1988年 | 一橋大学日本史

1988年

第一問

 

次の文章は、明治時代に編さんされた官撰の大百科『古事類苑』の徳政に関する説明である。これを読んで、下記の問い1~3に答えよ。(400字以内)

 

 

 徳政ノ称ハ、仁政苦政ト一般ニシテ、中古王政ノ世ニ当リ、天災地妖ヲ始トシ、異常ノ事アリテ、租ヲ〓[のぞ]キ、刑ヲ緩クシ、仁ヲ施シ、徳ヲ布ク毎ニ、特ニ此ノ名ヲ用ヰ、鎌倉幕府ノ始ニ於テモ、其行フ所仍ホ中古ノ政ト異ナラザリシガ、・其中葉以降ニ至リテハ、大ニ往時ニ反シ、負債ヲ債主ニ償ハズ、質物及ビ売買地ヲ本主ニ還サシムルヲ以テ徳政ト称セリ。故ニ債主若シクハ田畠ノ買主ハ、其負債者、若シクハ田畠ノ売主ヨリ、徳政担保ノ証書ヲ請取リ、又ハ売渡証文ト譲状トノ二通ヲ製シテ、買主ノ便宜ニ供スル等ノ事アリキ。而シテ足利幕府ニ及ビテ、其弊ヲ極メ、・負債者ハ、債額ノ十分ノ一、或ハ五分ノ一ヲ政府ニ納レ、政府ヨリ奉書ヲ得テ証左ニ備フルニ至リ、貧民保護ノ名ノ下ニ、政府自ラ利益ヲ獲得スルノ計ヲ為セリ。是ニ於テ・徳政一揆ナドト称ヘテ、暴民四方ニ肆行シ、他人ノ財物ヲ掠奪シ、或ハ政府ニ逼リテ、徳政ヲ行ハシメントスルニ至レリ。而シテ徳政中ニ於テ、天下ニ普ク之ヲ行フヲ一国平均ノ徳政、又ハ天下一統ノ徳政ト云ヒ、其他一国ニ限ルアリ、京中ニ限ルアリ、公領ニ限ルアリ、又大名等私ニ之ヲ行フモアリシナリ。嘉吉文安ノ比ヨリ文明応仁ノ際最モ盛ニシテ、天正文禄ノ比ニ至テ稍衰ヘタリ

 

 

1 次の史料は、傍線部・で説明されている徳政令である。この法令は、何を目的として発布されたものか。傍点部分をふまえて説明せよ。
 一 質券売買地1)の事
 右、所領を以て或は質券に入れ流し、或は売買せしむるの条、御家人佗〓[てい]2)の基なり。向後に於ては、停止に従ふべし。以前沽却3)の分に至りては、本主4)領掌せしむべし。但し或は御下文・下知状を成し給ひ、或は知行廿箇年を通ぐるは、公私の領を論ぜず、今更相違あるべからず。もし制符に背き、濫妨を致すの輩あらば、罪科に処せらるべし。
 次に、非御家人・凡下5)の輩の質券買得の地の事、年紀を過ぐると雖も、売主知行せしむべし。
 注 1)質入れや売買した土地  2)困窮  3)売り払うこと  4)もとの所有者  5)庶民
2 傍線部・の手続きなどによる幕府収入を分一銭という。分一銭の取得方法について、この説明で不十分な点を補え。
3 傍線部・のように、徳政一揆が室町時代後期に頻発した理由を、次の語を用いて説明せよ。(荘園領主、土倉、年貢、加地子、惣村、強訴)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)鎌倉時代後期には御家人の多くは分割相続の繰り返しによって所領が細分化された上、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏していた。そのため幕府は永仁の徳政令を出して御家人の所領の質入れや売買を禁止して、それまでに質入れ・売却された土地を無償で取り戻させ、御家人の窮乏を防ごうとした。(2)債権者である高利貸の土倉や酒屋が徳政令の適用免除を幕府に要求する際にも幕府は債権者から債額の一部の分一銭を得ることができた。(3)鎌倉後期に発生した惣村は南北朝の動乱のなかで各地へ広がっていった。農民による自治的な村である惣村の農民は連帯意識のもとで年貢や加地子の減免を求めて一揆を結び、荘園領主に対して強訴や兆散などの実力行使を行った。この一揆は次第に徳政を要求するようになり、室町時代後期、農村には土倉などの高利貸が浸透していたため、各地で徳政一揆が結ばれ、実力による債務破棄・売却地の取戻しが行われた。(390)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章は、山県有朋首相の1890年(明治23)の意見書、「外交政略論」の一節である。これを読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

 

 国家独立自衛ノ道二ツアリ、一ニ曰ク主権線ヲ守禦シ他人ノ侵告ヲ容レズ、二ニ曰ク利益線ヲ防護シ自己ノ形勝ヲ失ハズ、何ヲカ主権線ト謂フ、疆土是ナリ、何ヲカ利益線ト謂フ、隣国接蝕ノ勢我ガ主権線ノ安危ト緊シク相関係スルノ区域是ナリ……而シテ外交及兵備ノ要訣ハ専ラ此ノ二線ノ基礎ニ存立スル者ナリ、方今列国ノ際ニ立テ国家ノ独立ヲ維持セントセバ、独リ主権線ヲ守禦スルヲ以テ足レリトセズ、必ヤ進テ利益線ヲ防護シ常ニ形勝ノ位置ニ立タザル可ラズ、利益線ヲ防護スルノ道如何、各国ノ為ス所苟モ我ニ不利ナル者アルトキハ我レ責任ヲ帯ビテ之ヲ排除シ、已ムヲ得ザルトキハ強力ヲ用ヰテ我ガ意志フ達スルニ在リ

 

 

(1) 傍線を付したような考え方に立って、西南戦争以降、この時期までに行なわれた軍事上の改革について説明せよ。
(2) この意見書の中で山県は、「我邦利益線ノ焦点ハ実ニ朝鮮ニ在リ」と論じている。日清戦争の開戦に至る日本の対朝鮮政策について説明せよ。
(3) この意見書が出された頃、民間においても国民的自覚を促す言論活動が活発となった。その内容を説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)陸軍は参謀本部を新設して統帥部を強化し、軍人勅諭を発布して天皇に対する軍人の忠節を強調した。また、陸軍の編成が、国内治安対策に主眼を置いた従来の鎮台から対外戦争を見据えた師団へと改められた。さらに、大日本帝国憲法では天皇に対して議会の関与できない天皇大権として国防方針の決定権や陸海軍の統帥権を認めた。(2)朝鮮の近代化を図る親日派のクーデタを援助したが失敗に終わり、これを受けて清国との間に天津条約を結んだことで朝鮮に対する影響力は低下した。後に甲午農民戦争が勃発すると朝鮮の内政改革を巡って清国と対立を深め、日清戦争開戦に至った。(3)徳富蘇峰は山路愛山らとともに、一般国民の生活の向上と自由を拡大するための平民的欧化主義の必要性を説いた。これに対して三宅雪嶺や陸羯南らは日本固有の伝統のなかに価値基準を求め、それを基礎に国民国家を作り上げようとする国粋保存主義を説いた。(385)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

日本の近現代史における代表的なデフレ政策を3つあげて、説明せよ。(400字以内)その際、下記の3点に留意すること。

 

 

1 デフレ政策を推進した中心人物と時期
2 デフレ政策が登場した歴史的背景
3 デフレ政策がもたらした経済的・社会的結果(具体的に)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

19世紀後半、西南戦争の戦費のために不換紙幣が増発され、さらに国立銀行も不換紙幣を増発したことで激しいインフレが発生した。松方正義は増税によって歳入の増加を図り、軍事費以外の歳出を緊縮して歳入の余剰で不換紙幣を処分した。この結果、物価の下落と実質的な地租増大により自作農が土地を手放して寄生地主制が発展した。1920年代の度重なる恐慌を政府は日銀券を増発して処理したため、インフレの傾向が強まっていた。そこで井上準之助は財政緊縮、産業合理化、旧平価による金解禁を行い経済界の抜本的整理を図った。しかし世界恐慌の影響もあり不況が深刻化し、昭和恐慌に陥った。戦後行われた傾斜生産方式では赤字財政による巨額の資金投入が行われ、インフレが進行した。そこでドッジが来日し、単一為替レートを設定して国際競争のなかで輸出振興を図った。しかしインフレは収束したものの不況が深刻化し、中小企業の倒産・失業者が増大した。(397)

 


 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房