36. 最後の仕事
日曜日の夕方16時、木崎はいつものマンションの地下への入口で響を待っていた。
朝も早かったからもうとっくに着いてもおかしくない時間ではあったが、上野響の姿はまだなかった。部屋の中にもいないようだ。だから木崎はしばらくそこで響が来るのを待っていた。
「いつまで待っても、彼は帰ってこないよ」
その声に目を瞑って待っていた木崎は目を開いた。夕暮れの側に黒い服を来て、黒い帽子に黒いサングラス、白いマスクをした男は立っていた。
「嶋咲枝のSPだね」と、男は木崎に尋ねた。
「あんたは誰だ?」
その男は斉藤である。しかし斉藤は自分の名を名乗らずにこう答える。
「僕?僕が誰か?そんな事はどうでもいい事だ。それより僕はあなたに重要な事を伝えなくてはならない」
木崎:「いいから、名前を言え。それからだ」
木崎は立ち上がり、自分の図体のでかさで斉藤を圧力を掛ける。しかし斉藤は動じない。
斉藤:「名前なんてどうでもいい。そんなものは何の価値も無い。それは僕を呼ぶのに必要かもしれない。
でも僕はここであなたに会って以降、あなたに会うことはないでしょう。
だから名前なんて聞くだけ無意味さ。
あなたが知りたいのはむしろ僕がどこからやってきた、どういう人間かという事だけでしょう。
答えてもいいが、それよりまず、重要な事を伝えなくちゃならない」
木崎:「わかった。何が言いたいんだ」
木崎は諦(あきら)めて、とりあえず斉藤の言いたい事を言わせてやる事にした。
斉藤:「あなたの待っている男はここには来ない。それからあなたの待っているぶつもここに届く事はない。
あなたが必要としている物が今どこにあるか、それは僕にもわからないが」
木崎は少しその言葉の意味を考えてから、尻ポケットに仕舞ってあった、モバイルPCを取り出して開いた。起動させて、何やらのGPS機能の付いた地図を見て、唖然(あぜん)とする。
斉藤:「さあ、あなたがそういうのを持っているとは思ったんだ。
どうだ?僕の思い通り、その機能の示す位置はこの辺りではないだろう?
どこなんだ?今も変わらず最初の位置か?
それともどこか別の場所へ動いているのか?僕はそれが知りたいんだ」
木崎:「きさま、何者だ!奴をどうした!?」
斉藤:「おっと。僕も被害者なんでね。僕もこうなる事を望んじゃいなかった。
だいたいあなたはあなたのボスがわざわざそういう機能をつけてやっているのに、
それを頼りにせず、彼がここに来ると信じきっていた。それは愚(おろ)かな事だろう?
あなたは彼がここに来ると信じすぎていた。
というより、あなたの脳の思考は別の可能性なんて考える事ができなかったんだろう?
世の中にはありとあらゆる事が起きるんだ。
その事を注意深く意識しなくちゃいけないのに、あなたはそれができなかった。
責めるのは僕じゃない。自分自身だろ?」
木崎:「うるさい!とやかく言うな!!きさま、奴をどうした!!」
斉藤:「それが僕にもわからない。言える事は彼には別の抜け道があった。
彼は少なくとも、あなたが思うよりずっと器用な奴だ。それは僕が思うよりもだった。
彼の能力ではないかもしれない。いずれにしても彼には別の方向性が存在していた。
彼はその方向へと動いている。それがどこなのか。僕もそれが知りたいところだ」
木崎はモバイルPCの地図を見た。GPS機能は伊豆の方へと向かっていた。
斉藤はそれを覗き見て感じた。第3の何者かが確かに存在すると。
(第1を木崎と嶋咲枝とするのなら、第2が自分=斉藤、そのどちらにも関わらないもの=第3の集団)
その3時間前、響は小田原漁港を訪れていた。
潮風は若干秋を思わせる静けさに溢れていた。漁市場はすっかり静まり返っていて、辺りには海釣りを楽しむ釣り人がいるだけだった。それでも結構な数の釣り人だった。
ぶつの渡し役の男は早川の河口で響を待っていた。男はまだ20代の釣り人だった。
「いや、釣りはしてないんですよ」と、男は言った。「でもこんなところででっかいトランク持ってボーっとしてたら怪しまれるでしょ?だからクーラーバック代わりのトランクってところで、釣りをしているふりをしてたんですよ。まあ、この辺りじゃ波が荒すぎて魚はいませんがね」
響は封筒を見せ、それを男に渡した。
釣り人:「ああ、これっぽっちですか」
響 :「俺が決めているわけじゃない」
釣り人:「まあ、そりゃそうだ。やばい仕事で報酬がいいって聞いたんで、いくらもらえるかと思ったけど、
これじゃあ車の一台も買えませんね。原付程度だ。原付」
響 :「まあ、この程度の仕事だ。君がそれを持って、待っていて、俺に渡す。
ただそれだけの仕事で、それだけの金が入る。十分だろ?」
釣り人:「そうか。そういや、そうですね」
響は釣り人が納得したところで、トランクを頂き、その場を離れた。男はそこから離れず、煙草に火を付けて吸い出すと、また魚のいない波打ち際に棹(さお)を投げた。
それから響は早川の駅前まで戻り、そこにある公衆電話からある男の携帯へ連絡した。男がすぐに出るかは疑問だったが、男はすぐに出た。
「もしもし?」
「もしもし、上野響です。といえばわかりますか?」
「響君?ああ、よかった。そうですか。電話してきてくれたか」
「歌い人、いや柏木(かしき)さんですね」
「ええ、今、どこにいるの?」
「小田原の早川って駅にいる。あなたの嫌いなものを抱えている。このまま逃亡しようと思っているが、どうやってどこへ行けばいいかわからない」
「小田原?いい所にいるね。それなら急いで向うよ。今、東京だから、2時間以内には車でそこに付くようにするんで」
そして2時間が過ぎた。
響は一度小田原に戻り、喫茶店で時間を潰した。それから再び早川に戻り、早川のインターで柏木を待った。スターレットが小田原厚木道路を降りてやってきた。
柏木はにこやかに微笑んでいた。後ろには若手旋斗(わかてせんと)も乗っていた。
「さあ行きましょう!」と柏木は言った。
「どこへ?」と響は尋ねた。
「いいから。大丈夫。ちょうど通り道なんで。我らの館(やかた)には」
柏木はそう言ってにっこり微笑んだ。
響は何も言わずに頷(うなず)く事しかできなかった。そしてトランクを車のバックドアから入れて、自分は助手席に乗り込んだ。
車は間を置かずに走り出す。響は後ろを振り向くと、若手はにやりと笑った。
「こうなる事を待ち望んでいたよ。思ったよりスムーズに進んでいる。運気は向いてきたみたいだ」
そしてそう言った。
響には何の事かさっぱりわからなかった。しかし行き先の思いつかない響にはこの男の考えに便乗(びんじょう)するしかなかった。どうする事もできない。選べる権利は何もないのだ。
第6章終了。
第7章、37話に続く。