一橋大学日本史 -2ページ目

1981年

第一問

 

古代の市場は,(A)平城京の市のほか,ほとんどその実体が知られていない。しかし鎌倉時代になると,(B)荘園の市場が開かれるようになった。そして戦国時代には,(C)寺内町のような特徴ある町も出現した。また室町・戦国時代には,そうした経済発展を背景として,(D)民衆を担い手とする文化も発達した。

 

(ア) 上の文中(A)(B)(C)を具体的に説明しながら,古代~中世の市・町の発展過程を記述せよ(200字以内)。
(イ) 下線(D)の部分を文芸の分野に即して説明せよ(100字以内)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)古代には平城京に官営の市が設けられ、地方からの産物や布、糸などが交換された。中世に入ると荘園や交通の要地で定期市が開かれるようになり、地元の特産品や米などが売買され、京都や鎌倉などの中心都市では常設の小売店である見世棚も構えられるようになった。さらに戦国時代には一向宗徒の寺院・道場を中心とした寺内町も形成され、門徒の商工業者が集住した。この時代の多くの市は市座や市場税を設けない楽市であった。(198)

(イ)民衆の生活を題材とし、せりふにも日常会話が用いられた風刺性の強い喜劇である狂言や、絵の余白に当時の話し言葉で物語が書かれた御伽草子、和歌を上の句と下の句で読み分ける連歌などは民衆の間に広く流行した。(100)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

次の文章を読んで,下記の問い(ア)~(エ)に答えよ。(300字以内)

 

 (ア)1858(安政5)年,大老井伊直弼は勅許を得られないままに日米修好通商条約を結び,ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ。(イ)翌年,この通商条約に基づいて,神奈川・長崎・箱館の三港が開港され,それ以後,わが国の貿易は急速に発展した。しかし,輸出の急増による品不足や市場の混乱が生じ,金貨の流出もあって,幕末期の物価騰貴はいちじるしかった。
 (ウ)明治政府は,地租改正や秩禄処分によって富国強兵政策の基盤を整備するとともに,官営事業を中心に欧米先進国の技術と生産方法を導入して殖産興業政策を推進した。(エ)また,鉄道,近代的郵便制度,電信なども開設され,新貨条例,国立銀行条例が制定されて,貨幣・金融制度も整備されていった。さらに,一部の民間企業も政府の手厚い保護を受けて,政商として発展していった。

 

(ア) これらの修好通商条約が不平等条約だといわれるのはなぜか。1866(慶応2)年の条約もふくめて,具体的に説明せよ。
(イ) 物価騰貴は人々の生活を圧迫し,1866(慶応2)年には各地で大規模な民衆運動が発生した。この運動の直接の原因となった政治情勢とあわせて,どのような民衆運動が発生したかを略述せよ。
(ウ) 明治初年に政府がとりわけ力を注いだ官営工業について説明せよ。
(エ) 政商としてもっとも著名な事例を一つ選び,その発展を明治政府との関係に留意して略述せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)日本に滞在する自国民への領事裁判権が認められており、日本人判事が滞在外国人を裁けなかった。さらに日本に関税率の決定権がなく、相互で協定して決める協定関税が定められていた。後に調印された改税約書では諸外国に有利なように関税率が平均20%から一律5%に引き下げられた。(イ)この時期には第一次長州征討に続き、薩摩・長州連合軍と幕府軍との間に第二次長州征討が起きていた。このような政局をめぐる抗争が続いた結果、民衆は「世直し」を期待して江戸・大坂を中心に世直し一揆を行った。(ウ)貿易赤字解消をはかるため、輸出の中心となっていた生糸の生産拡大に力を入れ、群馬県に官営模範工場として富岡製糸場を設け、フランスの先進技術の導入・普及と工女の養成をはかった。(エ)岩崎弥太郎が経営する三菱は政府から特権を与えられており、有事の際の軍事輸送など海運・金融・貿易などの分野で独占的な利益を上げ、後に財閥へと成長した。(400)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

次の文章を読んで,下記の問い(ア)~(エ)に答えよ。(300字以内)

 

 日本は,明治以後朝鮮の植民地化をめざしていたが,1902年の日英同盟から,次第に朝鮮を日本の勢力下におくことを(ア)国際的に容認させるとともに,朝鮮に軍事的圧力を加えながら(イ)その主権を三次にわたる日韓協約で段階的にうばい,ついに(ウ)1910年「併合」を完成させた。その後35年間にわたり(エ)日本は朝鮮を植民地として支配した

 

(ア) このことに関係して,日露戦争の意味を具体的にのべよ。
(イ) 下線部(イ)の内容を具体的にのべよ。
(ウ) その後の日本の朝鮮統治政策の特徴はどのようなものであったか。また,それに対し,朝鮮人はどう対応したのかを1919年におこった事件をあげて説明せよ。
(エ) 太平洋戦争の激化とともに日本国内の戦時体制が強化され,それに朝鮮は積極的に組み込まれたが,そのなかで朝鮮人に対してはどのような政策がおこなわれたか,具体的に記せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)日露戦争後に結ばれたポーツマス条約により、ロシアが韓国に対する日本の指導・監督権を全面的に認めた。(イ)第一次日韓協約では日本が推薦する財政・外交顧問を韓国政府におき、重要な外交案件は事前に日本政府と協議することを認めさせ、第二次日韓協約では外交権を奪った。さらに第三次日韓協約では内政権を獲得し、韓国軍を解散させた。(ウ)朝鮮総督府を設置して地税賦課の基礎となる土地調査事業を実施し、憲兵・警察などによる強権的支配の武断政治が続いていた。これに対し民族自決の国際世論の高まりを背景に1919年に朝鮮全土で三・一独立運動が起こった。(エ)神社参拝、日本語常用が強制され、姓名を日本風に改める創氏改名も行われた。(300)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

 

 

1980年

第一問

 

日本史における文化の在り方を大観すると,律令制以前においては,文化は呪術的性格をおび,しばしば支配の手段とされていた。このことは各地の祭祀遺跡などからも認めることができるが,(ア)邪馬台国の卑弥呼の場合についても指摘することができる
 律令時代に進むと,文化はさらに国家の支配と緊密に結びつけられる傾向が強められた。この点も多方面から論ずることができるが,(イ)大仏造立はそのような傾向をもっとも端的に示すものである
 平安鎌倉時代の文化は,仏教との結びつきを強く持っていた。仏教寺院の建築や仏像彫刻などはその代表的事例である。
 室町時代になると,文化はしだいに宗教から解放されるようになり,生活文化が多彩に展開しはじめた。(ウ)とくに衣服と住居の新しい様式は,今日に連なる和風生活様式の原型を形づくったものといえる
 そして,(エ)戦国時代には,衣料原料の面で革命的ともいえる変化がおこった
 江戸時代には,宗教は世俗化し,都市と経済の発展や街道の整備ともあいまって,(オ)民衆の日常的な願望にそった特徴ある宗教的行事や行動がさかんに行われるようになった。また,生活文化はいっそう発展し,(カ)元禄期をさかいに女性の服装にあたらしい様式が成立したが,これは生活様式や女性の社会的地位の変化ともかかわっていた

 

〔問い〕 上記文中の下線をひいた(ア)~(カ)について,それぞれ史実をあげて具体的に説明せよ。解答は,(ア)…(イ)…(ウ)…の形で記せ((ア)~(カ)合わせて300字以内)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)邪馬台国の卑弥呼は巫女として神の意志を聞き、その呪術的権威を背景に政治を行った。(イ)聖武天皇は大仏造立の詔を出して、政治的反乱や飢饉、疫病などの社会不安を仏教の持つ鎮護国家の力で鎮めようとした。(ウ)日朝貿易で大量に木綿が輸入され、麻にとって代わって衣服の原料となった。禅の精神にもとづく簡素さと伝統文化の幽玄・侘を基調とした書院造は近代の和風住宅の原型となった。(エ)三河や河内をはじめとする西国一帯で綿花の栽培が始まった。(オ)寺社の秘伝を公開する開帳、伊勢神宮などへの寺社参詣や聖地巡礼がさかんに行われた。(カ)恋愛や美人図が流行し、女性が美の対象になって西陣織などの高級絹織物が着用されるようになった。(296) 

 

※(カ)は山川の記述をそのまま引用。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二問

 

幕末になると,綿糸・綿織物業や,製糸・絹織物業では,(ア)問屋制家内工業が発達し,その中から,一部にマニュファクチュア経営も現われた。その後,これらの繊維産業は,(イ)それぞれ独自のしかたでの発展を遂げ,1890年代には,日本近代産業の中で重要な位置を確定するに至った。

 

〔問い〕 上の文中の,下線(ア)の部分を綿織物業および製糸・絹織物業について,下線(イ)の部分を綿糸紡績業および製糸業について,それぞれ史実をあげながら,具体的に述べよ((ア)・(イ)合わせて300字以内)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)19世紀初期に問屋制家内工業がいっそう発達し、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利など北関東の絹織物業などで一部の地主や商人が家内工業を設けて農業から離れた奉公人を賃金労働者として雇い、分業と協業による資本主義的生産を行うようになった。(イ)綿糸紡績業では飛び杼を取り入れた手織機の改良、手紡やガラ紡の出現を経て大坂紡績会社を初めとする輸入の紡績機械・蒸気機関を用いた機械制生産が台頭したが、原料を輸入に依存したため輸入超過であった。一方製糸業では国産の繭・機械を用いて当初は簡単な手動装置による座繰製糸が、のちに輸入機械に学んで在来技術を改良した器械製糸が普及し、外貨獲得において重要な役割を果たした。(300)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三問

 

1938年4月に公布された国家総動員法について,下記の(ア),(イ)の問いに答えよ。

 

(ア) なぜこの法律が必要となったかを,日中戦争の展開,国内の政治や経済の動向に即して150字以内で具体的に説明せよ。
(イ) この法律の目的と内容,およびその具体的な実施の経過を150字以内で説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)中国軍の徹底抗戦により、日中戦争は政府の予想を遥かに上回り長期化したため、軍事費が年々急増し、多額の赤字公債が発行され、紙幣増発によるインフレが進んでいた。このため、陸海軍の現役軍人や各省の官僚、専門の学者たちが集まって企画院を設立し、ソ連やナチス=ドイツに倣った統制・計画経済が必要だと考えた。(149) 

(イ)一元的戦時経済体制確立のために制定され、政府は議会の承認なしに戦争遂行に必要な物資や労働力を動員する権限を与えられ、国民生活を統制した。この法律に基づいて国民徴用令を出し、国民を強制的に徴発して重要産業に就労させた。また価格等統制令を出して公定価格制を導入し、政府による経済統制がさらに強化された。(150)

 

※(ア)の”ソ連やナチス=ドイツに倣った”という記述は詳説日本史探究から引用。









 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

 

1979年

第2問

 

次の文章を読んで,下記(ア)~(オ)の問いに答えよ((ア)~(オ)合わせて200字以内)。

 

 

 (ア)(イ)鳥羽・伏見の戦いから,(ウ)江戸開城・上野戦争をへてさらに東北戦争・(エ)箱館戦争にいたる内乱を,戊辰戦争とよぶ。この戦争は,薩長討幕側と旧幕府側とが(オ)相異なる統一国家をめざして戦った内戦であって,明治維新史上きわめて重要な歴史的位置を占めている。

 

 

(ア) 成立直後の新政府にたいし,欧米諸国はどのような政治的対応をしたか。
(イ) そのころ,京都や大阪の豪商は,新政府にたいして新しい動きをみせた。それを具体的に説明せよ。
(ウ) 江戸開城の翌月,五箇条の誓文の趣旨をふまえて政治機構を整備する方針が定められた。その文書の名称と内容上の特質をのべよ。
(エ) 下線部分を簡単に説明せよ。
(オ) 下線部分を簡単に説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

(ア)不平等条約改正のため新政府は岩倉使節団を派遣したが、欧米諸国は日本を近代国家とは認めず、条約改正を拒否した。(イ)豪商達はみずから義勇軍を組織して新政府の側についた。(ウ)政体書。国家権力を太政官とよぶ中央政府に集め、三権分立制をとり入れた。(エ)箱館の五稜郭に立てこもった榎本武揚軍と新政府軍が戦い、榎本軍が降伏した。(オ)薩長討幕側は天皇のもとに雄藩連合政権を、旧幕府軍は徳川主導の連合政権樹立を目指した。(199)

 

 















 

 

第3問

 

護憲三派内閣の性格について,その成立の経緯をふくめ,つぎの語句をすべて用いて説明せよ(200字以内)。

 

 

第二次憲政擁護運動,政党内閣,普通選挙,治安維持法,日ソ条約

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解答

 

清浦圭吾が超然内閣を組織すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の3党はこれに反対し、第二次憲政擁護運動が起こった。政府は政友本党を味方につけ議会を解散したが、総選挙の結果は護憲三派の圧勝に終わり、加藤高明が内閣を組織した。以後政党内閣は8年間続いた。内閣は普通選挙法を成立させたが、日ソ条約の締結による共産主義思想の波及を防ぎ、労働者階級の政治的影響力の増大に備えるため、同年治安維持法を成立させた。(200)

 

 

 

※日ソ条約のソがソ連を指すことは記述したほうがよい

 

 

 

 

 

 

問題文引用元 つかはらの日本史工房

 

 

 

 

 

一橋日本史解答

問題はwebサイト「つかはらの日本史工房」から引用。

URL: http://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/

 

※解答の正確性は保証しない(受験生であったときに作成したもの)

※転用は自由。