51. 前野正からの手紙 | 小説と未来

51. 前野正からの手紙

 フリーライターの前野正は気づいてしまった事をどうしたらいいか、酷く悩んだ。それは仮説にしか過ぎないが、前野正の思うところではそれは極めて真実に近い仮説として成り立っていたいたからだ。

 一度は心の内にしまい込もうとした前野正だが、それでは自分のしてきた事があまりにも無意味に思えてならなかった。

 前野は自分自身の人生を振り返ってみた。


 何もない人生である。ぶ男で女にはもてないし、才能もない。少しだけ仕事ができたけど、それはせいぜい最低限生きてゆくための力にしかすぎない。ただ生きるだけの人生なんて彼には僅かな価値も感じていなかった。だからフリーライターになった。

 やるからには何かを成し遂げたかった。一人の気になった女性の事をずっと追い続ける事となった。その素敵な女性とは会うことすらできないだろうが、何の関わりでもいいから少しは関係性を持ちたかった。そうする事で自分がこの世の中を生き抜いている事に少しは意味があると感じられたからだ。そして前野はその女の事を調べに調べた。少しでも、その女性との繋がりが持てるように。


 あなたにお手紙を書くという事。


 11月10日、前野正の手紙は嶋咲枝の元に届いた。普段はファンレターなんて読まない嶋咲枝だが、その手紙は書留で届けられ、差出人が「1988年より」と書かれていたので、嶋咲枝はその手紙を封を開けた。


前野正の手紙;

『このような手紙を、あなたに送らなくてはならない事にわたしも迷いがありました。このような手紙は送らない方がよいのではないかとも思いました。それでもわたしは嶋咲枝様にどうしてもこの事をお伝えしたいと思い、このお手紙を書かせていただきました。

 わたしはフリーライターをやっている前野正という者です。あなた様には前々から各所で遠くより拝見させていただいております。わたしはフリーライターであると同時に、あなた様のファンであります。だから世の中のあなた様に対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)の記事にはいささか憤り(いきどおり)を感じる次第であります。だからわたしはあなた様の真実を世の中に伝えたいと思っておりました。

 わたしは知っております。あなた様が全国の孤児院に多大なる寄付をしておられる事を。それから、世の中の若者のためになるための政治対策を打とうとしている事を知っております。あなた様が身分の弱いものに対し、手を差し伸べようとしている多くのことをわたしは知っております。

 わたしはその想いがいったいどこから浮かび上がってくるのかを知りたく思い、あなたの色々な過去を調べさせていただきました。そしてある事実と出会いました』


 忘れたい真実が、嶋咲枝の心の内から湧き上がってきていた。失っていたもの、失おうとしていたもの、その虚しさが心の内から溢れてきていた。

『人はどうあっても孤独なのか?それとも家族と呼べる相手が傍にいれば、孤独な思いは消えるのか?』と、嶋咲枝は心の内で呟いた。


前野の手紙の続き;

『わたしはあなたの過去を探っていく中で、一枚の手紙を入手しました。その写真にはあなたの姉とあなた、そして中下丈(なかしたじょう)という男が写っていました。わたしは中下丈を見たときに気づいてしまったのです。これ以上、わたしは何も申し上げたくはありません。しかし伝えなければなりません。

 今年の7月に、わたしはその中下丈にそっくりな男に会いました。彼はあなたのボディーガードをしている方の車から降りてきました。しかし中下丈は今から19年前に亡くなっていますからその人物は中下丈ではありません。

 わたしにはもうこれ以上の事を申し上げる事はできません。ただ言える事はあなたがどうして幼い恵まれない子とのため、また若者のために力を注いでいるのか、その事がわたしにはわかりました。そしてわたしとしてはただあなた様がその中下丈に似た人物と共に過ごせる時間が少しでも多く出来る事を願っております。

 わたしはとても小さな人間ですが、わたしなりに何かできないかを考えております。わたしはあなた様のような立派な方を目指し、世の中の若い女性たちがあなたに憧(あこが)れ、あなたのような人物になる事を目指すようになる事を望んでおります。わたしはただそれだけの人間です。だからこそ、わたしはあなたの幸せを願っております』


 嶋咲枝は知っていた。


 中下丈は、ただ自分の体に興味があるだけの最低な男だった。それでも恋愛ベタだった咲枝は口説いてくる自分の姉の夫に体を許してしまった。そして深く愛してしまった。

 半年後には子を身ごもってしまった。咲枝はどういう形であれ、愛する中下の子を産みたいと中下に告げた。中下は知らないふりをした。そして、『そんな事をしたら君の家族も、君もどうなることか、よく考えるんだな』と冷たく言い放った。

 咲枝は家族に知られないように一人暮らしを始めた。そしてお腹の中の中下丈の子を生もうと考えた。でもその頃の咲枝には愛する中下丈の子を生むことなんて考えてはいなかった。思いはすでに激しい憎悪に変わっていた。お腹の子を産んで、中下の変わりに殺してやるつもりだった。誰も知らずに産んで、誰も知らずに殺してしまえば何の罪にもならないと思ったからだ。そしてその憎悪のために咲枝はお腹の子を育てた。

 そして春先のある日、咲枝はなぜか日暮里を歩いていた。知り合いはいない場所だったし、誰にも会わずに散歩ができそうだったからだろう。気晴らしだったのかなぜなのか、咲枝は理由なく日暮里を歩いていた。お腹の中の子供はそんなところで突然、咲枝のお腹を叩いた。

 田山夫妻は咲枝を優しく包んでくれた。そして生まれてくる子を楽しみにしていた。そして生まれてきた子を嬉しそうに見つめていた。咲枝は生まれてきた子を殺そうとしていた事を酷く恥じた。田山が生まれてきた子を咲枝の顔元に寄せるとその子は優しく微笑んでいた。その笑顔は世界一愛らしく、その笑顔を見せる子は咲枝にとって世界で唯一の愛おしい存在だった。

 咲枝の頬から涙が流れた。そしてその涙は止まらず、涙に留まらずに酷く大きな声で泣き始めた。そこにはかつて感じた事のないくらいの喜びがあり、かつて感じた事のないくらいの悲しい思いがあった。咲枝はその思いを止める事ができなかった。そしてどうしもなく涙が流れ続けた。

 喜びと悲しみの混じり合った涙を流す中で、咲枝は決めた。感情など捨ててしまおうと。人を愛する事は二度とないだろう。人を恨む事も二度とないだろう。喜びは二度と来ないけど、悲しみも二度と来ない。そうすれば涙も止まる。二度と流す事もない。

 咲枝は感じる事をやめた。涙が止んだ。それでも子供の顔を思うと再び涙が流れてきた。だから咲枝は子供の事を考えるのもやめた。全てを捨てる事とした。


 それから20年が過ぎた。感情のない中で、ただ何かを満たそうと生きてきた。欲望を満たすためのゲームが20年間続いた。でも微かな記憶の中で、嶋咲枝はわが子を思っていた。


52話へ続く