「作文(意見文・小論文)の書き方講座」最新版UPしました!「作文(意見文・小論文)の書き方講座」最新版を作成してUPしました!前回まで「理論」的な話を中心に書き方のポイントをご紹介しましたので、今回は、その「理論」に沿って実際の文章作成過程を実演。さらに文例の紹介もあります。実際に作文を書くまでの作業を順を追って説明していますので、皆さんも動画を観ながらぜひ作業をしてみてください。【作文(意見文・小論文)の書き方講座 第3部】【第3部-その2(文例紹介)】
自然体験×最先端技術=未来の教育!?わたしは随分とアナログな人間です。もちろん毎日PCやスマホなどには触れていますが、インターネットが普及しはじめる頃、それこそWindowsが爆発的にヒットし始めた頃、まだ自分用のPCを持てる程の状態ではありませんでした。ましてや幼少期は父親の職場でPCは見たことがありましたが、実際にふれて操作したことはありません。最近の子ども達は、生まれたその時にすでにPCがあり、スマホがあり、まさにITネイティブです。そういった少年少女諸君にとって、もはやそうしたICT環境や、その中で運用されているデジタル技術は、もはや生きる上で必要不可欠なリテラシーといえるでしょう。わたしも含め、多くの現在を生きるオトナにとっても、もはやPC等の端末がなければ仕事ができないという人も多いでしょう。先日友人から不慮の事故で携帯が故障し、誰の連絡先も分からず途方に暮れたという話を聞きました。さらには、仕事やプライベートのスケジュール管理や、旅行先での思い出の写真などもその携帯で保存していて、PCやクラウドなどにも同期していなかったらしく、そのすべてが一瞬にして消え去ったと嘆いていました。もはやそれらなくして、生活すら危ぶまれるようになってしまいましたね。それらがなかった頃をギリギリ知っているものとしては、こうなることは当時予想だにしていなかったわけで、よくよく振り返ると非常な驚きとともに、少々の不安も感じたりします。とはいえ、もうすでに生活の一部になってしまったものをガラガラポンするのは難しいでしょう。あとはいかに健全に運用するかということに苦心する方が建設的です。さらには、単なる受け身のユーザーとしてだけでなく、自らが発信する側、様々なアプリを開発、提供する側にならずとも、そうした技術を健全に使用するための知識は身に付けておく必要があるでしょう。ただし、そうした最先端のものに触れるだけでは、人間としての健全さを欠いてしまわないかとの懸念がある。それはわたしがアナログな人間だからだろうか。いや、きっと多くの良識的な人はそう思っているのだろう。一例ですが、「これからの時代を生きる力」とともに、そうした健全な人間性を育むことの重要性を同時に解かれている、「デジタル人間」の方のお話をご紹介します。※これからの時代を生きる力について真剣に考えるサイトを作りました。 ご興味・ご関心のある方はぜひご覧ください。 偏差値が高いだけの受験学力バカにならない学習方法
小論文の書き方夏が終わり、年度後半となると、入試が本格化していきます。この時期になると、後回しにされがちな「小論文」などの依頼も増えてきます。「小論文」や「現代文」こそ、じっくりやってほしいものです。とはいえ、試験の期日は決まっているわけで、それに間に合わせるように準備しないといけません。たとえスタートの時期がいつであっても。「小論文」についてはくわしく語るタイミングがありませんでしたが、当塾では「意見文」という形での学習が、ほぼそのまま「小論文」にも活かせます。「小論文」どう書いたらいいのか、とお悩みの方、とりあえず↓こちら↓の動画をご覧ください。基本的な「小論文」の書き方は分かるという方。内容を広げたり、深めたり、考えを充実させるためのポイントを整理した、↓こちら↓をぜひご覧ください。それでも「よう分からん」という方は、ぜひご一報ください。
前期期末試験!準備はOK?さて、9月に入りました。まだ夏休みモードで、ついダラダラしてしまっている、なんてことありませんか?かくいうわたしは夏のスケジュールに慣れきってしまっていて、日常のタイムスケジュールをうっかり間違えてしまう始末。早く切り替えなければ、ですね。教室周辺の2学期制の中学校では、早い所では今日、明日あたりから、前期期末試験です。夏休みが終わって、一息つく暇もなく、ドタバタとテスト対策をはじめ、「先生、ヤバイ」なんて声もそこここで聞こえてきます。「だから言ったじゃーん」夏休みのうちにきちんと7月までの復習もするんだよって、あれだけ言ったじゃんかー。といってもはじまらないので、テスト範囲を見ながら作戦タイム。受験生(中3生)諸君にとっては、今回のテストは最後ではないけど、非常に、非常に、重要なテスト。夏休みの提出物も合わせて、前期の成績がつけられます。もちろん後期中間あたりで最後の「仮評価」が出され、それで入試を戦うことになります。とはいえ、ここでバシッと実力示しておかないと、ね。きちんと計画的に復習出来ている人ももちろんいるので、そう言う人に出会うと、ほっと一安心。うん、うん、頑張って良い結果取ろうね。講師たちも人間。生徒はみんなかわいいし、みんな応援してる。「エコヒイキ」なんてするつもりは全くない。だけど、頑張ってる姿を見せてくれると、余計に頑張って欲しいし、きちんとした成果を得て欲しいから、やっぱりちょびっと熱が入る(こともある)。だって人間だもの。できるヤツはあんまり文句言わないし、だまってやるべきことをやっている。できるヤツは他人に原因を求めたせず、だまって「自分」と闘っている。だから少しでも「自分」に打ち克てるように、僕らは精一杯お手伝いしたいと思う。誰かのせい、何かのせいにする前に、きちんと「弱い」自分と向き合おう。そういう姿勢を見せている限り、ホントに困っている時は、きっと誰かが助けてくれるはず。頑張れ。誰かとの戦いではない。自分との闘いなんだから。「あなた」自身がやるしかないんだ。
「帳尻を合わせる」力!?早いもので、夏休みが終わってしまいました。正確には、横浜市の小中学校は昨日から授業が再開されました。夏休み最終日、26日(水)。案の定とかいうか、なんというか、やっぱり終わり切らなかった宿題があると、駆け込んでくる人がちらほら。なかには作文の課題もあり、遅い時間までかけて、何とか終わらせたという感じ。だから、言ったでしょ。早め早めでやろうって。「夏休みがあと一ヶ月、いや一週間で良いからほしい」ともらす生徒もいましたが、いやいやあと一ヶ月あっても、一週間あっても、きっと変わらないでしょう。そういう人は、あと一ヶ月あったら、「あと一ヶ月あるし」と言って、やっぱり29日間は宿題をやらないのでしょう。日数が足りないのではなく、気持ちが足りないのですから。もちろん長いようで短い夏休みに、やりたいことがたくさんある人にとっては、あれもこれもと宿題があると、なかなか処理しきれないということもあるでしょう。まぁ、とはいえ、毎日やり続けてギリギリ終わるとか、そんな膨大な量が出ているわけでもなし、7月中に終わらせてしまう人だって、少なからずいるんです。学校がはじまる前日まで引っ張るなんて、色んな事情を最大限差っ引いても、「サボってた」というのがホントのところでしょう。たとえ、前日とか数日前までやらずにいたとしても、その限られた時間で終わらせられる算段だけはつけておかないと。ギリギリだったとしても結果提出が間に合うのであれば、それはそれでよしとすることはできるでしょう。しかし、何もかもやらずにいたのにも関わらず、ギリギリで「誰かのせい」にして、「誰かに恨み言」を言ってもどうしようもない。きっとそういったところにも、成績とか地頭の差が出てくるように思う。きっとできるヤツは、決してほめられないプロセスであっても、結果何とか帳尻を合わせる。帳尻を合わせるように立ち回ることができる。これって勉強だけでなく、仕事の現場でも非常に重要なことだ。「何とか帳尻を合わせる力」ぜひ、学校の宿題や提出物などなどを使って、この力を磨く努力をしてみよう。もちろん一つ一つのことを、丁寧に、正面から攻略していくのが王道。でも、時に時間や資源が限られた中でゴールを切らないといけないこともたくさんあります。そんな時こそ「何とか帳尻を合わせる力」は有効です。学校の勉強なんて意味ない。受験学力なんて使えない。なんとなくそういう言説もありますが、ものは使いよう、何をどう用いるか、どう価値づけるかは、自分次第。安易に否定して切り捨てる前に、一度じっくりトライしてみましょう。あなたが否定しがちな学校の勉強は、受験勉強は、使い方次第で、将来のあなたを力強く支えてくれるものになる。そう思ったら、日々の勉強の見え方が変わってきませんか!?ツマラナイなら、自分が楽しくすればいい。意味がないと思うなら、自分で意味付けをすればいい。誰かや、何かのせいにしても、それこそ何の意味もない。It's up to YOU !
お盆休み明けましたが、夏休みの宿題大丈夫ですか?台風の発生、接近?などで、少々空模様が不安定な今日この頃。お盆休みが明け早3日が経とうとしています。小中高生の皆さん、夏休みの宿題、大丈夫ですか?お盆前にあれだけ言っていたのに、まだまだ大量の宿題を残しているという人がいますね。特に、読書感想文や作文系の宿題は、急に持ってこられても、じっくり見ている暇がないことも。今週中であればまだ何とかなりますが、来週にはいってしまったら、もうしっかり添削してあげることも難しくなります。Hurry up!来週はもう学校が再開という人もかなり多いのではないでしょうか。前日にまだ2~3コ終わっていない宿題がある、なんてことにならないように。そうなると人間弱いですから、「もういいや」って諦めてしまったりもします。宿題の提出ができず、成績が落ちたなんて人、毎年何人か見ていますよ。特に、受験生は要注意!ここでの成績低下は高校入試において命取り。選択できる学校がガラッと変わる可能性もあります。「あと1点あればこの学校いけたのに・・・」なんて後から言ってももう手遅れです。いま、この瞬間に出来る限りを尽くしましょう。・・・なんて言うと、「これは自分ができる限界を超えています」なんて、あっさりとあきらめモードに入ってしまう人もいます。そう思った君。甘いぞ!君がいま目の前にしている勉強や課題は、決して越えられないような壁ではない。もちろん人によって、超えるのが大変な人もいるでしょう。でも、決して100人中10人程度しか超えられないというような、スペシャルハードなハードルではない。そして、そのハードルを超える作業は、どんなにツラいもので、どんなに苦しいものであっても、それによって君が命を落とすようなことはないはずだ。以前、知人がこんなことを言っていた。ある国家試験の勉強中に、睡眠時間を削って、毎日何時間も勉強をしていた時のこと。息抜きに友人と学校のラウンジでお茶をしながら、「もう勉強のし過ぎで死にそう・・・」と友人に漏らした。たまたま、近くを通りかかった先生に、「勉強のし過ぎで死ぬことはありませんよ。 でも、あなたが勉強しないと、死んでしまう人がいます。」と言われたそうです。小中高生にとってみれば、そんなバカなと思うかもしれませんが、現に、あり得ることなんですね。自分が勉強しないことで他の人に死の危険があるということが。その知人が目指していたのは医療関係の仕事です。その場合、自分の勉強不足、知識や経験の不足は、すなわち患者さんの生死を左右する事態になりかねない。知人は改めて自分の目指している職の厳しさと、しかし、それを目指し始めた頃の自分の想いを再確認し、受験勉強に勤しんだようです。そういう特殊な場合もあります。でも、この場合も、「自分が」ではなく「誰かが」です。きっとその「大変な」作業は、本人にとっては「大きく」「変わる」チャンスなのです。そう思えば、あなたにとっては得るものが大きい素敵なことなのです。ぜひもうひと踏ん張り。頑張りましょう。宿題が終わってるという人は、ぜひ休み明けのテストに向けて、これまでの復習をしてみましょう。受験生は、受験勉強もあります。自分が「大きく」「変わる」チャンスがたくさんありますね。さて、わたしももう間もなく今夏最後?の読書感想文の添削が終わろうかというところです。今年の夏もすでに10数本の感想文の作成に立ち会いました。その他の作文まで入れれば、いくつになるのだろう。頭の中がぐちゃぐちゃです。でも、たいへん心地よい疲れです。新しい「駆け込み」がないことを祈っています。ぼちぼち教科の授業をやりたいな。
『日本のいちばん長い日』先日、観てきました。『日本のいちばん長い日』毎年この時分になると、先の戦争のことを回顧し、戦争関連の話題がメディアを賑わします。特に、今年は戦後70年を迎える年。一番の注目は、やはりこの作品でした。一昨年公開され、先日地上波でも放送された、『永遠の0』とはまた違った戦争の描き方で、実に新鮮な印象でした。戦争ものといえば、空襲や戦車、戦艦や潜水艦などの戦闘シーンで、血なまぐさいドンパチをやっているのが鮮明に残ってしまいます。そうした部分から「悲惨さ」などを心に刻むというのは、戦争を直接知らない私たちにとっては非常に重要な機会となります。一方で、「悲惨さ」はある意味で当然として、それだけでない部分にきちんと焦点を当てている作品に触れると、心に刻まれるものや考えさせられる部分が変わってきます。先の『永遠の0』も、そう。何となくこれまで見聞きしてきた戦争もののイメージとは、やはり一線を画す。 ※「永遠の0」については以前記事を書いているので、 よろしければ↓こちら↓をご覧ください。 http://ameblo.jp/learning-labo/entry-11743302072.html特に、今回の「日本のいちばん長い日」は、ポツダム宣言受諾の前後、非常に短い期間に焦点をあて、しかし、その濃密な、ギリギリの攻防を描いています。零戦の空中戦があるわけでも、戦艦の主砲の砲撃があるわけでもない。空襲のシーンは一部あっても、多くの民衆が焼け爛れ痛々しい様子が、描かれ「悲惨さ」を全面押しするわけでもない。しかし、何だろう、このズシリとくる感覚は。戦争は「悲惨」なものである。どんな言葉をつくしても、どんな理由をつけても、そこには人が人を殺め、ごくごく平凡な「幸せ」が奪われる、というただその事実がある。侵略戦争かそうでないか、政治的、軍事的には重要な論点かも知れないが、どちらも誰かの血が流れていることに変わりはない。だから、どんな理由があれ、積極的にそんな暴挙をすることは、絶対に反対なわけである。これは人間だれもが共有できるはずの、実にシンプルな想いである。ただし、人間の歴史を紐解けば、まさに戦いの連続。こちらはそんな気なくても、自分たちの利益を貪るため、一方的に蹂躙しようとしてくるヤカラがいる。今も昔も。だから、そういうヤカラからは、私たちの家族の幸せは守らなければならない。これもまた実にシンプルな命題である。かつて、そうして「家族」の幸せを守るため、自らの命を顧みずに戦った勇士たちがいたこともまた事実である。そこには純粋に敬意を表さねばならないだろう。その戦いの上に今があることも事実だから。戦争ものの作品からは、強烈に「悲惨さ」を感じさせられる。もちろんそれは大切なことだけど、あまりにもそれだけになり過ぎてはいないだろうか。そんなことは分かり切っている。もう何度も何度も言われなくても、分かり切っている。でも、そんな「悲惨さ」の中で、「家族」がもっと「悲惨」にならないように、文字通り、体を、命を張った戦いがあったことも、同時に伝えるべきだろう。だからこそ「こんなこと」もう絶対やめようね、って心から思えるはずだ。「日本の戦争責任」とか「日本が悪いから原爆投下も仕方ない」とか、それだけに終始した議論では、先の展望は何も見えてこない。戦争という過ちは人類が等しく後悔し、反省し、そういう手段を取らずにすむ方法を考えねばならないはずだ。この作品では、多くの「家族」を思う人が登場する。歴史的な事実に基づいて描かれた、実在の人物であり、セリフなどもご本人が語ったと伝えられる内容だったりもする。昭和天皇までもが登場されている。というか、この作品の大きな、大きなテーマは昭和天皇の御聖断および玉音放送である。(これは予告編等々でも明らかなのでネタバレではないよね!?)天皇陛下の想い、時の内閣の閣僚の想い、そして、陸軍の青年将校たちの想い。いずれも表現は違えど、その根本では誰もが国を想い、そこにいる「家族」を想っている。もちろん武力行使という血なまぐさい形による行動という部分には必ずしも賛成できないが、しかし、我々はそうした純粋な想いもきちんと受け止めないといけない。さらに、教育に携わる人間としては、やはり、教育の場面で、もっと近現代史をきちんと扱うべきだと改めて痛烈に感じた。こうした想いの連鎖の上に今日があること。戦後、安全保障や国を、家族を想う思いというものを、どこか棚上げにしてきてしまったと思う。日本人は。もちろん戦後は占領などもあり、致し方なかった部分ある。しかし、そうした部分を顧みずに、経済の部分にばかり目を向け過ぎたことで、多くの大事なものを失い、多くの重大な問題を創り出してしまったといえるだろう。先の戦争は、単に残虐な行為としての戦争を、それとして反省する対象であるだけでなく、現在、顕在化している多くの今日的な問題を顧み、未来を創るために振り返るべき対象なのでしょう。そうした生の素材として、教育の現場でも扱うべきだと強く思います。恥ずかしながら私自身も最近はこの手の話題に関心を持ち、見聞きするようにはしていますが、それでもやはりまだまだ知らないことだらけ。これまでいかに一義的で、バイアスのかかりまくった情報を与えられていたのか、気付く機会が増えてきました。何もそれは先の戦争を美化することでも、日本人の行ったことを正当化することでもない。一方的に歪められていたことを、それと気付き、では、そこから私たちは何を学ぶのか、これから私たちは何をするべきなのか、そうした当たり前のことを考えるスタートラインに、やっと立てるようになったという程度のことです。そうした当たり前のことが、当たり前にできるように、特に、子ども達とともにそれができるように、大人の一人として努めていきたいものです。いやーそれにしても、天皇陛下という存在がいる日本。素晴らしいですね。もちろんそこに強さだけでなく、弱さもあるのでしょうが、いずれにしても、天皇という存在を頂いているこの国は、世界中見渡しても、なかなかに素敵だと思います。「やっぱり日本人で良かった」そんな当たり前?なことも確認できました。最近、時期的なことなのか、この手の話題ばかり書いている気がします。でも、大事なことだから。教育ということにも密接に関わることなので。ぜひ、他の記事もごらんください。何かお感じになられたことがあればぜひメッセージをお願いします。 ※↓これまで書いた記事↓ 【永遠の0】 http://ameblo.jp/learning-labo/entry-11743302072.html 【安保法制】 http://ameblo.jp/learning-labo/entry-12054260142.html 【憲法9条を改正すべきかどうか】 http://ameblo.jp/learning-labo/entry-12056809348.html※↓こちらもぜひご覧ください↓
まもなくお盆休みです!8月も気付けば10日。夏は夏期講習などがあるから、いつも以上に光陰矢のごとし。みなさま、もうまもなくお盆休みに入ります。ラーニング・ラボは16日(日)まで休校となりますので、授業再開は17日(月)となります。17日ともなれば、2期生の中高生は、前期期末試験に向け準備もしなければなりません。…ということは、この時点で夏休みの宿題がたんまりの残っているなんてこと、絶対に避けなければなりません。(もちろん日記系の毎日やるものは別ですが)大丈夫ですか?夏休みに入る前に、あれだけ口を酸っぱくして言ったのに。特に、作文などは例年苦戦される方も多い課題。残っていませんか?「ヤバイ!」という人は、今日明日中に教室までご一報を。今ならまだ間に合います。お盆明けは定期試験対策なども入ってくるので、作文にじっくりお付き合いする時間はないかもしれません。もちろんその他の宿題でも構いません。「これ、どうしよう・・・」って宿題があるのなら、これが最後のチャンスと思って、すぐにアクションを起こしてくださいね。特に受験生。多くの人は学校の宿題も、受験勉強もしっかりやっていると思います。そういう人は、お盆明けには定期試験対策もしっかりできるでしょう。そうではないという人。ここまでのところ、ちょっとサボり気味だったかなと自分でも思う人。そんなあなたは今すぐ始めて下さい。宿題が終わっていないのなら、できれば今日、明日中に終わらせましょう。お盆は田舎に帰るという人は、田舎にも勉強道具をぜひ持って行ってください。今の一分、一秒は、去年までのそれとはわけが違う。あなたが、半年後、いえ、2~3ヶ月後に、「もっと早くから勉強しておけばよかった」「夏休みにもっと勉強しておけばよかった」とならないように…。連日暑い日々が続いていますので、体調には十分に気をつけて、しかし、自分のリミッターを外して、これまでの自分の最大限の努力をしてみよう。自分で思っている以上に、もっとできます。量的にも、質的にも。普段の生活ではなかなか限界を突破する経験は少ないかもしれません。だからこそ、休みの間にやってみるのがいい。限界を超える体験を何度かやってみると、普段のすき間の時間の使い方や集中度なども劇的に変化します。自分は自分が思っている以上に自分でコントロールできないもの。受験勉強は、そんな自分のコントロールの仕方を体得するチャンスとしても使えます。ぜひ、無理のない範囲(病気で倒れる、など)で限界を超える努力をしてみよう。夏が終わればもっと時間の足りなさを感じるほど、どんどん月日が経ってしまいます。ここです、踏ん張りどころは。頑張る君の頼みなら、可能な限りのことは私もしよう。可能な限りのことであれば、どんなことでも手伝うし、君を助ける。助けが必要なときは、すぐに言ってほしい。でも、だから、まずは君が君の本気を見せてほしい。他ならぬ君自身の人生だ!
「憲法9条を改正すべきかどうか」現在、当塾の「基礎講座」では、夏休みの課題の対応も視野に入れ、作文をテーマとして授業を行っています。そんな中、ある中学生が「意見文」を書こうとしています。テーマがなかなか決まらないというので、いくつかそれらしいテーマを提案しました。…が、なかなかピンと来ていない様子。3年生だし、社会科では公民分野の学習が始まっているので、最近の「安保法制」や「憲法改正」はどうだろうか。初めはピンと来ていない様子でしたが、その後「あれっどうなの?」「それってどういうこと?」などなど質問を通して、少しずつ興味を持ち始めたようです。なかなか難しいテーマではありますが、せっかく公民の勉強もしているのですから、いろいろ情報を集めてしっかり考えてみてほしいと、見守り続けています。ただ、そんなやり取りをしている中で、別の中学生から、「集団的自衛権反対」とか、「安保法制なんて廃案になればいい」といった反対派の声が聞こえてきました。「なんでそう思うの?」って聞いてみると、「だって戦争することになるんでしょ!?」って。「え?なんでこの法案が通ると戦争になるの!?」「え、だってアメリカの戦争にまきこまれるんでしょ!?」ビックリしました。キレイに反対派の主張が落とし込まれている。学校で先生がそう言っているのでしょうか。ご家庭で親御さんがそう語っているのでしょうか。もちろん「反対」の立場を取るのは良いでしょう。それぞれの価値観のもと、意見を表明すればいいのですから。しかし、反対派の多くは、「安保法制」や「憲法(9条)改正」などを、「戦争をする国にする」とか「徴兵制」とか「違憲」などといって反対しています。これは、ちょっと国民のミスリードもいいところ、自らの主張の論理性のなさ、矛盾を露呈しているようにしか見えない。冷静に聞いて、情報を整理して、考えていけば矛盾だらけなのに、でもキレイな理想を不安をあおるように、安保法=戦争というレッテル張りで押し通されると、幼気な少年、少女たちは、あれ?そうなの?じゃあ反対!ってなりますよ。だから、彼・彼女のためにもきちんとした議論をしてほしいと思います。せっかく論理的な思考やメディアリテラシーなどをテーマに学習していても、やっぱりこうしたレッテル張りをされた報道が連日なされていては、「君たちが戦争に行くんだぞ」「若者が血を流すことになる」なーんて言われたらやっぱり不安になるでしょう。きちんと考えさせ、何が正しいのか、どう国というもの、社会というものを捉えていくのか、その機会を奪わないでほしい。そもそも「自衛隊」は「違憲」とされてきました。それならきちんと法律で規定するのが筋でしょう。しかも、そうせずに現状のまま「自衛隊」には目をつぶり、自衛隊の廃止には全然踏み込まないというのは、その考え自体が私にはよく分かりません。そもそも「日米安全保障条約」は「集団的自衛権」の具体例ともいうべきもの。在日米軍基地や国連の活動だって国際法の観点からすれば立派な集団的自衛権の行使。私たちはすでに日々集団的自衛権を行使しています。その点をどのように説明するのでしょうか。そうなると米軍基地はいらない、自衛隊だって究極はいらないというのでしょうか。その時、国の、国民の安全は誰がどう保障するのでしょうか。スイスのようにいざという時、全国民で立ち上がるという覚悟があるのでしょうか。(まぁ永世中立国を詠うスイスにも軍がありますけど)自衛隊の廃止まで訴え、この国から完全に軍事力を排除し、他国に侵略されても構わないというのであれば、主張としては理解できます。もちろん賛成はできませんが。でも残念ながらそうではないようなんですね。さらに言えば、集団的であろうが個別的であろうが、自衛権というのは自然権とされる部類のもの。本来的に、当然のごとく有するものです。どうやらそれらは当たり前すぎて憲法に明記されていない国もあるようです。だってある時ならず者にいきなり襲われて、その時ただ無抵抗に蹂躙されるのでしょうか。そうはしないでしょう。もし、仮にそうだというのであれば、そして、それが国民の大多数の意志であれば、そういう国家をつくればいいんです。それがルールですから。でも、それってどうなんでしょう。反対派の人たちは、さらに、彼らのレッテル張りで本当に考えなければいけない部分を隠された状態で何となくのイメージや雰囲気で「反対」と言っている人は、自分が、自分の家族が襲われた時に、無抵抗にやられることを真に望んでいるのでしょうか。いやいやそんなわけないというのであれば、自衛隊をきちんと法整備し、日米同盟・安保条約のもと、集団的自衛権を正当に行使し(すでにしていますが)、自衛隊が無駄な血を流さずに、意義のあるオペレーションを遂行できるようにするのが自然な流れでしょう。いやいや、米軍に頼るな、米軍基地をなくせ、というのであれば、現在米軍が担っている防衛力を自国だけで持てばいい。かなり非現実的な選択肢ですが、なくはない。そうなれば防衛予算が現在の何倍、何十倍も必要であることは、具体的な数字を出すまでもなく火を見るよりも明らかなこと。国民がそうした税金の使い方を良しとするかどうかという話になります。この話題、そういう観点でみれば、大変シンプルな話だと思うのですが。。。というか、そういう観点でこそ考えなければいけない話題のはずです。「違憲」とか「戦争する国」とか、ましてや「徴兵制」なんて反論、少々筋違いです。自衛隊の存在は認めて(黙認して)、さらに「個別的自衛権」は認めて、集団的自衛権になると、戦争だ戦争だ、違憲だ違憲だといわれても、まず大事なのはそこではなく、国の、国民の安全保障をどうするかって話なのに。それを守れない憲法であれば、それは憲法の方がおかしいわけで、憲法を改正すればよいのです。憲法は決して変えてはいけないものではないわけですから。世界的には憲法の改正は決してめずらしいことではない。70年も改正がされていない方がめずらしいでしょう。まぁ、とにかく幼気な中学生たちが何となく不安を煽られ、冷静に議論を見渡せなくなっています。それが残念でなりません。普段から論拠を明確に、と授業内でもくり返し伝えていますが、しかし、そこは中学生というべきか、「大きな」声にはなかなか疑問をさしこんで、リテラシーを発揮できないでいます。大人であれば自分の責任で情報を吟味すべきでしょうが、中学生は今まさに学んでいる最中の身ですから、そこはちょっと気をつかってあげましょう。くり返しますが、どうか子ども達がきちんと理性的にこの議論を追えるよう、イイオトナな大人が理性的に、論理的に話を進めてほしいですね。私自身だって強行採決とか、乱暴に数の論理で押し切るべき話題ではないと思いますが、とはいえ野党を中心とした反論は、ちょっとズレてしまっているとしか言いようがなく、さらにネタもつきてしまっているようにお見受けします。それなら、じゃあもう採決で良くね!?ってことになっても仕方ない。大事なテーマだからこそ、与野党超えてきちんと議論すべきです。だからこそ、その意味で野党頑張れって思いもあります。でも、お願いですから、変なレッテル張りだけで終わらないでください。イイオトナ、しかも税金使っている議員さんなんですから。建設的な議論をお願いします。子どもたちが観ています。
安保法制さて、先週の金曜日のこと。(投稿したつもりが保存になっていた(+o+))またまた深夜に帰宅して見るとはなしにTVをつけていたら、ちょうど番組が始まったところでした。月末の金曜日といえば、そう「朝生」です。今回は「安保法制」がテーマ。先日、関連事項について記事を書いてますが、(それはこちら⇒http://ameblo.jp/learning-labo/entry-12018513960.htmlちょっと気になる発言等があったので、コメントを記してみたくなりました。やはり近しい人には誤解してほしくないし、何より主権者として、自ら思考してほしいから。気になったことというのは、独立総合研究所代表、青山繁晴さんの発言に対する、あるお二方のリアクション。青山さんが、拉致の問題や尖閣、小笠原のサンゴの問題を取り上げ、日本はこれまで近隣諸国と「話し合い」を重ねて重ねて・・・来た。でも、拉致の問題は一向に解決しない。その際に、国民が卑劣な「拉致」という被害にあっているのだから、国として「取り返しに行きますよ」という態度があってしかるべきなはず、というような発言をされました。その発言にちょうど向かい側の席に座っていた二人が笑ったんです。その二人とは、ピースボート共同代表の川崎哲さん、広島市立大学広島平和研究所研究員の高橋博子さんです。髙橋さんに至っては「怖い、恐ろしい」というようなリアクション。いやいや、ちょっと待って。笑うっておかしくないですか!?青山さん、すかさず、「こっちもあなた方の話を笑わずに聞いているんだから 笑わずに聞きなさいよ」と一喝。その的確なツッコミに笑ってしまいました。確かに青山さんは少々粗暴な言い方をしているかもしれない。話の中身も物騒といえば物騒なことではある。でも、そこは否定すべきところではないように思う。真の敵は拉致を行った側であり、武力で現状変更をしようとしている側なのだ。国の領土、領海、領空、国民の生命、財産を守るということを考えたとき、一体どうすれば良いのか。やはり私たちは改めてそれぞれが考えなければいけないのだ。自分の肉親が拉致されたとして、それをただ指を加えて眺め、「返してください」とお願いすることが、私たちが求めるべきことなのでしょうか。笑っていたお二人は、自分の肉親が某国に拉致されたとして、その場合にも同じことができるのでしょうか。国が武力を背景として、全力で取り返しに行くことを、そんな馬鹿なことを、と笑い、反対するのでしょうか。そうするというのであれば、きっとその思い、考えは本物なのでしょう。でも、なんか本物感がしないのはなぜなのだろう。国際政治学者の三浦瑠麗さんからの指摘だったでしょうか、「日本のリベラルは自衛隊の廃止を言わない」というものがありました。川崎哲さんは「自衛隊はやむを得ない」と言うような発言をしていました。理想としては、軍事力はなくすべきだという立場でという補足はありましたが、でも、現実問題として自衛隊の現状維持という立場を表明されています。では、その自衛隊の本分とは何か。3.11で注目を集めることになった自衛隊。その本来の任務を、そのイメージからか、「災害救助隊」と勘違いしているのかな、と思う発言をする人もいる。でも、これは明確に違う。自衛隊とは、その名の通り、自国を守る軍隊なんですよ。国防が本分なわけです。国を国民を守るのが仕事の自衛隊が、連れ去られた国民を救いに行くのが、他国の権利を蹂躙する侵略戦争と同列に語られる野蛮な行為なのでしょうか。いや、そもそも国民が拉致されるような状態にさせないのが国防でしょう。現状そうしたことさえも許されないでいる自衛隊をどのように考えているのでしょうか。物騒な話かもしれないけど、それは一つの正義ではあるでしょう。国際社会でも今のところそれが「ふつう」な感覚なわけですね。だって、明らかに拉致なんて悪ですから。さらに現状、自衛隊のオペレーションが国内のみならず、国際社会において一定(以上?)の貢献をしていることも明らかでしょう。自衛隊がそうした存在であることが国際社会で認められていくことは、それ自体が国益につながると考えられますが、9条に異常に固執されている方は、9条がなくなると、世界各国は「日本は戦争放棄を放棄した国だ」と認識されるという主張をされることもある。ちょっと待ってほしい。自衛隊の災害救助やPKOなどでのオペレーションについて、あるいはそれによってもたらされている益については一方で認めておき、いや、積極的に認めていなくても目をつぶり、そうした主張をされているのは、何ともすっきりしない不健全さというか、理想が理想を産んでしまって、信仰のようになってしまっているのか、柔軟な、理性的な思考が働いていないような印象を受けてしまう。ここに何だか本物感を感じられない理由があるのかもしれない。きっと字面だけ見れば、言葉だけ聞けば、彼らの主張は一つの理想だから、良く聞こえるし、素晴らしい内容のようにも思える。しかし、現実はどうなのだろう。そもそも、日本国民の国益を考えたら、もっと違った角度で、内容で議論が進むべきだと思う。昨今の安保法制についての議論、特に国会におけるそれは、あまりにも「違憲」とか「戦争できる国」とか、「徴兵制」などの議論に終始しているように思う。本来的には「違憲」とも見なされるべき自衛隊に目をつぶり、現状のような活動や、災害救助に対しては肯定的。そのくせ、本分である国防や、国際協力に関しては、異常なまでの拒絶。自然に考えれば、「それなら憲法見直そうよ」「自衛隊を憲法でちゃんと規定しようよ」ってなりそうなものですが、それは反対。どういうことなんだろう。それならやはり三浦さんの言うように「自衛隊なくせ!」という主張がないのが不思議ってことになってしまうでしょう。すでに現状でさえ、誰かの血のうえで「平和」な生活をしている私たち。すでに現状でさえ、日本にはアメリカの基地があるということ。それらについての自己矛盾を一体どのように解消しているのであろう。こんな風に言葉にすると、「右傾化」だとか言われてしまうのでしょうか。別に言い訳をするわけではありませんが、私自身、自民党、安倍首相の考えを全面的に支持するわけではありません。ですが、その方向性、やろうとしていることの意義は十分に認められると思っています。このテーマは、これまでやるべきなのに、やれて来なかった戦後の大きな宿題の1つでしょう。だからやっぱり、変な感情論や、誤ったというか偏った主義主張で、特にそれが未来の世界のきれいな理想である場合、それらに固執せず理性的に議論を進めていってほしい。あるいは現実に迫る危機や想定される危機に対する現実的な対応を考えていってほしい。もちろん、そうではない意見であっても、「本当にそうなの?」って思いを持ちながら、それぞれが自分の頭で考えてほしい。それこそが国防や安全保障の第一歩ではないでしょうか。私も授業で、取り上げていますが、近年は学校でも語られているでしょう、「メディアリテラシー」メディアというのは、何もマスメディアのことだけでなく、情報をもたらしてくれるものは、何でもメディアです。それがバッチをつけた議員さんであっても、単なる理想論だけではないのか、特定の誰かの利益になるだけではないのか、などなど、ちょっと「?」を投げかけてみるのが大切なのです。もちろん、その上で、やっぱりこの人の言ってることが、自分の考えと同じだ、とか、近いとか、賛成できる…そう思えたら、その人を支持し、一票を投じれば良い。それが間接民主主義です。それが国民主権です。それは国民に存する権利でありますが、現代の人にとっては、むしろ義務だと言っても良いとさえ思えます。わずか数分で終わる投票にさえ行かない人がかなりの数いるんですから。しかも、そういう人に限ってこういう時声高に叫んだりする。だったら、投票に行き、政治に関心を持ち、主権者としての自分の代理人を具にウォッチングしていなさいよ。少なくとも選挙の時くらい、きちんと権利を行使し、自らの思いを願いを票にのせて投じるべきでしょう。その意味で、特に現代の人には義務であるとさえ思うのです。だって、そこには、「私」が、「私の家族」がこの世界でどう生きていくのか、国というものの中でどのように生きていくのか、根本にはそんな当たり前で、当たり前だから大事なこと、それしかないのですから。だから、そうしたことに無関心で、何かあったときにだけ誰かのせい、それは正当な権利の行使ではなく、濫用にも似た行為だとさえ思えてしまう。そんなの、さみし過ぎる。さぁ、だからこそ、みなさん、考えましょう。自分で、自分たちで。誰かの都合の良いだけのものにしないように。誰かが変に潔癖になり過ぎて、意固地になり過ぎて、肝心な時に、こんなはずじゃなかった、こんなの想定外だ、なんて言い訳されないように。