38. 馬込の新捜査
馬込警部補が、警部補でなく、ただの馬込となったのは、ちょうど響が神楽坂で嶋咲枝殺害に失敗し、小田原で薬を受け取り、伊豆の廃工場へ行くことになった時の頃だった。
彼は警察を辞め、警察の寮を去った。でも彼は自らの想いを成し遂げる事を止めてしまおうとはしていなかった。馬込は警察を辞める前に自分で作った資料の全てを極秘に持ち出していた。そしてそれを基にもう一度最初から調べ直す決意をしていた。
本話は馬込(まごめ)警部補の物語である。
馬込が向ったのは、日暮里スーパー爆破事件で亡くなった被害者の家だった。
最初に訪れたのは、亡くなったスーパーの店員、松嶋康孝(まつしまやすたか)の結婚相手だった松嶋紗枝(まつしまさえ)の家だった。場所は千駄木の坂を上ったあたりにあった。彼女は夫の生命保険と、兼ねてから蓄えで、娘と二人で細々した暮らしをしていた。
玄関越しで、馬込は松嶋紗枝に尋ねた。
「あの事件の事をもう一度調べています。松嶋さんが何か恨まれるような事はなかったでしょうか?」
松嶋紗枝は何も答えずにじっと黙っていた。すでに40を越えているはずだが、彼女は馬込と同じである30歳くらいに見えるくらい、皺のない綺麗な顔立ちをしていた。馬込は何も答えない松嶋紗枝の顔に一瞬見とれてしまっていたくらいだ。
「今は娘と二人で、何とかやっています。あの日の事はもう忘れたところなんです。長い7年半でした。やっとここまで来たんです。今になって何かを思い出せと言われましても」
松嶋紗枝は柔らかい口調でそう答えた。
馬込は納得した。これ以上、この家族を追っても何も出てこない事は目に見えていた。
そこで馬込は今度、スーパーに買い物に来ていて、爆破事件に巻き込まれて亡くなった田山夫妻の家を訪れる事とした。
田山夫妻の家は7年経った今でも空き家になったまま、スーパーから100m程のところに建っていた。
今の所有者は名古屋に住む、亡くなった田山さゆりの親戚となっていた。馬込が親戚の女に電話をしたときに、親戚の女は答えていた。
「何度も売ろうとしたんだけど、その度にさゆりちゃんが夢に出てきて、いやそうな顔をするのよ。だから売る事を止めにしていたの」と語っていた。それから、「家の中に入りたいなら近くの不動産屋さんが鍵を持っているから、その人に聞けば中を見ることができるよ」と教えてくれた。
馬込は言われたとおりに田山家の近くの不動産屋へ行き、そこで田山家の中を見せてもらいたいとお願いした。
不動産屋の女はやけに色気むんむんの女で、家の事は何も知らないようだった。
「田山さんのところですか?あそこはなかなか売れないって所なんですよね。うふっ」
と、そんな感じだった。
不動産屋の女は一緒に田山家まで行くと、「後はどうぞ」というふうに言って、馬込を中に通し、自分は家の外で待っている態度を取っていた。
馬込は一人で家の中へと入っていった。
中は不思議な光景だった。今も生活観のある状態のまま、物が残されていたのだ。靴も置いたまま、飾りやお土産などが棚にそのまま置かれていた。さすがに冷蔵庫の中や衣類は片付けられているようであったが、家具は全てありのままに置かれている感じだった。明日から暮らせと言われれば、いつでも暮らすことができそうだった。7年間の空白はほとんどないような状態で残されていた。
台所と居間、奥の間を見たが、特に何も目に付くものはなかった。トイレも風呂場も何もなかった。
しかし客間か何かの小部屋に入ったときに馬込は妙な違和感を覚えた。
誰かが住んでいた気配があったのだ。当然、そこには昔、田山夫妻が住んでいた。しかし二人はほぼ居間と奥の間で暮らしていたと想定できる。その夫妻とは違う誰かがそこにいたような感じがそこにある。
馬込は名古屋の親戚に再び電話を掛けた。
「はい」と親戚の女は出た。
馬込:「ああ、すみません。この間、田山さんの家の中を見たいと言っていた者です」
親戚:「ああ、どうも、苅野(かりの)です」
馬込:「どうも。あの、今ですね、田山さんのお宅を見させていただいているのですが、
田山夫妻は二人暮らしでしたよね」
苅野:「ええ、もちろんそうですよ」
馬込:「誰かよく泊りに来ていた方とかはいましたか?」
苅野:「さあ、どうかしら。離れているからほとんど会うこともなかったからねえ。
でもあの夫婦はよそ者は入れなかったから、そんな事はないと思いますがねえ」
馬込:「あの、押入れとか開けてしまってもよろしいでしょうか?」
苅野:「ええ、ご自由にどうぞ」
馬込:「ええ、ありがとうございます。それでは」
苅野:「どうも」
そんな会話で確認後、馬込は白い手袋を嵌(は)め、小部屋の中にある押入れを開いた。
中の下の段には不思議な事にたくさんのおもちゃが入っていた。馬込が最初に目に付いたそれだった。不信には思ったが、調べてもどうにもならないので、馬込は続いて上の段を見た。上には布団があるだけだった。
再び下の段を見て、今度はおもちゃの入っている大きなダンボール箱を退(ど)かした。
奥からはたくさんの本が出てきた。そこには教科書や絵本が入っていた。そういえば小部屋には勉強机があって、それはたとえば夫が本を読むのに使っていたのかもしれないが、実際は子供用の勉強机のようにしか見えないものだった。
重なりあっている本を退かしてゆくと、最後に一冊のアルバムが出てきた。アルバムの表紙には『涼の思い出』と書かれていた。
中を捲るとそこには一人の少年が映っていた。始まりのページは小学生くらい。それは徐々に成長して、最後のページは結構大きな少年になっていた。全ての写真がポラロイド写真で撮られていて、全ての写真が家の中だった。
馬込はその写真を見て、不信感とかよりも異様な気持ち悪さを感じた。
そして最後の一枚の写真をじっと見つめた。馬込にはその写真の少年にどことなく見覚えがある気がした。鋭い目つきに、細い顔、すらっとした体。
『そうだ!』
馬込の勘が働いた。
「中本龍平(響の偽名)」
馬込はその言葉を口にしていた。
しかしまるで馬込には意味がわからなかった。
「いったいどういう事だ?」と呟いていた。
馬込はその写真をアルバムから取り出すと、急いでポケットに仕舞い、後は全て元あったままの状態に戻した。そして心は落ち着かないまでも、冷静なふりをしてそそくさと家の外に出た。
家の外では不動産屋のむんむん姉さんが待っていた。
「よろしいですか?」とむんむん姉さんは尋ねた。
「ええ、ありがとうございました」
馬込はそう言って、鍵を不動産屋に返し、足早にその場を立ち去った。
『いったいどうなっているんだ?』
馬込の頭は混乱のまま、答えに繋がりそうにはなかった。そして何も思いつかないまま、落ち着かないままに一端自宅へと戻る事にした。
39話へ続く