十年という時間の中で語り合えるだろう。そして過去を語る以上に長い時間を共有しあえることになるだろう。


 パリ=シャルルドゴール空港行きの飛行機が搭載準備に入る。年の瀬も迫り、人々も多く見受けられる。いろいろな事が始めての二人に不安はつき物だ。

「さあ、行こう」と、響がさくらに声を掛ける。

 不安と喜びに胸を躍らせるさくらが頷く。

「俺たちにはこの先の未来がある。君の夢を叶えに行こう」と、響は言う。

 さくらは嬉しそうなはにかんだ笑みを浮かべる。

「ありがとう」と答える。

 響は俗世から離れる。その先には新しい俗世が待っている。響はその事を感じながらも、手に入れた一つの幸福を絶対に失わないように心に強く刻み込み、さくらの手を握り締めた。

 二人はゆっくりと搭載口の先へと歩みを進めた。


 二人は機内に乗り込んだ。

 そして外国人の方々に囲まれて、新たな世界を感じ始める。二人はそんな空気を感じながら互いを見つめ合う。そして互いは互いに安堵する。それが新しい世界での生活の第一歩となる。どんな不安も二人一緒なら乗り越えてゆけるだろう。


 上野響の物語はここで終わるが、ここからは嶋涼としての新しい物語が始まる。それは語られる事のない物語だが、長い長いこの先の嶋涼としての物語は彼自身が作ってゆくこととなるだろう。幸せな物語など誰に語るものでもないのだから、暗闇から抜け出した先にある世界の物語は、涼とそれを囲む人だけの物語としておこう。


60-1.生まれ変わる日.

 静かな朝だった。まだ日も昇らない朝方5時だ。

 五十嵐邸には前野正が迎えに来てくれた。

 トヨタの白いレンタカーで彼はやってきた。


 響は五十嵐と別れの挨拶をした。

 言葉は上手く出てこなかった。

「また会いに行くよ」と、五十嵐は言った。

 響は軽く会釈をした。

 五十嵐卓人から預かった嶋咲枝の手紙を、響はまだ見ていない。

 大きな手提げバッグに詰め込んで、いろいろな物はしまわれたままだ。


 五十嵐と別れ、前野正の借りたレンタカーは上野に向った。

 前野は別れ際、軽く会釈をして、こんな事を言った。

「私は脇役ですから、大した事は言えません。これでよかったのかどうなのか、私はわかりません。ただ、嶋さんとその周囲の方々とこうして関わり合えてよかったと思います。本当はライターとしてもっといろいろと聞かなくちゃあならないのですが、それはまた後にしておきます。時が過ぎたときに何かを語れたらいいかと」

 響は、「好きにしな」と、一言いい、「じゃあ、ありがとう」と言って、前野と別れた。


 響がやってきたのは居酒屋『ふくちゃん』の前だった。店はひっそりと静まり返っていたが、家の脇の玄関口から、ふくちゃんは顔を見せてくれた。

 そしてにっこりと微笑み、元気そうな響の顔を見て安心したようだった。


「響さん!」と言って、ふくちゃんの娘の由佳も出てきた。

 目が潤んでいて、愛おしさいっぱいといった感じの目をしていた。

 響は何も言わず、由佳と軽いハグをした。

 由佳は響の短くなった頭を気にして軽く撫でた。


 どこからともなく、とっちゃんが現れた。

「いやあ、昨日はサウナに泊っちゃったよ。家まで帰って、こんな朝方出れるか自信がなくてねえ」

と、とっちゃんは言う。

「おいおい、最後の日なんですから、それはないよ。とっちゃん」と響は返し、笑顔を見せた。


 そしてさくらかんさんがやってきた。

 さくらは大きなトランクスーツを引き摺ってやってきた。

 そう、響は3週間ほど前にさくらの元やってきていた。神社の境内で二人は再会を分かち合い、それから響がさくらを一緒にパリへ行かないかと誘った。さくらには海外の貧しい人に勉強を教えるという夢があった。だからそれは決してない話ではなかった。祖父のかんさんの事を気にしていたさくらだが、いろいろとかんさんとも話し合ったのだろう。響は何度かさくらと会い、一緒に行く事が決まった。そしてパスポートや旅行券の手配を待って、時のたった後に、二人は旅立ちの日を迎えていた。

 それはまだ目も覚めない夢のような朝だった。


 どこからともなく、うるさいエンジン音が聞こえた

 式羽は古めかしい、SAABのカブリオレに乗って現れた。

「おお、ご両人待たせたな」

「さほど待ってないけど、何だよそれ」と、響は式羽に尋ねる。

「ちょっと友人に借りてな。最後くらい派手に行こうぜ」


「おいおい、そんな目立つんで来ると、どこかの警官がやってくるぞ」

 とっちゃんは馬込の事を言っている。彼は今も響を追いかけ、たまにこのあたりに顔を見せるのだ。

「ああ、あいつはボーっとしてるから大丈夫だよ」

 すでにふくちゃん常連には、馬込はおなじみの存在となっていた。


 そして二人はそんな車の後部座席に乗り込んだ。


由佳:「わたしの事を忘れないでね」と涙ながらに。


ふくちゃん:「向こうにもおいしい魚があるといいねえ」と響の好物を。


とっちゃん:「パリってシャレてるねえ」と、パリの事を。


かんさん:「いいから行きなさい」と。


 さくらはかんさんの事を気にした。

「おじいちゃん。ごめんね」

「いいってんだよ。最初からこうなる事をわしも望んでいた。これが道だ。むしろおまえに苦労をかけてすまなかった。長い休養をさせてもらったよ。わしは再び神に祈りを捧げるよ。次の後継者が育つまでな」


 さくらは瞳を潤ませていた。かんさんはそんな娘を優しい瞳で見つめ返していた。それが本来のかんさんの目なのだろう。それは神に祈りを捧げてきた一人の神主の目となっていた。さくらはその目に懐かしい優しさを感じ、安心した。そして最後はにこりと微笑んだ。

 響は何も言わず、ただ前を見ていた。


「あ、あああああ!!!!」

と、でかい声が遠くでした。

 馬込警部補だ。彼はたまたま、こんな朝からこのあたりをうろちょろしていたのだ。


「やべえ。行くぜ」と式羽が言って、カブリオレは発進した。

 馬込警部補は必死で追いかけてくるが、当然走って追いつくことはない。

 やがて馬込警部補が小さく遠くに見え、姿は消えていった。


 車は朝一の成田空港を目指していた。


その2へ続く。

59. 五十嵐卓人のラブレター

『拝啓 嶋咲枝様


 あなたの手紙を受け取り、内容を拝見させていただいて、正直、驚くことばかりでした。

 私は正直信じられない事ばかりで、何と返信すればいいのか、困った次第です。


 それでも私はあなたに伝えなくてはなりません。

 少なくても伝えなくてはならない事があります。


 まずは私事になりますが、私は近々、青山の自宅近くに画廊を持つ事が決まりました。

 前回の展示会が好評に終わり、また母親の伝(つて)になるのですが、

 その方が私の絵を中心とした画廊を開くと言ってくださいました。

 これにより私もやっとニートから画家という肩書きでやっていく事ができそうです。


 どうでもいい話をしてしまいまして申し訳ありません。

 本当はもっと大切な事をお伝えしなければならないのですが、

 いきなりその事をお伝えするのもしづらく、前書きとしてお伝えさせていただきました。


 さて、お伝えしなければならない事をお伝えします。

 それはあなたの息子に関する話です。

 実は、彼はあなたが警察に行かれた直後、私の家にやってきました。

 あなたが望まずとも、もしくは望んだとおり、彼は私の元へやってきたのです。


 彼は元気に、私の元へおります。

 数日は部屋に閉じこもっていましたが、部屋から出た彼はあなたの言うように、

 海外へ行きたいと言っておりました。

 しかし彼は行き先も決めていなかったので、彼には私の母がいるパリに行くよう勧めました。

 彼が頷いたので、私は彼のために、パリ行きのチケットを2枚取る事となりました。

 彼にはすでに一緒に連れて行くような相手がいるようです。

 このような事を言うのもどうかと思いますが、彼を深く案ずる必要はありません。

 彼には彼を支えてくれる相手もいます。

 そして私も、私の母も、彼の手助けを出来る限りしてゆこうと思っております。


 私としてはむしろあなたの方が心配なのです。

 あなたは自分が愚かな事ばかりをしてきたと卑下しておりますが、それは違います。

 少なくとも私はあなたに心より感謝しています。

 もしあなたがいなければ、私は今日もどうしもうなく駄目な日々を過ごしていた事でしょう。

 あなたの支援と共に、あなたの輝かしい姿があったからこそ、

 私はこうして画家という肩書きを手にすることができました。


 僕にとってはあなたはとても輝かしき人です。

 あなたが自分を愚かだというのなら、僕はより遥かに愚かでくだらない人間です。

 あなたが苦しみの中に迷い込み、どうしようもない毎日を過ごしていたかと思うととても胸が痛みます。

 でもあなたがその苦しみに耐えてきた事が、あなたを輝かせていたのではないかと思います。


 あなたが愚かなら、僕は本当にどうしようもない愚か者です。

 僕は、五十嵐卓人は、あなたという存在が恋しくてしかたありません。

 僕はあなたの思いの全てを信じ、そしてあのような手紙を僕に与えてくれた事を信じ、

 あなたを愛おしく思う次第です。

 僕はあなたからの手紙を読み、幻滅するどころか、あなたが愛おしくて仕方なくなってしまいました。

 あなたが息子の事を想うように、僕はあなたの無事を想います。

 いずれあなたに再び出会える事を信じています。

 恋を全くした事がなかったわけではありませんが、これほど誰かを心より想った事はかつてありません。


 僕は本当に愚か者です。

 本当はあなたの息子の事について、その近況について、もっと知らせなくてならないかもしれませんが、

 僕はバカなので、僕の思う事ばかりを手紙に書いてしまいます。


 あなたからの手紙はあなたの息子に預ける事としました。

 彼はあなたについて何も語りませんが、あなたが自分の母親である事を知っているようです。

 ライターの前野という人がその事を、僕に伝えました。


 どういう形であれ、僕はあなたに会いたい。

 十年でも、二十年でも、死んでもあなたを待ちます。

 僕はそう決めました。

 なぜならこんな想いは二度と起きる事がないからです。

 どんな形であれ、あなたが誰かを愛したように、私もあなたの事を愛し続けたいと思います。

 いいえ、愛し続けようとしなくとも、愛し続けてしまうでしょう。

 本当はあなたに会った時に、この事を伝えたかった。

 僕はいつまで経っても駄目な人間です。

 あなたを求めるなど、とても愚かに思います。

 それでもどうしてもこの想いを伝えたい。


 僕はあなたの事を愛し続け、待ち続けるでしょう。

 あなたがあなたの息子を思い続けてきたように。


敬具

 五十嵐卓人』 


 この手紙は届いた事だろうか。

 五十嵐はこの手紙をどこかに出したが、それは届くかどうかわからないものだった。

 それでも五十嵐は手紙が届く事を信じるだけだった。


60話=終話へ続く

58-2.嶋咲枝からの手紙 後半

嶋咲枝の手紙の続き


政治家になる際、私は派閥と一つの取引をしていました。

 それは派閥の裏金となる資金源を麻薬で稼ぐという事でした。

 私はその裏の仕事をまとめ上げる役を受け、派閥からのバックアップにより衆議院選に勝ちました。

 先日逮捕された暴力団が起こした麻薬事件には私も関わっているのです。

 (柏木守が伊豆の工場から持ち帰った麻薬は、ある暴力団の幹部が逮捕される事で幕を閉じていた)

 というよりは私が主導で彼らに持ちかけた犯罪なのです。

 その頃の私は善も悪もなく、世をだます事も恐れてはいなかったのです。

 だから裏金作りを楽しんでいました。

 脱税の容疑となった会社〈ブロッサムスプレイ〉もその裏金を利用して、私が立ち上げた会社です。

 政治界は麻薬と裏金の事実を何らかの方法で捻じ曲げて、表沙汰にはならないようにするでしょう。

 しかし事実、私は麻薬を使って裏金を作っていたのです。

 私は世に麻薬をばら撒き、世の常人を狂わせた元凶の一人なのです。

 それは許されざる犯罪です。


 そしてその犯罪を通して知り合ったのが、月島雅弘であり、私の息子である涼でした。

 住む家のなかった私の息子は月島雅弘に拾われて、麻薬を運ぶ仕事を手伝っていました。

 こんな出会いであった私たちにはもう平和に戻る形など失ってしまっていました。

 だから私は息子の命の安泰を望みました。

 自分の手の掛かるところで、形はどうあろうと置いておきたくなったのです。

 私はせめてもの償(つぐな)いに、孤児院への寄付を始めました。

 〈ブロッサムスプレイ〉での仕事の一つに、孤児院を調べ、そこに寄付をする事もありました。

 あなたと出会ってからの数年間、私にも心と呼べるものが僅かでも戻っていたのかもしれません。

 正しい形でないにしても、私は息子を思い、息子のような不幸を作らないために力を注ごうとしたのです。

 孤児院調査には、月島雅弘の所にいる少年が、本当に私の息子なのかを調べるためでもありました。

 私の思い込みで、本当は別の所に息子が預けられているのでは?という期待を持っていました。

 しかし調べれば調べるほど、麻薬の手伝いをする少年が私の息子である事は確証されていったのです。


 そして今から一年と五ヶ月前、私は月島雅弘を殺す事となりました。

 「面倒な仕事はあのガキにやらせておけばいい。

  失敗して死んだって、あのガキの身元はわかりゃしねえ。あんたにも及ばない。

  その分、俺にはもう少し楽な仕事をさせてくれ

 そんな事を口にしたあの男が、私には許せなかったのです。

 あの男だけでなく、私自身の性癖、それから中下への溜り込んだ怒りが胸の内を貫きました。

 私はその男を殺そうとナイフを取り出し、男の胸を一突きしました。

 まさか私に刺されるとは思ってもいなかった、その男はナイフを胸に驚いた顔をして死んでいました。

 私もその男をそんなふうに殺す事になるとは考えてもいませんでした。

 でも怒りは突如襲い、どうしようもなく理性を失わせるものでした。

 それが人という生き物なのか、私という人間にのみ起きる事なのか、今でも私にはわかりません。


 息子は私の事を恨むようになりました。

 息子は育ててくれた男に恩義を感じるような優しい青年に育っていました。

 私は涼に殺されるのなら、それが本望(ほんもう)だと感じていました。

 最初はそう思っていたのですが、それは違っていました。

 息子は私などが及びもしないくらい立派な青年に育っていました。

 一ヶ月前に起こった伊豆の爆発事件も私の責任によるものです。

 そこに集まった者たちは薬物を恨むものたちでした。

 息子はその者たちの考えを理解し、私の仕事から手を引き、その者たちに加わったのです。

 しっかりとした意思を持ち、何が正しく、何が誤りかを判断できるほどに成長していました。


 何より涼は私を殺す事をしなかった。私への恨みを捨て、私をただ愚かだと言いました。

 涼にはまだやり直せる道があるのです。

 私はそれを感じ、立派に成長してゆく我が子の未来を望みました。

 そしてが子の成長を感じながら、私自身も生きたいと望むようになりました。


 こんな私をあなたがどのように思ってくれるかはわかりません。

 でもここに書いた全てが私の事実です。

 警察や政治家はこの事実を闇の中に葬り去ってしまうでしょう。

 あなたが何を信じてくれるかはわかりません。

 でもあなたなら、私の事を信じてくれるのではないかと信じております。


 もし私の息子に会う事ができましたら、息子の手助けをしてあげてほしいと願います。

 このようなお願いは厚かましい次第である事は重々承知しております。

 しかし息子にはまだ手助けが必要です。

 パスポートを渡し、海外で一からやり直すように勧める事まではできましたが、

 パスポートしかない若者にはまだ多くの困難が待ち構えている事でしょう。

 涼が一人の人間としてこの世に生きられるようになるまで、その力になってほしいのです。

 本来なら私がその道を作らなければならないのですが、私にはそれができなくなってしまいました。

 あなたにお願いするのは筋違いかと思いますが、他に頼れる人が思いつきませんでした。

 どうか力になってあげてください。


                         嶋 咲枝 』


 五十嵐卓人は嶋咲枝からの長い手紙に対して優しく微笑んだ。そして便箋10枚ほどになるその手紙を封筒に収め、静かに目を閉じた。

 暖かい日差しのある冬始まる日の事だった。


59話へ続く

58-1.嶋咲枝からの手紙 前半

 12月某日日曜、五十嵐卓人の家に一通の手紙が届いた。

 青山の自宅にいた五十嵐卓人は差出人不明のその手紙を、居間でゆっくりと開き、心を驚かせた。それは、嶋咲枝からの手紙だった。


『全ての事実というのは、あってないようなものかもしれません。

 だからこの手紙の事は私があなたに伝えたかった事でしかなく、真実ではないのかもしれません。

 それでも私はあなたに伝えたい事があり、この手紙をあなたへ送りました。

 私があなたにこのような手紙を送る理由は、私があなたを信用しているからです。

 他にも信用できる人がいないわけではありませんが、その人たちへの信用とあなたへの信用は別なのです。

 言うなれば、あなたには他の誰よりも、純粋という言葉が似合っています。

 その純粋さが今回の信用にはとても重要な事なのです。

 余計な詮索なく、私の話を聞いてくれそうな、あなたにこの手紙を読んで欲しいと望みました。


 私は今、脱税の容疑である場所に拘束されています。

 ここはとても静かで安全な場所です。

 私は、自らの望みでこのような場所に移され、拘置してもらいました。

 なぜなら私が全ての真実を語る上ではとても安全な場所が必要だったからです。

 そうしなければ私は命を狙われ、殺されてしまう事になるかもしれません。

 一と月前は、それもいいかと考えていましたが、その気持ちはある人物に会えた事で変わりました。

 あなたにもその人の事を話した事があるかと思います。

 その人物とは私の息子です。

 息子のは生きていました。生きていてくれました。

 夢ではないかと思いましたが、それはきっと本当の事だったのです。

 私は息子と再会することができました。

 そしてその時、私は思ったのです。

 私はこの子を生かし、そして涼の生命がある事を感じながら私も生き続けたい。

 心からの想いはただその一つだけでした。

 人生にはいくつかの幸運があるようです。

 私にとっては涼に会えた事、そしてこれからもあの子を思って生きてゆけると感じられた事

 それが何よりも幸運な出来事でした。

 だから私は生が許される限り、生きてゆこうと心変わりしました。


 でも私は生が許されるような人間ではないでしょう。

 私は数々の罪を犯しました。

 それはいかなる理由があれ、許される事のない犯罪です。

 まず言うなら、私は人を殺した事があります。

 時として、政治家は間接的に人を殺す事がありますが、今私が言っているのは直接的殺人です。

 私が直接この手で殺したのです。

 私は怒りを持って、一人の人間を刺し殺したのです。

 殺したのは、月島雅弘という男です。

 動機は息子の事でした。

 その男は私の息子を預かっていました。

 それは私が託したのではなく、極めて稀な運命的な偶然の出来事でした。

 私はその男と別の理由で出会い、その男が私の息子を預かっている事を後から知りました。

 月島雅弘は私と恋人関係でもありました。

 ですが深い愛など、どこにもありません。

 こんな事を言えば、あなたは私に幻滅するかもしれませんが、

 私はあの男に肉体的満足のみを求めていました。

 あの男に抱かれるのは嫌ではなかったのです。

 人としてはどうでもいい男でしたが、肉体のみはあの男を欲していたのです。

 忙しい生活の中で溜まった想いを数ヶ月に一度だけぶつけていました。

 ホテルで会う中で、月島雅弘は自分の話をしました。

 それには涼の話もありました。

 始めはどこかの家出少年の話だと思っていましたが、私はその得体の知れない少年に興味を持ちました。

 そしてある日、その少年を騙して呼び寄せ、遠くからその少年を見ていました。

 彼には気づかなかったでしょうが、それが私と涼の初めての再会でした。

 お腹から生んで以来、私が自分の子供にあったことがなかったのです。

 私はその少年が私の息子である事をすぐに感じました。

 なぜならその少年は私が愛した息子の父親である男にそっくりだったからです。


 私の愛した男は私の姉の夫でした。

 まだ大学生だった私は言い寄ってくる姉の夫に恋をしてしまいました。

 そもそもの私の罪はそこにあったのかもしれません。

 あなたはまた一つ私の事を幻滅するかもしれませんが、それもまた私の持つ感情の一つのなのです。

 今でも私は死んでしまった姉の夫に愛と憎悪を感じています。

 きっと姉の夫、中下にとっては私を抱く事だけが目的だったのかもしれませんが、

 私はその男の手で女にされ、激しくその男を望み求めました。

 全ての精力が失われてしまうまで、その男につぎ込みたかったのです。

 でもその想いは満たされる事のないまま、私のお腹に子供ができたことを知ると、

 中下は私の元を去ってゆきました。

 私は抑えられない想いを中下の子である、お腹の赤子に注ぎました。

 その想いは、であり、憎悪でもありました。

 私を愛さないのならば、私はその愛なき子を殺してやろうと望んだのです。

 でも生まれたてのわが子を私は思いのほか、愛してしまった。

 だから殺す事はおろか、触れる事さえできなかった。

 私はその子に『涼』という名を残し、その子から遠ざかりました。


 中下はその後、私の姉と共に何らかの病で亡くなりました。

 そして私は愛や憎悪を捨てる事としました。

 あなたが描いた絵に出逢うまで、私はずっと心を失ったまま生きてきました。

 あなたの絵が私の息子を思わせるきっかけとなり、私は遠くから私の息子を眺める事となりました。

 そして私はその少年の命を案じるようになっていました。

 もし出来ることなら私は息子ともう一度共に暮らす事を望んでいました。

 でもすでに私は罪人でした。そして息子をも罪人としていました。


その2へ続く