30. 変わらない生活・変わる事の不安
上野響(うえのひびき)には、いつもの日々が流れていた。
週の半ばとなる水曜日には神奈川県三浦にいた。海岸沿いを歩いて、岬を越えた。男はそこで待っていた。
肌の浅黒く焼けた男だった。松崎しげるのようだった。だけど違った。男はもう少し若い感じだったし、それほど焼けていない感じだった。
「君かい?」と、浅黒い男は響に尋ねた。
響は「そうだ」と言った。
男は浜辺に上げられた自分の所有するヨットからいつものトランクを取り出した。
「これでいいかな?」
その問いに響は頷いた。そして代わりにいつもの金の入った封筒を渡した。
いつもの運び屋としての仕事は何の問題もなく終わった。
平日の午後3時だった。夏も終わり、9月になってしまったので、海辺に人は、散歩する老夫婦と犬を散歩させる主婦くらいしかいなかった。
夏はもう過ぎていたのだ。
20時には、台東区上野に戻った。木崎はすでにマンションの裏で待っていた。いつもよりも落ち着かない様子であった。以前のようにはいかない。
嶋咲枝を襲って以来、二人の関係は確実に悪いほうへと向かっていた。もう2度と回復する事はない、昔の恋人のように互いは気まずいイメージを崩せずにいた。それでも会わなくてはいけない時間があった。
木崎を地下の自室へと招き、木崎はいつもの麻薬チェックを行う。そしてそれが済むと、響にいつもの金を渡し、トランクを頂(いただ)いておいとまする。
その時間が響にはいつもより早く感じられたのは気のせいだろうか。もともと無口な二人だが、その日はいつも以上に静かに感じられた。
背の高い大男二人が、互いを気にするなど実に気持ち悪い話だ。
『どうでもいい』と響は心の中で呟く。
2丁めの拳銃は机の一番下に眠ったままだ。
その夜、響は居酒屋『ふくちゃん』を訪れた。
嶋咲枝殺しの依頼人斉藤に顔を殴られ、顔が腫れて以来、居酒屋『ふくちゃん』へ行ってはいなかった。顔の状態はすでになんともなくなっていた。響自身はいまだに顔が歪んでいる気がしていたが、木崎も何も気づかなかったし、そこらへんを歩いても誰も響の顔を気にする人間など一人としていなかった。
そこへ行けば、いつもの時間が流れていた。その夜は常連メンバーがたくさんやってきていた。珍しく、歌い人だけがいなかったが、風俗店店長をやっているナンパ男の式羽(しきば)もいた。
ふくちゃん:「久々だねえ。どうしたの?最近、忙しかった?」
とっちゃん:「いやあ、最近見ないから、ちょうどおまえの話してたんだよ」
響 :「どうも」
響はそんなとっちゃんの隣に座る。
式 羽 :「女でもできたんじゃないの?って話してたのよ」
由 佳 :座敷席にいる学生風の男たちにツマミを出して、戻りながら、「そうなの?響さん?」
響 :「そんなわけねえだろ」
とっちゃん:「相手は、さくらちゃんかなあ。とか」
響 :カウンターの一番奥に座る、かんさんを見ながら、「何で、さくらちゃんと」
由 佳 :カウンター向こうに戻って嬉しそうに、「違うんだ」
かんさん:「…」酒を飲む(さくらの祖父である)。
式 羽 :「あ、じゃあ、あの、女か。俺、響ちゃんにあの駅の女と(式羽は橘玲香の事を言っている)」
響は慌てて隣にいる式羽の口を塞ぐ。
式 羽 :「ホテルに缶詰で毎晩」
とっちゃん:「どうしたの?」
響 :「いやあ、何でもないですよ」
式 羽 :「いつもビンビンで」
響 :「何、言ってんの。あんた!」と、苦笑いの怒り目。
由佳は聞かないふりをして、座敷席の客の方へと向かう。
ガラガラっと、そこで店の扉は開かれる。そこには美坂(みさか)さくらが立っていた。
21時30分だ。彼女は正確にその時間になると、祖父のかんさんを迎えに来る。響は神社での一件後からずっと顔を合わせたくない気持ちでいっぱいだったから、そこにいるさくらの方を見ることもできない。彼女がどんな顔をしているのか、自分という存在に気づいているのかも、響にはわからない。
ふくちゃん:「さくらちゃん、いらっしゃい。たまには何か飲んでいけば」
さくら :「いいえ、すみません。また今度」
さくらの声はいつもと変わらない、と響は感じ取っている。
かんさん :「なんじゃ、もう行くのか。せっかく響も来たのに」
さくら :「おじいちゃん、もう行くわよ」
とっちゃん:「たまにはさくらちゃんも」
さくら :「すみません。また今度」
近い場所でさくらの声がするが、響は気にせず、ビールを飲む。みんなの的はさくらの方に向いている。
「しょうがねえなあ」と言って、かんさんは立ち上がる。
「またな、かんさん」「じゃあ」「ありがとね、かんさん」「気をつけて」なんて声が飛び交ってから、かんさんとさくらは居酒屋『ふくちゃん』を後にした。
それからはしばらく式羽のエロトークが続いたが、話としてはあまりにくだらないので、もしくは使えないネタの連発なので、カット。
式羽に誘われて、そのまま女でも抱きに行くかという話になったが、響はそれを断り、一人で家路を戻っていった。
マンションの入口には誰もいなかった。最近は馬込という警官もいないし、歌い人とも会わなくなった。
まさが死んで以来、止まったような時間を過ごしてきたが、ここ数ヶ月でいろいろな環境が響の周りでは変わろうとしていた。その事を響は心の奥底で感じていた。
帰れる場所である居酒屋『ふくちゃん』へもやがては行けなくなるのかもしれないと、響は感じている。何かが変わろうとしている寂しさを、響は心の内で感じている。
『若手旋斗(わかてせんと)=謎の組織のリーダー、斉藤=嶋咲枝殺しの依頼人、前野=嶋咲枝を追いかけるフリーライター、馬込=日暮里スーパー爆破事件の犯人を追う警官』
響には今いろいろな選択肢がある。誰にどう近づくかで道が決まる。それを選ばなくてはならない時が迫っていることを感じている。選択肢はたくさんあるが、選択し直すことはできない。どこへどう進むのか、響は迷いの中にある。選択肢はたくさんあっても、答えは一つしか選べないのだ。
「さくら」
裏路地でふとさくらの事を思い浮かべる。
『やれやれ』と、響はすぐにさくらのイメージを否定する。彼女とはもう関係ないのだと言い聞かす。
地下へと下り、部屋に戻る。
「君が待ってくれていれば」
ふとそんな言葉を呟く響。
『やれやれ』ともう一度。
「せめて、(今日一目彼女の顔を見ておけばよかった)」
響の頭からはさくらが離れない。考えるべき事は他にあるはずなのに、響の頭からさくらが離れる事はなかった。結局、響は一日中、さくらの事を想っていた。あれやこれやと想像して、一夜が明けていた。
どうにもならず、響は諦め、想像の中でさくらを抱いた。心地よい想像だった。全てがなくなってしまえばいい。そう思い、想像のさくらを隣に置いて朝の眠りに就いた。安らかな深い眠りだった。
5章終了。
第6章 31話へ続く。