新生!フォーミュラ・ニッポンの夜明けぜよ オープニングレセプションに行った前編
1996年、日本のトップフォーミュラはヨーロッパとは異なる独自路線を打ち出してF3000から「フォーミュラ・ニッポン」を発足させた。
公式テストに先立ち、東京の新高輪プリンスホテルで「オープニングレセプション」を開催。申し込めば一般ファンも参加できた。
雑誌の告知や招待ハガキの内容からドライバーを交えたパーティーのようなものと察せられた。
招待ハガキのコピー
このイベントに東京の友人2名、ドルフィンは静岡から、そして大阪の友人も加わり4名で参加した。
ホテルでの催しとあって、カジュアル・スーツで臨んだ。
フォーミュラ・ニッポン イメージガール
TV放送では番組主題歌を担当したりしていた
―実際は想像と異なっていた。ドライバーは終始いるわけでは無く、サインやちょっとしたお喋りはできるもののゆっくり話するのは無理。かと言ってトークショーがある訳でもなく、各チームばらばら。ドリンクや軽食はもちろん無い。
❝ホテルで行われるピットウォーク❞みたいな感じだった。大阪の友人は「大阪から来る意味ない!」と怒っていた。
会長の国さん(高橋国光氏)
フォーミュラ・ニッポンからは1チーム2台体制が基本になった。
参加者にはA4サイズのチーム紹介冊子が用意された
参加者には参戦チームが紹介された冊子が用意された。
ここにドライバーのサインを頂くことにした。
各チームのキャンギャルは勢ぞろいだった。
鈴木利男選手/かもめサービスRACING TEAM with IMPUL/ローラT96/94
全日本F3000最後のチャンピオン。新生フォーミュラ・ニッポンではゼッケン「1」を付けてシーズンに臨む。
ナビコネクション・レーシング /レイナード96D 影山正美車
舘ひろし監督、近藤真彦選手は不参加。
童夢with 無限
童夢は2カー各々別のスポンサーが付いていた。
松本恵二監督
山本勝巳選手/TEAM ANABUK 童夢with 無限 /童夢F104i
羽根幸浩選手/スリムビューティーハウスCERUMO/ローラT94/50
アンドリュー・ギルバート・スコット選手/神奈川クリニックSTELLAR/レイナード95D
A・G・スコット選手とミハエル・クルム選手
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「8時だヨ!全員集合」で育った世代 ~ザ・ドリフターズの思い出
志村けんさんのご冥福をお祈りいたします
ネコパブでブログを書いていた頃に「ザ・ドリフターズ」の思い出を書いていたので、再掲載します。
写真は実家にあるので、昔ブログに載せたものを使用しています。
関東圏に住んでいたので「よしもと」よりも『8時だョ!全員集合』で育った世代だ。
毎周土曜日が楽しみで仕方なかった。男女問わずクラスの全員近くが観ていただろう。
そしていつかはウチの町のホールにも来てくれるだろうと願っていた。
だが、様々な町のホールで行われた超人気の生公開番組は、遂に我が町にやって来ることはなく幕を閉じてしまった。
「近所の文化センターに来て欲しい」との子供心は届かず、その文化センターも十数年前に役目を終えて取り壊されていた―。
大阪に引っ越す際にアルバムを整理していて発見した。ドリフはウチの町に来ていた!―と。
百恵ちゃんやキャンディーズ、ピンクレディー同様に「ザ・ドリフターズ ショー」として文化センターで公演していたのだ。
昔はデパートや商店街が「いくら以上のレシートで〇〇ショーにご招待」のキャンペーンを展開していた。
写真を見て薄っすらとした記憶が蘇って来る。
志村けんサン
年代的に荒井注サンが抜け、志村けんサンが加入した直後くらいだろう。
『全員集合』のように生バンドを引き連れての大所帯。
セットこそ組まれなかったが、コントを披露してくれた。
写真撮影位置から察するに、ステージ“かぶりつき”の場所で見ていたようだ。
当時最大のギャグ、カトちゃんの「チョットだけヨ♪」に沸く会場。写真を撮るもストロボ発光のために“赤いピンスポット”が分からなくなってしまっている。
カトちゃんの「ちょっとだけヨ♪」

ショーのトークで長さんが隣町出身だと知った。終わってから(地元に)帰ったとか帰らないとか…。
現在はその地元に小さな記念館が作られたらしいのだが??
TVのような大規模コントではなかったが、少年少女たちは生ドリフを見て満足したのだった。
「東村山音頭」のレコード持っていたなぁ。
レコードとして録音されているのでちょっと❝上品❞な感じになっていた。やはりライブのノリが重要だ。
今でもたまに口ずさんでいる。
正直、「ひげダンス」の頃は年齢的にもう見ていなかった。
逆に近年は「志村どうぶつ園」を観て癒されていた。
喜劇王よ、永遠に―
「志村、うしろ! うしろ!」
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転倒続出 選手、観客一体となった雨の「鈴鹿4耐」初観戦 1984年
初めてのロードレース観戦は1984年の鈴鹿8耐だった。
❝初めての決勝観戦❞となると土曜日に開催された鈴鹿4時間耐久オートバイレースになる。
「ノービスの祭典」と呼ばれ、出場台数も急上昇していた。
清水國明さんの国武舞も参戦して注目を浴びていた。
漫画『バリバリ伝説』の4耐編は今でも好きで、8耐観戦前には読んで気分を高めている。
金曜日の予選は好天だった。
予備予選を突破したチームが予選に臨み、決勝は予選順のゼッケンになる。
ゼッケンが3ケタまであるほど参加台数が多かった
土曜日は時折雨が降る怪しい天気だった。
「雨なら転倒が多くなるから2コーナー席で観よう」と決めて、土手に丸太を置いただけの2コーナー席に陣取った。
4耐決勝スタート
果たしてスタートを切るやスッテンスッテンと転倒続出。
雨なので転んで滑るがマシンは無事な場合が多いらしく、再スタートを試みる選手たち。そんな選手たちに声援を送り、エンジンがかかると拍手を贈る。選手とお客さんの一体感に心が震えた。
そしていつじか自分達も選手に声援を送り、拍手をしていた。
「これが2輪レースのいいところなんだな」と。
現在では2018年2019年のような台風直撃でも無い限り、ここまで多くの転倒者はでないだろう。人車ともにレベルが上がっている。
この後、滑ったマシンがコース脇にいるマシンに激突。選手が下敷きになった!-とヒヤリとしたが、無事に立ち上がったのだった
トップ争いでも転倒があった。
転倒せずに走り切ったチームが優勝した。
健闘をたたえ合いながら最終コーナーを下ってくる優勝車と2位
4耐はアマチュアなだけにがむしゃら感が伝わって来て感動的なレースだった。
4耐の正式な表彰式は日曜日の8耐決勝前に行われていた
全てが新鮮 初めてのロードレース観戦は「鈴鹿8耐」1984年
’80年代は空前のバイクブームだった。何が起源になっているのか分からないが、気が付けばみんなバイクに乗っていた。
漫画『ふたり鷹』にも描かれていた鈴鹿8時間耐久オートバイレース観戦に初めて行ったのは1984年の事だった。
8耐はおろか、ロードレースの生観戦すら初めてだ。
宿泊や導入部分は昨年書いた「鈴鹿8耐観戦に行き始めた頃、世はバイクブームだった」を読んでください。
4輪レースは好きだったがバイクは嫌いだった。
実家の裏がバイク暴走族のたまり場になっていた事や、暴走族問題で富士スピードウェイが閉鎖の危機に陥った事があった。
そんなイメージを変えてくれたのが偶然TVで観たロードレース(たぶん全日本最終戦)だった。
雨のレースでスリリングな展開。「バイクのレースって面白いんだ」と気持ちが大きく変わった。
その2年後くらいに映画『汚れた英雄』が公開され、観に行って夢中になった。
バイク漫画の数々…。
一緒に行った友人はF2・鈴鹿グレート20を観戦に来た神奈川に住む友人だ。
夏の暑さと人の多さに圧倒されてしまった。
8耐で初めて見たコカ・コーラのBIGサイズ! 紙カップにストローを差し込んで飲むヤツだ。資金が少ないので、本当に暑くてたまらない時に飲んだ。
昔は最終コーナー近くにあった軽食コーナーに冷水器があって飲むことができた。飲んでも飲んでも喉が渇く。
ヘアピンに向かう歩道に、地元の方(?)が出していたナン百円かで「スイカ食べ放題」している露店も出ていた。昔はゆるかったな。さすがにスイカはそんなに食べられないだろう―と試さなかったが(笑)。
この年からコカ・コーラが冠スポンサーについたそうだ。
鈴鹿サーキットクィーンのお姉さん
金曜日は4耐本予選(参加台数が多かったため予選に出る予備予選もあった)と8耐フリー走行。コーナーを歩き回って観戦した。友人はコーナーに出るのは初めて。
初めてということもあってあまり選手に詳しくないままの観戦だ。
土曜日の4耐決勝はまた別の機会に-。
生沢徹監督とホワイトバッファローと水着のお姉さん
チームイクザワ/生沢徹監督、無限/本田博俊氏、ムーンクラフト/由良拓也氏が極力して作り上げたホワイトバッファロー。
加えて水着のお姉さんまでマシン脇に立たせた。ドルフィンはこのお姉さんが「レースクイーン」とは一線を画す「キャンギャル」の元祖だと思う。
日本一カッコイイ男は新たな文化を作ったのだ。
8耐のル・マン式スタート
2コーナー~S字までの席がビッシリいっぱいになっている
いくら2コーナースタンドが無かったからとはいえ、当時のS字席は土手に丸太を設置した席だった。そこに人が詰めて座っていたのだ。
ル・マン式スタート自体は4輪の富士ロングディスタンスで観た事があったが2輪はまた違う迫力がある。
エンジンの爆音。観客の大歓声。お客さんが多いので歓声もハンパない。1日で一番アツくなる時間。
なかなかスタートできないマシンを後続が次々追い抜いてゆく。ぶつかりやしないかと観ていてハラハラする。
#12ヨシムラ・スズキGSX-R
いち早くアルミフレームを採用した#30モリワキ・モンスター
当時の鈴鹿8耐は海外チーム、海外選手が圧倒的に強かった。
翌年まで日本人の優勝者は出ていなかったくらいだ。
ストレートの先に❝何も無い❞
決勝レース中はプールに行って涼をとっていたりもした。プールは観戦チケットと別料金だったと思う。
特に応援している選手やチームが無かったので、心置きなくプールに行けた(笑)。今ならひと時も目を離すことができないだろう。
当時の資料が無いため、データ系が詳しく書けない。
優勝:M.ボールドウィン/F.マーケル組/ホンダRS750R
優勝者だけでなく、フィニッシュした全てのライダーに拍手を贈り称えている観客を見て感動してしまった。
2位
3位
ホンダが1-2-3を独占し「やはり鈴鹿8耐はホンダが強んだな」と感じた。
グランドスタンド前で行われていた表彰式
女性ライダーペア、シェリー・フライダス/井形マリ組も24位完走
フィニッシュ後の花火は伝統
帰りの人混み、バス待ちが大変だった。
特にドルフィンは無計画に日焼けしてしまったので、肌が赤を通り越して紫に。荷物すら背負えない状態になっていた。一緒に行った友人に迷惑をかけてしまった事は今でも申し訳なく思っている。
現役F1が5年ぶりに日本で走った ウイリアムズ/ホンダF1鈴鹿テスト1984年
1977年に富士スピードウェイで開催されたF1日本GPを最後に、鈴鹿で日本GPが開催される’87年まで日本には10年ものF1空白期間があった。
今日(こんにち)F1日本GPが連続開催されている事はとても素晴らしい。
’76年、’77年にF1観戦をして魅了されたものの、それっきりになって❝おあずけ❞されていたのが一番多感で興味が強い少年期だった。子供の10年は長い!
その間にウイングカー全盛期があり終焉も迎えた。エンジンはターボ主流になっていた。
そしてホンダが15年ぶりにF1活動を再開。
’83年にスピリットへF1ターボエンジンを供給しての参戦が始まった。
さらに急展開。最終戦にトップチームであるウイリアムズにも供給されるようになった。
翌年早々。日付は定かではないが、鈴鹿でF1テストが行われ一般公開されると告知された。
しかも現役F1マシンと現役ドライバーのケケ・ロズベルグ選手とジャック・ラフィー選手が来日するのだ! もう血が湧きたった。
ちょうど名古屋に住んでいたので、試験終わりに四日市の友人と共に鈴鹿サーキットに向かった。F1テスト1日目だ。
時間が惜しいので駅からタクシー。到着は夕方になっていたが、ウイリアムズFW09が走っていた。
体が震えた。5年ぶりの現役F1の走行だ。そして初めてのF1ターボエンジンの音。あの感激は一生忘れられない。
今だったら非常に多くのファンが押し寄せただろうが、当時としても熱心なファンが集まっていた。
この日は四日市の友人宅に泊まらせて頂き、翌日は朝から一人で鈴鹿サーキットに出かけた。
二人のドライバーが一緒に来日するのではなく、テスト1日目・2日目はジャック・ラフィー選手が担当。3日目・4日目をケケ・ロズベルグ選手が行った。
なのでドルフィンは’82年ワールドチャンピオンのケケ選手に会うことはできなかった。
ホンダRA164Eターボエンジン
リジェで’76、’77年の日本GPも走ったジャック・ラフィー選手。
『赤いペガサス』にも登場している。
ウイングカー時代には開幕から連勝もした憧れのドライバーのひとりだ。
ラフィー選手が目の前で走っている―それだけで体が興奮で爆発しそうになる。
ラフィー選手のお昼はドライバーズサロンで取っていた。現在ある「SUZUKA-ZE」の二代前のドラサロだ。コントロールセンターの後ろ側にあった平屋だったと記憶する。
石油ストーブが炊かれたドラサロのテーブルにチームの方(マネージャー?)と話をされていた。
しばらくタイミングを見計らってサインをお願いした。笑顔でサインを書いて下さった。
嬉しくてうれしくて…あの時自分はどんな表情をしていたのだろう?
「I'm your fan.」(私はあなたのファンです)とお伝えしたのだが、発音が悪かったのか、「Oh! you my friend?」(あなたは私の友人ですか)と返された事を強く記憶に残っている。
「一緒に写真を」などと、恐れ多くて頭の片隅にも浮かばなかった。
ジャック・ラフィー選手に色紙に書いて頂いたサイン
「Suzuka84」と入れて下さった。
ミニカーはラフィー選手のモデルが欲しかったが、先にミニチャンプスからケケ選手の優勝モデルが発売になった。まあ、そうなるだろうが。
ラフィー選手モのデルが出るか分からなかったので、買えなくなる前に—と、ケケ選手モデルを購入した。
ケケ・ロズベルグ選手/ウイリアムズFW09ホンダ ダラスGP優勝モデル
手前に置いたモスグリーンのグラスファイバーは、鈴鹿テストの際に切り落とされたFW09のサイドポンツーンの破片。
ピット上のエリアから撮影?
次にラフィー氏にお会い出来たのは'99年の日本GP。
TV解説者として鈴鹿に来られていた。グランドスタンド裏(現在と全く異なる地形)の道でフランスの撮影隊と遭遇。目ン玉が飛び出るほどブッたまげた。
「まさかここでラフィー氏に逢うとは!?」。速攻でサイン帳を取り出してサインを頂いた。
―が、サインをもらいに行ったのはドルフィンだけ。周囲にいた多くの観客は「あ~あ、外国人だとドライバーと間違えてサインもらうヤツいるんだよなぁ」的な目で見ているだけ。「タイトル争いした名ドライバーなんだってばさ!! みんな、サインもらいに行けよ~!」と叫びたくなった。
今でも日本GPにはリポーターとして来られているらしい。
サウンド・オブ・エンジンとかにドライバーとして来てほしいな。
ウイリアムズFW09ホンダは日本でレースはしていない。
次にその姿を見たのは’92年のF1日本GPで展示されていたケケ選手優勝マシンだった。
3度目は2015年のファン感謝デー「伝説の物語」でホンダF1総展示された時だった。ノーズにTAGのロゴが入っているが…。
ホンダF1鈴鹿テストは公開だったため、ホンダのマシンも広場に展示されて❝イベント❞っぽく盛り上げられていた。
F1初優勝したRA272
優勝1回、3位1回の成績を上げたRA300
欧F2を圧倒したラルト/ホンダ RH6
この年のF2開幕戦からスタートすることになっていた「シティ・ターボⅡブルドックレース」のマシンも先行公開されていた。
シティターボⅡは好きで、いずれは乗りたい車だった(結局乗ることは無かったが)。オーバーフェンダーのスタイルやパワー。魅力的な車だった。
レースは激しいぶつかり合いで、重心が高いので毎回派手な転倒シーンが観られた。
松田秀士選手も出場。義兄・ビートたけしさんの番組で毎戦放送されていた。
ホンダで頂いたステッカー
サウンド・オブ・エンジンで走るGr.Cカーの現役時代 何もない日にサーキットに行ってみる鈴鹿5
F1日本GP初開催を控えた’87年夏の鈴鹿サーキット。
「何か走っていないかな?」と勘を頼りにホンダMVX250で名古屋市から名四国道を走っっていった。
❝勘❞を頼りにサーキットに行くのはたぶんこれが最後になっている。
翌年からは大阪に転居したのでレース日にしか行く事はしていないし、’90年代に入ってからの富士は❝知恵を付けて❞走行の有無を確認して行くようにしていた。
この日は鈴鹿1000㌔に向けたGr.Cカーの走行。
近年のサウンド・オブ・エンジンで走行しているマシンたちが現役バリバリだった。
カルソニック-ニチラ・マーチ87Gニッサン/星野一義/高橋健二組
鈴鹿のイベントやサウンド・オブ・エンジンで走行してくれている。
マーチ87Gニッサン/長谷見昌弘/鈴木亜久里組
第二戦・富士でポールポジションを獲得している。
ミノルタ・トヨタ・トムス87C/関谷正徳/小河等組
本番の鈴鹿1000㌔ではジェフ・リース選手を加えた3人体制で優勝。
ミノルタ・トヨタ・トムス87C
#37はTカーだったようだ。
アドバンアルファ・ポルシェ962C/高橋国光/ケネス・アチソン組
Gr.Cカーが走っていた 何もない日にサーキットに行ってみる 鈴鹿4
1987年の夏休み。「何か走っているかな?」と鈴鹿サーキットまでホンダMXV250を走らせた。
「これが走っている」と確証があった訳ではない。
何の目的で行ったのか覚えていないが、F1のテストかF3000でも走っていればいいな-という感じだったかもしれない。
サーキットに行くと鈴鹿1000㌔に向けたGr.Cの練習走行が行われていた。
「あ、Gr.Cカーだ」と驚いた記憶があるので、Cカー目的ではなかった事は確かだ。
毎年観戦に行っていたWECジャパンだったが、この年の秋には鈴鹿サーキットでF1日本GPが初開催される。秋にBIGレースを2つは予算的には無理。もちろんF1に行くのでWECは’86年までと決めていた。
-なので、逆にこの年のCカーを観る事ができて良かったかもしれない。
レイトンハウス・ポルシェ・962C /クリス・ニッセン/フォルカー・ヴァイドラー組
カワイスチールの印象が強いヴァイドラー選手だが、レイトンハウスでもドライブしていた。
F3000やGCでも活躍していたヴァイドラー選手だが、1回も直接お会いする事は無かった。
この日もグランドスタンドとヘアピンからしか写真を撮っていない。
当時は使えるフィルムの枚数が少なかったので、練習走行撮影ではあまりあちこちコーナーを巡る事はしていなかったのかも。
パドックにも行っていない。
オートビュレック・トムス86C/星野薫/アンドリュー・ギルバート・スコット組
ワコール童夢87C/エジェ・エルグ/ロス・チーバー組
このワコールカラーは綺麗で好きだった。
フロムAポルシェ962C/岡田秀樹/マイク・サックウェル組
「フロムA」と言えば岡田秀樹選手。昔は速かったなー。遊びを覚えるまでは。
マツダ757/片山義美/寺田陽次郎組
日石トラスト・ポルシェ962C/バーン・シュパン/鈴木恵一組
アルファキュービック・ポルシェ962C/戸谷千代三/長坂尚樹組
BA-TSUグッピー/BMW
真っ赤なスーパーカー葛城山麓を走る NCCR葛城-五條
まだ夏の暑さが残る2019年の9月末に開催されたクラシックカーとエキサイティングカーによるラリー・NCCR葛城-五條。
秋からイベントが多くかった事と、一般車はナンバープレートを消す作業が必要なのでUPするのが遅れてしまっていた。
既に3回更新しているが、今回はその続き。
葛城山麓にある屋敷山公園をスタート&フィニッシュ地点として、ここ数年連続開催されている。
―が、2019年は駐車場に集結している参加車
に❝目を奪われた❞一般車が追突事故を起こしてしまったため、2020年は開催できるかどうか…。
山は青々とし、田んぼのあぜ道には彼岸花が咲き誇っていた。
空は秋の雲が出ていた。
BMW 320i 1984年
ボルク・レーシングのデカールとホイール!
ランボルギーニ・カウンタック25アニバーサリー 1989年
ホンダNSX 1990年
ランチア・デルタ・インテクラーレEvoⅡ 1995年
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スーパーシルエット・レース ’83富士GC第2戦サポートレースも面白い
初めて観戦に行った’83年富士GC第2戦。
当時はまだ電車を使っていた。東海道戦で国鉄・沼津駅に行き、そこから御殿場線。東海道線の到着と御殿場線の発車の接続が悪く、沼津駅でしばらく待たなければならなかった。
国鉄・御殿場駅からはFISCO行きバス。直行バスがあったかなぁ? 富士霊園行きに乗って、そこから歩いてFISCOまで行ったんだったかなぁ?
サポート・レースはハコ車のレースだった。
マイナーツーリングとスーパーシルエットは人気のあるレースで1日で何度もメインレースを観ているようなお得感が嬉しかった。
マイナーツーリング・レースのスタート
スーパーシルエット・レースが登場するまで改造範囲が広いカテゴリーとして人気を誇っていたマイナーツーリング。
ダンゴバトルが面白かった。
プログラムを見ると、関谷正徳選手、都平健二選手、星野薫選手の名前があった。
柳田春人選手サイン入りプログラムと予選結果表
セントラル20グッズを買ってサイン会に参加。サイン入りだったのでプログラムを残してあった。
お昼はお弁当を持って行っていた(小遣いが少ないので)。
プログラムを買って、写真は36枚撮り2本くらいだったか。その後の現像・プリント代を考えると多くは撮れない。
グランドスタンド裏のグッズショップでステッカーとかちょっと買い物したりした。あの頃って版権取っていないものばかりだったんだろうな。そこでしか買えないレース関係のステッカーやワッペンは貴重だった。
レースクイーンの片山みゆきさん
プログラムにプリフィールが掲載されていた。
メインの富士GC以上に人気を集めていたスーパーシルエット・レース。
日産ターボ軍団の他にもサバンナRX-7のプライベーター勢が参戦していた。
長谷見昌弘選手/スカイラインRSターボ・スーパーシルエット
ロータス79とともにドルフィンの大好きなレーシングカーNo.1のRSターボ前期型。
星野一義選手/シルビア・ターボ・スーパーシルエット
スタート前に「星野サ~ン! ポーズとって~」の観客の声に「シェー」をする星野選手。
柳田春人選手/ブルーバード・ターボ・スーパーシルエット
’82年型よりもシュッとしたスタイルになった。
スーパーシルエット・レースのスタート
日産ターボ軍団の3台が毎周順位を入れ替える激しい展開だった
ブルーバードは白煙を上げているのではなく、オイル処理の石灰を踏んだため。
昨年(2019年)の鈴鹿サウンド・オブ・エンジンの際にスーパーシルエットの写真にサインを入れて頂いた。
優勝:星野一義選手/シルビア・ターボ・スーパーシルエット
半車身差で2位:柳田春人選手/ブルーバード・ターボ・スーパーシルエット
3位:長谷見昌弘選手/スカイラインRSターボ・スーパーシルエット































































































































