自分が変われば環境も変わる | 創価三代の誉れ

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自身の弱い心に勇敢に打ち勝つ

 さまざまな苦難や試練に直面した時、人は「挑むのか、逃げるのか」「その環境を受け入れるのか、変えるのか」といった選択を迫られることがあります。今回は、自分自身が「環境」を変えていく主体者へと成長する重要性を、日蓮大聖人の仏法から学んでいきましょう。

若者の業種別離職率

 厚生労働省は今年10月、入社から3年以内に離職した人の割合を、初めて業種別に公表しました。
 それによると、3年前に大学を卒業した若者では、教育・学習支援業と宿泊・飲食業が48%と高い離職率を示しています。一方、製造業は16%、鉱業・採石業や電気・ガスは1割未満にとどまり、業種で大きな差があることも分かりました。
 全体では、大卒者は28%、高卒者は35%が3年以内に離職しており、離職率は1995年ごろから高い水準で推移しています。
 過酷な労働環境や職場の人間関係の悩みなど、離職に至る理由はさまざまです。中には離職がやむを得ないケースもあるでしょう。
 反対に、何かあれば「他の仕事の方が自分に合っている」といった安易な発想から転職に動く人も少なからずいて、「若者の離職」は大きな社会問題になっています。
 転職の明確な動機や、転職先での具体的目標がなければ、結果的に何度も転職を繰り返すことになりかねないと、多くの人材コンサルタントは指摘しています。転職活動では、単に職業を変えるだけでなく、一人一人の目的観の確立や心の変革が重要なのです。

現実変革のための宗教

 日蓮大聖人の仏法は「変革の宗教」であるといわれます。自身の生命を変革し、周囲を変革し、社会を変革する――。それは、世間一般のイメージにあるような“現実追従の宗教”でもなければ、困難を避けて理想世界に救いを求める“現実逃避の宗教”でもありません。
 むしろ、社会に積極的に関わり、より良い世の中に変えていく“現実変革の宗教”なのです。
 大聖人は、その変革の第一歩こそ自身の心の変革である、と説きます。
 大聖人は御書で、「衆生の心が汚れれば、住む国土も汚れ、心が清ければ国土も清いとあるように、浄土(=清浄な国土)といい穢土(=汚れた国土)といっても、土に二つの違いがあるわけではない。ただ私たちの心の善悪によるのである」(御書384ページ、通解)と仰せです。
 ここでいう「穢土」とは、凡夫が住む、煩悩や苦しみに満たされた国土のことであり、「浄土」とは、仏の住む清らかな世界のことです。
 法華経以外の経典では、一般には、この二つの国土は、まったく別々なものとされていました。しかし、大聖人は周囲の環境が浄土になるか穢土になるか、それを決めるのは「衆生(人々)の心」であると仰せです。
 この御文は、人間生命と国土、社会の関係を教えられていますが、要は私たち一人一人が、いかなる生命観、哲学を持つかによって、国土や社会の安穏や繁栄も、反対に荒廃も決まってしまうことを示しています。

強き一念で悩みを成長の糧に
「挑戦」と「持続」の実践

 大聖人は自身の内に仏の生命を開く方途として「南無妙法蓮華経」の唱題行を説き顕されました。これこそが「変革の道」の根幹となる実践です。
 大聖人は先の御文に続いて、「深く信心を起こし、日夜朝暮に怠らずわが心を磨くべきである。どのように磨くべきか。ただ南無妙法蓮華経と唱えることが磨くことになる」(同ページ、通解)とも仰せです。
 常に挑戦の心で唱題に励み、具体的な努力を続けていく。この挑戦と持続が変革を後押ししていくのです。
 大事なことは、まず「自分自身が変わろうとすること」です。「他者が悪い」「環境が悪い」と嘆いている限り、何の問題解決にもなりません。
 むしろ、さまざまな問題や課題を環境のせいにするのではなく、原因を自分に求め、自分と向き合う「勇気」を出す。一念を定めて、自分自身との闘争を開始していくことです。
 池田名誉会長は語っています。
 「『自身』が変われば『世界』が変わる。『わが一念の変革』が、すべての変革の鍵なのです。これが『人間革命』です。そして、誰にでも、その変革の力が具わっている。この生命の真実に気づけば、いつでも、どこでも、どのような状況にあっても、その力を現実に開き顕していくことができます」と。
 周囲の環境に負け、悩みに翻弄される人生から、強き一念で悩みを成長の糧とする人生へ――。大聖人の仏法は、自らの心次第で困難な環境を変え、主体的な生き方ができることを教えているのです。

理解のために
「仏法即社会」とは?

 私たちの信仰の目的は、自身の生命に何があっても崩れない幸福境涯を築きながら、社会全体を幸福に導いていくことです。その実践の場は、現実の社会です。
 日蓮大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(御書992ページ)と仰せです。仏法は「体」であり根本です。その仏法が見失われれば、世間の乱れとなって表れてきます。
 法華経以外では、「世間(=社会、世の中)の法」と「仏法」を別々にとらえているのが大半でした。それに対して法華経は「世間の法が、そのまま仏法の全体」(同1597ページ、趣旨)であると説きます。
 現実の社会や生活を離れて仏法は存在しません。また、社会や生活の一切の営みは、仏法と違背しないという考えが「仏法即社会」です。
 池田名誉会長は綴っています。
 「『仏法即社会』である。ゆえに、仏法の哲理を社会に開き、時代の建設に取り組むことは、信仰者の使命である。それには、一人ひとりが人格を磨き、周囲の人びとから、信頼と尊敬を勝ち得ていくことだ」と。
 現実社会で信頼を勝ち得ていく中に、仏法の偉大さの証明もあるのです。