58-1.嶋咲枝からの手紙 前半
12月某日日曜、五十嵐卓人の家に一通の手紙が届いた。
青山の自宅にいた五十嵐卓人は差出人不明のその手紙を、居間でゆっくりと開き、心を驚かせた。それは、嶋咲枝からの手紙だった。
『全ての事実というのは、あってないようなものかもしれません。
だからこの手紙の事は私があなたに伝えたかった事でしかなく、真実ではないのかもしれません。
それでも私はあなたに伝えたい事があり、この手紙をあなたへ送りました。
私があなたにこのような手紙を送る理由は、私があなたを信用しているからです。
他にも信用できる人がいないわけではありませんが、その人たちへの信用とあなたへの信用は別なのです。
言うなれば、あなたには他の誰よりも、純粋という言葉が似合っています。
その純粋さが今回の信用にはとても重要な事なのです。
余計な詮索なく、私の話を聞いてくれそうな、あなたにこの手紙を読んで欲しいと望みました。
私は今、脱税の容疑である場所に拘束されています。
ここはとても静かで安全な場所です。
私は、自らの望みでこのような場所に移され、拘置してもらいました。
なぜなら私が全ての真実を語る上ではとても安全な場所が必要だったからです。
そうしなければ私は命を狙われ、殺されてしまう事になるかもしれません。
一と月前は、それもいいかと考えていましたが、その気持ちはある人物に会えた事で変わりました。
あなたにもその人の事を話した事があるかと思います。
その人物とは私の息子です。
息子の涼は生きていました。生きていてくれました。
夢ではないかと思いましたが、それはきっと本当の事だったのです。
私は息子と再会することができました。
そしてその時、私は思ったのです。
私はこの子を生かし、そして涼の生命がある事を感じながら私も生き続けたい。
心からの想いはただその一つだけでした。
人生にはいくつかの幸運があるようです。
私にとっては涼に会えた事、そしてこれからもあの子を思って生きてゆけると感じられた事、
それが何よりも幸運な出来事でした。
だから私は生が許される限り、生きてゆこうと心変わりしました。
でも私は生が許されるような人間ではないでしょう。
私は数々の罪を犯しました。
それはいかなる理由があれ、許される事のない犯罪です。
まず言うなら、私は人を殺した事があります。
時として、政治家は間接的に人を殺す事がありますが、今私が言っているのは直接的殺人です。
私が直接この手で殺したのです。
私は怒りを持って、一人の人間を刺し殺したのです。
殺したのは、月島雅弘という男です。
動機は息子の事でした。
その男は私の息子を預かっていました。
それは私が託したのではなく、極めて稀な運命的な偶然の出来事でした。
私はその男と別の理由で出会い、その男が私の息子を預かっている事を後から知りました。
月島雅弘は私と恋人関係でもありました。
ですが深い愛など、どこにもありません。
こんな事を言えば、あなたは私に幻滅するかもしれませんが、
私はあの男に肉体的満足のみを求めていました。
あの男に抱かれるのは嫌ではなかったのです。
人としてはどうでもいい男でしたが、肉体のみはあの男を欲していたのです。
忙しい生活の中で溜まった想いを数ヶ月に一度だけぶつけていました。
ホテルで会う中で、月島雅弘は自分の話をしました。
それには涼の話もありました。
始めはどこかの家出少年の話だと思っていましたが、私はその得体の知れない少年に興味を持ちました。
そしてある日、その少年を騙して呼び寄せ、遠くからその少年を見ていました。
彼には気づかなかったでしょうが、それが私と涼の初めての再会でした。
お腹から生んで以来、私が自分の子供にあったことがなかったのです。
私はその少年が私の息子である事をすぐに感じました。
なぜならその少年は私が愛した息子の父親である男にそっくりだったからです。
私の愛した男は私の姉の夫でした。
まだ大学生だった私は言い寄ってくる姉の夫に恋をしてしまいました。
そもそもの私の罪はそこにあったのかもしれません。
あなたはまた一つ私の事を幻滅するかもしれませんが、それもまた私の持つ感情の一つのなのです。
今でも私は死んでしまった姉の夫に愛と憎悪を感じています。
きっと姉の夫、中下にとっては私を抱く事だけが目的だったのかもしれませんが、
私はその男の手で女にされ、激しくその男を望み求めました。
全ての精力が失われてしまうまで、その男につぎ込みたかったのです。
でもその想いは満たされる事のないまま、私のお腹に子供ができたことを知ると、
中下は私の元を去ってゆきました。
私は抑えられない想いを中下の子である、お腹の赤子に注ぎました。
その想いは、愛であり、憎悪でもありました。
私を愛さないのならば、私はその愛なき子を殺してやろうと望んだのです。
でも生まれたてのわが子を私は思いのほか、愛してしまった。
だから殺す事はおろか、触れる事さえできなかった。
私はその子に『涼』という名を残し、その子から遠ざかりました。
中下はその後、私の姉と共に何らかの病で亡くなりました。
そして私は愛や憎悪を捨てる事としました。
あなたが描いた絵に出逢うまで、私はずっと心を失ったまま生きてきました。
あなたの絵が私の息子を思わせるきっかけとなり、私は遠くから私の息子を眺める事となりました。
そして私はその少年の命を案じるようになっていました。
もし出来ることなら私は息子ともう一度共に暮らす事を望んでいました。
でもすでに私は罪人でした。そして息子をも罪人としていました。
その2へ続く