1991年 | 一橋大学日本史

1991年

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問いに答えよ。(400字以内)

 

 1858(安政5)年に徳川幕府が諸外国と通商条約を締結して以来、日本は不平等条約(1)のもとに置かれつづけた。ついで徳川幕府が崩壊し、維新政権が成立すると条約改正問題は、明治日本の国家的課題となった。1871(明治4)年、岩倉具視を全権大使とする遣欧米使節団が欧米諸国を訪問したが、条約改正のための予備交渉は最初の訪問国アメリカで早くも挫折した。以後、寺島宗則、井上馨(2)、大隈重信、青木周蔵(3)など歴代の外務卿・外相が改正の努力をつづけたが、いずれも失敗に終わった。結局、わが国が条約改正問題を最終的に解決するためには、日清戦争直前と日露戦争後の二つの条約改正(4)まで待たねばならなかったのである。

 

問1 一連の通商条約が不平等条約といわれる理由を3点挙げよ。また、1866(慶応2)年に幕府が再度、イギリス、フランス、アメリカ、オランダと締結した条約の名称と内容を記せ。
問2 (イ) 井上馨が条約改正交渉を行っていた最中に起こった対外的事件の名称と内容を記せ。(ロ) また、当時、自由民権派は井上条約案の屈辱的内容と極端な欧化政策に反対して、民権派最後の運動を盛り上げた。「民権派最後の運動」とは何か、具体例2つを記せ。またそれに対する政府の対応を述べよ。
問3 青木周蔵外相も、対外的事件が原因で辞職を余儀なくされ、改正交渉は挫折した。その対外的事件とは何か、簡単に説明せよ。
問4 下線部(4)の二つの改正条約の内容を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)日本に滞在する自国民への領事裁判権が認められており、日本の関税自主権を欠いていた。また片務的最恵国待遇が定められていた。改税約書。諸外国に有利になるよう関税率を平均20%から一律5%に引き下げた。2(イ)ノルマントン号事件。イギリスの貨物船ノルマントン号が難波した際、日本人乗客は全員見殺しにされたが後のイギリス人領事による海事審判で船長の過失は問われなかった。(ロ)大同団結運動。三大事件建白運動。政府は保安条例を出して民権派を東京から追放した。(3)大津事件。訪日中のロシア皇太子が警備の巡査津田三蔵によって切りつけられ負傷した。大審院長の児島惟謙は大逆罪を適用せよという政府の圧力に屈さず、津田を適法の無期徒刑に処して司法権の独立を守った。(4)日清戦争直前に調印された日英通商航海条約では領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、相互対等の最恵国待遇を定めた。日露戦争後の日米通商航海条約では関税自主権を回復した。(400)

 

 

コメント 

※(2)は船長は微罪に問われた。

※(3)は「大審院長の~」以下は不要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の史料は、1945年11月5日の幣原内閣の閣議決定、「戦争責任等に関する件」の一節である。この閣議決定は、連合国側が実施を予定していた、いわゆる「A級戦犯裁判」に対する日本政府としての対処方針を決めたものであるが、これを読んで以下の問いに答えよ。(400字以内)

 

左の諸点に準拠し之を堅持すること
(1) 大東亜戦争は帝国が四囲の情勢に鑑み已むを得ざるに出でたるものと信じ居ること。
(2) 天皇陛下に於かせられては飽く迄対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念 1 あらせられたること。
(3) 天皇陛下に於かせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられ居る慣例に従はせられ、大本営 2 、政府の決定したる事項を却下遊ばされざりしこと。
(4) 日米交渉継続中に攻撃を加ふることを避けんが為日米交渉打切りの通告方努力せること。
註 1 心をいためること 2 有事における作戦指導の最高機関

 

問1 第2項中の「対米交渉」、第4項中の「日米交渉」とは何か。その経過や争点についてふれながら具体的に説明せよ。
問2 第2項および第3項は、天皇の戦争責任問題に対する日本政府の公式見解を示している。こうした見解は国際的にも大きな論議をよぶことになるが、明治憲法の上では「開戦の決定」および「作戦計画の遂行」の権限は、それぞれ、どのように規定されていたか。天皇・政府・大本営の関係にも留意しながら具体的に説明せよ。
問3 日本で実際に実施された「A級戦犯裁判」について具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)アメリカとの関係悪化に対し、第二次近衛内閣は帝国国策遂行要領を出して対米交渉を図ったが、妥協点を見出せず失敗に終わり、続く東条英機内閣でのアメリカ側の提案は日本の満州事変以前の状態への復帰を要求するものだったため、日本政府は対米交渉を不成功と判断、開戦に踏み切った。(2)「開戦の決定」・「作戦計画の遂行」はどちらも議会の協力なしに天皇が行使できる天皇大権であった。前者は天皇が自らの積極的意思によって行使することはなく、専ら国務大臣や帝国議会の輔弼と協賛によって行使する慣例であった。後者においては軍隊の作戦権は陸軍参謀本部・海軍軍令部の補佐の下に発動され、政府も介入できない慣行であった。兵力量の決定は内閣の輔弼事項であった。(3)連合軍が国際条約に違反して戦争を計画・開始した者に対して「平和に対する罪」を適用し、極東軍事裁判で裁いた。その結果、東条英機らがA級戦犯とされ、うち7名が処刑された。(398)

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房