創価三代の誉れ -3ページ目

創価三代の誉れ

創価三代の師弟の歴史的スピーチ等を紹介

力を合わせる 


 創価学会では、さまざまな機会に「異体同心の団結」という言葉が使われます。今回の「人生を生き抜く羅針盤」では「力を合わせる」重要性について確認していきましょう。

他者と協力した経験を重視

 企業の採用試験では近年、学生などの受験者に対して「エントリーシート」の提出を求めるのが一般的です。エントリーシートには、さまざまな質問項目がありますが、中でもよく聞かれる項目に「他者と協力してチャレンジをした経験」や、「他者と一緒に力を合わせて『成果を得た』、または『やりがいを感じた』経験」があります
 企業の採用担当者の多くは、他者と協力して物事に取り組んだ経験が、仕事においても重要だと考えているようです。
 この「他者と力を合わせる」という意味で用いられる言葉に「団結」があります。「団結」とは、多くの人が共通の目的のために一つにまとまることですが、若者の中には「多くの人と一緒に、何かをやり遂げたという経験がない」と語る人もいます。
 また、現代社会は一人一人が孤立し、他者への無関心に覆われているため、「自分一人では何も変わらない」という無気力や諦めが蔓延しているとの指摘もあります。
 2011年3月に発生した「東日本大震災」では、多くの人々が協力して、復旧・復興に取り組みました。そうした中で「人間の絆」の重要性が注目されています。
 目標を掲げて、その達成に向けて努力する時には、自分だけでなく他者との協力が不可欠です。力を合わせて物事を進めることは、万般に通じる重要なポイントといえるでしょう。

“多彩な個性”を認め合う

 日蓮大聖人はさまざまな機会を通して、門下に対して、心を合わせる「異体同心」の重要性を教えられました
 御書の「異体同心事」では、「異体同心であれば万事を成し遂げることができるであろうが、同体異心であれば諸事万般にわたって叶うことはないであろう。このことは、外典の三千余巻の書物にも定まっていることである」(1463ページ、通解)と仰せです。
 そもそも「異体同心」とはどういうことでしょうか。「異体」とは、人それぞれに個性や立場が異なること。「同心」とは目的観や価値観が同じことです。
 「異体同心」とは、多彩な人材が互いの個性を認め合いながら、自他共の幸福の実現、そして平和・安穏の社会を建設するために、仲良く触発し合って前進していくことといえます
 さらに大聖人は、先に挙げた御書で殷の紂王と周の武王の故事を例に、「殷の紂王は、70万騎であったが同体異心であったので、戦いに負けてしまった。周の武王は、わずか800人であったけれど、異体同心であったので、勝ったのである」(同ページ、通解)とも述べられています。
 物事の勝負を決するのは、数の多少だけではありません。目的に向かって、皆が心を一つにすることができるかどうか――。そこに重要なポイントがあります。
 そもそも、幾多の利害が渦巻く現実社会において、皆が心を一つに、目的を共有していくこと自体、大きな困難が伴います。
 さまざまな相違点を持つ人々が同じ目的に向かっていくためには、人類や社会への貢献、繁栄といった個人の利害や枠を超えた崇高な目的観に立つことが不可欠です。一方、低い目的観を持った者同士は、すぐに野心や利害で結びつき、野合します。大聖人が「悪は多けれども一善にかつ事なし」(御書1463ページ)と仰せのように、悪に打ち勝つためには、善の連帯を広げていくことが重要です。
 ゆえに大聖人は、民衆の幸福のために、また、平和と安定のためという崇高な目的観に立ち、同志が団結することを強く訴えたのです。

一人一人を生かす仏法の智慧
最極の「人間共和の世界」

 大聖人は別の御書で、「総じて日蓮の弟子檀那らが、自分と他人、彼と此という分け隔ての心をもたず、水と魚のように親密な思いを抱き、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する所詮はこれである。もし、この通りになるならば、広宣流布の大願も成就するであろう」(同1337ページ、通解)と仰せです。
 すなわち、相対立し、排斥しあう心がなく、互いをかけがえのない存在、自分にとって不可欠な存在として大切に思う――そうした心を一つに互いに助け合うさまが「異体同心」なのです
 大聖人は、短気で一本気な弟子の四条金吾が、同志と思われる夜回り(警備)の人たちと協調できないことを心配し、「いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ」(同1172ページ)と指導されています。個人的感情や好き嫌いに左右されることなく、同志を仏のように敬い、団結していくことの重要性を教えられたのです。
 一方で団結が強調されると、ともすれば、「個人」や「個性」は押しつぶされて埋没してしまいますが、大聖人が教える「異体同心」は違います。

 仏法はどこまでも一人一人の可能性を信じ、万人に仏性があると説きます。あくまでも全ての個性が重んじられ、磨き合い、生かされていく団結の姿こそ、大聖人のいわれる「異体同心」にほかなりません。
 麗しい「異体同心」の集いの中でこそ、個人も個性も輝きを増すといえましょう。
 学会では自身の使命を自覚した多くの同志が、社会のあらゆる分野で活躍しています。一人一人の可能性を信じ、広宣流布という崇高な目的観に立って進んできたからこそ、学会は世界192カ国・地域にまで発展したのです。

 池田名誉会長は語っています。
 「団結に勝る力はない。妙法で結ばれた連帯は、この世で最極の人間共和の世界である。『イタイドウシン(異体同心)』そして『ビクトワール(勝利)』は、今や世界の同志の合言葉だ。あらゆる国で、創価の友が心を一つに青年学会の勝利を祈ってくれている。心を合わせ、スクラムも固く、広宣流布の大願へ、いよいよ前進しよう」と。
 徹して一人を大切にし、あらゆる人々を生かしていく「異体同心の団結」は、先行き不透明な現代社会を勝ち抜くための、重要な仏法の智慧なのです。



理解のために
「創価学会の組織」とは?

 創価学会の戸田城聖第2代会長は、創価学会の組織について「戸田の命よりも大切な広宣流布の組織」と語られていました。
 「組織」というと、個人の自由がなくなり、束縛されるイメージを抱く人もいるかもしれません。しかし、私たちは日常生活でも、さまざまな「組織」に所属しています。組織とは、人と人とが互いに織りなして存在するものであり、私たちの人生は、人との関わりなくして成り立ちません。特に信心の世界では、学会の同志との関わりを避け、一人だけで信心を行うと、いつしか“自己流”になり、正しい仏法実践の在り方から外れてしまいます
 日蓮大聖人は「仏になるみちは善知識にはすぎず」(御書1468ページ)と説かれています。「善知識」とは、仏法を実践する人の成仏をもたらす存在であり、友の成長を願い、励ましを送る学会の先輩や同志に当たります。
 学会員は日々、勤行・唱題や教学の研鑽に個人として取り組むとともに、組織の中で同志と共に仏法対話や訪問激励を行うことで、自身の仏性も開かれ、一人の人間として成長していけるのです。学会の組織こそ、人間としての成長を促す最良の場所なのです。

このシリーズは今回で終了です。

次回から「御書に説かれた日蓮大聖人の励まし」を連載します。

ただ今準備中です。またの訪問をよろしくお願いします。

座談会週間も最終日
今日は午前中に最後の座談会に参加します。

新学会歌
「誓いの青年よ」を声高らかに歌いながら
いざや!前進!

昨日の 「わが友に贈る」

 歌声あるところ
 希望の前進あり!
 「誓いの青年よ」を
 高らかに歌いながら
 創価の新時代の勝利を!





さあ、今日も元気に出発です。

報恩の人生  



 日蓮大聖人の仏法では、「恩を知り、恩に報いる」生き方の重要性を教えています。今回の「人生を生き抜く羅針盤」では「報恩の人生」について考えていきましょう。

日本に伝わる説話

 アサヒグループホールディングスお客様生活文化研究所は2011年、インターネットで、家族への感謝に関する意識調査を実施しました。
 その結果によると、家族に感謝の気持ちを「十分伝えている」と回答した人は26・9%。一方、「あまり伝えられていない」(55・5%)と「伝えられていない」(17・6%)を合わせ、7割以上(73・1%)の人が心で思っていても、家族に十分に感謝を伝えられていないことが分かりました。
 感謝の気持ちを、うまく伝えられない理由として最も多かったのは「感謝の気持ちを伝えるのが、気恥ずかしいから」(58・9%)で、以下「感謝の気持ちは言葉で言わなくても、分かると思うから」(16・6%)などが続いています。
 日本人は元来、欧米人などに比べると感情表現が苦手で、なかなか自分の感情を表さないといわれます。
 一方で若い世代の中には、両親へ感謝し、「早く成長して、恩返しをしたい」と考えている人が増えています。
 日本には、もともと「鶴の恩返し」や「猿の恩返し」「かえるの恩返し」といった、動物が主人公となった「恩返しの説話」が数多くあります
 他者の恩に感謝し、その行為に報いていくという行動の重要性を、多くの日本人は古くから実感してきたのでしょう。

「感謝の心」が成長の源泉
人間性の証しを示す

 日蓮大聖人の仏法では、「恩を知り、恩に報いる」という意味の「知恩」「報恩」の重要性を教えています
 “今の自分があるのは、誰のおかげなのか”――その自身の“原点”を知ることが「知恩」です。そして、自身を支え、育んでくれた人々や、あらゆる存在に感謝し、その恩に報いていくことが「報恩」です。
 大聖人は「畜生すら恩を知り、恩に報いる。まして人間が恩を知り、恩に報いないでよいはずがあろうか」(御書293ページ、趣旨)と仰せです。
 恩を知り、恩に報いることは、人間を人間たらしめる不可欠の条件であり、人間としての正しさ、人間性の証しを示すものにほかなりません。逆に不知恩とは、動物にも劣る行為であることを知らなければなりません。
 また、別の御書では「仏法を修学する人は、知恩報恩がなくてはならない。仏弟子は必ず四恩を知って知恩報恩するべきである」(同192ページ、通解)とも述べられています。
 人間らしい生き方の究極を教えているのが、仏法なのです。
 大聖人は修学時代の師匠であった道善房の死去の知らせを受け、建治2年(1276年)7月、身延で「報恩抄」を著されました
 道善房は大聖人が安房国の清澄寺で仏教を学んだ若き日に、師匠となった人物でした。この師匠の恩に報いるために、清澄寺時代に兄弟子であった浄顕房と義浄房に本抄を託し、清澄山と道善房の墓前で読むよう指示されたのです。
 本抄で大聖人は、恩を知り、恩に報いた狐や白い亀の例を挙げて、まして人間が不知恩であってはならないと示されます。
 さらに、古代の中国で命を捨てて主君への報恩の誠を貫いた「賢者」の例を通し、まして仏教を習う者は、父母、師匠、国の恩を忘れてよいわけがあろうかと、大恩ある存在への報恩の大切さを述べられています。
 まさしく、大聖人御自身が報恩の道を貫き通されていたのです。

忘恩から社会の乱れが

 大聖人は恩について、さまざまな御書で「父母の恩」「一切衆生への恩」「師匠の恩」「社会への恩」「三宝(仏宝・法宝・僧宝)への恩」などを教えられています
 とりわけ、仏法を教え、人生の規範を示す「師匠の恩」こそ、根本の恩といえます。
 先に述べた道善房は、大聖人が立宗宣言の後、南無妙法蓮華経の題目を弘め始められてからも、迫害を恐れ、なかなか念仏の教えから離れることができませんでした。それでも大聖人は、かつての師の恩に手厚く報いていかれたのです。
 御書に「父母を知るも師の恩なり」(同1327ページ)とあるように、真の人間としての生き方を教えてくれる師匠こそ、非常に大切な存在なのです。ゆえに創価学会も三代の会長を師と仰ぎ、師弟の精神を根幹としながら日々、前進しています
 戸田第2代会長は「現在の世相を見ると、人の道である知恩・報恩を貫く者は、ごく稀となってしまった。忘恩から、社会の乱れが生ずるのである」と、語っていました。
 また、池田名誉会長は「報恩の人生に、行き詰まりはありません。父母や師匠をはじめ、今の自分を築かせてくれた一切の人々への感謝と報恩の決意が、自身を向上させる原動力となります」「報恩は、人間の根源の力を引き出す源泉となるのです」と述べています。
 自分自身を支えてくれる周囲の存在に感謝する。恩を知り、恩に報いていく――。こうした当たり前の行動に、人間として忘れてはならない根本の精神があります。私たちは、「報恩の人生」こそ、最高に尊い人間の正道であることを確信していきましょう。



理解のために 
「不知恩」とは?

 日蓮大聖人は、「知恩」「報恩」を説く一方で、恩を忘れた“不知恩の輩”を厳しく糾弾されています。
 具体的には、「不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給うべし」(御書895ページ)、「不知恩の者は横死有」(同1147ページ)などと述べられています。
 仏法は、人間にとって一番大事な「恩」を教えていますが、法華経の重恩に報いようとしない人間を、日蓮大聖人は「不知恩の畜生」(同204ページ)と厳しく断じられています。
 知恩・報恩の道を最大に重んじる仏法の世界にあって、忘恩の悪行は、あまりにも罪が深いのです。ゆえに、自らが“恩に報いる”生き方を貫くだけでなく、忘恩の者を看過しないことが重要なのです。知恩・報恩を大事にする社会を築くことは、結果的に民衆の境涯を高めていくことになります。
 池田名誉会長は語っています。
 「恩を知る。そして恩を報ずる――この知恩・報恩の道こそ、幸福の道である。平和の道である。ゆえに、恩を忘れ、人間社会を乱す『不知恩の輩』とは、人間として、仏法者として、決然と戦わなければならないのである
 不知恩・忘恩は、人間として最も恥ずべき行為なのです。

 仏法は勝負




 人生とは生活や仕事など、日々、戦いの連続です。さまざまな苦難に直面しながらも乗り越えていく先に、人間としての成長や勝利があります。今回の「人生を生き抜く羅針盤」では「仏法は勝負」をテーマに考察していきます。

自分自身の弱さに挑む

 創価学会の機関紙である「聖教新聞」では、「戦う」「勝利」「勝負」といった言葉をよく見かけます。また、具体的な勝利の実証(=確かな証拠)を示す、信仰体験が数多く掲載されています。
 「平和を目指す仏教団体が、なぜ、戦うことを強調するのか?」と、不思議に思う人もいるかもしれませんが、実はこの点に日蓮仏法の大きな特長が示されています。
 仏法は、誰もが等しく仏の生命を具え、それを現し、この一生の中で仏の境涯を築いていけるとする教えです。その意味では、万人が人生を勝ち開き、勝利者になれるのです。
 その上で、学会員が訴える「勝利」とは、決して人と比較しての「勝敗」を指しているのではありません。むしろ、自分自身の弱い心に打ち勝っていけるかどうかが重要です。
 本来、平和な社会を築くといっても、その根本は、一人の人間が変わり、幸福になることから始まります。その意味では、創価学会が目指す「広宣流布」とは、“人間の幸福を妨げようとするもの”との戦いであるともいえるでしょう。
 その相手は遠くにいるのではなく、自身の生命に内在すると、仏法は洞察します。
 仏法では、一人一人の「生命」に限りない可能性を見いだします。
 一方で人間には、その可能性を信じられない心(元品の無明)も存在します。
 自身の可能性を否定する心を打ち破り、自身に秘められた限りない力を引き出す根本法則が妙法です。そして、この信心を根本に勇気を持って、粘り強く実践していく中に勝利の道が開かれるのです。

四条金吾への励まし

 創価学会の牧口常三郎初代会長は、現実に現れる「結果」こそ「宗教の生命」というべきものであると述べ、「仏法は生活法」であると提唱されました。自身の弱い心に打ち勝つとともに、現実の上でも勝利していけるのが日蓮大聖人の仏法です。
 大聖人が門下の四条金吾に送ったお手紙には、「そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としている。ゆえに、仏を世雄と号し、王を自在と名づけるのである」(御書1165ページ、通解)と綴られています。
 王法とは、社会を支配し、律する力です。王は、規範や法律に基づいて、称賛したり、罰したりします。その賞罰の基準は、時代、社会によって変わりますが、仏法は永遠不変の真理に基づいた絶対の法です。
 当時、このお手紙を頂いた四条金吾は、主君の江間氏から、“信心を捨てよ。さもなければ所領を没収する”と迫られていました。
 しかし、金吾は、断じて信心を捨てないことを大聖人に誓います。
 大聖人は、そうした金吾の信心をたたえた上で、この御文を認められました。正しい仏法の教えを根本に、強盛な信心を貫いていけば、どんな迫害に直面しても必ず勝利していけると励まされたのです。
 また、この御文に出てくる「世雄」という言葉にも深い意味があります。
 すなわち、「世」とは現実社会、「雄」とはその中で人々をリードしていく存在、リーダーという意味です。仏は一切の煩悩に打ち勝ち、社会で最も雄々しい存在であることから、「世雄」の別称で呼ばれました。
 さらに、仏(釈尊)は社会の真っただ中で、先頭に立って民衆のために戦い抜き、断固と勝ち抜く英雄である、との意です。
 魔を打ち破って成仏するか、障魔に負けて不幸の人生を歩むか――。仏法の眼目とは、全てに勝つことであり、仏とは「社会の勝利者」「絶対勝利の人」の異名なのです。
 誰人も妙法を根本に、生命を変革できる。どんな生活や人生でも、現実の中で必ず生命変革の結果が現れ、勝利していける――。その妙法の力を引き出すのが信心です。

信心とは行き詰まりとの戦い
一度も退く心なく前進

 この御書をはじめ、大聖人から折あるごとに指導・激励を受けた四条金吾は、やがて主君の信頼を回復し、所領も加増されました。まさに信心根本に進むなか、現実の社会で“勝利の実証”を示したのです。
 では、具体的に勝利を得るための要諦は何でしょうか。
 大聖人は「日蓮はその身に当たって、仏の大軍を起こして二十余年になる。その間、一度も退く心はない」(同1224ページ、同)と、妙法流布に立ち上がられてから、一度も退くことなく障魔と戦い前進してきた、と仰せです。
 また、別の御書では「今に至るまで軍やむ事なし」(502ページ)、「然どもいまだこりず候」(1056ページ)とも述べられています。
 大聖人は、命に及ぶ「竜の口の法難」や「佐渡流罪」など、幾多の大難も厳然と勝ち越えられました。すなわち、大聖人御自身が示された、どんな状況においても勝利を信じて、戦い続ける「勇気」「諦めない心」にこそ、人生を勝ち抜くための重要なポイントがあるといえるでしょう。そうした地道な積み重ねの先に勝利の結果も現れるのです。
 「聖教新聞」に掲載されている、信仰体験にも、信心を根本に苦境を乗り越えて社会で勝利した人、病に打ち勝った人、一家和楽の家庭を築いた人など、あらゆる勝利の実証が示されています。そこに共通するのも、決して諦めない心であり、弛まぬ前進や努力の姿です。
 創価学会の戸田城聖第2代会長は、「信心は、行き詰まりとの永遠の闘争である。仏と魔との闘争が信心だ。それが“仏法は勝負”ということである」と語られました。
 また、「『仏法は勝負』である。本当の仏法は社会での大闘争の中にある。仏法を現実社会の中で行じ、人間のため、国のため、世界のために戦ってこそ、真の大聖人門下であり、真の革命児ではないか。これが創価学会だ」とも語っています。
 あらゆる苦難や環境の変化に負けず、現実社会で勝利の実証を打ち立てていく――。そこにこそ日蓮仏法の偉大さも証明されるのです。




理解のために 「三証」とは?

 日蓮大聖人の仏法では、さまざまな宗教を見極める基準として、「文証・理証・現証」の「三証」を説きます。
 具体的には、教えに文献的な裏付けがあるかどうか(文証)、また道理にかなっているかどうか(理証)、そして実際に、その教えを実践しての功力が現実の生活・社会の上に現れるかどうか(現証)、ということです。
 この三証のどれか一つが欠けても正しい宗教とはいえません。
 日蓮大聖人は「日蓮が仏法の優劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはない。さらに道理・証文よりも現証に勝るものはない」(御書1468ページ、通解)と仰せです。
 ここでいう「道理」とは理証、「証文」とは文証のことです。この御文に明らかなように、大聖人が最も重視されたのが現証でした。
 牧口常三郎初代会長は、この御聖訓を拝して、「道理も証文ももちろん大事だが、論より証拠で、生活の中に功徳の実証を示すことが、それ以上に大事である」と語られています。仏法は、どこまでも現実に苦悩と格闘する人間を救うためにあるのです。

同苦の精神 

創価学会員は、常に他者の苦しみに寄り添いながら、励ましを送り続けています。この行動の原動力こそ「同苦の精神」です。「同苦」とは、他の人の苦悩を共有し、その解決を願って行動するという慈悲の行動です。今回は「同苦の精神」について、学んでいきましょう。

求められる「共感力」

 昨年、日本経済団体連合会(経団連)が発表した2012年4月入社の「新卒採用に関するアンケート」によると、採用選考時に企業が最も重視する要素は、9年連続で「コミュニケーション能力」が第1位でした。
 ビジネスの現場では近年、人との協調性や意思疎通といった人間関係を円滑にする力が求められています。特に人とのコミュニケーションにおいてリーダーシップを発揮していくためには、専門性を高めるだけでなく、相手の状況に自分を置き換えて考えることができ、その人の気持ちを感じ取る「共感力」が必要不可欠な要素になっています
 一方、こうした他者への共感力は若い世代で強くなっているという見方もあります。間もなく、発生から2年を迎える東日本大震災では、多くの若者が被災地に足を運び、ボランティア活動に従事しました。その動機の多くは、「困っている人のために何かしたい」との、やむにやまれぬ思いでした。
 また最近では、社会貢献の意識も若い世代を中心に強くなってきているといわれます。困っている人や相手の立場に立って自分にできることを考え、行動を起こす――。こうした行動は、日蓮大聖人の仏法の考え方とも深く響き合うものです

民衆の苦しみを直視

 日蓮大聖人の行動は、常に民衆への「同苦」から出発されています。大聖人は病や肉親の死、人間関係のあつれきといった門下の悩みや悲しみに寄り添い、膨大な書簡を残されています。
 とりわけ大聖人が「立正安国論」を著される契機になったのは、正嘉元年(1257年)8月に起きた大地震でした。この大地震では大規模な山崩れや地割れが生じ、幕府の施設や大寺院も含めて、鎌倉のほとんどの建物が倒壊したと伝えられています。
 しかも、その前年には関東地方で暴風雨による大洪水が起きており、疫病の拡大も加わって、多数の人命が失われていました。
 そうした現状を見てきた大聖人は、この「立正安国論」の冒頭で次のようにつづられています。
 「数年前から近日に至るまで天変地異が天下の至るところで起き、飢饉や疫病が広く地上を覆っている。牛馬は至るところに死んでおり、死骸や骨は道にあふれている。すでに大半の人々が死を招き、これを悲しまない者は一人もない」(御書17㌻、通解)
 こうした記述は、当時の人々が抱いていた“なぜ、こんなことが”との苦悩への同苦でもあったでしょう。過酷な自然災害の惨状と塗炭の苦しみにあえぐ民衆を目の当たりにされた大聖人は、あらためて一切経を閲覧され、民衆救済の方途を真剣に模索されました。
 「民衆の苦しみ」という「現実」を直視された大聖人は、その苦悩から人々を救っていくために「立正安国論」を著されました。大聖人はこのようなことに象徴される御自身の思いを、「一切衆生のさまざまな苦悩は、ことごとく日蓮一人の苦である」(同758㌻、通解)と述べられています。

門下への真心の手紙

 大聖人は家族を亡くした門下にも、温かな励ましを送り続けられています。
 大聖人の若き弟子・南条時光の弟である七郎五郎が16歳の若さで亡くなった時には、母の上野尼御前に真心の手紙を送り、共に悲しまれ、同苦されました。
 以降も、大聖人が御自身の最期まで、一人の青年を追悼されたお手紙は、分かっているだけで10通近くになります。肉親を亡くした悲嘆、とりわけ、わが子を亡くした母の悲しみは、時とともに薄れたりはしないことを、ご存じだったと拝されてなりません。
 最も苦しんでいる人、最も苦労している人の心に、徹して寄り添う――。これが御本仏のお心です。そこには、自分は自分、他人は他人といった立て分けはありません。自分だけの幸せを求める生き方ではなく、人々の幸福のために働くなかにこそ、最も尊い至高の人間道がある――。この大聖人のお心のままに行動してきたのが創価学会です。

相手の立場に思い寄せ、行動を
最も強い生命の絆

 創価学会第3代会長の池田大作名誉会長は、常に学会員一人一人と同苦し、励ましの対話を重ねてきました。そして、その姿を手本にした多くの学会員も「同苦」する心を大切にしながら、日々の活動に取り組んでいます
 とりわけ阪神・淡路大震災や東日本大震災をはじめ、災害時における学会員の献身的な活動は、多くの識者から称賛を受けています。
 仙台白百合女子大学の大坂純教授は「創価学会には人と人とを『つなぐ力』があります。つながったとき、人は強くなるのです」と、学会の活動に期待を寄せています。

池田名誉会長は語っています。
 「自分も苦しい。悲しい。辛い。その涙も涸れるような悲嘆の中で、自分だけではない、自分は一人ではないと、周りに目を向ける。『同苦』――それは、人間の最も強い生命の絆に気づかせ、蘇らせてくれる。苦しみを共にする。そこから、共に立ち上がる力が生まれるのだ」と。
 創価学会員が日ごろから実践している他者を思いやる行動こそ、現代社会における希望の光であり、社会の模範として輝いています。



理解のために 「抜苦与楽」とは?

 「抜苦与楽」とは「苦を除き、楽を与えること」との意味で、仏の崇高な慈悲の行為を指します。釈尊以来の仏法の根本精神ともいえるでしょう。
 『大智度論』には「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く」とあります。
 池田名誉会長は仏の「慈悲」について、この経文を引き「一切衆生に楽を与えること(与楽)が『慈』であり、一切衆生の苦を抜くこと(抜苦)が『悲』であるとされております。万人の救済のために『抜苦』そして『与楽』の道を開くことこそが仏の慈悲なのです」とつづっています。
 さらに続けて、「“同苦”とは、単なる“同情”ではありません。苦しみを乗り越えるには、その人自身が生命の底力を湧き起こして、自ら強く立ち上がる以外ない」とも述べています。
 共に悩み、苦しみながら相手に真心の励ましを送り、共に立ち上がっていく。学会員が実践する励ましの対話こそ、抜苦与楽の実践にほかならないのです。

地域に貢献



「社会に役立ちたい」との思い

 内閣府が今年2月に行った「社会意識に関する世論調査」には、「日ごろ、社会の一員として、何か社会のために役立ちたいと思っているか」との設問があります。
 この設問に対して、「思っている」と答えた人の割合は66・7%。性別で見ると、「思っている」と答えた人の割合は30歳代から60歳代の男性で高くなっていました。
 「何か社会のために役立ちたいと思っているのはどのようなことか」との設問に対しては、「社会福祉に関する活動(老人や障がい者などに対する介護、身の回りの世話、給食、保育など)」を挙げた人の割合が36・9%と最も多く、以下、「町内会などの地域活動(お祝い事や弔事などの手伝い、町内会や自治会などの役員、防犯や防火活動など)」(35・1%)、「自然・環境保護に関する活動(環境美化、リサイクル活動、牛乳パックの回収など)」(33・3%)、「自主防災活動や災害援助活動」(26・5%)と続いています。
 都市部などでは近年、地域・近隣のつながりや人の絆が希薄になり、人々の孤立化が進んでいると指摘されてきました。しかし、「東日本大震災」以降、地域における絆の重要性が見直され、積極的に地域活動に取り組む若者も増えています。
 地域に根差した活動を通して、人の役に立ちたいという意識は、年々強まっているといえるでしょう。こうした地域活動に、積極的に取り組んできたのが創価学会です。

「自他共の幸福」に生きる学会員

 日蓮大聖人は折に触れて、自分のいる地域で、信頼を勝ち取っていくことの重要性を述べられています。
 御書には「その国の仏法流布は、あなたにお任せする」(1467ページ、通解)との有名な一節があります。この御文は、地域の発展と繁栄や、そこに住む人々の幸福のために、仏法を根本として、責任を担っていくことを教えられています
 また、弟子の四条金吾に与えられたお手紙では、「中務三郎左衛門尉(=四条金吾)は、主君のためにも、仏法のためにも、世間においての心掛けも、立派であった、立派であった、と鎌倉の人々にたたえられるようになりなさい」(御書1173ページ、通解)と綴られています。
 これは、信頼を広げていく大切さを述べられた言葉であり、地域への貢献は、「世間においての心掛け」にあたります。
 そもそも大聖人の仏法は、どこまでも現実社会に根差していくものです。法華経以前の教えでは、「世間(=世の中、社会)の法」と「仏法」を別のものと捉えており、「世間」を離れた「出世間」のなかに仏法、悟りの道があるとしました。他宗が俗世から離れた山林や寺院に籠もるのも、西方浄土を求めるのも、こうした類いです。
 それに対して法華経は「世間の法が、そのまま仏法の全体」(同1597ページ、通解)であると説きます。現実社会を離れて仏法は存在しません。
 また、社会や生活の一切の営みは、仏法と違背しないという考えが「仏法即社会」です。ゆえに、社会なかんずく自分が今いる場所で信頼を広げていくことが重要になるのです。
 創価学会には、信心を始めることで「人のために」という生き方に目覚め、地域のために、何か自分にできないだろうかと、身近な貢献の行動に取り組み始めた人が数多くいます
 御書に「あなたはすべからく一身の安泰を願うなら、まず世の静穏、平和を祈るべきである」(31ページ、通解)とあるように、学会員は自分さえ良ければよいというエゴイズムを打ち破り、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」との誓いに生き抜いています。
 そして、「自分のいる地域こそ使命の舞台」との決意で、「自他共の幸福」の実現に奔走しているのです。

今いる場所こそ使命の舞台
「良き市民たれ」との指針を胸に

 1960年(昭和35年)5月3日に、創価学会の第3代会長に就任した池田名誉会長は、同年10月、世界広布の第一歩をしるしました。以来、訪問地域は54カ国・地域にのぼります。
 人間主義の仏法を伝える平和旅では、各地で奮闘する会員の悩みに耳を傾けながら、寸暇を惜しんで激励を重ねました。その中で名誉会長が一貫して訴えたのは、「良き市民たれ」との指針でした。
 この時に励ましを受けた同志は、それぞれの地域で良き市民となっていくために、地道な社会貢献や地域活動に取り組み、信頼を広げてきました。
 社会貢献の模範の活動を進めるブラジルSGI(創価学会インタナショナル)をはじめ、台湾SGIは行政院賞や内政部の社会優良団体賞(17回連続)を受賞。シンガポール創価学会では現在、人民協会や数多くの宗教・文化団体、学術機関と交流を進め、独立記念式典や国家行事に出演しています。
 また、震災や自然災害の際には、創価学会員が救援活動に率先。こうした創価学会員の献身的な行動を多くの識者も称賛しています。
 国際宗教社会学会のカール・ドブラーレ元会長は、創価学会の「人間革命」の哲学に注目し、「創価学会は、日蓮の教えを通し、会員に『自己を見つめさせ』『仏法を基調に社会に貢献する』生き方を教える、『行動の仏教』」であると高く評価しています。
 自分のためだけではなく、人のために生きる。人のために尽くし、ともに希望の道を進んでいく――。そこに人生の喜びと価値があることを仏法は教えています。そして、多くの創価学会員は日々の活動を通して、人に尽くす人生の喜びを見いだしています。
 池田名誉会長は語っています。「自分だけの幸福ではない。人々の幸福、社会の繁栄を願い、その実現に尽くすのが真の仏法者です」「足元の地域から、すべては始まる。地域を学び、地域に根を張り、地域の人びととつながる。その地道な草の根の行動から、時代を変える大事業が生まれる」と。
 「わが地域を幸福の楽土に」との決意で日々、地域に貢献する創価学会員は、地域社会を照らす希望の光と輝いているのです。

理解のために
「座談会」とは?

 創価学会伝統の「座談会」では、老若男女が家族のように集い、信仰体験や決意を語り合います。友人が座談会に参加して理解を深め、“創価家族”の温かな世界に触れて入会を希望するケースもあります。ありのままの創価学会の姿を、はっきりと見られるのが座談会です。
 日蓮大聖人は御書で「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」(951ページ)と仰せです。
 これは、“広宣流布への志を抱いて進む人たちは、寄り集まって、励まし合っていきなさい”という意味で、会合で語り、学び合うことで、決意を新たにし、信心を深めていくことができるのです。
 池田名誉会長は常に「一人への励まし」に徹してきましたが、その行動の根本は「小さな集い」「一対一の激励」でした。世界192カ国・地域に広がったSGIの連帯も、その根本は少人数の座談会だったのです。
 今や、「ザダンカイ」は世界共通語となり、世界のあの地、この地で、創価の励ましのネットワークが光っています。地域に根を張る座談会から、創価の信頼の輪は大きく広がっています。

友情の拡大が仏縁の拡大

 仏教といえば、山奥などの人里離れた所で、黙々と修行に励むようなイメージがあります。しかし、日蓮大聖人の仏法は、社会に開かれた「対話の宗教」であり、積極的に人と交流し、対話していくことを重視します。今回は、人の心と心を結ぶ対話の重要性を確認していきましょう。

「つながり」を求める社会

 東日本大震災以降、日本では、人や地域との「つながり」の重要性が見直されています
 今年2月に行った内閣府の「社会意識に関する世論調査」によれば、震災後、強く意識するようになったことは、「家族や親戚とのつながりを大切に思う」が64・5%でトップ。以下、「地域でのつながり」(60・0%)、「社会全体として助け合うこと」(46・5%)、「友人や知人とのつながり」(43・3%)などとなっています。
 加えて、若者の間では「ツイッター」や「フェイスブック」といったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が爆発的に普及しており、「人とのつながり」を深める役割を担っています。
 「平成23年版情報通信白書」によると、「SNSを利用して実現できたことは?」との質問に対して、「同じ趣味・嗜好を持つ人との交流」(73・7%)、「不特定多数とコミュニケーションをとることができた」(59・9%)、「自分の周囲にいないタイプの人と知り合えた」(58・3%)、「疎遠になっていた人と再び交流するようになった」(39・4%)などの回答が寄せられました。
 今、私たちの生活をはじめ、社会や経済、政治などのあらゆる分野で、人と人との「つながり」を持とうという意識が、強くなってきているようです。

釈尊と旧友の語らい

 SNSは、人と人をつなぐ役割の一端を担っていますが、地域においては、日ごろのあいさつや声掛けなどがきっかけとなり、交流が始まります
 携帯電話やメール、SNSといった情報伝達手段がどんなに発達・普及しても、互いの理解を深め、友情を育んでいくためには、直接会って話をする「対話」が欠かせません。むしろ対話によってこそ、お互いを深く知り合えるのです。
 もともと仏教は、釈尊が友と語り合い、自ら悟った法を納得させたところから広がり始めました
 釈尊は、菩提樹の下で悟りを開いた後に、250キロ離れたバラナシ(ベナレス)近郊の鹿野苑まで足を運び、かつての友に法を説きました。その中で旧友は感化され、釈尊の弟子となったのです。また、その後も釈尊はインド中を対話に歩き、悩める人、求める人のために法を説き続けました。
 日蓮大聖人もまた、一対一の対話によって広宣流布を進めました。多くの門下への励ましをはじめ、時の権力者に対しても堂々と正義の論陣を張り、言論の力で社会を変革しようとしたのです。

 そうした「対話の魂」の結晶ともいえるのが、日蓮大聖人の「御書」です

「開かれた自分」へ転換の一歩を
「立正安国論」に学ぶ

 御書には、「疑って云く」「問うて云く」「答えて云く」などのように、問答形式になっているものが数多くあります。中でも客と主人の「十問九答」の問答形式で構成された「立正安国論」は、“対話の模範”ともいえる書です
 「立正安国論」で、客は時の実質的な最高権力者である北条時頼を、主人は大聖人御自身を想定しています。
 対話は、相次ぐ災害や飢饉、疫病に苦しむ人々を目の当たりにして、客と主人が共に嘆くところから始まりますが、当初、両者の意見は全く異なるものでした。
 経文に照らして、人々を幸福にする真実の教えを示す主人に対して、客は顔色を変えて憤慨します。しかし、主人は微笑をたたえて客を引き留め、粘り強く正義を語り続けていきます。
 誠意あふれる理路整然としたその話に、客は態度を改め、やがて自ら正しい信仰の実践を誓うだけでなく、他者の誤りを破ろうと決意して、同書は結ばれています
 主人の明快な語り口や温かな振る舞い、粘り強い忍耐力などは、対話で互いの理解を深めるための、重要なポイントを示唆しているともいえるでしょう。
 何より、こうした対話の根底には、相手の心に寄り添い、誠実を尽くそうという「同苦」の精神があふれています。
 大聖人は万人が仏になる方途として「南無妙法蓮華経」の唱題行を説き顕されました。そして、全民衆の幸福のために、生涯をかけて対話に歩かれたのです。
 大聖人は「立正安国論」の中で、「あなたはすべからく一身の安泰を願うなら、まず世の静穏、平和を祈るべきである」(御書31ページ、通解)と呼び掛けています。自分の幸せだけでなく、縁する人全てを幸せにしていく――。この「自他共の幸福」の実現こそ、仏法の根本目的です。その実現のために創価学会は、仏縁を広げる対話を実践しているのです

創価の励ましの連帯

 創価学会の池田大作名誉会長は、「時代を動かすのは、人間を信じて、人間の中に飛び込み、人間の心と心を結びゆく行動である」との信念のもと、長年、世界中の人々と対話を広げてきました。
 各国の指導者や識者と語らいを重ねる中で編まれた「対談集」は60冊を超え、著作の海外出版は42言語、1400点を数えます。とりわけ、ロシア(旧ソ連)、中国との友好の扉を開いてきた軌跡への評価は、両国で揺るぎないものとなっています。
 また、名誉会長から励ましを受けた多くの学会員も、対話を通して地域に信頼と友情の絆を広げています。

 東日本大震災後、被災地の学会員は共に同苦し、励まし合いながら前進してきました。対話を通して、地域に、社会に「励ましのネットワーク」を築いてきた学会の平和・文化・教育運動に対して、今、多くの人が称賛を送り、その取り組みを評価しています。
 名誉会長は語っています。
 「人間の交流は、まず勇気をもって対話することから始まる。それは、ともすれば、人との関わりを避け、自分だけの世界に閉じこもってしまおうとする、自己の殻を打ち破ることだ。『閉ざされた自分』から『開かれた自分』への転換の第一歩が、対話への挑戦なのである。また、私たちの結びゆく親交は、相手の幸福を願うとともに、共に地域・社会の繁栄と平和を実現していこうという心から発する、人間交流である」と。
 学会員が対話によって進める「友情の拡大」こそ「仏縁の拡大」であり、「自他共の幸福の拡大」にほかなりません。地道な対話の積み重ねが、現実を変革していく最善の道であると確信し、進んでいきましょう。

理解のために
「自行化他」とは?

 創価学会員が実践する仏道修行の根本は「自行」と「化他行」です。「自行」とは日々の勤行・唱題であり、「化他行」とは、他者の幸福を願い、対話を重ねることです。この二つは、いわば“車の両輪”のようなもので、どちらか片方だけでは、前へ進むことができません。
 仏法実践の目的である「一生成仏」とは、私たちが凡夫のありのままの姿で、この一生のうちに、本来、各人が具えている仏の境地を発揮して自身の生命を変革していくことです。その実現のためには「自行化他」の実践が不可欠なのです。
 池田名誉会長は語っています。
 「それぞれが苦悩を克服し、崩れざる幸福境涯を築き上げていくには、自行化他にわたる信心の実践しかない。大聖人は『我もいたし人をも教化候へ』(御書1361ページ)と仰せだ。自ら仏法を学び、懸命に唱題するとともに、徹して弘教し抜いていくことだ」と。
 学会員は「自他共の幸福」の実現を目指し、自らが実践するだけでなく、対話による幸福の連帯を広げているのです。

「今日より明日へ」と前進の日々を


 高齢社会の本格的な到来を迎えた日本では、「第二の青春」「第三の人生」ともいわれる高齢期を、いかに生きるかが大きな焦点になっています。高齢者にとって張りのある人生を送っていくために重要なことは何でしょうか。日蓮大聖人の教えや創価学会員の姿を通して、その方途を探ります。

★理想を失うときに老いる・・・平成24年版「高齢社会白書」によると、日本の人口1億2780万人(2011年10月1日現在)に対して、65歳以上の高齢者人口は過去最高の2975万人。総人口に占める65歳以上人口の割合(高齢化率)は23・3%となっています。
 今後、総人口が減少するなかで高齢化率は上昇するといわれており、2060年には高齢化率が39・9%に達すると予想されています。
 これは国民の2・5人に1人が65歳以上、4人に1人が75歳以上という状況であり、経験したことのない高齢社会の到来は、国民一人一人の生き方にも大きな影響を与えています。
 かつて、詩人のサムエル・ウルマンは謳いました。
 「青春とは人生のある期間ではなく、/心の持ちかたを言う」「年を重ねただけで人は老いない。/理想を失うとき初めて老いる」(作山宗久訳)と。
 人はともすれば、身体の衰えに伴い、気力や情熱、理想などを失いがちです。また、心が老いて、理想を失ってしまえば、たとえ年は若くても老人と変わらなくなってしまいます。
 反対に、年を重ねても、毎日、目的を持って生き生きと活躍する高齢者もいます。これからの時代に問われる「いかに老いるか」とは、すなわち「いかに生きるか」ということでもあるのです

★目前の課題に挑戦する・・・創価学会では、「多宝会」、「宝寿会」(東京)、「錦宝会」(関西)といった名称で、高齢者の方が日々若々しく、元気に活躍しています。
 共通するのは、常に明確な目標を持っていること。自身の惰性や臆病の命を乗り越えて、果敢に目前の課題に挑戦していること。そして、感謝の心を忘れず、同志と切磋琢磨しながら、他者に尽くすという奉仕の人生を歩んでいること、などです。
 日蓮大聖人は「人のために灯をともしてあげれば、自分の前も明るくなるようなものである」(御書1598ページ、通解)と仰せになり、他者への献身の行動が自身を幸せに導くと教えられています。
 学会員の多くは、人に尽くした分だけ自分の境涯が広がった経験を持っています。
 また、人生において重要なことは、「何のため」という目的観を持ち、生きがいのある充実した人生を送ることです。その点、学会員は一人一人の幸福と平和な世界の実現という目的観を確立し、その目的の達成に生きることを喜びと感じています。 
 さらに学会員は、こうした目標に向かって日夜、清新な決意で挑戦を重ねています。
 過去にとらわれて、前に進まなければ、何も変わりません。
 未来を恐れて足踏みをしてしまえば、成長はありません。

 ゆえに、大聖人は、「月々日々に信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのすきにつけこんで襲ってくるであろう」(同1190ページ、同)と仰せになられているのです。
 「もう、これくらいでいいだろう」という油断や慢心などの心があれば、その心の隙を突いて、障魔は襲ってきます。「昨日よりも今日」「今日よりも明日」と日々、自身を成長させていく。人と比べるのではなく、自分自身と戦う。そうした人が、常に成長していくのです

★人生と信心に定年はない! 戦い続ける“青年の心”で・・・広宣流布という民衆救済の大闘争に生き抜かれた大聖人は、御自身の闘争について次のように仰せです。
 「大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(同1224ページ)
 「一日片時も・こころやすき事はなし」(同1558ページ)
 人生において瞬時も心の安まることはなかった――これが、大聖人の御一生でした。
 常に自身の使命を自覚し、自らの一念を刷新しながら、新たな挑戦を続けていく。そこには「向上」や「前進」の息吹があり、生命の躍動があります
 それゆえ大聖人は、「年は・わか(若)うなり福はかさなり候べし」(同1135ページ)と門下を励まされ、年を重ねても、ますます生命力を盛んにして人生を、はつらつと充実させていけることを教えられているのです。
 年齢を重ねれば、肉体的に機能が衰えていくのは当然のことです。若いころと同じように、生活を送ろうとしても、難しいことが増えてきます。
 しかし、たとえ何歳になっても「自他共の幸福」のために情熱を燃え上がらせ、挑戦の気概を持つ人は、信心の年輪を重ねるほど、いよいよ若々しくなる――これが創価の生き方です。

 池田名誉会長は語っています
 「人生に定年はない。信心に定年はない。広宣流布へ戦う心が、青年の証である。牧口先生は七十歳を超えても、『われわれ青年は』と、弟子たちに呼びかけられた。人間の心は微妙だ。子どもも大きくなり、経済的にも安定した。そこそこに、やっておけばいい――そういう心では、人生の最終章は立派に飾れない。戦う心を失えば、五十歳でも“老人”だ。炎の心で前進する八十歳の“青年”もいるのだ

 生涯青春の心意気で人生を歩む学会の同志こそ、高齢社会を迎えた日本における、高齢者の模範といえるでしょう。私たちは常に同志と共に、前進の人生を歩んでいきましょう。

★理解のために 「四苦」とは?・・・かつて、創価学会の戸田城聖第2代会長は語りました。
 「どんな人間であっても、『生老病死』の四苦を避けることはできない。これを唯一、解決できるのが妙法である」と。
 「四苦」とは「生老病死」を意味し、地位や財産があっても、避けることのできない根源的な苦悩のことです。
 具体的には「生苦」とは、生まれいずる苦しみ。「老苦」とは、老いによって心身ともに衰えたことで生じる苦しみ。「病苦」とは、病気による苦痛や苦しみ。そして、「死苦」とは、死ぬ時に起こる種々の苦しみを指します。
 「生」「老」「病」「死」は、人類普遍の苦悩であり、裸の人間として必ず直面し、克服しなければならない苦しみです
 こうした悩みに対して、正しい哲学に則って、自己の生命に「心の財」を積み、常楽我浄という幸福境涯を開いていくことを教えたのが日蓮大聖人の仏法です。
 創価学会員は、あらゆる苦難にも動じない強き心の確立を目指して、日夜、学会活動に励んでいるのです。


自身の弱い心に勇敢に打ち勝つ

 さまざまな苦難や試練に直面した時、人は「挑むのか、逃げるのか」「その環境を受け入れるのか、変えるのか」といった選択を迫られることがあります。今回は、自分自身が「環境」を変えていく主体者へと成長する重要性を、日蓮大聖人の仏法から学んでいきましょう。

若者の業種別離職率

 厚生労働省は今年10月、入社から3年以内に離職した人の割合を、初めて業種別に公表しました。
 それによると、3年前に大学を卒業した若者では、教育・学習支援業と宿泊・飲食業が48%と高い離職率を示しています。一方、製造業は16%、鉱業・採石業や電気・ガスは1割未満にとどまり、業種で大きな差があることも分かりました。
 全体では、大卒者は28%、高卒者は35%が3年以内に離職しており、離職率は1995年ごろから高い水準で推移しています。
 過酷な労働環境や職場の人間関係の悩みなど、離職に至る理由はさまざまです。中には離職がやむを得ないケースもあるでしょう。
 反対に、何かあれば「他の仕事の方が自分に合っている」といった安易な発想から転職に動く人も少なからずいて、「若者の離職」は大きな社会問題になっています。
 転職の明確な動機や、転職先での具体的目標がなければ、結果的に何度も転職を繰り返すことになりかねないと、多くの人材コンサルタントは指摘しています。転職活動では、単に職業を変えるだけでなく、一人一人の目的観の確立や心の変革が重要なのです。

現実変革のための宗教

 日蓮大聖人の仏法は「変革の宗教」であるといわれます。自身の生命を変革し、周囲を変革し、社会を変革する――。それは、世間一般のイメージにあるような“現実追従の宗教”でもなければ、困難を避けて理想世界に救いを求める“現実逃避の宗教”でもありません。
 むしろ、社会に積極的に関わり、より良い世の中に変えていく“現実変革の宗教”なのです。
 大聖人は、その変革の第一歩こそ自身の心の変革である、と説きます。
 大聖人は御書で、「衆生の心が汚れれば、住む国土も汚れ、心が清ければ国土も清いとあるように、浄土(=清浄な国土)といい穢土(=汚れた国土)といっても、土に二つの違いがあるわけではない。ただ私たちの心の善悪によるのである」(御書384ページ、通解)と仰せです。
 ここでいう「穢土」とは、凡夫が住む、煩悩や苦しみに満たされた国土のことであり、「浄土」とは、仏の住む清らかな世界のことです。
 法華経以外の経典では、一般には、この二つの国土は、まったく別々なものとされていました。しかし、大聖人は周囲の環境が浄土になるか穢土になるか、それを決めるのは「衆生(人々)の心」であると仰せです。
 この御文は、人間生命と国土、社会の関係を教えられていますが、要は私たち一人一人が、いかなる生命観、哲学を持つかによって、国土や社会の安穏や繁栄も、反対に荒廃も決まってしまうことを示しています。

強き一念で悩みを成長の糧に
「挑戦」と「持続」の実践

 大聖人は自身の内に仏の生命を開く方途として「南無妙法蓮華経」の唱題行を説き顕されました。これこそが「変革の道」の根幹となる実践です。
 大聖人は先の御文に続いて、「深く信心を起こし、日夜朝暮に怠らずわが心を磨くべきである。どのように磨くべきか。ただ南無妙法蓮華経と唱えることが磨くことになる」(同ページ、通解)とも仰せです。
 常に挑戦の心で唱題に励み、具体的な努力を続けていく。この挑戦と持続が変革を後押ししていくのです。
 大事なことは、まず「自分自身が変わろうとすること」です。「他者が悪い」「環境が悪い」と嘆いている限り、何の問題解決にもなりません。
 むしろ、さまざまな問題や課題を環境のせいにするのではなく、原因を自分に求め、自分と向き合う「勇気」を出す。一念を定めて、自分自身との闘争を開始していくことです。
 池田名誉会長は語っています。
 「『自身』が変われば『世界』が変わる。『わが一念の変革』が、すべての変革の鍵なのです。これが『人間革命』です。そして、誰にでも、その変革の力が具わっている。この生命の真実に気づけば、いつでも、どこでも、どのような状況にあっても、その力を現実に開き顕していくことができます」と。
 周囲の環境に負け、悩みに翻弄される人生から、強き一念で悩みを成長の糧とする人生へ――。大聖人の仏法は、自らの心次第で困難な環境を変え、主体的な生き方ができることを教えているのです。

理解のために
「仏法即社会」とは?

 私たちの信仰の目的は、自身の生命に何があっても崩れない幸福境涯を築きながら、社会全体を幸福に導いていくことです。その実践の場は、現実の社会です。
 日蓮大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(御書992ページ)と仰せです。仏法は「体」であり根本です。その仏法が見失われれば、世間の乱れとなって表れてきます。
 法華経以外では、「世間(=社会、世の中)の法」と「仏法」を別々にとらえているのが大半でした。それに対して法華経は「世間の法が、そのまま仏法の全体」(同1597ページ、趣旨)であると説きます。
 現実の社会や生活を離れて仏法は存在しません。また、社会や生活の一切の営みは、仏法と違背しないという考えが「仏法即社会」です。
 池田名誉会長は綴っています。
 「『仏法即社会』である。ゆえに、仏法の哲理を社会に開き、時代の建設に取り組むことは、信仰者の使命である。それには、一人ひとりが人格を磨き、周囲の人びとから、信頼と尊敬を勝ち得ていくことだ」と。
 現実社会で信頼を勝ち得ていく中に、仏法の偉大さの証明もあるのです。

「勇気」を取り出して試練に挑め

 一年の出発に当たり、新たな目標を掲げ、挑戦を開始している人も多いでしょう。今回は仏法に説かれる「師子王の心」をテーマに、挑戦の一歩を踏み出す「勇気」の大切さを学んでいきましょう。

時代が求める人材像

 昨年夏、産経新聞社と駿台教育研究所は企業と大学を対象に、「時代が求める人材像」の調査を行いました。
 これは、閉塞感や停滞感に覆われる現状を打破し、激変するグローバル社会を力強く生き抜くために、若者に必要な「キーワード」を浮かび上がらせることを目的としたものです。
 106社・338大学の回答をまとめた結果、時代が求める人材像のポイントは、「挑戦する姿勢」「受け身からの脱却」「グローバルな視点」の3点であることが分かりました。
 大学・企業が求める人材像として重視しているのは、受け身の姿勢からの転換を期待する「主体性・自主性・自立性」です。特に企業では、「行動する姿勢」を育成の重点に置くべきだと考えている傾向がみられました。
 若い世代の中には、失敗を極度に恐れたり、新たな挑戦を避けたりする人が多くなっているといわれます。しかし、人は苦手分野や初めての挑戦があるからこそ成長するものです。失敗を恐れない「挑戦の心」や「勇気」を持った人材を、時代は必要としています。
 これまでの歴史を繙いても、新たな歴史や時代を転換する出来事の裏には、必ず一人の人間による「挑戦」や「勇気の一歩」がありました。
 非暴力闘争を貫いたインド建国の父マハトマ・ガンジーや、アメリカ公民権運動の指導者として活躍したマーチン・ルーサー・キング博士、アパルトヘイト(人種隔離)に抵抗し、27年半に及ぶ獄中生活に耐えて全面撤廃を勝ち取った、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領らは、その代表例です。
 歴史に輝く偉業の多くは、勇敢な「師子」の闘いによって築かれてきたのです。

強き信心で立ち向かう

 日蓮大聖人の御書には、「師子」「師子王」という言葉が多く見られます
 師子とは、百獣の王・ライオンのことです。
 仏法では、百獣の王である師子を仏の象徴としてきました。師子が吼えれば百獣が従うように、仏の教説は人々の魂を揺さぶります。逆境に直面している時こそ、自らが師子となって、「師子王の心」で戦うことで、逆境を変えていくことができると説くのが日蓮大聖人の仏法です
 大聖人は御書で、「悪王が正法を破ろうとする際、邪法の僧等が悪王に味方し、智者を滅ぼそうとする時、師子王の心を持つ者は必ず仏になることができる」(御書957ページ、通解)と仰せです。
 また別の御書では、「あなたがた一人一人が師子王の心を取り出して、どのように人が脅そうとも、決して恐れてはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである」(同1190ページ、通解)とも述べられています。
 ここでいう「師子王の心」とは、困難に負けない「勇気」とも言い換えられるでしょう。池田名誉会長は「『師子王の心』とは最高の勇気です。そして、勇気を奮い起こした生命に現れる本源的生命力です」と語っています。
 「師子王の心」は、万人の胸中に存在します。それを取り出すための要諦こそ、師弟不二の強盛な信心の実践にほかなりません
 大聖人が「師子王の心を取り出して」と仰せになった御書を門下に送られた当時、大聖人は、時の権力者である平左衛門尉らによって、大聖人門下へのさらなる迫害が起こり得ることを述べられています。
 仏法を受け継ぐ大切な弟子に向かって大聖人は、「竜の口の法難」や「佐渡流罪」などを悠然と勝ち越えてきた御自身と同じように、強き勇気の信心で立ち向かっていくことを教えられているのです。

正しい信仰は人間を強くする
万人の中に仏の生命が

 冒頭で紹介したガンジーやキング博士といった偉人は皆、勇気の闘争に生き抜いた「師子」でした。しかし、この「師子」としての生き方は、決して特別なものではありません。
 仏法は、万人に仏の生命があると説きます。大聖人は、その尊極な仏の生命を開く方途として「南無妙法蓮華経」の唱題行を説き顕されました
 仏の生命とは「師子王の心」であり、誰もが自身の中にある勇気を取り出すことによって、自分自身も師子となり、現実を変革していける――。この偉大な事実を教えているのが、日蓮仏法なのです。
 事実、創価学会は三代の会長の大闘争によって、世界192カ国・地域に人間主義の連帯を広げ、幾多の人間蘇生のドラマを生み出してきました。
 とりわけ第3代の池田名誉会長は、世界広布を進めるとともに、民間外交で冷戦時代のアメリカ・旧ソ連・中国を相次いで訪問。各国首脳と会見するなど、“平和の橋渡し役”を担ってきたのです。
 名誉会長の勇気ある行動によって、中ソ関係の緊張緩和や日中友好が促進され、今では、こうした偉業を多くの識者が讃えています。

名誉会長は語っています。

 「正しい信仰とは、人間を限りなく強くすることだ。『師子王の心』は、この自分自身の生命の中にある。題目を唱える人は、誰でも必ず『取り出して』いけるのだ。師子王の心を取り出せば、狐が吠えるような悪口など恐れることはない。いかなる試練にも、断じて屈することなく、誇り高く悠々と生き抜いていくのだ
 先行き不透明な時代だからこそ一人一人が勇気を奮い起こし、挑戦の一歩を踏み出していきましょう。

理解のために
「畜生の心」とは?

 「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し」(御書957ページ)
 日蓮大聖人は「佐渡御書」のなかで、「師子王の心」と対比して、「畜生の心」を厳しく戒められています。
 本来、自らの学識や力を生かして人々に尽くす指導層が、権威をふりかざして威張り、正義の人を迫害する――。それは卑劣な増上慢であり、その本質は臆病です。大聖人は、そうした悪逆の輩と徹して戦われました。
 絶大な権力を持つ為政者に対しても、敢然と「民衆のために奉仕せよ」と身命を賭して諫暁されたのです。
 池田名誉会長は語っています。「臆病は伝染する。そして勇気も伝染する。何ものも恐れず、進みまた進む――これが学会精神である」と。
 勇気を出して、正しいことを言い切る、行動を起こす――。信心とは、自分自身の生命に巣くう「臆病な心」「恐れる心」を乗り越えていく闘いでもあるのです