35. 食事会の日 | 小説と未来

35. 食事会の日

 地下の一室は今日も時間が分からない。しかしここはいつもの場所だ。住み慣れた家とも今日でおさらばだ。響はその事を知っている。もうここに戻ることもない。明日はどこにいるのか?その答えもない。


 目的を達成する事だけが響の頭の中にはある。それだけしか考える事はできなかった。あの女(嶋咲枝)をどうやって殺(や)るか、その事だけを考えなくてはならない。昨日は本来下見をしておくべきだったのだが、響はさくらの事しか思い浮かべていなかった。

 居酒屋『ふくちゃん』にも行かなかった。さくらに会っただけだった。

 それでも響の心に後悔はなかった。響は一番やりたい事を十分に満たしていた。心には生きる力が湧いていた。後は結論に達するだけでよかった。


 時計は16時を指していた。嶋咲枝が出席する食事会は20時からだ。早ければ19時に嶋咲枝は料亭に着いているかもしれない。神楽坂までは30分あれば行ける。2時間少しの猶予はある。失敗は許されない。


 まずは目覚めの熱いシャワーを浴びた。体は少しだけしゃきっとした。

 目が覚めると腹が減っていた。だから準備を済ますとまずはたまに行く喫茶店に向かった。そこでホットドッグを食べ、モカ・マタリを飲んだ。

 感情は揺れていた。どこかで逃げてしまいたい思いも浮かんでいた。「全てから逃げてしまえばいい」と昨日、さくらは言った。

『いざとなったらどこか知らない場所へ行こうか』と弱腰の自分も響の内にはあった。

 逃げろといっても逃げる場所は限られていた。響にはパスポートもそれを取るための身分証明書もなかった。存在しないはずの男は捕まって存在を示すか、存在しないままこの世から消え去るしかないのだ。選択の全てを迫られていた。時間は刻一刻と迫っていた。



 大江戸線に乗って牛込神楽坂までやってきた。響は斉藤に渡されたメモと地下鉄出口にあった地図で自分の居場所と目的地を確認する。渡された地図の目的地へと向かってゆく。

 まだ18時だった。

 時間は十二分にあった。通りを越えて、小道へと入って行く。右手にイタリアンかフレンチのお店があって、目の前に小さな公園がある。メモはその公園を抜けた階段の上を指している。確かに公園の先には階段があって、そこには四方に抜けられる小道が存在する。目的の料亭はその右手だ。

 通りへの出口は斉藤のいうとおり狭く、車の入ってこれるような道ではなかった。しかし小路は四方どの方向にも抜けられて、それを絞るのは難しそうだった。しかも道が狭いわりには通な客がちょこちょと現れてはまた去ってゆく。一人でこの場にぼけっと立っているわけにはいかない。

 斉藤の言うような簡単な仕事じゃない。かばんの中の拳銃を簡単に構える事さえできそうにない。


 まだ時間は早かった。だから響は仕切り直そうと、一度その小路を抜けて、神楽坂より下方の飯田橋方面へ向かった。そして近場の喫茶店で時間を潰すこととした。

 先ほどの場所をもう一度思い浮かべる。

 小路を右手に抜けていった。先には小さなパーキングがあり、嶋咲枝が食事会を終えて抜けてゆくのはそっちだと推測してもいい。しかし場合によっては左手の中心地に抜ける可能性もあるし、公園のあった方に抜ける可能性もある。じっと身を潜めるのなら公園の辺りの方が無難だが、料亭内はまるで目が届かないのでいつ終わるかもまるで予想できない。パーキング側は身を潜める場所もなかった。

 チャンスはほとんど皆無に等しいというのが、響の到った結論だ。


『六本木のホテルが最後のチャンスだった。腕の隙間を抜けていった弾丸が最後のチャンスだった。あの弾丸が当たらなかったことで、すでに俺は負けていた。だからあの女は俺を使い続けた。もうチャンスがないことを分かっていたんだ』

 響は自分がすでにチャンスを失っている事に気づいた。

 少なくとも斉藤の計画はいつもチャンスのあるような場面ではなかった。最初の五十嵐邸でも絶対のチャンスとは言いにくかった。もし本当に殺(や)るのなら、この1ヶ月の間に響は自分で動かなかったければいけなかったのだ。しかしその時間ももう無い。斉藤に与えられた期限は今日しかなかった。

 すでに終っている事を響は感じ取っていた。

 もはや料亭の傍に行く意味がないことを響は理解していた。そこにいるのは嶋咲枝でなく、むしろ響を消そうとする斉藤が待っている事だろうと、響は脳裏にその場面を描いた。今はまだ斉藤はいない。響はその事を感じ取っている。今日は少なくとも数日前よりは勘がしっかりしている。


『行き先は?』

 響は一つだけ選べるルートが思いついていた。それはどこかから生まれていた一つの流れだった。その流れを無視するわけにはいかなかった。



 20時、可能性の光を追って、響は土曜の夜を遊び疲れた若者で込み合う中央線の電車で、新宿方面に向かっていた。全ての流れはその先にあるだけだった。


36話へ続く。