一橋大学日本史
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1991年

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 1858(安政5)年に徳川幕府が諸外国と通商条約を締結して以来、日本は不平等条約(1)のもとに置かれつづけた。ついで徳川幕府が崩壊し、維新政権が成立すると条約改正問題は、明治日本の国家的課題となった。1871(明治4)年、岩倉具視を全権大使とする遣欧米使節団が欧米諸国を訪問したが、条約改正のための予備交渉は最初の訪問国アメリカで早くも挫折した。以後、寺島宗則、井上馨(2)、大隈重信、青木周蔵(3)など歴代の外務卿・外相が改正の努力をつづけたが、いずれも失敗に終わった。結局、わが国が条約改正問題を最終的に解決するためには、日清戦争直前と日露戦争後の二つの条約改正(4)まで待たねばならなかったのである。

 

問1 一連の通商条約が不平等条約といわれる理由を3点挙げよ。また、1866(慶応2)年に幕府が再度、イギリス、フランス、アメリカ、オランダと締結した条約の名称と内容を記せ。
問2 (イ) 井上馨が条約改正交渉を行っていた最中に起こった対外的事件の名称と内容を記せ。(ロ) また、当時、自由民権派は井上条約案の屈辱的内容と極端な欧化政策に反対して、民権派最後の運動を盛り上げた。「民権派最後の運動」とは何か、具体例2つを記せ。またそれに対する政府の対応を述べよ。
問3 青木周蔵外相も、対外的事件が原因で辞職を余儀なくされ、改正交渉は挫折した。その対外的事件とは何か、簡単に説明せよ。
問4 下線部(4)の二つの改正条約の内容を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)日本に滞在する自国民への領事裁判権が認められており、日本の関税自主権を欠いていた。また片務的最恵国待遇が定められていた。改税約書。諸外国に有利になるよう関税率を平均20%から一律5%に引き下げた。2(イ)ノルマントン号事件。イギリスの貨物船ノルマントン号が難波した際、日本人乗客は全員見殺しにされたが後のイギリス人領事による海事審判で船長の過失は問われなかった。(ロ)大同団結運動。三大事件建白運動。政府は保安条例を出して民権派を東京から追放した。(3)大津事件。訪日中のロシア皇太子が警備の巡査津田三蔵によって切りつけられ負傷した。大審院長の児島惟謙は大逆罪を適用せよという政府の圧力に屈さず、津田を適法の無期徒刑に処して司法権の独立を守った。(4)日清戦争直前に調印された日英通商航海条約では領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、相互対等の最恵国待遇を定めた。日露戦争後の日米通商航海条約では関税自主権を回復した。(400)

 

 

コメント 

※(2)は船長は微罪に問われた。

※(3)は「大審院長の~」以下は不要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の史料は、1945年11月5日の幣原内閣の閣議決定、「戦争責任等に関する件」の一節である。この閣議決定は、連合国側が実施を予定していた、いわゆる「A級戦犯裁判」に対する日本政府としての対処方針を決めたものであるが、これを読んで以下の問いに答えよ。(400字以内)

 

左の諸点に準拠し之を堅持すること
(1) 大東亜戦争は帝国が四囲の情勢に鑑み已むを得ざるに出でたるものと信じ居ること。
(2) 天皇陛下に於かせられては飽く迄対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念 1 あらせられたること。
(3) 天皇陛下に於かせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられ居る慣例に従はせられ、大本営 2 、政府の決定したる事項を却下遊ばされざりしこと。
(4) 日米交渉継続中に攻撃を加ふることを避けんが為日米交渉打切りの通告方努力せること。
註 1 心をいためること 2 有事における作戦指導の最高機関

 

問1 第2項中の「対米交渉」、第4項中の「日米交渉」とは何か。その経過や争点についてふれながら具体的に説明せよ。
問2 第2項および第3項は、天皇の戦争責任問題に対する日本政府の公式見解を示している。こうした見解は国際的にも大きな論議をよぶことになるが、明治憲法の上では「開戦の決定」および「作戦計画の遂行」の権限は、それぞれ、どのように規定されていたか。天皇・政府・大本営の関係にも留意しながら具体的に説明せよ。
問3 日本で実際に実施された「A級戦犯裁判」について具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)アメリカとの関係悪化に対し、第二次近衛内閣は帝国国策遂行要領を出して対米交渉を図ったが、妥協点を見出せず失敗に終わり、続く東条英機内閣でのアメリカ側の提案は日本の満州事変以前の状態への復帰を要求するものだったため、日本政府は対米交渉を不成功と判断、開戦に踏み切った。(2)「開戦の決定」・「作戦計画の遂行」はどちらも議会の協力なしに天皇が行使できる天皇大権であった。前者は天皇が自らの積極的意思によって行使することはなく、専ら国務大臣や帝国議会の輔弼と協賛によって行使する慣例であった。後者においては軍隊の作戦権は陸軍参謀本部・海軍軍令部の補佐の下に発動され、政府も介入できない慣行であった。兵力量の決定は内閣の輔弼事項であった。(3)連合軍が国際条約に違反して戦争を計画・開始した者に対して「平和に対する罪」を適用し、極東軍事裁判で裁いた。その結果、東条英機らがA級戦犯とされ、うち7名が処刑された。(398)

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1990年

第一問

 

次の文章は、それぞれ13世紀(1)、14世紀(2)、18世紀(3)に著された歴史書の一部である。これらを読んで、下記の問いに答えよ。(文章は、原文を書き改めてある。)(400字以内)

 

(1) 年にそえ日にそえては、物の道理をのみ思い続けて、老いの寝覚めをも慰めつつ、いとど年も傾き罷るままに、世の中も久しく見て侍れば、昔より移り罷る道理もあわれにおぼえて、神の御代は知らず、人代となりて神武天皇の御後百王と聞こゆる。既に残り少なく、八十四代にもなりける中に、保元の乱出来て後のことも、また世継が物語と申すものも、書ぎ継ぎたる人なし。(中略)それは、皆ただ良きことをのみ記さんとて侍れば、保元以後のことは皆乱世にて侍れば、悪き事にてのみあらんずるをはばかりて、人も申し置かぬにやと愚かにおぼえて、一筋に世の移り変り衰え降ることわり一筋を申さばやと思い続くれば、誠にいわれてのみおぼゆるを、かくは人の思わで、この道理に背く心のみ有りて、いとど世も乱れ穏しからぬことにてのみ侍れば、これを思い続くる心をも安めんと思いて、書き付け侍るなり。
(2) 大日本は神国なり。天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝え給う。(中略)ただ我国のみ天地開けし初めより今の世の今日に至るまで、日嗣を受け給う事よこしまならず。一種姓の中におきても、自ら傍より伝え給いしすら正に帰る道ありてぞ保ちましましける。これ、しかしながら神明の御誓あらたにして、余国に異なるべきいわれなり。そもそも神道のことはたやすく顕さずということあれど、根元を知らざれば猥りかわしき始めともなりぬべし。そのついえを救わんがために、いささか勒し侍り。
(3) 本朝天下の大勢、九変して武家の代となり、武家の代また五変して当代に及ぶ、(中略)鎌倉殿天下の権を分たれし事は、平清盛武功によりて身を起こし、遂に外祖の親をもて権勢を専にせしによれり。清盛かくありし事も、上は上皇の政乱れ、下は藤氏累代権を恣にせしに傚いしによれるなり。されば、王家の衰えし始めは、文徳幼子をもて世継となされしによれりとは存ずるなり。尊氏天下の権を恣にせられし事も、後醍醐中興の政正しからず、天下の武士、武家の代を慕いしによれるなり。尊氏より下は、朝家はただ虚器を擁せられしままにて、天下は全く武家の代とはなりたるなり。

 

問1 それぞれの著者名と書名を書け。
問2 各文章に見られる著者の歴史のとらえ方の特徴について、その時代の思潮や政治動向と関わらせて説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

1(1)慈円。愚管抄。(2)北畠親房。神皇正統記。(3)新井白石。読史余論。2愚管抄はそれまで合戦の起きたことのなかった京都を舞台にした保元の乱が起きたことで衰退していく貴族の運命と、武士が政争に使われたことによる武士の台頭を末法思想の影響を受けつつ、歴史は必然的な「道理」に基づき展開するという史観に立って叙述している。神皇正統記は全国的な統一政権としての幕府を開こうと目論む足利尊氏が立てた光明天皇側の北朝と、建武の新政からの引き続く天皇親政を行おうとする後醍醐天皇側の南朝間の抗争が続く中で書かれ、渡会家行の説いた伊勢神道や朱子学の大義名分論の影響を受けつつ、南朝の正当性を主張した。読史余論は白石が江戸幕府の権威上昇をはかった正徳の政治を行っている間に書かれたもので、歴史を段階に区分してとらえ、独自の九変五変論を展開しながら公家政権から武家政権への変化の過程をたどり、江戸幕府の正当性を主張した。(398)

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1989年

第一問

 

近代以前の日本は、東アジア社会の一員として、他の地域と相互に影響を及ぼしあいながら、歴史を展開させてきた。次に掲げた年には、日本の対外関係史上重要な出来事が起きている。そのそれぞれについて、内外の歴史的背景と日本社会への影響を含めて説明せよ。(400字以内)

 

(1)607年、(2)894年、(3)1401年、(4)1543年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)推古天皇のもとで中央行政機構の編成が進められる中、607年に小野妹子が遣隋使として中国へ渡り、倭の五王時代の服属外交から対等外交の確立を目指した。(2)唐の衰退に伴い、894年菅原道真は遣隋使派遣を停止した。これを受け日本ではそれまでの大陸文化の消化の上に立って、日本の風土や日本人の人情・嗜好にかなった優雅で洗練された国風文化が生まれた。(3)13世紀後半に起きた元寇以来中国大陸と日本の間に正式な外交関係はなかったが、足利義満が1401年に明と国交を開いた。日明貿易は朝貢貿易の形式をとっており、貿易費用は明側が負担したため日本側の利益は大きく、また大量に輸入された銅銭は日本の貨幣経済の発展をもたらした。(4)1543年にポルトガル人が種子島に漂着し、それ以来スペイン人も加わって南蛮貿易が行われるようになった。貿易で日本に大量にもたらされた鉄砲は戦国大名のあいだに新鋭武器として急速に普及し、戦国時代の到来を招いた。(400)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

幕末政治史についてのべた次の文章を読み、下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 18世紀末から19世紀初頭にかけて欧米列強の船がしばしば来航するようになり、対外問題は急速に緊迫の度を強めた。1808(文化5)年にはフェートン号事件がおこって幕府を狼狽させたが、(ア)その後の幕府の対外政策は、情勢に左右されて、強硬になったり柔軟になったりした
 1853(嘉永6)年にペリーが来航すると、老中阿部正弘は、朝廷に報告するとともに諸大名・幕臣に意見を求める方針をとったが、これを機に朝廷の権威か高まり、さまざまの政治勢力が登場して、幕末の政治的激動がはじまった。将軍継嗣問題はその最初の事例で、(イ)2つの勢力が争い、井伊直弼が登場して強硬な措置をとった
 井伊直弼が暗殺されたあと、幕府は朝廷との融和政策をとったが、やがて尊王攘夷派が朝廷を動かすようになり、1863(文久3)年には、幕府はやむをえず期日を定めて攘夷の決行を各藩に命じた。しかし、(ウ)定められた期日に攘夷を行ったのはかぎられた藩だけで、尊王攘夷派は同年8月18日の政変で京都から一掃された。
 他方幕府は、2回にわたって長州藩征討の兵をおこしたが、第2次の長州藩征討は、薩摩藩など有力な藩の支持をえられなかったことのほか、(エ)民衆運動の激化にも影響されて、中止せざるをえず、これを境に幕府の政治的権威は急速に失われた。

 

(1) 文政・天保期(1818~1844)の幕府の対外方針を示す法令を2つあげて、下線(ア)を説明せよ。
(2) 下線(イ)の「2つの勢力」について説明し、それとの関連で井伊直弼がどのような方針をとったかをのベよ。
(3) 下線(ウ)の「攘夷」と、それを直接の原因として生じた事件について説明し、これらの事実が対外観に与えた影響にも言及せよ。
(4) 第2次の長州藩征討が行われた年は、民衆運動がもっとも激化した年にあたる。その原因にも言及しながら、下線(エ)の「民衆運動」を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)幕府は日本に頻繁に来航した外国船の船員と住民との衝突を回避するため、1825年に異国船打払令を出して諸藩に外国船の撃退を命じた。一方アヘン戦争による清の敗北が日本に伝わると1842年に異国船打払令を緩和し、薪水給与令を出した。(2)一橋家の慶喜を推す松平慶永や島津斉彬らの一橋派と紀伊藩主徳川慶福を推す南紀派が対立した。井伊は安政の大獄で一橋派の大名や家臣を多数処罰した。(3)長州藩が攘夷を実行に移すと幕府は第一次長州征討に向かい、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国も貿易の妨げになる攘夷派を下関で襲撃した。イギリス公使パークスは幕府の統治力の弱体化を見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現を期待するようになった。(4)開国に伴う物価上昇や政局をめぐる抗争は社会不安を増大させ、世相を険悪にした。その結果、農民が「世直し」を期待して世直し一揆をおこし、大阪や江戸では町衆による打ちこわしが発生した。(398)

 

 

※対外観は外国の日本に対する見方ではなく、日本の外国に対する見方のため、(3)のパークスの部分は誤り。

※薪水給与令を出した目的は食料や薪水を補給して穏やかに帰帆させるため。

※(3)は正しくは四国艦隊下関砲撃事件。長州藩が攘夷→四国艦隊下関砲撃事件発生→攘夷の不可能を悟る→西洋の兵器を導入して自藩の軍事力強化のためイギリスへ接近した。

※(4)大阪や江戸→「各地で」と書けばよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章は、組閣直後の第2次近衛文麿内閣が1940年7月26日に閣議決定した「基本国策要綱」の一節である。これを読んで下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 世界ハ今ヤ歴史的一大転機ニ際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ皇国亦有史以来ノ大試錬ニ直面ス。コノ秋ニ当リ真ニ肇国ノ大精神ニ基ク皇国ノ国是ヲ完遂セントセバ右世界史的発展ノ必然的動向ヲ把握シテ庶政百般ニ亘リ速ニ根木的刷新ヲ加へ万難ヲ排シテ国防国家体制ノ完成ニ邁進スルコトフ以テ刻下喫緊要務トス。

 

(1) この閣議決定は、国際情勢の新たな展開を「世界史的発展ノ必然的動向」として把握している。第1次世界大戦直後の時期との相違に留意しながら、この時期の国際情勢の特質について説明せよ。
(2) 国内における政治的対抗関係を中心にして、第2次近衛内閣成立の経過について説明せよ。
(3) この閣議決定にいう「国防国家体制ノ完成」のため、政治組織や社会組織などの大規模な改革が、この時期に行なわれている。代表的事例を3つあげて説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)第一次世界大戦直後の国際紛争の平和的解決と国際協力を目指したベルサイユ体制とはうって変わり、ベルサイユ体制を打破して「世界新秩序」を目指す日本・ドイツ・イタリアの枢軸陣営、アメリカなどの自由主義・民主主義諸国、社会主義国であるソ連の三勢力が対立し、国際情勢は動揺していた。(2)第2次近衛内閣では日米交渉の期限を決め、交渉が不成立ならば開戦に踏み切るという帝国国策遂行要領が出された。しかしアメリカとの妥協点を見出せずに期限をむかえ、日米交渉の妥結を強く希望する近衛首相と交渉打ち切り・開戦を主張する東条英機陸軍大臣が対立し、近衛内閣は総辞職した。(3)すべての労働組合・労働団体は解散され、職場ごとに労使一体で国策に協力する大日本産業報国会が結成された。内閣情報局が設置され、マスメディアを総合的に統制し、戦争遂行のために利用する方針が採られた。新体制運動の推進を目指し、大政翼賛会が結成された。(396)

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1988年

第一問

 

次の文章は、明治時代に編さんされた官撰の大百科『古事類苑』の徳政に関する説明である。これを読んで、下記の問い1~3に答えよ。(400字以内)

 

 

 徳政ノ称ハ、仁政苦政ト一般ニシテ、中古王政ノ世ニ当リ、天災地妖ヲ始トシ、異常ノ事アリテ、租ヲ〓[のぞ]キ、刑ヲ緩クシ、仁ヲ施シ、徳ヲ布ク毎ニ、特ニ此ノ名ヲ用ヰ、鎌倉幕府ノ始ニ於テモ、其行フ所仍ホ中古ノ政ト異ナラザリシガ、・其中葉以降ニ至リテハ、大ニ往時ニ反シ、負債ヲ債主ニ償ハズ、質物及ビ売買地ヲ本主ニ還サシムルヲ以テ徳政ト称セリ。故ニ債主若シクハ田畠ノ買主ハ、其負債者、若シクハ田畠ノ売主ヨリ、徳政担保ノ証書ヲ請取リ、又ハ売渡証文ト譲状トノ二通ヲ製シテ、買主ノ便宜ニ供スル等ノ事アリキ。而シテ足利幕府ニ及ビテ、其弊ヲ極メ、・負債者ハ、債額ノ十分ノ一、或ハ五分ノ一ヲ政府ニ納レ、政府ヨリ奉書ヲ得テ証左ニ備フルニ至リ、貧民保護ノ名ノ下ニ、政府自ラ利益ヲ獲得スルノ計ヲ為セリ。是ニ於テ・徳政一揆ナドト称ヘテ、暴民四方ニ肆行シ、他人ノ財物ヲ掠奪シ、或ハ政府ニ逼リテ、徳政ヲ行ハシメントスルニ至レリ。而シテ徳政中ニ於テ、天下ニ普ク之ヲ行フヲ一国平均ノ徳政、又ハ天下一統ノ徳政ト云ヒ、其他一国ニ限ルアリ、京中ニ限ルアリ、公領ニ限ルアリ、又大名等私ニ之ヲ行フモアリシナリ。嘉吉文安ノ比ヨリ文明応仁ノ際最モ盛ニシテ、天正文禄ノ比ニ至テ稍衰ヘタリ

 

 

1 次の史料は、傍線部・で説明されている徳政令である。この法令は、何を目的として発布されたものか。傍点部分をふまえて説明せよ。
 一 質券売買地1)の事
 右、所領を以て或は質券に入れ流し、或は売買せしむるの条、御家人佗〓[てい]2)の基なり。向後に於ては、停止に従ふべし。以前沽却3)の分に至りては、本主4)領掌せしむべし。但し或は御下文・下知状を成し給ひ、或は知行廿箇年を通ぐるは、公私の領を論ぜず、今更相違あるべからず。もし制符に背き、濫妨を致すの輩あらば、罪科に処せらるべし。
 次に、非御家人・凡下5)の輩の質券買得の地の事、年紀を過ぐると雖も、売主知行せしむべし。
 注 1)質入れや売買した土地  2)困窮  3)売り払うこと  4)もとの所有者  5)庶民
2 傍線部・の手続きなどによる幕府収入を分一銭という。分一銭の取得方法について、この説明で不十分な点を補え。
3 傍線部・のように、徳政一揆が室町時代後期に頻発した理由を、次の語を用いて説明せよ。(荘園領主、土倉、年貢、加地子、惣村、強訴)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)鎌倉時代後期には御家人の多くは分割相続の繰り返しによって所領が細分化された上、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏していた。そのため幕府は永仁の徳政令を出して御家人の所領の質入れや売買を禁止して、それまでに質入れ・売却された土地を無償で取り戻させ、御家人の窮乏を防ごうとした。(2)債権者である高利貸の土倉や酒屋が徳政令の適用免除を幕府に要求する際にも幕府は債権者から債額の一部の分一銭を得ることができた。(3)鎌倉後期に発生した惣村は南北朝の動乱のなかで各地へ広がっていった。農民による自治的な村である惣村の農民は連帯意識のもとで年貢や加地子の減免を求めて一揆を結び、荘園領主に対して強訴や兆散などの実力行使を行った。この一揆は次第に徳政を要求するようになり、室町時代後期、農村には土倉などの高利貸が浸透していたため、各地で徳政一揆が結ばれ、実力による債務破棄・売却地の取戻しが行われた。(390)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章は、山県有朋首相の1890年(明治23)の意見書、「外交政略論」の一節である。これを読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

 

 国家独立自衛ノ道二ツアリ、一ニ曰ク主権線ヲ守禦シ他人ノ侵告ヲ容レズ、二ニ曰ク利益線ヲ防護シ自己ノ形勝ヲ失ハズ、何ヲカ主権線ト謂フ、疆土是ナリ、何ヲカ利益線ト謂フ、隣国接蝕ノ勢我ガ主権線ノ安危ト緊シク相関係スルノ区域是ナリ……而シテ外交及兵備ノ要訣ハ専ラ此ノ二線ノ基礎ニ存立スル者ナリ、方今列国ノ際ニ立テ国家ノ独立ヲ維持セントセバ、独リ主権線ヲ守禦スルヲ以テ足レリトセズ、必ヤ進テ利益線ヲ防護シ常ニ形勝ノ位置ニ立タザル可ラズ、利益線ヲ防護スルノ道如何、各国ノ為ス所苟モ我ニ不利ナル者アルトキハ我レ責任ヲ帯ビテ之ヲ排除シ、已ムヲ得ザルトキハ強力ヲ用ヰテ我ガ意志フ達スルニ在リ

 

 

(1) 傍線を付したような考え方に立って、西南戦争以降、この時期までに行なわれた軍事上の改革について説明せよ。
(2) この意見書の中で山県は、「我邦利益線ノ焦点ハ実ニ朝鮮ニ在リ」と論じている。日清戦争の開戦に至る日本の対朝鮮政策について説明せよ。
(3) この意見書が出された頃、民間においても国民的自覚を促す言論活動が活発となった。その内容を説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)陸軍は参謀本部を新設して統帥部を強化し、軍人勅諭を発布して天皇に対する軍人の忠節を強調した。また、陸軍の編成が、国内治安対策に主眼を置いた従来の鎮台から対外戦争を見据えた師団へと改められた。さらに、大日本帝国憲法では天皇に対して議会の関与できない天皇大権として国防方針の決定権や陸海軍の統帥権を認めた。(2)朝鮮の近代化を図る親日派のクーデタを援助したが失敗に終わり、これを受けて清国との間に天津条約を結んだことで朝鮮に対する影響力は低下した。後に甲午農民戦争が勃発すると朝鮮の内政改革を巡って清国と対立を深め、日清戦争開戦に至った。(3)徳富蘇峰は山路愛山らとともに、一般国民の生活の向上と自由を拡大するための平民的欧化主義の必要性を説いた。これに対して三宅雪嶺や陸羯南らは日本固有の伝統のなかに価値基準を求め、それを基礎に国民国家を作り上げようとする国粋保存主義を説いた。(385)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

日本の近現代史における代表的なデフレ政策を3つあげて、説明せよ。(400字以内)その際、下記の3点に留意すること。

 

 

1 デフレ政策を推進した中心人物と時期
2 デフレ政策が登場した歴史的背景
3 デフレ政策がもたらした経済的・社会的結果(具体的に)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

19世紀後半、西南戦争の戦費のために不換紙幣が増発され、さらに国立銀行も不換紙幣を増発したことで激しいインフレが発生した。松方正義は増税によって歳入の増加を図り、軍事費以外の歳出を緊縮して歳入の余剰で不換紙幣を処分した。この結果、物価の下落と実質的な地租増大により自作農が土地を手放して寄生地主制が発展した。1920年代の度重なる恐慌を政府は日銀券を増発して処理したため、インフレの傾向が強まっていた。そこで井上準之助は財政緊縮、産業合理化、旧平価による金解禁を行い経済界の抜本的整理を図った。しかし世界恐慌の影響もあり不況が深刻化し、昭和恐慌に陥った。戦後行われた傾斜生産方式では赤字財政による巨額の資金投入が行われ、インフレが進行した。そこでドッジが来日し、単一為替レートを設定して国際競争のなかで輸出振興を図った。しかしインフレは収束したものの不況が深刻化し、中小企業の倒産・失業者が増大した。(397)

 


 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1987年

第一問

 

次の文章は、大平与平衛が天保10年(1839)に書いた、越後国長岡藩の農家の年中行事の記録『農家年中行事記』の一部である。これを読んで、次の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

 正月元旦、(中略)庄屋組頭五人組を始め、村中相互に祝詞に廻り。当日百姓は羽織袴、名子ハ袴に服類。庄屋の事を名主、田地不持ものを名子といふ。是ハ古くより公私言伝ひたり。原由ハ古来は村の字を用ひず、名の字を用ふ。譬へば何村を何名といふ故に名主名子の名称起きる。
 正月二十日、(中略)当日御蔵開き御用始に付、庄屋は麻上下、組頭は羽織袴にて、其その御蔵元へ罷出、御代官所ヘ御祝儀申上る。御領法御条目読渡有之。終て結び昆布にて祝杯三献を被下。

 

(1) ここでは「名」の起源について解説している。しかし、それは不正確で不充分だといわなくてはならない。そこで、正しく書き直せ。
(2) もちろん、ここに書かれているように、農民が「袴」を祝着として着るようになったのは、江戸時代になってからのことである。そこでそれ以前の時代に、「袴」はどのような服装であったかについて、簡単に述べよ。
(3) 1月20日には、庄屋たちが代官から、守るべき法や条目を読み聞かされている。これは、この時代の年貢の取り立て方と密接な関係がある。その年貢の取り立て制度について説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)この文章では、昔は村という字の代わりに名という字が用いられたことが名の起源だとしている。しかし実際は、公地公民制の崩壊に伴って土地に対する私有権が発生し、土地の所有者である名主が自らの名前を冠して命名したことが起源である。(2)江戸時代以前では袴は庶民や貴族の普段着として着用されていた。(3)鎌倉後期に発生し、南北朝の動乱のなかで各地に広がった農民による自治的な村である惣村では、領主に納める年貢を惣村全体で請け負う地下請が行われており、後の豊臣秀吉による政策では村ごとに検地が実施され、村を単位として検地帳が作成されたことにより村の境界が確定し、さらに一地一作人の原則により土地に対する重層的な権利関係が解消された。これを受けて、江戸時代においても村全体の石高である村高を対象として年貢が賦課され、村役人の責任の下、村全体で年貢を一括納入する村請制が採用されていた。(382)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章は、1901年(明治34)に出版されたある社会主義者の書物の一節である。この文章を読んで、下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 今や我日本も亦此主義に熱狂して反かえらず。十三師団の陸軍、三十万噸の海軍は拡張されたり、台湾の領土は増大されたり、(問2)北清の事件には軍隊を派遣せり、国威と国光は之が為に揚れり、軍人の胸間には幾多の勲章を装飾せり、議会は之を賛美せり、文士詩人は之を謳歌せり。而して是れ幾何か我国民を大にせる乎、幾何の福利を我社会に与ヘたる乎。
 八千万円の歳計は数年ならずして三倍せり、(問3)台湾の経営は占領以来一億六千万の費を内地より奪ひ去れり、二億の償金は夢の如く消失せり、財政は益す紊乱せり、輸入は益す超過せり、(問4)政府は増税に次ぐ増税を以てせり、市場は益す困迫せり、風俗は益す頽廃し、罪悪は日に増加せり、而も社会改革の説は嘲罵を以て迎へられ、教育普及の論は冷笑を以て遇せらる、(後略)。
 故に我は断ず、帝国主義なる政策は、少数の欲望の為めに多数の福利を奪ふ者也、(後略)。

 

問1 この書の著者と書名を記せ。
問2 「北清の事件」とはどのような事件か。具体的に述べよ。
問3 この書物が出版された1901年前後の「台湾の経営」の経済的特徴を述ベよ。
問4 下線部分を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)幸徳秋水。『廿世紀之怪物帝国主義』。(2)日清戦争後の列強の相次ぐ中国分割に対し、排外主義団体義和団が「扶清滅洋」を唱えて外国人排斥運動を起こすと、清国政府もこれに同調し、列国に宣戦を布告した。これに対し日本を含む列国は連合軍を派遣して清国軍を降伏させ、翌年には清国との間に北京議定書が結ばれた。(3)後藤新平の下で土地調査事業が進められ、台湾総督府の課税対象となる農地が拡大するとともに、封建的な土地所有制度が否定されて近代的な土地所有制度への移行が進められた。また、台湾銀行や台湾製糖会社が設立されるなど、産業の振興も図られた。(4)日本政府は清国との下関条約締結により遼東半島の領有を認められたが、露仏独による三国干渉で同半島の返還を余儀なくされた。以降、日本政府は対露戦を視野に入れた軍備拡張政策をとり、その財源を補うために日清戦前より徴収されていた酒造税・地租・所得税などの増税が図られた。(395)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1986年

第一問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

相渡シ申一札之事 一、寅ノ御年貢不足申候ニ付面(て)、金壱分請取、寺ノ前之上畑壱畝廿壱歩之所、但うわ木まても、永代ニ相渡申候。

 

 上の文は、相模国(神奈川県)のある村の農民が、慶安4(1651)年の5月に、同じ村に住む地主に、耕地を売り渡したさいの、証文の書き出しの部分である。慶安3年(寅年)の年貢を完納するために、「寺ノ前」という場所の上畑1畝21歩を、そこに栽培されているもの(うわ木)を含めて、金1分で永代に売り渡すというのである。
 このような証文は、17世紀半ばには、全国各地でひろく見られた。これについて、次の問いに答えよ。

 

(1) このような文体は「かな混り候文」と呼ばれる。この文体の基礎となっている「かな文字」の成立とその歴史的意義について述べ、さらにそのような文化現象は、東アジアにおいても、わが国だけのものではなかったことを、例をあげて述べよ。
(2) これらの証文を書いた農民の多くは小百姓(小経営農民、小農民)である。小百姓は、荘園制の時代を通じて、その社会的地位をたかめてきたと言われる。その成長を基礎づけた生産力の発展のあり方について述べよ。
(3) この証文は、幕府がとった重要な土地政策に違反している。その政策とは何かを記し、またその政策がとられるに至った直接の契機について簡単に述べよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)漢字を簡略化したり、その一部をとることで生み出された。かな文字の成立により、日本人特有の感情や感覚を生き生きと表現することが可能となり、日記や物語などの国文学の発達をもたらした。東アジアにおける西夏文字や契丹文字なども同様にして成立した。(2)元寇の前後の時期から農業の発展がみられ、畿内や西日本では麦を裏作とする二毛作が普及し、肥料には刈敷や草木灰が利用された。さらに中世後期には水車などによる灌漑や排水施設の発展により三毛作も行われるようになり、肥料には下肥も用いられるようになって藍や桑などの原料作物栽培も行われた。この一連の農業発展は農民の農業生産力の向上をもたらし、豊かになった作人や下人などの農民が名主の元を離れ、新たに名主として自立した小農民へと成長していくことを可能にした。(3)田畑永代売買の禁令。当時、寛永の大飢饉を背景として富農への土地集中と本百姓の没落が進んでいた。(392)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

 日清戦争後、日本の産業革命は急速な進展をみせた。産業革命の主導的産業部門とされる紡績業が大きく発展したばかりでなく、製糸業も日本の産業革命の一翼になって急成長をとげた(1)。1897年に設立された官営八幡製鉄所の発展が重工業の基礎を築いたことに示されるように、日本の産業革命にたいして政府がはたした役割も大きかった(2)。いっぽう、産業革命と並行して農村では寄生地主制が発展し、資本主義との結合を深めた(3)。

 

(1) 製糸業と日本の産業革命との関係を当時の貿易構造に即して述べよ。
(2) 産業革命にたいする政府の役割を具体的事例をあげて述べよ(官営八幡製鉄所の例は除く)。
(3) 下線(3)の部分について具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)当時綿糸紡績業では機械制生産が普及し、輸出が増加していたものの、原料綿花・機械を輸入に頼っていたため、輸入超過が続いていた。これに対し、最大の輸出産業であった製糸業は国産の繭と機械を使用したため、製糸輸出によって確保された外貨が原料綿花・機械の輸入に使用された。(2)日本勧業銀行・日本興業銀行などの特殊銀行を設立し、産業界へ資本を供給させた。また造船奨励法・航海奨励法を公布して、鉄鋼船の建造と外国航路への就航に奨励金を交付した。(3)日清戦争後、都会で産業革命が進展したのと対称的に農村部では農業発展が停滞しており、デフレによって定額金納の地租は実質的な農民の負担増加となっていた。困窮した農民は土地を手放して小農民となる一方、地主は土地を集積して小作料収入に依存する寄生地主となっていった。寄生地主は高率な小作料収入の余剰を企業や株式に投資したり、自ら会社を設立するなど資本主義社会へ進出していった。(400)

 

※(1)産業革命なので蒸気機関を用いたことには触れておくべき。

※(3)(「デフレによって」のとこは)松方財政期のみのため、産業革命期のこととして述べるべきではない。また、下線部が「寄生地主」ではなく「寄生地主”制”」であることに注目。寄生地主制においては小作人も不可欠の存在で彼らの子女が繊維産業に安価な労働力を提供したことも重要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章は、東京朝日新聞の社説の一部である。これを説んで、下記の問い(1)(2)に答えよ。(400字以内)

 

 護憲内閣が普選を議会に提出せざる前に、貴族院改革の案も決せざるうちに、かつて政友会内閣も通過をいさぎよしとしなかった法案、貴族院では再修正までしたくらいに異論のあった法案を、さらに広汎に、さらに厳酷にして、これを臆面もなく国民の前に出すことは、逆に護憲内閣そのものの本質を国民に疑わしむるものとして反対するのである。

 

(1) 「臆面もなく国民の前に出」された法案の名称と内容を記せ。
(2) この法案が出された歴史的背景は何か。この法案が成立するときの事情を念頭におき、第一次護憲運動(「大正政変」)以来の国内的、国際的な変化に即して具体的に述べよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)治安維持法。国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰することを定めたもので、最高刑は懲役10年とされた。(2)国際的要因には日ソ基本条約の締結によるソ連との国交樹立がある。当時第一次世界大戦中に起こったロシア革命が成功したことで社会運動全体における共産主義の影響力が拡大しており、日本においても共産主義勢力の活動が活発になることが懸念された。国内的には虎の門事件・普通選挙法の制定がある。虎の門事件は無政府主義者が摂政宮裕仁親王の暗殺を謀った事件であるが、当時無政府主義活動が活発化していたため、その取り締まりが求められた。第二次護憲運動の結果、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の3党連立による護憲三派内閣が成立し、普通選挙法を制定したことで男子普通選挙が実現したが、その結果、労働者階級の政治的影響力の増大が懸念され、政府は政党政治の存続には労働者の取り締まりが必要と考えた。(400)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1985年

第一問

 

室町時代には禅宗の寺院で学ぼれていた儒学は16世紀末に寺院から独立し、林家のように幕府に登用される者や、17世紀の藩政に大きな影響力をもった者も現われた。また、朱子学に批判的な学派や、幕府政治の改革に発言したり従事したりする学者も出現した。こうした儒学の展開を、17世紀初頭から1720年代までを念頭において略述せよ。そのさい、(1)それぞれの学派・学者の学風の特色、(2)幕政および藩政とのかかわりに留意して、学問と思想の発展の流れが理解しやすいように記述せよ。(400字以内)

 

 

 

 

 

 

解答の流れ

 

朱子学の説明

家康の羅山、綱吉の信篤登用(林家は代々幕府に仕える)

家宣、家継の時代は白石が正徳の治

山崎闇斎は保科正之に仕える、垂加神道の創始

陽明学の説明

熊沢蕃山は池田光政に仕える、幽閉される

古学の説明

聖学派の山鹿素行が朱子学批判、処罰される

伊藤仁斎は古義堂で、

古文辞学派の荻生徂徠は蘐園塾で自説を講義

徂徠は吉宗の顧問となり経世論を展開

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

 帝国議会の開設にむけて、政府は1881(明治14)年の政変から1889(明治22)年の憲法発布の間に、地方制度や官僚制、軍隊、議会、皇室(ア)など多方面にわたる国家制度の整備を進めた。その後、日清戦争を経て、日本資本主義の発展、政府と政党の関係の変容、藩閥内部での政党に対する対応の変化などがおこり(イ)、第一次山県内閣の下で、官僚、軍隊、選挙の各制度の改革と治安立法の制定(ウ)がおこなわれた。

 

(1) 下線部(ア)のそれぞれの改革の具体例を示し、それらがどのような時代背景のもとで何を目的に実行されたかを説明せよ。具体例には詔勅類を含めてよい。
(2) 下線部(ウ)にあげられているそれぞれの改革または法律の名称を記せ。
(3) 下線部(イ)の内容を具体的に述べ、それらと下線部(ウ)の各改革との関係を明らかにせよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)開国以来、日本は列強の圧倒的国力の前に屈していた。そこで近代的立憲国家確立のため、市制・町村制を制定し、地方自治制を確立した。また、太政官制を廃して内閣制度を制定し、議会は貴族院と衆議院から成る2院制とした。さらに徴兵令を改正し、従来の免役規定・代人制を廃して国民皆兵原則の軍隊を確立、また、皇室典範を制定し、皇位の継承などについての法的根拠を与えた。(2)文官任用令の改正。軍部大臣現役武官制の制定。選挙人の納税額を直接国税10円以上に改正。治安警察法の制定。(3)日清戦争後、藩閥政府と政党の連立内閣が出現し、政党の影響力が増大したため、文官任用令・軍部大臣現役武官制によって政党の力がそれぞれ官僚・軍部に及ぶのを防いだ。紡績業などに見られる資本主義の発達で工場制工業が普及し、賃金労働者が増加した。彼らは待遇改善や賃金引上げを要求してストライキを起こしたため、政府は治安警察法により労働運動を取り締まった。(400)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(4)に答えよ。

 

 1931(昭和6)年12月、第2次若槻内閣が総辞職(1)したあと、犬養毅を首班とする政友会内閣が成立した。犬養内閣の蔵相高橋是清は前内閣の蔵相井上準之助とは対照的な財政・金融・貿易政策を展開した(2)。これにより日本はドイツとならんでいち早く恐慌からの脱出に成功(3)したが、他方で、諸外国との経済的摩擦を強めることとなった(4)。

 

(1) 第2次若槻内閣の総辞職の理由をのべよ(100字以内)。
(2) 高橋蔵相の財政・金融・貿易政策の特徴を井上蔵相のそれと対比してのべよ(180字以内)。
(3) 恐慌からの脱出過程で、日本経済の産業構造は大きく転換した。その特徴を簡単に記せ(60字以内)。
(4) 経済的摩擦の内容を説明せよ(60字以内)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)関東軍が満州事変を起こすと第二次若槻内閣は不拡大方針を声明したが、世論・マスコミは軍の行動を支持した。関東軍はさらに戦線を拡大し、内閣は事態の収拾に自信を失って総辞職した。(87)
(2)井上蔵相は財政を緊縮して物価の引き下げを図り、産業の合理化を促進して交際競争力の強化を目指した。さらに旧平価による金輸出解禁を行い、外国為替相場の安定と経済の抜本的整理を図った。それに対し高橋蔵相は金輸出再禁止を断行し、円の金兌換を停止して管理通貨制度に移行した。また、円為替相場の大幅な下落を利用して植民地への大量輸出を行った。(166)
(3)軍需と保護政策とに支えられて重化学工業がめざましく発達し、繊維などの軽工業中心から重工業中心へと変化した。(54)
(4)円安のもとでの自国植民地への輸出拡大はイギリスをはじめ、列強から「ソーシャル=ダンピング」であるとの対日批判を浴びた。(60)

 


※(1)では教科書に「世論・マスコミは軍の行動を”熱烈に”支持した」と記載されているが、論述ではこういった文学的表現は避ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

 

1984年

第一問

 

平安時代の宗教について述べた次の文章を読み、下記の問い(1)~(4)に答えよ。(300字以内)

 

 

 奈良時代の仏教は、法会や祈祷によって国家に奉仕し、教理を研究する学派を形成していた。これに対して、平安時代初頭に成立した天台宗と真言宗は、鎮護国家をとなえて国家の保護をうけていたが、宗教としての独自性と自立性をつよめ、(ア)密教を重んじて、貴族層から熱心に支持された。浄土教は、独立した宗派ではなかったが、末法思想の流行とあいまって(イ)10世紀ごろから急速にひろがり、(ウ)その影響は文学や美術にも及んだ。また、伝統的な神祇信仰と仏教との結びつきが深まり、神仏習合がさらにすすんで、(エ)神仏関係についての新しい説明の仕方がひろく行われるようになった

 

(1) 下線部(ア)について、密教とはなにか、またそれが貴族層の熱心な支持をえた理由はどこにあったか、簡単に説明せよ。
(2) 下線部(イ)について、平安時代に浄土教の信仰がひろがった事情を、社会的背景と教理とを結びつけて、簡単に説明せよ。
(3) 下線部(ウ)について、藤原頼通の建立した有名な寺院を例にあげて、浄土教の影響が美術(建築・彫刻・絵画)の領域に及んでいることを説明せよ。
(4) 下線部(エ)について、この下線部分を表現する歴史的用語を漢字で記し、その内容を具体例をひとつあげて説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)秘密の呪法の伝授・習得により悟りをひらこうとしたもので、加持祈禱によって災いを避け、幸福を追求するという現世利益の面から貴族たちの支持を集めた。(2)戦乱の続発・盗賊の横行などの現世の社会不安の深刻化は末法思想でいう末法の世の到来を実感させ、浄土教の流行に拍車をかけた。(3)建築では、藤原頼通が建立した平等院の鳳凰堂が阿弥陀堂の代表的な遺構である。さらに彫刻では、末法思想を背景とする仏像の大量需要に応えるため、定朝が従来の一木造にかわる寄木造の手法を完成した。絵画では仏が来臨する場面を表現した来迎図が盛んに描かれた。(4)本地垂迹説。仏を本体とし、神々は仏が仮に姿を変えてこの世に現れたと説く思想。(297) 

 

 




















 

 

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(300字以内)

 

 

 江戸幕府の年貢徴収の特質をよくあらわす言葉として、次の2つがよく知られている。ひとつは、東照宮上意とされる「郷村百姓共をば、死なぬ様に生きぬ様にと合点致し収納申し付る様」であり、いまひとつは、(ア)「西域物語」によると神尾春央(1736~1763年に幕府勘定奉行)がいったという「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」である。この2つの言葉のうち、後者は(イ)18世紀前半に転換した幕府の年貢徴収法の特質を表現したものとされている。また、これと同じ頃に、(ウ)幕府財政のあり方を変更する上げ米制も一時的とはいえ行われた。しかし、結局のところ、こうした方法では幕府財政の再建をはかることはできなかった。

 

(1) 下線部(ア)について、「西域物語」の著者名とその主張について述べよ。
(2) 下線部(イ)について、年貢徴収の制度上の転換について具体的に述べよ。また、その転換を可能にした農業生産の発展について説明せよ。
(3) 下線部(ウ)について、上げ米制とは何か、また、それが「幕府財政のあり方を変更する」ものであるのはなぜかを具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)本田利明。西洋諸国との交易による富国策を説いた。(2)当初はその年の作柄を調べて税率を決定する検見法が採られていたが、税収が不安定であったため、豊凶に関係なく過去の年貢高を基準とした定率の定免法へと改められた。鉱山開発のための技術が治水や水路の開発に転用され、新田開発が積極的に行われたことや、深耕用の備中鍬などの農具の改良による農業生産力の向上などによってこの転換は可能となった。(3)大名から石高一万石について百石を臨時に献上させ、その代わりに参勤交代の負担を軽減した制度。上げ米制は幕領からの年貢収入の減少を背景に出されたものであるが、これにより幕府財政の諸藩への依存度が高まった。(291)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1983年

第一問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(4)に答えよ。(300字以内)

 

 明治政府は、1871年、封建的身分制度を廃して、(ア)原則的には四民平等を定め、翌年、(イ)全国的な戸籍編制を行ったが、それはわが国近代戸籍制度のはじまりとなった。 この戸籍編成は、わが国のひろい意味での戸籍の歴史からみると、第3回目の全国的戸籍編成であった。そして、その最初の全国的戸籍編成と、(ウ)第2回目のそれとの間には、(エ)長い時間的空白があったのである。

 

(1) 下線(ア)の部分について、具体的に記せ。
(2) 下線(イ)の部分について、これによって国民がどのように編成されたか、その結果どのような問題が残されたかを述べよ。
(3) 下線(ウ)の部分について、その編成の目的・方法の特徴をあげながら、具体的に説明せよ。
(4) 下線(エ)の部分について、その空白の時代とはいつか、またその長い空白の理由は何かを記せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

1平民には苗字が許され、職業選択の自由なども認められた。また身分解放令により旧来のえた・非人などの称を廃し、制度の上では平民同様とした。2壬申戸籍では華・士族、平民という新たな族籍に基づく戸籍編成が行われたが、旧被差別部落民に対する差別は存続した。3禁教の徹底を図るため、家族ごとに宗旨と檀那寺を記載した宗門改帳は後に人口調査の人別改と合わされて宗門人別帳となり、戸籍の役割を果たした。4平安時代から江戸時代初期。浮浪・逃亡や偽籍、初期荘園の増加により戸籍が形骸化したため、平安から鎌倉には戸籍が作成されなくなり、また鎌倉後期以降は年貢を村全体にかける村請制が採られたため、戸籍作成の必要が無かった(300)。

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

1982年

第一問

 

日本史の大まかな時代区分としては、鎌倉・室町時代を中世、江戸時代を近世と称し、いずれも封建社会とするのが一般的なとらえ方である。しかし、おなじく封建社会といっても、中世と近世とでは、社会と経済の仕組や諸階級・諸身分のありように大きな相違がある。そして、このようなとらえ方からすると、戦国大名の領国支配は、中世的性格をなお保ちながらも、近世へと移る過渡的特徴が顕著になってきているものといえよう。この過渡的特徴が戦国大名の領国支配においてどのように現れているかを説明せよ。そのさい、(i)家臣団支配、(ii)分国法、(iii)農民・農村政策、(iv)城下町と商工業政策などにふれて解答するように留意せよ。(300字以内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

戦国大名は中世の武士団支配に倣った寄親・寄子制を採用し、家臣団に組み入れた地侍を有力家臣の元で組織化したが、これは近世の家臣団支配へも継承された。また、各大名が制定した分国法には、幕府法や公家法を継承した法とともに、国人一揆の規約を吸収した法などがみられ、中世法の集大成的な性格をもっており、江戸幕府が作成した武家諸法度はこれをもとに作成された。農民政策では中世の地下請を継承し、検地を行って農民支配を強化したうえで、村全体で年貢を一括納入する村請が採用され、近世でも継承された。さらに城下町には中世で経済力をつけた商工業者が集められ、近世の領国における統一的経済圏形成の基礎が確立された。(295)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問い(ア)~(イ)に答えよ。(300字以内)

 

 わが国の近代教育制度は、(ア)1872(明治5)年の学制によって発足したが、1886(明治19)年の学校令によって教育理念の大幅な転換がはかられた。1890(明治23)年の教育勅語はその教育理念を裏づけるものであったが、翌年には(イ)内村鑑三の不敬事件のようなこともおこった。
 その後、(ウ)日露戦争の前年には、教育制度に対する国家統制が強化され、さらに1911(明治44)年には、小学校の日本歴史教科書の内容に対して(エ)政治的な干渉を加える事件もおこった。

 

(ア)「教育理念の大幅な転換」の内容を具体的に説明せよ。
(イ)この事件を契機に教育と宗教との関係をめぐる論争がおこり、キリス卜教に対する批判がつよまった。この立場を代表する人物一名の名前を記しその主張を説明せよ。
(ウ)「国家統制」の内容を具体的に説明せよ。
(エ)この事件を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)学生の後に公布された教育令では、小学校の管理を地方に移管し、就学義務を大幅に緩和したため、大きな困難を招いた。そこで森有礼文部大臣のもとで学校令が出され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などから成る学校体系が整備され、尋常・高等小学校4年のうち、尋常小学校3~4年間が義務教育とされた。(イ)井上哲次郎。国家の利益を個人の利益に優先させるべきであるとする国家主義を主張した。(ウ)小学校の教科書を文部省の著作に限る国定教科書制度が定められた。(エ)南北朝正閏問題。『尋常小学日本歴史』の南北朝並立記述が大義名分を誤るとされ、議会で問題化した。後に文部省編集官喜田貞吉が休職処分とされ、南朝正統論に修正された。(300)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章を読んで、下記の問い(ア)~(エ)に答えよ。(300字以内)

 

 1927(昭和2)年の金融恐慌は、近代日本における最大の金融史的事件であった。金融恐慌は、若槻礼次郎の憲政会内閣の蔵相片岡直温の第52帝国議会における失言をきっかけに始まったが、その遠因は(ア)1920(大正9)年の戦後反動恐慌以来の日本経済の変則的状態そのものにあったといえる。金融恐慌は(イ)1927年4月にピークを迎え、金融界は大混乱に陥った。その渦中で、若槻内閣が総辞職したあと、田中義一の政友会内閣が成立した。(ウ)田中内閣は強力な手段によって金融恐慌を鎮静させたあと、(エ)前内閣と対照的な対中外交を展開していった

 

(ア) 1920年恐慌と関東大震災とによる経済界の混乱に対して、ときの政府はどのような対策を講じたか、具体的に記せ。また、その対策がのちの金融恐慌の原因となったことは否定できない。その理由を簡潔に記せ。
(イ) 次の文章の    内を埋めよ。

 1927年4月17日、若槻内閣の提出した(1)    が枢密院で否決されると、金融界は大混乱に陥り、(2)    、(3)    などの銀行や会社が破綻した。

(ウ) 金融恐慌を鎮静するにあたって田中内閣はどのような対策を講じたか。その対策を二つ記せ。またその時の大蔵大臣の氏名を記せ。
(エ) 1927~28年における中国の政治情勢を念頭におきながら、田中内閣の対中国政策を具体的に記せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)第一次世界大戦による好況の反動で株式市場が暴落して1920年恐慌が発生し、続く関東大震災で多くの工場や事業所が倒壊・焼失すると、銀行手持ちの手形が大量に決済不能となり、政府は日銀に巨額の特別融資を行わせた。しかし、不況が慢性化しており、多くの震災手形が未決済であった。(イ)(1)緊急勅令案(2)台湾銀行(3)鈴木商店(ウ)3週間のモラトリアムを発して全国の銀行を一時休業させ、日銀から巨額の非常貸出しを行った。高橋是清(エ)当時中国では国民革命軍が中国統一を目指して北伐を行っていた。田中内閣は満州における日本権益を実力で守る方針を決定し、南満州軍閥の張作霖を支援して、日本人居留民保護の名目で3次にわたる山東出兵を行った。(300)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房