54.ふりだしに戻る
響の頭の中には何の答えもなかった。
何もないが、動かないわけにはいかなかった。
響がずっと暮らしていたマンションの地下室に戻ってきた。響は表から入らずに裏路地を通って、地下室への入口までやってきた。
ずっと気を張って、辺りを注意しながら歩いてきた響は、周囲に自分を知る人物がいないことを感じ取っていた。木崎もいなければ、斉藤もいない。
日暮れは早く、辺りはすでに暗闇に包まれていた。ただでさえ暗い裏路地はすでに何も見えない世界に変わっていた。ここに来る者はもういない。この袋小路の路地に入り込むものは、響を別とすれば野良猫ぐらいのものだろう。
地下への扉の鍵を差し込み、扉を開けた。響は今もその鍵を持っていた。この場を出て、2ヶ月近くが経つ。しかしその場に帰ってきた響は昨日の出て行ったばかりように、その階段を下っていった。
暗闇の中にあるドアの位置もわかっている。そこにある鍵穴に鍵を差し込むのは探さなくてもできることだ。鍵穴に鍵は入り込む。そしてドアの錠(じょう)は外れる。
扉を開く。
中には、何もなかった。
何もない空間が広がっていた。
全ては片付けられた後だった。
響は心の震えるような思いがした。何もない部屋に明かりがついた。だから何もない事がはっきりとわかった。そのがらんどうを目の前に、自分の帰る場所が本当になくなってしまった事を響は理解した。
『いいんだ。これでいい。俺はここに帰ろうと思ったわけじゃない』
響は自分の心にそう言い聞かせた。そして目を閉じ、扉の内鍵を掛けた。震えは少し落ち着き出した。むしろ扉が開いたのは意外な事だった。鍵はまだ替えていなかっただけなのか、替えるつもりがなかったのか、それも響にはわからなかった。
『つまりは、俺が帰ってくる事は想定していなかっただろう』
わかる事はそのくらいだった。
片付けたのはきっと木崎か、それ以外の嶋咲枝の部下か、マンションの管理人かもしれない。その男も響がここに住んでいることを知っていた。いずれにしても嶋咲枝は響がここへと戻らない事を感じて、全てを処分した。そして鍵は替える必要はないと思ったのだろう。鍵を持っているのは、響と木崎だけだった。この地下の一室を知る者はマンションの管理人と響と木崎だけだった。
ただし斉藤という男がこの場を知っている。それを知っているのは響だけ。そして斉藤はどこへ消えたかはわからない。彼もまた響がここへ戻らないと感じて、どこか別の可能性を探しに行ってしまったのだろう。
ここには誰もいない。やがて誰かがまた居つくかもしれない。それでも今は誰もいない。そして誰も来る気配は今のところ、ない。
『まずは最初に戻る。ここから、俺はどこへ行こう』
響には何の答えもなかった。行く場所も思いつかなかった。嶋咲枝はどこにいるかもわからない。連絡を取れる相手もいない。
『ここへ誰かが来るだろうか?』
自分にそう尋ねたが、その答えは自分の内から出てこなかった。ただ行き場がなく、帰ってきた場所でしかなかった。しかしそこにはもう何もなかった。
『今日はここで考える。明日は明日の居場所を探そう』
電機を消し、再び部屋を暗闇に戻した。何もない部屋はとても冷えていた。冷暖房が残っていたのでそれを付けた。電機は通じていたので、そいつはしっかりと付いた。それでも何もない部屋は冷え冷えとしていて十分に辺りを温めてくれそうにはなかった。
途中で温かそうなコートを買っておいたことがせめてもの救いだ。響はそいつの襟を立て、その何もない部屋のフロアリングの上にうずくまる。
この場所にいる意味がないことを響は知っている。ホテルに泊まる金も十分に持っている。しかし人に触れる場所には近寄りたくなかった。誰もいないこの場所で休みたかった。できれば今までと同じようなソファーと毛布が欲しかったがそれはなくなっていた。それでも響はこの場が落ち着いた。
自分が自分であれる場所がここにある気がした。だからここにうずくまり、自分に戻って、明日への可能性を探り始めた。それがせめてものここに来た理由なのだ。
第9章終
第10章 55話へ続く