56-2. 再会の日 後半
響はコートを着て、部屋を出てゆこうとした。
真夜中2時のオフィスを去ってゆく男の姿を目で追う咲枝にはまだ言い忘れていたことがある。
「待ちなさい」と、咲枝は響に言った。
響は数秒足を止め、次の言葉もしくは行動を待った。しかし咲枝の言おうとしていた言葉は、迷いのままに口の外へは出てこなかった。
だから響は再び歩き、フロアの外へのドアを開けようとした。
と、その時に咲枝の口が開いた。
「もうやめるわ」
響は開こうとしたドアノブに掛かった手を止め、嶋咲枝の方を振り返った。
そして、「何を?」と聞き返した。
嶋咲枝はいまだにソファーの上に座った態勢でいる。
咲枝:「このつまらない日々をやめるのよ。わたしもあなたと同じくやめるの」
響 :「そうか。そいつはよかった。工場で死んだ奴らも喜ぶよ」
咲枝:「そうね。これでいいでしょ。
そうして、わたしは周囲から見放され、わたしの口封じに何者かがやってくるかもしれないけど、
それはそれでよかったとなるのね」
響 :「あなたがどうなろうと、俺には関係ない。そんな心配事は木崎さんにでも話せばいい」
咲枝:「いいえ。心配事というより、これはあなたにも関わってくる事だと思う。
わたしのバックアップのないあなたは狙われる事になるでしょう」
響 :「そうだとしても、どちらにしても、俺はここから離れる。そして何者かに狙われるかもしれない。
それでも俺はあなたの手助けを受けるつもりはない」
咲枝:「いいわ。わかった。どちらにしても、わたしはあなたに渡しておきたいものがあるの」
嶋咲枝はソファーの脇に置いてあったショルダーバックから折り包みに入った何かを取り出した。そして立ち上がり、入口で待つ響のところまで近づいていった。
差し出した物に反応しない響の手を掴み、それをしっかりと手に握らせた。
「俺は別にあなたからの物なんて受け取りませんよ」
そう言う響だが、一応そいつが何なのか、確かめてみようと包みを解いてみた。中に入っていたのは赤い手帳、いや、それはパスポートだった。響はそれを理解すると、咲枝の顔を見つめた。
「それで、好きな国に行くといいわ。あなたがパスポートを持っていない事は知っていた。だからそれを作っておいたの。本当は航空券も渡せばよかったけど、急だったから準備できなかったけどね」
と、咲枝は答えた。
嶋咲枝は響が伊豆の工場に行った時から彼を海外に逃がそうと考えて、偽造パスポートを準備していた。嶋咲枝は響にそれを渡す事をずっと考えていた。
「お金はあるの?」
と、咲枝は響に尋ねた。
「俺は、あなたにこれ以上世話になるつもりはない。まあ、こいつはもらっておこう」
響はそう言って、パスポートを肩の位置まで上げて示し、嶋咲枝の顔を見つめた。そして心の内で、嶋咲枝の真意を見つけようとしてた。
なぜなら自分が殺そうとした相手にしてはやけに丁寧で優しすぎるからだ。そこには裏を感じずにはいられなかった。でも響は恩義など感じる事もなく、今は目の前にいる女の事を利用しようと考える事とした。真意は少しずつ考える事としてパスポートはもらっておく。もう何も残されていないこの国を離れて海外へ行くのも悪くはないという気持ちになってゆく。
確かめるつもりだったのか、響は自然とパスポートを開こうとしていた。
「待って!」と嶋咲枝は響の行動を止めた。その声に、響は再び嶋咲枝の顔を覗いて、『どうして?』というような顔をした。
「ちょっとした事よ。ただ今はまだ見ないでほしい。大丈夫よ、そのパスポートはあなたが使えるから」
「まあいい」と、響は答える。
じっと見つめる嶋咲枝の顔を響は不思議に感じていた。真意を感じ取ろうとしても、真意はありのままにしか見えなかった。その顔の表情は不思議な優しさに溢れていた。響はどことなく田山さゆり=響の(育ての)母を思い出していた。ずっと心の内の奥深くにしまいこんでいた記憶だった。でも咲枝のその表情は深い記憶の扉をこじ開け、響に懐かしい思い出を与えていた。
響はぎゅっと目を閉じ、その深い思い出を頭の中から消し去った。無心になって、田山さゆりの記憶を消す。そして自分は今もまだ危険な状況の中にあるんだと言い聞かせる。
『行こう』と響の心の内は響に声を掛ける。『もうこれ以上、ここにいる意味はない』
再び、咲枝の顔を見つめた。彼女は不思議な笑みと、不思議な悲しみの混じった顔をしていた。その顔をずっと見ていると響はどうしていいかわからなくなってしまいそうだった。
「ありがとう」
と、響は咲枝に対して言っていた。
それは別れるための言葉が見つからなかったからかもしれない。単純にはパスポートをもらった事にある。でもなぜ、自分が憎み殺そうとしていた相手にありがとうなどという言葉が口から出てきたのか、響は自分自身で言った言葉にさえ、『何を言っているんだ?』という気にさせられた。
嶋咲枝は、響の言葉にこくりとゆっくり頷いた。
その不思議な表情を浮かべる嶋咲枝の顔を見つめながら響は扉を開き、オフィスの外へと出て行った。
一度出てしまうと、かちりと扉の鍵が掛かる音がした。
響は何もかもが終ったんだと感じた。そして明日にはどこか別の国へ旅立つ準備をしようと考え、そのエレベーターへと乗り込んだ。
静かな夜だった。真夜中、幽霊でも出てきそうなくらいの静けさが響を包んでいた。
57話へ続く