60-1.生まれ変わる日. | 小説と未来

60-1.生まれ変わる日.

 静かな朝だった。まだ日も昇らない朝方5時だ。

 五十嵐邸には前野正が迎えに来てくれた。

 トヨタの白いレンタカーで彼はやってきた。


 響は五十嵐と別れの挨拶をした。

 言葉は上手く出てこなかった。

「また会いに行くよ」と、五十嵐は言った。

 響は軽く会釈をした。

 五十嵐卓人から預かった嶋咲枝の手紙を、響はまだ見ていない。

 大きな手提げバッグに詰め込んで、いろいろな物はしまわれたままだ。


 五十嵐と別れ、前野正の借りたレンタカーは上野に向った。

 前野は別れ際、軽く会釈をして、こんな事を言った。

「私は脇役ですから、大した事は言えません。これでよかったのかどうなのか、私はわかりません。ただ、嶋さんとその周囲の方々とこうして関わり合えてよかったと思います。本当はライターとしてもっといろいろと聞かなくちゃあならないのですが、それはまた後にしておきます。時が過ぎたときに何かを語れたらいいかと」

 響は、「好きにしな」と、一言いい、「じゃあ、ありがとう」と言って、前野と別れた。


 響がやってきたのは居酒屋『ふくちゃん』の前だった。店はひっそりと静まり返っていたが、家の脇の玄関口から、ふくちゃんは顔を見せてくれた。

 そしてにっこりと微笑み、元気そうな響の顔を見て安心したようだった。


「響さん!」と言って、ふくちゃんの娘の由佳も出てきた。

 目が潤んでいて、愛おしさいっぱいといった感じの目をしていた。

 響は何も言わず、由佳と軽いハグをした。

 由佳は響の短くなった頭を気にして軽く撫でた。


 どこからともなく、とっちゃんが現れた。

「いやあ、昨日はサウナに泊っちゃったよ。家まで帰って、こんな朝方出れるか自信がなくてねえ」

と、とっちゃんは言う。

「おいおい、最後の日なんですから、それはないよ。とっちゃん」と響は返し、笑顔を見せた。


 そしてさくらかんさんがやってきた。

 さくらは大きなトランクスーツを引き摺ってやってきた。

 そう、響は3週間ほど前にさくらの元やってきていた。神社の境内で二人は再会を分かち合い、それから響がさくらを一緒にパリへ行かないかと誘った。さくらには海外の貧しい人に勉強を教えるという夢があった。だからそれは決してない話ではなかった。祖父のかんさんの事を気にしていたさくらだが、いろいろとかんさんとも話し合ったのだろう。響は何度かさくらと会い、一緒に行く事が決まった。そしてパスポートや旅行券の手配を待って、時のたった後に、二人は旅立ちの日を迎えていた。

 それはまだ目も覚めない夢のような朝だった。


 どこからともなく、うるさいエンジン音が聞こえた

 式羽は古めかしい、SAABのカブリオレに乗って現れた。

「おお、ご両人待たせたな」

「さほど待ってないけど、何だよそれ」と、響は式羽に尋ねる。

「ちょっと友人に借りてな。最後くらい派手に行こうぜ」


「おいおい、そんな目立つんで来ると、どこかの警官がやってくるぞ」

 とっちゃんは馬込の事を言っている。彼は今も響を追いかけ、たまにこのあたりに顔を見せるのだ。

「ああ、あいつはボーっとしてるから大丈夫だよ」

 すでにふくちゃん常連には、馬込はおなじみの存在となっていた。


 そして二人はそんな車の後部座席に乗り込んだ。


由佳:「わたしの事を忘れないでね」と涙ながらに。


ふくちゃん:「向こうにもおいしい魚があるといいねえ」と響の好物を。


とっちゃん:「パリってシャレてるねえ」と、パリの事を。


かんさん:「いいから行きなさい」と。


 さくらはかんさんの事を気にした。

「おじいちゃん。ごめんね」

「いいってんだよ。最初からこうなる事をわしも望んでいた。これが道だ。むしろおまえに苦労をかけてすまなかった。長い休養をさせてもらったよ。わしは再び神に祈りを捧げるよ。次の後継者が育つまでな」


 さくらは瞳を潤ませていた。かんさんはそんな娘を優しい瞳で見つめ返していた。それが本来のかんさんの目なのだろう。それは神に祈りを捧げてきた一人の神主の目となっていた。さくらはその目に懐かしい優しさを感じ、安心した。そして最後はにこりと微笑んだ。

 響は何も言わず、ただ前を見ていた。


「あ、あああああ!!!!」

と、でかい声が遠くでした。

 馬込警部補だ。彼はたまたま、こんな朝からこのあたりをうろちょろしていたのだ。


「やべえ。行くぜ」と式羽が言って、カブリオレは発進した。

 馬込警部補は必死で追いかけてくるが、当然走って追いつくことはない。

 やがて馬込警部補が小さく遠くに見え、姿は消えていった。


 車は朝一の成田空港を目指していた。


その2へ続く。