53. 野良猫は気の赴くままに | 小説と未来

53. 野良猫は気の赴くままに

 時ばかりが過ぎてゆく。

 時間というのは無駄に使えばいくらでも無駄に使える。体(てい)たらくに生きれば、いつまでもそこから抜け出せなくなってしまう。


 また新しい朝を迎えていた。窓の橘玲香(たちばなれいか)の部屋は朝が明るい。彼女はもう出て行った。響は玲香が出て行った事には気づいていたが、ずっと彼女が出てゆくまで眠ったふりをしていた。彼女の香りが今も鼻をくすぐっている。柔らかい愛情がそこにはあった。

『このままの日々で、終ってしまう事もできるだろうか?』と、響は自問した。


 それは頭のどこかにはあったけど、考えてはいけない事だとして響はずっと頭の隅っこに置いたままにしていた。響は嶋咲枝を殺害するために生き残ったわけだし、それをしなければ死んでいった廃工場の連中たちに申し訳ない気がしていた。

 若手旋斗(わかてせんと)の言っていた光の者、闇の者、光と闇を操る上位の者について考えた。ここは光ある場所に思えたそれは橘玲香という女がいかに性というものに対して貪欲であるにしても、彼女の持つ運勢が光ある者の方だと、響は感じた。そして自分自身がどれだけ光を求めても、闇の方の人間である事を感じてしまう。両親(田山夫妻)は光があったがその子供であるはずの自分は闇だった。だから両親にも不幸が起き、まさにも不幸が起きた。それは自分自身が闇の存在だからかもしれないと、響は感じた。

「わかっていたいた事なんだ」と、響は呟いた。

 そしてその事を思うと微かな涙が頬を伝った。


 体を起こしたのは昼過ぎだった。

 テレビをつけるとNHKのお昼のニュースをやっていた。元厚生省の偉い人を殺した犯人が警察署に出頭したニュースを伝えていた。それが最新ニュースとなり、工場爆発事故の続報などはもうすっかり見えないところへ消されてしまっていた。トルエン混入のニュースも、自衛隊役員のニュースも、有名作曲家詐欺のニュースでさえも、もう過去のこととして消えてしまった。ニュースなのだから、当然過去は伝えないだろう。しかしそれはあまりに何もなかったかのように消え去られてしまった。彼らのしようとしていた全て、してしまった全ては人々の脳から忘れ去れてゆく。

 そんなニュースを見ていたら、玲香が帰ってきた。


玲香:「ただいま」


響 :「今日は早かったんだね」


玲香:「今日は日曜日よ。休みなんだからいいでしょ?」


響 :「そうか。俺は曜日さえ忘れていたよ」


玲香:「ずっと家の中で何をしているの?一人でオナニーしてんの?しょうがないわねえ」


響 :「何言ってるんだよ。俺はただテレビを見ているだけさ」


玲香:「いつまでもそうしているの?」


響 :「そうだね。俺はいつまでもここにいるわけにはいかないね


玲香:「そうね。いつまでもそうしているわけにはいかないでしょ


響 :「出ていこうとは思っている」


玲香:「そうじゃない。もしあなたがわたしと一緒にいたいなら、ここを出なくてならない。

    ここは独身専用の住宅だからね。

   だからわたしがあなたと一緒に暮らすには別の家が必要なの」


 玲香は響の言葉を逆手にとってそう言った。でもすぐに響はその玲香の言葉を否定した。


響 :「そうじゃない。俺は、ここを出て行かなくちゃならないと思っている」


玲香:「嫌よ。簡単には出て行ってはこまる。わたしの傍からは離さない。

    世の中の理由とか常識とかは嫌なの。あなたがどこの誰でも構わない。

    わたしの傍にいてほしいの!」


響 :「君には世話になった。

    だからこんな事は言いたくないけど、俺はいつまでも君の傍にはいられない」


玲香:「このままじゃいられない。それはあなたが勝手に思い込んでいる事にしかすぎないわ


 そう言って、玲香は響に近寄り、顔を近づけ、響の瞳を見つめる。


玲香:「さあ、わたしの場所へおいで(^з^)-☆Chu!!あなたの好きなようにしていいのよ」


 玲香の瞳が響を誘う。どこまでも愛おしい唇が響を誘う。柔らかく、優しい香りが響を包み込む。男と女は惹かれあう。特別な感情なんて必要ない。男と女だから惹かれあう。いい男に女が惹かれ、女の色気に男が誘われる。ただそれだけの事だ。男と女の関係なんてそうあればいい。ただその求め合いで、一生そうやって共に暮らしていけばいい。一生かどうかはわからないが、少なくても求め合える心がある内はそうし合えばいい。その感情が響を誘う。どこまでも甘い香り。どこまで柔らかい感触。その誘惑に誘われる。


「駄目なんだ」そう言って、響は玲香の視線を避け、包み込む手を振り払った。「俺にはやらなくちゃならない事がある。あんたには感謝している。でももう感情が抑えきれない。俺はあんたを好きになるだけの感情じゃ生きられない。俺にはやる事がある」


 玲香は響のその言葉に涙を流していた。激しい涙ではなかった。頬を伝う静かな涙だった。そして玲香は響に尋ねた。


「わたしは、ただ体だけの女かしら。女なんて体だけにしかすぎない?あなたもそういう男なの?男はみんなそうやって自分を肯定する。女の幸せの理由も考えず、わたしが何かを捨ててもいいと思っていた事なんて考えもしないのね」


 響は何も答えられなかった。玲香が何を言おうとしているかは憶測でわかった。ずっと自分と一緒にいようと考えていた玲香の気持ちはわかった。自分がそれを利用しようとしただけの愚かさが、響の胸を打った。


「でもいいわ。あなたがそう言う事はわかっていた。わたしはこういう日々を送っているだけだから、それは別に構わない。あなたと会えてよかったとも思う。もしこのままの日々が続くなら、それが幸せだとも思ったの。でもそうならない事はわかっていた」


「俺も君の気持ちに応えたかった。君がそう思っていることをどこかで感じてはいた。でも俺はこのままじゃいけない事もわかっている。君と俺とは住む世界が違う。俺は最後までやらなくてはならない事がある。押し出してほしい。このままここにいないように俺を押し出してくれ」


「引き止めたいわたしに押し出してくれなんて、あなたはホントにわがままな子ね。SEXも、それ以外の考えもあなたはすべてわがままなのね。しょうがない子ね。行ってしまいなさい。あなたが願うままの行為に到りなさい。わたしはそうなる事をわかっていたのよ。でもそうならない可能性も望んでいたのよ。それがわたしに言える全てだから、あなたはあなたのしたいようにすればいいわ」


 少年は女の体を振り払うと、寝巻きから普段着に着替えた。そしてずっと部屋の隅に置かれたいたスポーツバッグを背負った。その間、女はじっと座ったままだった。

 こんな強引な事は響も望んではいなかった。むしろそっといなくなっていた方がよかったのかもしれない。こんなやり方がいいとは考えていなかった。でもタイミングはそんな時にしかやってこなかった。

 後ろにいる女の事を見つめる事もできた。でも響は振り返らなかった。振り返れば気が揺らぐ事はわかっていた。それと同時に後ろから抱きしめられ、引きとめて欲しい願望もあった。そうすれば響は足を止め、間違えなく今日の所を諦めてしまうだろう。けど、その柔らかい温もりが響の背中を覆うことはなかった。響は靴を履き、3週間前に訪れたその部屋を後にした。久々に眺める外の太陽は眩しかった。心地よさも感じた。玲香の声をもう一度聞きたいとも思った。

『君で駄目な理由など、俺のわがままにしかすぎないんだ。君は十分に素敵だったし、俺は十分に幸せだった。いけない事があるとすれば俺が俺であることだけなんだ』

 響は声にならない言葉を頭の中に並べた。それが玲香に対する最後の言葉だった。


 玲香はまたどうしようもない相手に恋をしてしまったと思った。そしてまたいつもに戻る。


54話へ続く