1982年 | 一橋大学日本史

1982年

第一問

 

日本史の大まかな時代区分としては、鎌倉・室町時代を中世、江戸時代を近世と称し、いずれも封建社会とするのが一般的なとらえ方である。しかし、おなじく封建社会といっても、中世と近世とでは、社会と経済の仕組や諸階級・諸身分のありように大きな相違がある。そして、このようなとらえ方からすると、戦国大名の領国支配は、中世的性格をなお保ちながらも、近世へと移る過渡的特徴が顕著になってきているものといえよう。この過渡的特徴が戦国大名の領国支配においてどのように現れているかを説明せよ。そのさい、(i)家臣団支配、(ii)分国法、(iii)農民・農村政策、(iv)城下町と商工業政策などにふれて解答するように留意せよ。(300字以内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

戦国大名は中世の武士団支配に倣った寄親・寄子制を採用し、家臣団に組み入れた地侍を有力家臣の元で組織化したが、これは近世の家臣団支配へも継承された。また、各大名が制定した分国法には、幕府法や公家法を継承した法とともに、国人一揆の規約を吸収した法などがみられ、中世法の集大成的な性格をもっており、江戸幕府が作成した武家諸法度はこれをもとに作成された。農民政策では中世の地下請を継承し、検地を行って農民支配を強化したうえで、村全体で年貢を一括納入する村請が採用され、近世でも継承された。さらに城下町には中世で経済力をつけた商工業者が集められ、近世の領国における統一的経済圏形成の基礎が確立された。(295)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問い(ア)~(イ)に答えよ。(300字以内)

 

 わが国の近代教育制度は、(ア)1872(明治5)年の学制によって発足したが、1886(明治19)年の学校令によって教育理念の大幅な転換がはかられた。1890(明治23)年の教育勅語はその教育理念を裏づけるものであったが、翌年には(イ)内村鑑三の不敬事件のようなこともおこった。
 その後、(ウ)日露戦争の前年には、教育制度に対する国家統制が強化され、さらに1911(明治44)年には、小学校の日本歴史教科書の内容に対して(エ)政治的な干渉を加える事件もおこった。

 

(ア)「教育理念の大幅な転換」の内容を具体的に説明せよ。
(イ)この事件を契機に教育と宗教との関係をめぐる論争がおこり、キリス卜教に対する批判がつよまった。この立場を代表する人物一名の名前を記しその主張を説明せよ。
(ウ)「国家統制」の内容を具体的に説明せよ。
(エ)この事件を具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)学生の後に公布された教育令では、小学校の管理を地方に移管し、就学義務を大幅に緩和したため、大きな困難を招いた。そこで森有礼文部大臣のもとで学校令が出され、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などから成る学校体系が整備され、尋常・高等小学校4年のうち、尋常小学校3~4年間が義務教育とされた。(イ)井上哲次郎。国家の利益を個人の利益に優先させるべきであるとする国家主義を主張した。(ウ)小学校の教科書を文部省の著作に限る国定教科書制度が定められた。(エ)南北朝正閏問題。『尋常小学日本歴史』の南北朝並立記述が大義名分を誤るとされ、議会で問題化した。後に文部省編集官喜田貞吉が休職処分とされ、南朝正統論に修正された。(300)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章を読んで、下記の問い(ア)~(エ)に答えよ。(300字以内)

 

 1927(昭和2)年の金融恐慌は、近代日本における最大の金融史的事件であった。金融恐慌は、若槻礼次郎の憲政会内閣の蔵相片岡直温の第52帝国議会における失言をきっかけに始まったが、その遠因は(ア)1920(大正9)年の戦後反動恐慌以来の日本経済の変則的状態そのものにあったといえる。金融恐慌は(イ)1927年4月にピークを迎え、金融界は大混乱に陥った。その渦中で、若槻内閣が総辞職したあと、田中義一の政友会内閣が成立した。(ウ)田中内閣は強力な手段によって金融恐慌を鎮静させたあと、(エ)前内閣と対照的な対中外交を展開していった

 

(ア) 1920年恐慌と関東大震災とによる経済界の混乱に対して、ときの政府はどのような対策を講じたか、具体的に記せ。また、その対策がのちの金融恐慌の原因となったことは否定できない。その理由を簡潔に記せ。
(イ) 次の文章の    内を埋めよ。

 1927年4月17日、若槻内閣の提出した(1)    が枢密院で否決されると、金融界は大混乱に陥り、(2)    、(3)    などの銀行や会社が破綻した。

(ウ) 金融恐慌を鎮静するにあたって田中内閣はどのような対策を講じたか。その対策を二つ記せ。またその時の大蔵大臣の氏名を記せ。
(エ) 1927~28年における中国の政治情勢を念頭におきながら、田中内閣の対中国政策を具体的に記せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)第一次世界大戦による好況の反動で株式市場が暴落して1920年恐慌が発生し、続く関東大震災で多くの工場や事業所が倒壊・焼失すると、銀行手持ちの手形が大量に決済不能となり、政府は日銀に巨額の特別融資を行わせた。しかし、不況が慢性化しており、多くの震災手形が未決済であった。(イ)(1)緊急勅令案(2)台湾銀行(3)鈴木商店(ウ)3週間のモラトリアムを発して全国の銀行を一時休業させ、日銀から巨額の非常貸出しを行った。高橋是清(エ)当時中国では国民革命軍が中国統一を目指して北伐を行っていた。田中内閣は満州における日本権益を実力で守る方針を決定し、南満州軍閥の張作霖を支援して、日本人居留民保護の名目で3次にわたる山東出兵を行った。(300)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房