32.前野正の考察 | 小説と未来

32.前野正の考察

 一週間前、嶋咲枝は大学の講義堂で講演を行っていた。前野正はその講演会に潜りこんで、嶋咲枝の話を聞いていた。これから就職する学生に向けての講演だった。話はまとまっていて、説得力のあるものだった。笑える話もあり、一般的には非の打ち所のない講演だった。

 しかしその話にはある部分が抜けていた。前野正はそのある部分について考えた。それは嶋咲枝の体験だ。普通、人に何かの話をするときは自分の体験を交えて語るものだ。しかし彼女の話には自分の体験がまるでなかった。新聞に載っている知識や過去の偉人の話は出てくるが、自分の話がまるで出てこなかった。

 つまりその話は誰か別の人でも語れる、一つの完成された発表例のようなものであった。

 その講義は嶋咲枝とは関係のない有名私立大学で行われていた。

 前野の知る限り、彼女は自分の大学で講演をした事がなかった。だがそれは普通気にするようなところでないだろう。お呼びがなければわざわざ自分から講演を行う事もないだろうし、時間の都合が合わなければ講演は行われないだろう。選挙区も違うし、わざわざ自分の母校で講演を行う理由はない。だからそれは当然の事といえば当然の事だ。


 でも、前野正は嶋咲枝の学生時代が気になった。



 今回の物語は、前野正の考察(こうさつ)である。この話は前回、前野正が嶋咲枝の過去を追うようになり、彼女の家族にまで会いに行った話の続きである。


 前野は嶋咲枝の母校となる大学が気になり、彼女の大学時代を探る事にした。前野は大学に潜りこみ、何とか嶋咲枝と繋がる人を探そうとした。

 しかし彼の入れる場所で、嶋咲枝に繋がる手がかりは何も見つかりそうになかった。大学は未だ夏休みだったし、図書館に入るにはカードが必要だった。

 事務局で対応をしてくれた局員が唯一教えてくれたのは、嶋咲枝が大学時代に専攻していたゼミの教授が今も同じ大学の同じ所で仕事をしているということだけだった。その教授は20年間変わらずに同じ場所で同じような事を続けている。

 前野はその教授に連絡を取ろうと、学部の電話に連絡してみた。意外にも教授は前野の取材を快諾(かいだく)してくれた。嶋咲枝が講演を行った頃から一週間後の事だった。


 百合崎久江(ゆりさきひさえ)教授は事務局までわざわざやってきて、前野の事を出迎えてくれた。そして彼女は自分のゼミ室に案内してくれた。彼女の年齢は53歳、ほっそりとしてやせ細った女性だった。

 彼女は政経学部で、現代社会学についての研究を行っていた。


  前野:「突然訪れてすみません」


百合崎:「いいえ、構いませんよ」と、にこやかに。


 前野:「それで、わたくし、嶋咲枝さんについていろいろと調べているのですが」


百合崎:「ええ、彼女は大学時代から政治に興味があったみたいで、とても熱心に学んでいました。

     成績も優秀で、レポートもとてもよくまとまっていました」


 前野:「ええ、その辺りはだいたいよく存じています」


 嶋咲枝の過去についてのプロフィールにはたいてい彼女が大学時代に政治について勉強していた事が書かれている。それは彼女の大学時代を示している表の部分なのだ。


 前野:「こんな質問もどうかとは思うのですが、百合崎教授は嶋さんの大学時代について、

     はっきりとした覚えはおありですか?」


百合崎:「そうですねえ。何人もの学生を相手にしてきましたので、

     彼女について思い返したのは彼女が有名になってからですが、

     彼女を最初にテレビか何かで見たときに、とても笑顔が素敵になったなと思いました。

     私が教えていた当時、彼女はまるで笑顔のない子でして、

     私の前だったからかもしれませんが、とても静かでおとなしかった感じがします。

     成績は優秀でしたが、どちらかというと目立たずに友人も少ない感じでした」


 前野は意外に思い、はっとした。

 彼女が大学時代成績優秀だったのは有名である。だから前野は嶋咲枝はリーダーシップがあり、みんなの中心にいるような大学時代を送っていたと考えていたからだ。社会人以後の嶋咲枝からは想像もできない話だった。


 前野:「嶋咲枝さんは目立たない存在だったのですか?」と聞き返す。


百合崎:「そうですね。

     彼女と接する機会が多かったのは彼女が4年生の頃でしたが、

     その頃の彼女は本当に物静かでした。

     黙々と勉強をしていて、話すにしても余計な話はしない。発言をするだけでした。

     後で思い返したのですが、確か彼女は大学3年の時にお姉さんを亡くされていて、

     その事もあったのかもしれませんね


 姉の話は前野も何かの記事で少しだけ見たことがある。

 彼女の家族について、父親は一流企業の役員で、母親は専業主婦、姉がいたがすでに病で他界しているという話である。ただそれだけの記事だった。しかし姉を亡くしたというのは大きな出来事である。その事が彼女の人生を大きく変えたとしても何の不思議もない。

 前野は先月、嶋咲枝の父親に取材をして以来、家族間で何かがあった事を感じていた。つまりそれは姉に関する件だったと考えるのが自然だろう。前野はその事を確信し始めた。


百合崎:「あ、それから」


 前野:「ええ、何か?」


百合崎:「彼女は大学2年の後期後半、つまり1月から3月頃に長い間、姿を見せなかったこと

     があったそうよ。

     私も当時はそんなに彼女の事を気にしていたわけではありませんでしたし、

     これは後になって、成績優秀のはずの嶋さんが思ったより取得した単位が少ないと感じて

     周りの学生に聞いて知った事だったのですが、そういうこともあったみたいね。

     でも多くの大学生は受験疲れで、遊びに走ったり、趣味に夢中したりする時期があるから、

     彼女にとっても特別な事じゃないって思っていましたけどね」


 前野:「そうですか。人にはいろいろとあるんですね。

     輝いている人間がいつも輝いていたとは限らないと言ったところでしょうか


百合崎:「そうですね。

     嶋さんは今でこそとても輝いていますが、やはりつらい時期もあったと思います。

     私はそんな彼女の事を応援していますが」


 前野:「ええ、わたしも彼女は本当に素敵な政治家だと思います」


百合崎:「そうですか」


 前野:「今日は本当にありがとうございました」


 そんなふうにして、前野は新たな真実を手に入れた。



 それから、前野は嶋の父親に手紙を書いてみる事とした。

 それは先日の突然の訪問をわびるところから始まり、娘を亡くした父親の想いを暗に感じて綴(つづ)った内容の手紙であった。そしてその手紙にはもう一点、嶋咲枝の姉が亡くなった時にどんな事があったのかを何とか聞き出そうする内容が裏に隠れて書かれていた。

 前野はその手紙を嶋咲枝の父親に送った

 返信があるかはわからない。それでも、少しだけ真実に近づけた気がして、前野はにやりと笑んだ。ストーリーが繋がる事に前野はライターとしての楽しみを感じていた。


33話へ続く。