1986年 | 一橋大学日本史

1986年

第一問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

相渡シ申一札之事 一、寅ノ御年貢不足申候ニ付面(て)、金壱分請取、寺ノ前之上畑壱畝廿壱歩之所、但うわ木まても、永代ニ相渡申候。

 

 上の文は、相模国(神奈川県)のある村の農民が、慶安4(1651)年の5月に、同じ村に住む地主に、耕地を売り渡したさいの、証文の書き出しの部分である。慶安3年(寅年)の年貢を完納するために、「寺ノ前」という場所の上畑1畝21歩を、そこに栽培されているもの(うわ木)を含めて、金1分で永代に売り渡すというのである。
 このような証文は、17世紀半ばには、全国各地でひろく見られた。これについて、次の問いに答えよ。

 

(1) このような文体は「かな混り候文」と呼ばれる。この文体の基礎となっている「かな文字」の成立とその歴史的意義について述べ、さらにそのような文化現象は、東アジアにおいても、わが国だけのものではなかったことを、例をあげて述べよ。
(2) これらの証文を書いた農民の多くは小百姓(小経営農民、小農民)である。小百姓は、荘園制の時代を通じて、その社会的地位をたかめてきたと言われる。その成長を基礎づけた生産力の発展のあり方について述べよ。
(3) この証文は、幕府がとった重要な土地政策に違反している。その政策とは何かを記し、またその政策がとられるに至った直接の契機について簡単に述べよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)漢字を簡略化したり、その一部をとることで生み出された。かな文字の成立により、日本人特有の感情や感覚を生き生きと表現することが可能となり、日記や物語などの国文学の発達をもたらした。東アジアにおける西夏文字や契丹文字なども同様にして成立した。(2)元寇の前後の時期から農業の発展がみられ、畿内や西日本では麦を裏作とする二毛作が普及し、肥料には刈敷や草木灰が利用された。さらに中世後期には水車などによる灌漑や排水施設の発展により三毛作も行われるようになり、肥料には下肥も用いられるようになって藍や桑などの原料作物栽培も行われた。この一連の農業発展は農民の農業生産力の向上をもたらし、豊かになった作人や下人などの農民が名主の元を離れ、新たに名主として自立した小農民へと成長していくことを可能にした。(3)田畑永代売買の禁令。当時、寛永の大飢饉を背景として富農への土地集中と本百姓の没落が進んでいた。(392)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章を読んで、下記の問い(1)~(3)に答えよ。(400字以内)

 

 日清戦争後、日本の産業革命は急速な進展をみせた。産業革命の主導的産業部門とされる紡績業が大きく発展したばかりでなく、製糸業も日本の産業革命の一翼になって急成長をとげた(1)。1897年に設立された官営八幡製鉄所の発展が重工業の基礎を築いたことに示されるように、日本の産業革命にたいして政府がはたした役割も大きかった(2)。いっぽう、産業革命と並行して農村では寄生地主制が発展し、資本主義との結合を深めた(3)。

 

(1) 製糸業と日本の産業革命との関係を当時の貿易構造に即して述べよ。
(2) 産業革命にたいする政府の役割を具体的事例をあげて述べよ(官営八幡製鉄所の例は除く)。
(3) 下線(3)の部分について具体的に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)当時綿糸紡績業では機械制生産が普及し、輸出が増加していたものの、原料綿花・機械を輸入に頼っていたため、輸入超過が続いていた。これに対し、最大の輸出産業であった製糸業は国産の繭と機械を使用したため、製糸輸出によって確保された外貨が原料綿花・機械の輸入に使用された。(2)日本勧業銀行・日本興業銀行などの特殊銀行を設立し、産業界へ資本を供給させた。また造船奨励法・航海奨励法を公布して、鉄鋼船の建造と外国航路への就航に奨励金を交付した。(3)日清戦争後、都会で産業革命が進展したのと対称的に農村部では農業発展が停滞しており、デフレによって定額金納の地租は実質的な農民の負担増加となっていた。困窮した農民は土地を手放して小農民となる一方、地主は土地を集積して小作料収入に依存する寄生地主となっていった。寄生地主は高率な小作料収入の余剰を企業や株式に投資したり、自ら会社を設立するなど資本主義社会へ進出していった。(400)

 

※(1)産業革命なので蒸気機関を用いたことには触れておくべき。

※(3)(「デフレによって」のとこは)松方財政期のみのため、産業革命期のこととして述べるべきではない。また、下線部が「寄生地主」ではなく「寄生地主”制”」であることに注目。寄生地主制においては小作人も不可欠の存在で彼らの子女が繊維産業に安価な労働力を提供したことも重要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章は、東京朝日新聞の社説の一部である。これを説んで、下記の問い(1)(2)に答えよ。(400字以内)

 

 護憲内閣が普選を議会に提出せざる前に、貴族院改革の案も決せざるうちに、かつて政友会内閣も通過をいさぎよしとしなかった法案、貴族院では再修正までしたくらいに異論のあった法案を、さらに広汎に、さらに厳酷にして、これを臆面もなく国民の前に出すことは、逆に護憲内閣そのものの本質を国民に疑わしむるものとして反対するのである。

 

(1) 「臆面もなく国民の前に出」された法案の名称と内容を記せ。
(2) この法案が出された歴史的背景は何か。この法案が成立するときの事情を念頭におき、第一次護憲運動(「大正政変」)以来の国内的、国際的な変化に即して具体的に述べよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(1)治安維持法。国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰することを定めたもので、最高刑は懲役10年とされた。(2)国際的要因には日ソ基本条約の締結によるソ連との国交樹立がある。当時第一次世界大戦中に起こったロシア革命が成功したことで社会運動全体における共産主義の影響力が拡大しており、日本においても共産主義勢力の活動が活発になることが懸念された。国内的には虎の門事件・普通選挙法の制定がある。虎の門事件は無政府主義者が摂政宮裕仁親王の暗殺を謀った事件であるが、当時無政府主義活動が活発化していたため、その取り締まりが求められた。第二次護憲運動の結果、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の3党連立による護憲三派内閣が成立し、普通選挙法を制定したことで男子普通選挙が実現したが、その結果、労働者階級の政治的影響力の増大が懸念され、政府は政党政治の存続には労働者の取り締まりが必要と考えた。(400)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房