1987年 | 一橋大学日本史

1987年

第一問

 

次の文章は、大平与平衛が天保10年(1839)に書いた、越後国長岡藩の農家の年中行事の記録『農家年中行事記』の一部である。これを読んで、次の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

 正月元旦、(中略)庄屋組頭五人組を始め、村中相互に祝詞に廻り。当日百姓は羽織袴、名子ハ袴に服類。庄屋の事を名主、田地不持ものを名子といふ。是ハ古くより公私言伝ひたり。原由ハ古来は村の字を用ひず、名の字を用ふ。譬へば何村を何名といふ故に名主名子の名称起きる。
 正月二十日、(中略)当日御蔵開き御用始に付、庄屋は麻上下、組頭は羽織袴にて、其その御蔵元へ罷出、御代官所ヘ御祝儀申上る。御領法御条目読渡有之。終て結び昆布にて祝杯三献を被下。

 

(1) ここでは「名」の起源について解説している。しかし、それは不正確で不充分だといわなくてはならない。そこで、正しく書き直せ。
(2) もちろん、ここに書かれているように、農民が「袴」を祝着として着るようになったのは、江戸時代になってからのことである。そこでそれ以前の時代に、「袴」はどのような服装であったかについて、簡単に述べよ。
(3) 1月20日には、庄屋たちが代官から、守るべき法や条目を読み聞かされている。これは、この時代の年貢の取り立て方と密接な関係がある。その年貢の取り立て制度について説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)この文章では、昔は村という字の代わりに名という字が用いられたことが名の起源だとしている。しかし実際は、公地公民制の崩壊に伴って土地に対する私有権が発生し、土地の所有者である名主が自らの名前を冠して命名したことが起源である。(2)江戸時代以前では袴は庶民や貴族の普段着として着用されていた。(3)鎌倉後期に発生し、南北朝の動乱のなかで各地に広がった農民による自治的な村である惣村では、領主に納める年貢を惣村全体で請け負う地下請が行われており、後の豊臣秀吉による政策では村ごとに検地が実施され、村を単位として検地帳が作成されたことにより村の境界が確定し、さらに一地一作人の原則により土地に対する重層的な権利関係が解消された。これを受けて、江戸時代においても村全体の石高である村高を対象として年貢が賦課され、村役人の責任の下、村全体で年貢を一括納入する村請制が採用されていた。(382)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章は、1901年(明治34)に出版されたある社会主義者の書物の一節である。この文章を読んで、下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 今や我日本も亦此主義に熱狂して反かえらず。十三師団の陸軍、三十万噸の海軍は拡張されたり、台湾の領土は増大されたり、(問2)北清の事件には軍隊を派遣せり、国威と国光は之が為に揚れり、軍人の胸間には幾多の勲章を装飾せり、議会は之を賛美せり、文士詩人は之を謳歌せり。而して是れ幾何か我国民を大にせる乎、幾何の福利を我社会に与ヘたる乎。
 八千万円の歳計は数年ならずして三倍せり、(問3)台湾の経営は占領以来一億六千万の費を内地より奪ひ去れり、二億の償金は夢の如く消失せり、財政は益す紊乱せり、輸入は益す超過せり、(問4)政府は増税に次ぐ増税を以てせり、市場は益す困迫せり、風俗は益す頽廃し、罪悪は日に増加せり、而も社会改革の説は嘲罵を以て迎へられ、教育普及の論は冷笑を以て遇せらる、(後略)。
 故に我は断ず、帝国主義なる政策は、少数の欲望の為めに多数の福利を奪ふ者也、(後略)。

 

問1 この書の著者と書名を記せ。
問2 「北清の事件」とはどのような事件か。具体的に述べよ。
問3 この書物が出版された1901年前後の「台湾の経営」の経済的特徴を述ベよ。
問4 下線部分を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)幸徳秋水。『廿世紀之怪物帝国主義』。(2)日清戦争後の列強の相次ぐ中国分割に対し、排外主義団体義和団が「扶清滅洋」を唱えて外国人排斥運動を起こすと、清国政府もこれに同調し、列国に宣戦を布告した。これに対し日本を含む列国は連合軍を派遣して清国軍を降伏させ、翌年には清国との間に北京議定書が結ばれた。(3)後藤新平の下で土地調査事業が進められ、台湾総督府の課税対象となる農地が拡大するとともに、封建的な土地所有制度が否定されて近代的な土地所有制度への移行が進められた。また、台湾銀行や台湾製糖会社が設立されるなど、産業の振興も図られた。(4)日本政府は清国との下関条約締結により遼東半島の領有を認められたが、露仏独による三国干渉で同半島の返還を余儀なくされた。以降、日本政府は対露戦を視野に入れた軍備拡張政策をとり、その財源を補うために日清戦前より徴収されていた酒造税・地租・所得税などの増税が図られた。(395)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房