創価三代の誉れ -4ページ目

創価三代の誉れ

創価三代の師弟の歴史的スピーチ等を紹介

仏法は自身の可能性を開き個性を最大に開花

 創価学会では、さまざまな個性や職種、立場の人々が“自分らしさ”を発揮しながら、仲良く、朗らかに活動しています。今回の「人生を生き抜く羅針盤」では、仏法で説かれる「桜梅桃李」の原理について学んでいきましょう。

自分探しへの戸惑い

 近年、「自己分析」や「自分探し」といった言葉が頻繁に使われるようになりました。
 書店では「自己啓発」等の書籍を含めて、多くの“ハウツー本”が並び、人気を集めています。また、学生が就職試験を受ける際には、自分自身を正しく知り、的確に自分の個性をアピールすることが大事であるといわれています。

 個性とは、個人を個人たらしめる特徴であり、ある面では自分なりの主義・主張を持っていることといえるかもしれません。
 先行き不透明な時代にあって、企業や団体では今、自らの力を駆使して主体的に仕事に取り組む人材が必要とされています。その第一歩として重要なのが、自分の個性を知り、その個性に合った力を伸ばしていくことなのです。
 一方、こうした「自分らしさ」や「個性」という言葉に戸惑い、悩んでいる若者も増えています。
 「KY」という言葉に代表されるように、若い世代はお互いに「空気を読み」、あまり個性を出し過ぎないことが、円滑な人間関係を築く上で重要であると考える人が少なくありません。
 学校などの友人関係では極力個性を消し、適度な人間関係を保ってきた若者が、社会人になった瞬間から「個性」を発揮することを求められる――。現代の若者にとって「自分らしく生きる」ということは、予想以上に難しいことなのかもしれません。

誰もが“使命の花”を持っている
「ありのままの姿」で

 日蓮大聖人の仏法では、自分らしさや個性を、どのように捉えているのでしょうか
 仏法は「一人の人間」がありのままの姿で、最高に輝いていく生き方を説いていますその具体的な原理として「桜梅桃李」という考え方があります。
 桜梅桃李とは、桜も、梅も、桃も、李も、それぞれ趣深く、素晴らしい特性・個性があり、それぞれの特性や個性を開花させる、ということ。人間でいえば、一人一人の人が、それぞれ他の人にはない固有の特質・個性をもっており、それらを発揮して、生かしていく、ということです。
 このことを大聖人の「御義口伝」では「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」(御書784ページ)と述べられています。
 大聖人は、“森羅万象の全てに、三身(仏に具わる法身・報身・応身という三つの側面、すなわち真理、智慧、慈悲)がもともと具わっており、妙法の働きによって、おのおのの本来の姿を改めずにそれらを顕すことができる”(同ページ、趣旨)と仰せです
 そして、その分かりやすい譬えとして、春になると、「己己の当体を改めずして」(同ページ)それぞれ個性豊かな色形の花を咲かせる桜、梅、桃、李の姿を挙げられています。
 人間は、十人十色であり、人ごとに外見も性格も異なりますが、妙法を信じて実践することで、“自分らしさ”を最大に開花させることができるのです

「自体顕照」の法理

 さらに仏法では「自体顕照」とも説きます。これは「ありのままの姿(自体)を、照らし顕していくこと」。つまり、「かけがえのない自分自身を正しく知り、自己の個性を最高に輝かせていくこと」です。
 仏法では、万人に仏の生命があると説きますが、大聖人は、その尊極な仏の生命を開く方途として「南無妙法蓮華経」の唱題行を説き顕されました
 御本尊を信じて唱題行を実践することで、自分の可能性や個性を開花させ、その身のままで仏になれる。つまり、最も自分らしく、自分の個性を生かしきっていくのが「信心」であり、その根本が唱題です
 その上で忘れてはならないのが、多くの同志との切磋琢磨が個性を輝かせるという点でしょう。
 別の御書で大聖人は、「悦しきかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(同31ページ)と述べられています。
 ――蘭のように芳しい人格の友と交われば、おのずと良き感化を受けて、麻のように真っすぐな心になり、わが生命を律し、高めていくことができる――。
 つまり、良き人々に触れていく中で、自分自身が磨かれていくのであり、その人間の中で錬磨されてこそ、「自分らしさ」に気付くことができるのです

互いの「違い」を尊重

 池田名誉会長は語っています。
 「あなたには、あなたにしか咲かせることのできない使命の花が必ずある。一人一人がもつ個性を、一番良い方向へ発揮させていけるのが信心である。飾らず、ありのままでよい。『自分自身に生きよ』とは、戸田先生の教えだ。遠慮したり、卑下してはならない。広宣流布の劇は、皆が主役である。全員が『桜梅桃李』の名優たれ!」
 「庶民の団体」である創価学会には、老若男女の垣根を越えて、さまざまな立場や職業、性格の人が数多くいます。「桜梅桃李」の個性を持った学会員が、心一つに団結するということ自体、本来は並大抵のことではありません。
 しかし、信心で結ばれた団結によって、学会員は互いに触発し合いながら、日々、成長しています。
 互いの違いを尊重し、励まし合うからこそ自らの「個性」も磨かれ輝く――。学会には、「自分らしく」生きるための要素が詰まっているのです

 世界192カ国・地域に広がるSGIの連帯。異なる人種、文化など、多様性を尊重し合い、皆が桜梅桃李の使命の分野で活躍する(昨年9月、SGI青年研修会で来日したメンバーが東京・八王子市の東京牧口記念会館で記念撮影)

理解のために
「三草二木の譬え」とは?

 法華経の七譬の一つに、「三草二木の譬え」(薬草喩品第5)があります。
 その内容とは、世界中に生い茂る草木は、さまざまな種類があり、一つ一つ異なる名前や性質を持っているが、どんな草木も雨が降り注ぎ、太陽の光を浴びることで、それぞれが、それぞれにしかない個性を発揮して花を咲かせ、実を結ぶ、というものです
 この草木は衆生の機根(仏法を受け入れる能力)に相違があることに譬えられ、雨は、いかなる衆生にも慈雨を注ぐ仏の大説法に譬えられています。
 仏の慈悲の平等性と衆生の多様性を強調したこの譬えは、私たちに、一人一人の個性を尊重し、生かそうとする「仏の慈悲」「智慧の深さ」を教えてくれています。
 池田名誉会長はこの譬喩を通して、「大事なことは『人間の多様性を認めるところから、仏の説法が出発している』という点です」「個性を愛し、個性を喜び、個性を生かそうとする――それが、仏の慈悲であり智慧です」と述べられています。
 あらゆる人々を尊敬し、それぞれの使命を最大限に発揮させていく仏法思想は、現代においても大きな輝きを放っています。

宿命転換は希望の哲学 2013 1013

  

 世界192カ国・地域に広がる創価学会には、幾多の苦難や試練を乗り越え、運命を切り開いた人間蘇生のドラマがあります。今回は仏法の「宿命転換」を中心に、運命を切り開く方途について考えていきましょう

身の上にめぐり来る吉凶禍福

 人生では時として、自分の力ではどうにもならないような苦難に直面することがあります。ある壮年は、40歳を過ぎてから、2度の大病や失職、リストラ、家族の病といった試練に直面。自身の宿命を痛感しました。
 また、幼いころから両親の不仲に悩んできた女性は、結婚後、夫とのいさかいが絶えずに離婚。子どもが非行に走るなど、逃れられない家族の悩みに、自身の運命を感じたと言います。
 『広辞苑』(第6版)では「運命」について、「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用」と説明しています。若い時は深く考えていなくても、40代、50代、60代と年を重ねるごとに、自身の運命を実感する人も多いようです。
 「どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。――おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!」(ロマン・ロラン著、片山敏彦訳『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫)
 「楽聖」と呼ばれた音楽家のベートーベンは、かつてこう語ったそうです。彼は20代後半から難聴が悪化し、音楽家として絶望的な状況に陥りました。
 しかし、自身の過酷な運命と向き合い、苦悩に立ち向かいながら、交響曲第5番「運命」や「歓喜の歌」で知られる交響曲第9番など、幾つもの不滅の名曲を残しました。
 その楽曲からは、いかなる試練や苦難にも立ち向かうという、人間の強き信念が伝わってきます。人間は昔から、常に自身の運命と向き合い、立ち向かってきたともいえるでしょう。

一番苦労した人が一番幸福に
業の報いは避けられない!?

 一般的に、“避けることも、変えることもできない運命的なもの”を表現する言葉として、「宿命」「宿業」という言葉が用いられます。
 「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉で、今世の幸・不幸に影響力をもつ過去世の行為を「宿業」といいます。
 仏教では、自分自身の善悪の行為の影響力が、自身の命に刻まれて因(原因)となり、未来の果(結果)が定まるという、因果による業思想を説きます。つまり、過去の行いの結果として、現在、自身が、その報いを受けていると考えるのです。
 しかし、これでは、現在の苦しみの原因は分かっても、それを今世において直ちに変革することはできず、未来世にわたって生死を繰り返しながら、一つ一つの悪業の罪を清算していく以外に道はないことになります。
 一般の仏教では、“業の報いは避けられない”ということに力点を置くあまり、ともすると、業の重さそのものに人間が縛られ、希望のない宿命論に陥っていました。
 これに対して日蓮大聖人の仏法は、「宿命は必ず転換していける(=宿命転換)」と説く、「希望の宗教」です
 大聖人の仏法は、過去の数々の悪の行いの「根源」は、無上の人生を開く「生命の根本法」を信じることのできない本源的な迷いにあると教えています。
 そして、あらゆる生命と宇宙を貫く根本法、すなわち「南無妙法蓮華経」を信じることで、本源の悪を打ち破って、仏の境涯へと人生を限りなく開いていける。つまり、宿命に縛られない人生に変わっていけるのです。

苦難は自身を鍛錬する機会

 大聖人は、夫に先立たれ、幼い病気の子や女の子を抱えていた女性門下に対して、「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(御書1253ページ)と励まされています。
 もちろん、仏法を実践すれば、すぐに業がなくなり、幸せになるというわけではありません。過去の宿業は現世の苦悩として現れますが、現世に妙法を行じて各自の生命に仏界の境涯を顕すことにより、苦しみの因となった罪業を滅することができると、仏法は説きます
 そのことを大聖人は普賢経の文を引いて、「霜や露のように自身の生命のいたるところに降り積もった罪障も、南無妙法蓮華経の題目の慧日にあえば、たちまちのうちに消し去ることができる」(同786ページ、趣意)と仰せです。
 御本尊を根本にした信行に励むことによって、自身の胸中に太陽のような仏界の命が昇れば、さまざまな罪業も霜露のように消えていくのです。そして、自由自在の人生を生きていくことができるのです。 
 また、この仏法を実践していくならば、苦難は自身の宿業を消して生命を鍛錬する重要な機会となります。
 御書にも「鉄は炎打てば剣となる」(同958ページ)、「くろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし」(同1083ページ)とあります。熱い鉄を何度も鍛え打ち、不純物を出すことで強靱な剣ができあがります。
 同様に、私たちも苦難や試練を避けることなく立ち向かい、乗り越えることで“何ものにも負けない確固たる自己”を築くことができるのです。

強敵に勝ってこそ強くなる

 創価学会の池田大作名誉会長は「一番苦労した人が、一番幸福になる権利がある」と語っています。

 事実、創価学会には自身の宿命を転換し、蘇生を果たした人が数多くいます。多くの人にとってマイナスに思える試練や逆境も、学会員は成長や飛躍への“バネ”に変えてきました。宿命から逃げるのではなく、真正面から挑んでいく――そこに人間としての「強さ」や「たくましさ」があるのです
 こうした学会員の姿を見てきたデューイ研究センターのラリー・ヒックマン所長は、一般的な仏教の「宿業」は、消極的なイメージがあるとし、「(学会の)宿命転換論には人間一人一人の責任を喚起していく力があります」と評価。仏法の「宿命転換」は、人類の蘇生を促す希望の法理として、世界の識者も注目しています。
 名誉会長は語っています。
 「思いもかけない試練、障害があるからこそ、人間は成長できる。強敵に勝ってこそ、人は強くなる。どんな困難も、『よし来た!』『宿命転換のチャンスだ!』ととらえ、強き心で挑戦していけば、自分が得をする。さらに価値ある人生を築いていくことができるのである
 苦難に直面したときこそ、人間としての真価が問われます。私たちはこの仏法によって、あらゆる状況を転じて、自身の成長の追い風としていけるのです。
人生で直面する、さまざまな苦難や試練の山も、信心を根本にしていけば全て自身の成長の因に変えていくことができる(アフロ提供)

理解のために  「願兼於業」とは?

 法華経には、悪世で苦しむ人々を救うために、菩薩が願って悪世に生まれると説かれています。これを「願兼於業(願いが業を兼ねる)」といいます
 その意味するところは、衆生を救済しようとする願いの力によって、本来、安住の境涯に生まれることができるところを、あえて悪世に生まれ、宿命転換の戦いを通して妙法の偉大さを証明し、弘通していく誓願と慈悲の力を表しています。
 妙法を持った一人一人は、いわば、人生というドラマの主役を演じているようなものです。
 池田名誉会長は「願兼於業」について、「いかなる苦悩をもち、いかなる境遇にあろうが、その人でなければ果たせぬ尊き使命がある。それを深く自覚した時、すべては変わる」と語っています。
 自らの運命を呪い、宿命に涙するばかりでは、人生は開けません。だれかが自身の宿命を肩代わりしてくれるわけでもありません。「人生の全権は自分自身にある」「運命は変えられる」――そう心を決めてこそ、宿命を乗り越える力が湧いてきます。「願兼於業」とは、宿命を自身の使命に変えていくという希望の法理といえるでしょう。

環境に左右されない「心の強さ」を培う

 日本では今、少子高齢社会の進展や生活スタイルの多様化に伴い、人々が求める“幸福感”も変化してきています。今回は真の「幸福」の意味について考えていきましょう。

今の生活に満足する若者

 内閣府が昨年8月に公表した「国民生活に関する世論調査」の結果によれば、「現在の生活に満足している人」が18年ぶりに7割を超えました。
 「現在の生活にどの程度満足しているか」との質問に対して、「満足」と回答したのは71・0%(「満足している」10・3%、「まあ満足している」60・7%)。「不満」とする割合は27・6%(「やや不満だ」22・2%、「不満だ」5・3%)でした。
 一昨年の調査結果と比較すると「満足」の割合が67・3%から71・0%へ上昇し、「不満」の割合は32・0%から27・6%へ低下しています。
 同調査で特に目立つのが、若者の満足度の高さです。年齢別に見た「満足」とする人の割合は20歳代、30歳代、70歳以上で、それぞれ高くなっています。
 『絶望の国の幸福な若者たち』の著者で社会学者の古市憲寿さんは、将来に漠然とした不安を感じながらも、現状には満足しているというのが、今の若者の実態だと指摘。「ここではない、どこか」に希望を求めるのではなく、「今、ここ」を大切に生きることを若者は求めており、それが若者の満足度の高さに表れていると分析しています。

悩みや苦しみに負けない!
生きること自体が楽しい

 幸福の定義は、人それぞれ異なります。しかし、戦後の日本人の多くが求めてきたのは、モノやお金といった物質的な豊かさによる幸福感や、人と比較して得られる満足感ではなかったでしょうか。
 近年、本格的な少子高齢社会の到来や生活の多様化、東日本大震災の発生等によって、あらためて自身の生き方を見直し、「物質的満足」よりも「精神的満足」を求める傾向が強くなりつつあります。先の調査で明らかになった「若者の満足度の高さ」は、こうした日本社会の変化の表れともいえるでしょう。
 一方、戦後の日本社会において創価学会が示してきた「幸福」観には一貫性がありました。それは、幸福とは決して自分の立場や環境ではなく、自分自身の心で決まるという点です。
 創価学会の戸田城聖第2代会長は折に触れて、「絶対的幸福」と「相対的幸福」について語っていました。
 「相対的幸福」とは、経済的な豊かさや社会的な地位など、自分の外の世界から得られる幸福です。しかし、相対的幸福は、ひとたび環境条件が変われば、いともたやすく崩れ去ってしまいます。
 それに対して、「絶対的幸福」とは、いかなる困難や試練にも負けることなく、生きていること自体が楽しくてしょうがないという境涯の確立です。
 戸田会長は、この「絶対的幸福」の確立こそ真の幸せであると訴えました。そして、その方途は、日蓮大聖人が確立された「南無妙法蓮華経の唱題行」を根本とした仏法の実践にあることを示されたのです。

「喜悦はかりなし」と宣言

 大聖人は、一人一人の無限の力を呼び現す「唱題行」を確立されました。題目を唱えることは、自身の「仏の生命」を呼び覚ますことです。そして、この仏の生命とは、何ものにも揺るがぬ絶対的幸福境涯であるといえるでしょう。
 そもそも大聖人の人生は、「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」(御書202ページ)と仰せのように、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そして竜の口の法難・佐渡流罪と、命に及ぶ大難の連続でした。
 大聖人は、その間の御心境を、「悪口を数知れず言われ、ある時は打たれ、ある時は傷を負い、ある時は弟子を殺され、ある時は首を切られようとし、あるいは2度も流罪に処せられた。この二十余年の間は、一時片時も心安らかなことはなかったのである」(同1514ページ、通解)と述べられています。
 古来、日本人の宗教観は、人間を超えた神や仏に“救われる”ことのみを願う、おすがり信仰の傾向が強いものでした。これに対し日蓮仏法は、人間自身の生命に具わる仏の生命を開き、他の人々を“救いゆく”ことを目指す現実変革の宗教です。ゆえに、政治・宗教の権力者は、こうした民衆仏法のエネルギーを恐れ、弾圧に走ったのです。
 しかし、一切衆生を救済していくとの誓願に立って進む大聖人は、いかなる苦難にも屈しませんでした。大難の渦中においても「いよいよ悦びをますべし」(同203ページ)、「流人なれども喜悦はかりなし」(同1360ページ)と綴られています。大聖人は、真の幸福とは環境にも決して左右されないことを、御自身の姿をもって示されたのです。

人間としての成長が根本

 この苦難に揺るがない自身の確立とともに、人生において重要なのは、「人間として偉大な目的に生き抜くこと」です。
 大聖人は若き弟子の南条時光に対して、「願わくは、わが弟子らは大願を起こしなさい」(同1561ページ、通解)と呼び掛けられています。
 創価学会員も自他共の幸福を願い、「広宣流布」という大目的に向かって、日々、前進しています。
 創価学会の池田大作名誉会長は、この「広宣流布」について、「万人に絶対的幸福への道を教える究極の聖業である。分断された人間の心と心を結び、この地上に、慈悲と平和の人間共和の社会を築き上げる未聞の大作業である」と綴っています。
 歴史上の偉人がそうであったように、人は、大いなる目的に向かって生きる中で、成長していくものです。楽な道より、あえて試練に挑み、乗り越えていく中に、真の喜びや幸福もあるのではないでしょうか。
 池田名誉会長は語っています。
 「外面的に、いかに幸せそうに見えても、本当に幸せかどうかは、わからない。物質的、環境的に、どれほどめぐまれたとしても、幸福とは限らない。自分自身が、人間として成長する。境涯を高める。心を磨き、心を鍛える。それが、幸福の根本である」と。
 広宣流布という大いなる目標に向かい、あらゆる苦難を乗り越えて進む創価学会員は、“本当の幸福”を最高に味わえる人生を歩んでいるのです。

理解のために
「心の財」とは?

 日蓮大聖人は御書で「蔵に蓄える財宝よりも、身の財がすぐれ、身の財よりも、心に積んだ財が第一である」(1173ページ、通解)と述べています。
 大聖人は建治3年(1277年)9月、大きな苦境に立たされていた弟子の四条金吾に、このお手紙を送り、人間にとって人生の財、真実の価値とは何かを示されました。
 御文にある「蔵の財」とは、金銭やモノなどの財産。また、「身の財」とは、体のことであり、肉体的な健康や、自分の身につけた技能なども、これに入ります。そして「心の財」とは、生命の強さ、輝きであり、人間性の豊かさです。さらに、三世永遠にわたって、崩れることのない福運ともいえるでしょう。
 この「心の財」は、仏道修行によって得られます。
 「蔵の財」「身の財」も、人間にとって大事ですが、それを手に入れれば、幸福になるとは限りません。幸福のために最も必要なのは、「心の財」であり、心が満たされなければ、幸福はありえません。
 自他共の幸福を目指す創価学会員は学会活動を通して、自身の心を磨き、「心の財」を積んでいます。

GWもおわり1週間が過ぎました。

先週はなんとなく過ごしてしまった「紅の師子」も今日から本格始動します。

5.8「埼玉師弟共戦の日」記念の本部長会も終え前半戦の後半の活動が始まりました。

本日より、しばらくの間 覚書ノートから抜粋転載します。


まず、第1回は「一人立つ精神」です


“「強き責任感」が偉業を成し遂げる”


少子高齢化が進む現代にあって、企業などの組織では、一人一人の担う責任や役割が増大してきているといわれます。今回は、日蓮大聖人の闘争を通して、主体者の自覚で行動する「一人立つ」精神の重要性を確認していきましょう。

★企業が求める“自主行動型”社員・・・昨年、独立行政法人「労動政策研究・研修機構」は「入職初期のキャリア形成と世代間コミュニケーションに関する調査」(回答3391社)を実施しました。
 それによると、企業が若手社員の育成や社員の採用に当って、最も求めている能力・態度は、「指示されたことだけでなく、自ら考え行動することができる」、及び、「コミュニケーション能力が高いこと」であることが分かりました。
 若手社員には、自ら率先して仕事の責任を担い、行動を起こしていく「使命感」や「責任感」が強く求められているのです・

まず「自分」から動き始めよう
★「日本を支える精神の柱となろう」・・・日蓮大聖人の仏法は、一人一人の生命に宇宙大の可能性が具わり、その可能性を発揮していくことで、自分自身が変わり、世界をも変えて生けることを教えています
 大聖人は、その実現の方途として「南無妙法蓮華経の唱題行」を説き顕され、妙法流布という大闘争に立ち上がられました。
 幾多の迫害にも屈せず、民衆救済のために闘われた大聖人は、「一切衆生のさまざまな苦悩は、ことごとく日蓮一人の苦である」(758㌻)と述べられています。
 また、大聖人はご自身の決意として、「私は、日本を支える精神の柱となろう。思想の正邪を見極める眼目となろう。一切衆生を幸福の楽土へと運ぶ大船となろうーーとの誓願を破ることはない」(232㌻)とも仰せです。
 こうした大聖人の言葉には、いずれも他人を頼りにするのではなく、“自分自身か断じて民衆を救うのだ”との、決意や使命感が漲っています。
 大聖人は別の御書で「竹の節を一つ割れば、他の節もそれにしたがって割れるようなものである」(1046㌻)と仰せです。
 これは妙法によって一人を成仏させることができれば、万人を成仏させることが可能になることを譬えた言葉です。また、一つの突破口が、ひいては広く他の問題の打開の源となることを教えています。
 一般的にも「破竹の勢い」と言う言葉があるように、目の前の問題や困難を打ち破る“一人”から、突破口は開かれます。ゆえに大聖人は門下に対しても、「一人立つ」重要性を訴えていたのです

★「私こそ学会の全権大使」との自覚・・・創価学会も、三代の会長による「一人立つ」闘争によって、世界192カ国・地域に発展してきました
 「羊千匹より獅子一匹」と叫ばれた牧口常三郎初代会長は、軍部政府の圧迫にも負けず獄中闘争を貫かれて、殉教されました。
 戸田城聖第2代会長も2年間の獄中生活の末に出獄し、焦土と化した東京で、壊滅状態だった学会の再建に一人立ち上がりました
 戸田会長はまた、「青年よ、一人立て!二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう」と語られましたが、この呼びかけに応えて立ち上がったのが、池田大作名誉会長です。
恩師の苦境を一人で支えた名誉会長は、戸田会長亡き後は第3代会長として、世界広宣流布という未聞の大道を自ら開拓してきたのです。
 誰かを頼むのではなく、決然と「一人立つ」。「自分」から始める。これが創価の師弟の根本精神です。学会の同志もまた、「自分が地域の幸福責任者」「私こそが学会の全権大使」との自覚で、地域に信頼と友情の輪を広げています。
 名誉会長は語っています
 「偉業を成し遂げる力はなにか。それは、強き責任感である。『わが理想を断じて実現する』との強固な一念である。『一人立つ』深き決意から、無限の力が湧き出ずるのである」と。
 使命を自覚した一人が行動を起こせば、自体は大きく動き出します。そして、「一人の人間」をどこまでも大切にしながら、「目覚めた一人一人」の連帯によって社会をかえていくのが創価学会の「人間革命」運動です。
 私たちは、常に主体者の自覚に立ち、行動を起こす最初の“一人”となっていきましょう。 

★「異体同心」とは・・・日蓮大聖人は、「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(1463㌻)と仰せです。
 「異体同心」の「異体」とは、年齢や性別、職業、人生体験などが、人ごとに異なっていることであり、「同心」とは、志や目的を同じくすることを指します。「異体同心」とは、それぞれの個性や特質を最大限に生かしながら、広宣流布という大目的に向かって前進する姿のみとです。
 之に対して「同体異心」では、心がバラバラになり、個性を認めない集団主義、全体主義になってしまいます。本当の意味で個々の力を生かすことができません。
 池田名誉会長は綴っています。
 「広宣流布を成就する力は、師子の団結にある。傍観者の群れや、人を頼み、互いにもたれ合うような烏合の衆では勝利はない。“一切の責任を私がもつ!”と心を定めた、一人立つ師子と師子の結合が大願を成就するのだ」と。
 一人一人が信心を根本に、わが使命を自覚し、力をあわせて進んでいく時、無限の力が発揮されるのです。


きょう9日は「音楽隊の日」。このほど音楽隊の新指針(別掲)が発表された。
 音楽隊は1954年(昭和29年)5月6日、池田名誉会長の提案で結成された。3日後の9日、十数人で初出動したのが「音楽隊の日」の淵源である。
 名誉会長は、結成60周年を迎えた “広布の楽雄” に、万感のメッセージを寄せた。
 「師子吼の題目を唱え抜きながら、民衆を励まし、鼓舞する、君たち音楽隊の妙音の響きこそ、創価の師弟の魂が脈動する、わが学会の絶対勝利の音律であります」
 「これからも、音楽隊は、私と一緒に、人間勝利の凱歌を、楽しく勇壮に、世界の果てまで轟かせてくれ給え!」
 「君たちと共に作った新・学会歌 『誓いの青年(きみ)よ』 を高らかに歌い響かせながら、新時代の大行進の先陣を頼む!」


新指針
一、民衆を励まし鼓舞する妙音の楽雄たれ!
一、平和と文化を担い立つ広布の英雄たれ!
一、社会で世界で勝利する創価の世雄(せおう)たれ!


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聖教新聞本日付社説

きょう5月9日は「音楽隊の日」。1954年(昭和29年)5月6日、池田名誉会長の提案で結成され、3日後に初出動。この日が淵源となっている。この誉れの原点から60周年を迎えた。
 本部幹部会はじめ、各地のパレードやコンサートなど、全世界の人々の心を鼓舞する音楽隊。日ごろ目にする華麗なステージの陰には、彼らの不断の努力の姿がある。
 学会活動に励みつつ、職場から練習に駆け付け、休日も弁当持参で終日、練習。基礎練習を重ね、一つの曲を仕上げるまでに何十回も楽譜を読み返す。練習会場の確保や楽器の運搬、衣装の洗濯など労苦は計り知れない。未来部隊員の出動時の保護者への配慮も感謝されている。
 演奏のみならず、こうした薫陶に磨かれたメンバーの、内面からにじみ出る表情や振る舞いに、「胸が熱くなった」「生きる勇気をもらった」等の称賛が後を絶たない。
 千葉県音楽隊に所属する男子部員。幼くして知的障がいが分かり、特別支援学級へ。周囲の心ない言葉など、つらい学校生活を送る中、本部幹部会で見る音楽隊の雄姿が希望となった。
 高等養護学校に進学後、憧れの音楽隊に入隊。しかし、楽譜が読めず、指揮者の言葉もなかなか理解できなかった。
 打楽器を担当する彼の楽譜は「ドンドン」や「ドーン」の文字で埋め尽くされている。体で覚えるまで練習を繰り返し、先輩たちも最後まで付き合い続けた。音楽隊の訓練を通して、諦めない自分を築いたのである。
 「音楽隊のおかげで、いじめに負けませんでした。ハンディにも甘えない自分になり、就職もできました。結成してくださった池田先生に心から感謝しています」。悲哀を乗り越え、同志に勇気と希望を送る。この逞しい青年の力の拡大こそが音楽隊の使命であり、誇りである。
 「音の哀楽を以て国の盛衰を知る」(御書88ページ)――世に満ちる音で国の今と未来を知る。これが仏法の知見だ。不安や無気力を象徴する哀音を破り、希望に満ちた音律を広げる創価文化の旗手の活躍が、今ほど望まれる時代はないだろう。
 結成から60年。音楽隊は名実ともに日本一の音楽団体に発展した。海外でも各地に音楽隊が結成され、彼らの奏でる妙音は今、地球を包む。音楽隊の発展こそ、偉大なる創価の民衆運動の勝利だ。70周年の未来を目指し、「創価の楽雄」たちの決意は、いやまして燃え上がる。


                        2014.05.09  聖教新聞より転載

今朝は音楽隊入隊当時演奏していた「旧友」を何度も何度も聞いてから出勤しました。


音楽隊が結成60周年 

世界を鼓舞する 歓喜の曲 希望の行進


紅の師子も《音楽隊出身》です。



聖教新聞より転載

創価勝利の力強い響きを奏でてきた音楽隊がきょう6日、結成から60周年を迎えた。ここでは、音楽隊の歴史とともに根海外メンバーの前進の誓いと、全日本吹奏音楽連盟の丸谷明夫理事長の祝福の声を紹介する。

先月19日の本部幹部会。創価グロリア吹奏楽団がタイケ作曲の行進曲「旧友」を披露し、万雷の拍手が東京戸田記念講堂を包んだ。
この曲には、音楽隊と池田名誉会長との深い縁がある。
 1954年(昭和29年)5月6日に結成された音楽隊。当時、名誉会長は一つの提案をした。「旧友」を演奏できるようになること。
 だが隊員は、わずか十数人。演奏の編成を組めず、体制が整うまでの課題となった。


「音楽隊が広宣流布に何の関係があるのか」
 結成された折、否定的な意見持つ幹部もいた。しかし名誉会長は違った。音楽の力を確信し、楽器も自力で工面して贈っている。
 その中で名誉会長の心に共鳴した青年たちが音楽隊に志願していく。楽器を触ったことすらない友、譜面を読めない友ももいる“素人集団”であったが、必死に練習を重ねた。
 信心を磨くことが、同志の士気を鼓舞する音律になる。そう信じて、学会活動も仕事も学業もやり抜いた。
 56年(昭和31年)3月27日。ついに、40人編成となった音楽隊は、課題曲の「旧友」を初演奏する。じっと聞いていた名誉会長は最後に語った。
 「うまくなった。 もっともっと音楽隊を大きくしよう!」
 音楽に国境はない。だからこそ音楽隊を発展させ、世界を結ぼう。
 それが、友の次なる目標となった。


 後に名誉会長は、「旧友」の思い出に触れ、こう記している。
 「君たちこそ、永久に信仰と音楽で結ばれた『旧友』である意義を訴えたかった」
 「旧友」――この言葉通り、名誉会長の歩みのそばには、いつも音楽隊の姿があった。む
57年(昭和32年)7月17日の大阪大会。58年(昭和33年)3月16日の広宣流布の記念式典。そして60年(昭和35年)5月3日の池田第3代会長の就任式…。
 その節々で、名誉会長は音楽隊の友を温かく薫陶してきた。
 一緒に勤行した折には「勤行は勢い良く」「導師のリズムに合わせなさい」と。信心を通して、音楽の要を教えている。
 名誉会長と共に!
 この魂は、60年を経ても変わらない。
 昨年の全国大会で、創価ルネサンスバンガードはグランプリ「内閣総理大臣賞」。創価グロリア吹奏楽団、しなの合唱団は金賞に。音楽隊のスクラムは30カ国・地域に広がり、“世界に冠たる音楽集団”に大発展した。
 名誉会長は限りない期待を寄せる。「世界の国と国、人と人とを、音楽の力で『旧友』のごとく永遠に結んでくれ給え!」と。
 創価の楽友たちの歓喜の曲、希望の行進、勇気の歌声は今、世界を包んでいる。


今日5月8日は「音楽隊の日」です。

今朝の聖教新聞に「先生のメッセージが掲載されました。

のちほどアップします。

しばらくブログの更新をしておりませんが、


紅の師子はいたって元気です。



先生の指針は、今迄通り
自分への指針としてしっかり書きとどめてまいります。
よく、「紅の師子」は何歳?という質問があります。
還暦をちょっとすぎたところですが、まだまだ数年は現役を続ける予定です。
近所のリタイア世代向けのPC教室のボランテアもおかげさまで、盛況です。

不定期で、同世代の方に読んでいただきたいブログをスタートしましたので
こちらも、ぜひのぞいてみてください。

サイトから消え去らないようにたまには更新しますので
これからも、ご支援よろしくお願いします。

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パソコンお・た・く

全国、各方面で新出発。

わが越谷県KG圏も新たな体制で出発。

怒涛の驀進なるか。


いつも言われることではあるが、

新たに任命になったリーダーは勿論のこと

再び、今担っているフィールドで戦い続ける人も


改めて「今日が出発」の決意で臨みたいものである。


紅の使者はK副教学部長(師範)の大阪・寝屋川文化での指導を再読。


「信心の基本」について語っている指導である。

地元KH会館でも直接伺ったことのある懐かしい指導である。


何度も、何度も読み返させていただいた。


一部を紹介します。


信心は良いか悪いかではない。良くなるかどうか。仏法は勝負。良くなるように祈ればいい。そうすれぱ解決する。いくら「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っても、愚痴と文句だから開けない。功徳を受けたい人は愚痴と文句をやめること。同志に怨嫉をすると功徳はマイナスになる。罰になる。怨嫉は謗法だから困ったことに、相手が間違っていても同志だと怨嫉になる。「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っていることが結構ある。これを『正しい怨嫉』と言う。

 正しくても怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰が出る。そう御書に書いてある。「それが本当でも嘘でも」と書いてある。怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。人が裁くのではない。法が裁く。相手の成長を祈ってあげること。そうすれば自分も相手も良くなる。「幹部のくせに」と言わないこと。変な幹部もいるが、成長を祈ってあげること。「幹部のくせに」と言ったら怨嫉になる。

 正しくても怨嫉になってしまう。成長を祈ってあげれば相手は変わらなくても自分は良くなる。 (略)


具体的に強く祈ること。そうすれば叶う。それ以外は叶わない。唱題のための唱題もつまらない。先生は「疑いや形式であれば、たとえ100万遍あげても境涯が開けるものではない。自分自身の発心で、目標を決めて唱題すれば必ず開けるのである。義務的・形式的な勤行・唱題、それは惰性のあらわれであり、空転を生むだけである。きちんと一念を定めて祈らなければだめだよ。」と言われている。こうなりたい、こうしたいと祈ればよい。信心は心ですること。頭でするのではない。心を、素直にぶつけることを祈りという。できるかどうかではなく、「こうなりたい!」と祈ればいい。必ずそうなる。信心は簡単です。


温室育ちの「怨嫉居士」はぜひ「松野殿ご返事」の再読を!


総本部完成まであと38日


この時にあたって、最高の出発ができました。

明日からの「紅の使者」の活躍に

乞う! ご期待!!!!











けなげに笑顔の花を咲かせるタンポポは、

小さな根の切れ端からも、

大地に新たな根を張り、

芽を出し始める。

命に秘められた可能性は、無限大である。

何があっても、前へ前へと進む人生には、

輝かしい未来が必ず開かれる。



結婚生活にとって大事なことは、

相手の立場になって

考えるという姿勢である。

愛情とは、相互の理解の中に

育まれていくものだ。

二つの心が一つに溶け合うなかに、

常に新鮮な生命が蘇っていくに違いない。



深い愛情で結ばれた

家庭の絆は、何ものにも崩されない。

人間を強くし、正しき方向へと導いてくれる。

その家庭の絆こそが、

人生におけるどんな試練も耐え抜いて、

夢や理想を実現しゆく

勇気を贈ってくれる心の大地となる。



偽ったり、飾ったりしようとすると、

そこにいきおい無理が生ずる。

どんなに高位高官につき、

栄耀栄華を極めても、

虚飾があるかぎり、心からの幸福は味わえぬ。

人間は、ありのままに生きることが

最も楽しいものだ。



詩とは何より

心の世界の真実である。

季節のわずかな変化にも美を発見できること。

困っている人を見たら、

すぐに身体が動くこと。

そうした姿は、言葉以上に豊かに

子どもたちの心を育むに違いない。

最近自動車教習所では教えない(かもしれない)


車で走っていると・・・・・・

*特段大きな車でもないのに左折するのに右に膨らんで大回り。

*信号で停止線のず~~と手前か行き過ぎて横断。歩道上。

*走行中は目いっぱい右による(キープレフトは死語?)

*緊急車両が来ても止まらない(譲らない)

*駐車場内の進行方向指示は無視(事故があると過失割合に影響するよ)

*歩行者が横断中(横断歩道を)でも止まらない。


こんなことありませんか?


以前「こんな幹部は辞表を書け」なんていう本がありました。


「こんなドライバーにはレッドカードを」だれか出版しませんか?