1989年 | 一橋大学日本史

1989年

第一問

 

近代以前の日本は、東アジア社会の一員として、他の地域と相互に影響を及ぼしあいながら、歴史を展開させてきた。次に掲げた年には、日本の対外関係史上重要な出来事が起きている。そのそれぞれについて、内外の歴史的背景と日本社会への影響を含めて説明せよ。(400字以内)

 

(1)607年、(2)894年、(3)1401年、(4)1543年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)推古天皇のもとで中央行政機構の編成が進められる中、607年に小野妹子が遣隋使として中国へ渡り、倭の五王時代の服属外交から対等外交の確立を目指した。(2)唐の衰退に伴い、894年菅原道真は遣隋使派遣を停止した。これを受け日本ではそれまでの大陸文化の消化の上に立って、日本の風土や日本人の人情・嗜好にかなった優雅で洗練された国風文化が生まれた。(3)13世紀後半に起きた元寇以来中国大陸と日本の間に正式な外交関係はなかったが、足利義満が1401年に明と国交を開いた。日明貿易は朝貢貿易の形式をとっており、貿易費用は明側が負担したため日本側の利益は大きく、また大量に輸入された銅銭は日本の貨幣経済の発展をもたらした。(4)1543年にポルトガル人が種子島に漂着し、それ以来スペイン人も加わって南蛮貿易が行われるようになった。貿易で日本に大量にもたらされた鉄砲は戦国大名のあいだに新鋭武器として急速に普及し、戦国時代の到来を招いた。(400)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

幕末政治史についてのべた次の文章を読み、下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 18世紀末から19世紀初頭にかけて欧米列強の船がしばしば来航するようになり、対外問題は急速に緊迫の度を強めた。1808(文化5)年にはフェートン号事件がおこって幕府を狼狽させたが、(ア)その後の幕府の対外政策は、情勢に左右されて、強硬になったり柔軟になったりした
 1853(嘉永6)年にペリーが来航すると、老中阿部正弘は、朝廷に報告するとともに諸大名・幕臣に意見を求める方針をとったが、これを機に朝廷の権威か高まり、さまざまの政治勢力が登場して、幕末の政治的激動がはじまった。将軍継嗣問題はその最初の事例で、(イ)2つの勢力が争い、井伊直弼が登場して強硬な措置をとった
 井伊直弼が暗殺されたあと、幕府は朝廷との融和政策をとったが、やがて尊王攘夷派が朝廷を動かすようになり、1863(文久3)年には、幕府はやむをえず期日を定めて攘夷の決行を各藩に命じた。しかし、(ウ)定められた期日に攘夷を行ったのはかぎられた藩だけで、尊王攘夷派は同年8月18日の政変で京都から一掃された。
 他方幕府は、2回にわたって長州藩征討の兵をおこしたが、第2次の長州藩征討は、薩摩藩など有力な藩の支持をえられなかったことのほか、(エ)民衆運動の激化にも影響されて、中止せざるをえず、これを境に幕府の政治的権威は急速に失われた。

 

(1) 文政・天保期(1818~1844)の幕府の対外方針を示す法令を2つあげて、下線(ア)を説明せよ。
(2) 下線(イ)の「2つの勢力」について説明し、それとの関連で井伊直弼がどのような方針をとったかをのベよ。
(3) 下線(ウ)の「攘夷」と、それを直接の原因として生じた事件について説明し、これらの事実が対外観に与えた影響にも言及せよ。
(4) 第2次の長州藩征討が行われた年は、民衆運動がもっとも激化した年にあたる。その原因にも言及しながら、下線(エ)の「民衆運動」を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)幕府は日本に頻繁に来航した外国船の船員と住民との衝突を回避するため、1825年に異国船打払令を出して諸藩に外国船の撃退を命じた。一方アヘン戦争による清の敗北が日本に伝わると1842年に異国船打払令を緩和し、薪水給与令を出した。(2)一橋家の慶喜を推す松平慶永や島津斉彬らの一橋派と紀伊藩主徳川慶福を推す南紀派が対立した。井伊は安政の大獄で一橋派の大名や家臣を多数処罰した。(3)長州藩が攘夷を実行に移すと幕府は第一次長州征討に向かい、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国も貿易の妨げになる攘夷派を下関で襲撃した。イギリス公使パークスは幕府の統治力の弱体化を見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現を期待するようになった。(4)開国に伴う物価上昇や政局をめぐる抗争は社会不安を増大させ、世相を険悪にした。その結果、農民が「世直し」を期待して世直し一揆をおこし、大阪や江戸では町衆による打ちこわしが発生した。(398)

 

 

※対外観は外国の日本に対する見方ではなく、日本の外国に対する見方のため、(3)のパークスの部分は誤り。

※薪水給与令を出した目的は食料や薪水を補給して穏やかに帰帆させるため。

※(3)は正しくは四国艦隊下関砲撃事件。長州藩が攘夷→四国艦隊下関砲撃事件発生→攘夷の不可能を悟る→西洋の兵器を導入して自藩の軍事力強化のためイギリスへ接近した。

※(4)大阪や江戸→「各地で」と書けばよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章は、組閣直後の第2次近衛文麿内閣が1940年7月26日に閣議決定した「基本国策要綱」の一節である。これを読んで下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 世界ハ今ヤ歴史的一大転機ニ際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ皇国亦有史以来ノ大試錬ニ直面ス。コノ秋ニ当リ真ニ肇国ノ大精神ニ基ク皇国ノ国是ヲ完遂セントセバ右世界史的発展ノ必然的動向ヲ把握シテ庶政百般ニ亘リ速ニ根木的刷新ヲ加へ万難ヲ排シテ国防国家体制ノ完成ニ邁進スルコトフ以テ刻下喫緊要務トス。

 

(1) この閣議決定は、国際情勢の新たな展開を「世界史的発展ノ必然的動向」として把握している。第1次世界大戦直後の時期との相違に留意しながら、この時期の国際情勢の特質について説明せよ。
(2) 国内における政治的対抗関係を中心にして、第2次近衛内閣成立の経過について説明せよ。
(3) この閣議決定にいう「国防国家体制ノ完成」のため、政治組織や社会組織などの大規模な改革が、この時期に行なわれている。代表的事例を3つあげて説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)第一次世界大戦直後の国際紛争の平和的解決と国際協力を目指したベルサイユ体制とはうって変わり、ベルサイユ体制を打破して「世界新秩序」を目指す日本・ドイツ・イタリアの枢軸陣営、アメリカなどの自由主義・民主主義諸国、社会主義国であるソ連の三勢力が対立し、国際情勢は動揺していた。(2)第2次近衛内閣では日米交渉の期限を決め、交渉が不成立ならば開戦に踏み切るという帝国国策遂行要領が出された。しかしアメリカとの妥協点を見出せずに期限をむかえ、日米交渉の妥結を強く希望する近衛首相と交渉打ち切り・開戦を主張する東条英機陸軍大臣が対立し、近衛内閣は総辞職した。(3)すべての労働組合・労働団体は解散され、職場ごとに労使一体で国策に協力する大日本産業報国会が結成された。内閣情報局が設置され、マスメディアを総合的に統制し、戦争遂行のために利用する方針が採られた。新体制運動の推進を目指し、大政翼賛会が結成された。(396)

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房